気がついたら終わってた『湾岸ミッドナイトC1ランナー』 | ゼロ・マイナス5分

気がついたら終わってた『湾岸ミッドナイトC1ランナー』

無事に京都から帰ってくるまで読まないと決めていたので、さきほど封を切って通読しました。
『湾岸』を読み始めてからで10年になりますが、作者が死ぬまで終わらない領域に入った漫画だと思っていたので正直衝撃でした。
たまたま気になって検索したら最終巻が発売ということで、こういうの虫の知らせって言うんでしょうか。

もともとこの漫画はどこかはかない、滅び行くもの、終わっていくものの運命と、それに抗う終わらせない者の意思の交錯みたいなところがあったのですが、『C1ランナー』になってより黄昏の気配が色濃くなったと思います。
明確に言ってしまうと忍び寄る老いの気配。

主人公の一人であるFDマスターこと荻島シンジは『湾岸』からのスピンアウトなのですが、この作品の滅びの部分をすべて代表して背負わされる形でちょっと酷な一方、終わりが近づくほど哀愁漂うイイキャラになっていきます。
この荻島、湾岸シリーズ全編通じてもっとも哀しいキャラだと思います。

『湾岸』は不完全燃焼感を抱えたまま鬱屈していたキャラクターがZとアキオに触発されて再起する、という基本ストーリーで、極限まで突き詰めていった結果、自分の意思で別の選択をして降りていくのですが、それは『C1ランナー』でも変わっていません。
ただ荻島だけが異質なのは、荻島は自分の意思とはかかわりなくバトルの前に才は潰えてすでに『首都高ランナー』ではなくなっていた、ということです。再び走り出す前に終わっていた、自分が死んでることに気づいていないユーレイみたいなものだったわけです。

一体いつ首都高ランナーとして終わっていたのか、最終コーナー直前で酔っ払い運転を察知できなかったことなのか、GT-Rに乗り換えた時点なのか、それよりもっと前なのか。審判役の北見さんがいれば解説してくれたかもしれませんが、『C1』では当事者だけが知っているコトなんですね。
その荻島の終わり方が「老成」、もっとストレートに言うと「老化」という人の意思では避けがたい運命を象徴しているようで、とても哀しかったんです。C1ランナーを読み終える前と後で肺活量が減ったと思います。

漫画の構成自体も変わり、漫画時空に入り込んでいた『湾岸』から、『C1』になると、時間の概念が明確にキャラクターを縛っているんですね。その時間の流れがもう一方の主人公である若い瀬戸口ノブにとっては成長であり、30過ぎの荻島にとっては衰退なんです。
事故車の旧車でもその気になれば走り出して時速300キロでGT-Rをぶっちぎる、俺だってまだイケるのヨというおっさんの湾岸ファンタジーが『C1』では通用しない。ブラックバードも現実の圧力で馬力が下がるし。時は確実に現実を溶かしていく。
時を越えて思いを繋ぐことができるのは世代交代というタイムマシーンだけ。(有栖高彦はだんだん若返ってるじゃんとかいわないこと)
『C1ランナー』のクルマ衰退時代と寄り添って駆け抜けるような印象からして、最初からこれを描きたくて始めたような気がします。
アキオに代わって幕引き役に選ばれた「代役」の荻島は災難でしたが、さすがにアキオが峠のとうふ屋のオヤジとかになってるすがたは見たくないしね。
自分の考えが、経験が可能性を狭め、無残に才能潰えるそのときを演じきった荻島は見事な代役でした。

湾岸は終わっても僕の湾岸ストーリーはこれからだよな――乙。