1980年4月から松田聖子のコンサートパンフや

カレンダー等のPlanning〜撮影をしていた筆者が、

仕事として松田聖子のステージ撮影で、 

中野サンプラザホールを訪れたのは、

1980年10月19日(日)でした。

松田聖子ファーストコンサートポスター⤵

当時まだ中野サンプラザの広場には、

高いポールがあり先端には、球体の

ファイヤーボールが設置されていました。

現在の時計台の位置で、ポールの下部は、

噴水仕様になっていたと記憶しています。

コンサート開催日には、球体から

炎がメラメラと燃え盛っていました。

客として訪れたときには、気にせずにいた

燃え盛るファイヤーボールを目の当たりにし

撮影仕事の意欲が湧き上がっていた

43年前を昨日の事の様に覚えています。


松田聖子ファーストコンサート First Kiss

東京での本公演は、1980年9月30日に

旧 日本青年館 で、開催されました。

旧日本青年館 のキャパは、1360席でしたが、

2ndシングル 青い珊瑚礁 の大ヒットにより

ファンクラブ会員が、連日膨れ上がり

東京公演である旧日本青年館のチケットは、

即日完売してしまいました。

直ぐ様、当時 松田聖子チーフマネだった

我妻忠義さんは、追加公演のスケジュールを

急がれていました。

結果、キャパ2222席の

中野サンプラザでの追加公演が、

決まったのです。




音響も利便も良い中野サンプラザは、

80年代から公演スケジュールが、

先の先までビッシリだったので、

ブッキングする側の運が良くないと

追加公演は、決まらないのです。

6年前に鬼籍に入られた我妻忠義さんは、

松田聖子の初代チーフマネージャーで

松田聖子の健康面にも気を配られて

当時20歳だった若造の筆者にも

厳しく優しく教えて下さる方でした。

そんな我妻忠義さんだったから

中野サンプラザ追加公演が、

実現したのだと思っています。

松田聖子出演のテレビ公録や

音楽祭などの撮影でも

中野サンプラザホールへ

幾度となく訪れたました。

仕事ですから楽屋口から入るのですが、

その楽屋口の作りというか

波動の良さが、どことなく

今は無き東京厚生年金会館(新宿)に

似ていたと個人的に感じていました。

思えば、観客の入口も

東京厚生年金会館、中野サンプラザホール

共に階段を登りきった場所にある作りでした。

中野サンプラザホールの

真っ赤な絨毯の階段に差し込む自然光

ずっと忘れられないと思っています。