負の歴史を巡る(新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬編)其の弌 | ゑびすたろうのブログ

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だいぶ時間が経ってしまいましたが、今回の2019年のGWのメインターゲットとし『負の歴史 』として新たに企画されたダークツーリズム・ツーリングは、新潟県東蒲原郡阿賀町周辺に散在する曰く付きの場所へ行ってきました。


この場所を選択した理由は、現在でも係争中である日本四大公害病の一つ第二水俣病(新潟水俣病)の発生現場だからです・・・


昔、小学校の授業でこのことを知った時、当時の私の住む川崎市でも夏になると光化学スモッグ警報が鳴り響き、

今では鮎が遡上するほど綺麗になった多摩川も工業廃水や生活排水で淀み、
公害の酷さを身をもって実感したのを思い出します。

当時の日本の企業は今の中国と同じで、法律はありましたが発覚しなければ何をやっても良いという時代であり、現在の中国の悲惨な状況を見ると、ついつい子供の頃の川崎の風景を思い出してしまいます。


今回訪れたこの場所で発生した公害の内容を知らない方は、新潟水俣病(第二水俣病)を御覧になってください。


初回となる今回のシリーズである『負の歴史を巡るダークツーリズム』(新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬編)は、JR東日本・磐越西線の鹿瀬(かのせ)駅からスタートとなります。


こちらが鹿瀬駅の正面ですが、1995年(平成7年)に無人駅となり、今では施錠がされていてここから待合室に入ることはできません。

こちらは駅前の風景ですが、店舗は本当に皆無でGWなのですが人っ子一人歩いてもおらず、恐ろしく寂しい風景・・・
2005年に町村合併により阿賀町となりの消滅した旧・鹿瀬町の広報資料によると、『昭和30年4月、両鹿瀬、日出谷、豊実の3村が合併した当時の人口は11374人でしたが、平成16年9月30日現在の町人口は2775人で約3分の1に減ってしまった』との事・・・

原因は言わずと知れた新潟水俣病を起因する昭和電工・鹿瀬工場閉鎖であり、第二次産業の衰退がこの町を過疎化の波が飲み込んでしまったと言えます。


こちらは駅待合室の横にある喫煙所ですが、その昔、待合室で使っていたと思われる朽ちかけた木製の丈の短い長椅子が、この町の衰退感を助長しているよう・・・

こちらは待合室・・・
因みにこの鹿瀬駅を発着する便は1日16本(上り8、下り8)で、始発は5時台、終電は19時台。

新潟交通の路線バスは鹿瀬駅前にやって来ないのは、駅を利用する人間は自家用車を利用した帰宅システムを使っている証拠であり、駅周辺には民家もなく、昔は賑わっていたである店舗の残骸らしき建屋あるだけであります。

まさに、地方ではよく見かけるモータリゼーションにディペンドした生活スタイルが定着しているお土地柄なのは言うまでもありません・・・


そんな寂れた鹿瀬駅の次に向かった場所は、旧昭和電工・鹿瀬工場を一望できるR459のとある場所。


全盛期と比べて貧相になった工場群ですが、

中でも目を引くのは、こちらの周りより大きい建屋・・・
ここは太平洋戦争時代の連合軍兵士の捕虜収容所として使われたと言われており、その詳細は以下の通りです。

『1944年4月15日、東京俘虜収容所第16派遣所として、新潟県東蒲原郡鹿瀬村両鹿瀬(現・鹿瀬町向鹿瀬)の昭和電工の製品倉庫を利用して開設。45年8月、第16分所と改称。
使役企業は昭和電工鹿瀬工場。
終戦時収容人員288人(英152、蘭86、米50)、収容中の死者4人。』

大抵の方はご存知ないと思いますが、太平洋戦争当時の日本本土に強制労働を目的とした捕虜収容所はかなりの数存在していて、多くの連合国兵士が亡くなっております・・・

詳しくは、日本国内の連合軍捕虜収容所を参照してみてください。

因みに連合軍ではない当時併合(占領ではありません)されていた小煩い韓国や、支那(中国)の捕虜はふくまれておりません。



歪に削られた山の稜線が、この付近の山が銅山だったことを教えてくれます・・・


このあと山を降り、旧・昭和電工・鹿瀬工場(現・新潟昭和・鹿瀬工場)の正門前へ・・・



こちらが全盛期の頃の旧・昭和電工・鹿瀬工場の俯瞰で、写真赤円部には同じ形をした建屋が所狭しと並んでいて、工場労働者の住居で『かまぼこ団地』と呼ばれており、かなりの人数がこの鹿瀬に住んでいたことがわかります。

そのカマボコ団地も姿を消し、敷地内には近代的な建物は一切なく、


対戦中の建屋で構成される風景は、潰したくても潰せないでもお金はかけないという、現在のこの会社(新潟昭和)の親会社である昭和電工の第二水俣病公害訴訟のジレンマの象徴だと感じられます・・・


下記に掲載した写真に写る神経質な看板が、その事を物語っている何よりの証拠。

因みに新潟昭和の現在の事業内容は産廃処理事業であり、元従業員の証言では敷地内に産廃を不法に埋めているという話が出ているくらいなので、いくら社名を変えても企業体質は以前と変わらないと思われます ( ˘ω˘ )

私の住む川崎市でも、昭和電工は規定値以上の毒素を持った排煙を大気開放して、喘息を誘発させた俗に言う『川崎公害』を引き起こしており、企業利益のみを追求する企業倫理が皆無な事業者なのは確か・・・
大きな訴訟を複数抱える昭和電工・・・

被害にあった人々への溢れるような誠意を見せてもらいたいものですっ‼️



さて次に移動したところは、旧・昭和電工・鹿瀬工場から阿賀野川へメチル水銀を放流していた排水口・・・


今では綺麗な水が排水されていますが、
全盛期には100g/d〜1kg/dのメチル水銀が放流されていて、水銀による生物濃縮が発生し、ここより下流でとれた魚を食べることにより体内に高濃度の水銀を蓄積させ、水俣病を発症させたのであります。

損害賠償を起こされた昭和電工は新潟地震で農薬が漏れた為に起こったこととして虚偽で切り抜けようとしましたが、其の努力も虚しく物理的な証拠を突きつけられ無駄な虚偽の終焉を迎えることとなります。
利益本位の企業倫理は、個人にも当てはまります。

どんなに出来た人間でも心の奥底には、『自分達は常に正しく、自分達を否定する者たちの方が間違っている』と考えるのが人間の本性であり、自ら行なっているその行為を俯瞰的客観的に考えられる人間は残念ながら非常に少ない・・・

私は昭和39年生まれですが、私の幼少期の頃は悪い事をすれば家族ではない近所のおばさんやおじさんにもよく叩かれましたが、それは自分がやった事がいかに悪い事だったと他人から教えられるという事で、今思えば貴重な体験であり、やって良い事と悪い事の線引きを教えられたと今では考えています。

また、うちの両親の口癖も『人に迷惑をかけるなっ』、『よく考えて行動しろっ』であり、幼少期から公衆道徳を徹底的に叩き込まれた世代だからかもしれませんが、最近はモラルのモの字もない輩が多すぎて本当に残念で仕方がないと言うのが、今年55歳になる爺さんの本音だったりします ( ˘ω˘ )


ちょいと説教モードに入りそうなので、続きを・・・


県道147号線は途中で崖崩れにより通行止めとなっているのですが、その通行止めとなるポイントの手前にあるのがこの吊橋跡です。
この廃吊橋は昭和橋と言い、新潟県東蒲原郡阿賀町大牧(旧・津川町)にある阿賀野川にある吊橋跡。

歴史は古く1929年(昭和4年)に昭和電工・鹿瀬工場によって架橋され、当時の鹿瀬工場で製造されていた『石灰窒素(化学肥料)』の原料となる石灰石を阿賀野川左岸で採掘していて、その採掘場へ従業員が渡るために架けられた作業用の吊橋。

採掘場は1960年(昭和35年)に閉山し、昭和40年代におきた大雨による洪水で流された状態で現在に至るという話です。


写真でもわかる通り典型的な吊橋構造で、


阿賀野川の右岸から見ると反対側の左岸部のみ主塔が残っている状態。


右岸側は主塔(流失)までの導入路はご覧のように苔生した状態で、訪れる者は私のような物好きだけのようです・・・

導入部の先端まで行くと、はるか遠くに左岸側の主塔が見えてきます。


かなり立派なコンクリート製の主塔で、ぜひ近くで見たかったのだが、残念な事にアクセスする道が既に消失しており、もし行くとすると本格的な装備が必要となるので今回は断念する事にしました。


途中ですが、今回はここまで・・・
それにしても私のジスペケ号・・・

土砂降りの中を600㎞近く走ってきたのにさほど汚れているように見えないのは、各種ケミカルコーティングが機能しているからで、やはり備えあれば憂いなしでっす (๑・̑◡・̑๑)


不定期に続く・・・