夢は願う人が多いと、
実現する可能性が高まり、
実現するスピードがアップします。
ですから、あなたの周りの人が
何か夢や願いを口にしていたら、
ぜひこう告げてあげてください。
『かならずかなうよ。
私も願っているね!』
そして時々でよいので、
『○○さんの願いが
かないますように!』
と願ってあげてください。
すると、その夢や願いがかなった
とき、あなたはその人と一緒に、
幸せな気持ちを味わうことが
できます。
自分自身の願いだけではなく、
自分が応援していた人の願いが
かなったときも、嬉しい気持ちに
なれるのが私たち人間です。
よく考えたら、
それってすごくお得ですよね。
自分の夢だけなら幸せな気持ちに
なれる回数は限られるのに、
他の人の夢を応援していたら
人の数ほど幸せな気持ちに
なれます。
人が、夢や願いをかなえることを
通じて本当に得たいものは、
嬉しい気持ちや幸せな気持ちです。
夢や願いそのものではないのです。
それを通じて、
幸福感を味わいたいのです。
それならばぜひ、
あなたの周りの人の夢や願いを
応援してあげましょう。
実現するように
願ってあげましょう。
そうすれば、あなたが
この世界で幸せを感じる回数は
どんどん増えていくはずです。
なかなかいい世界ですよ、ここは。
追伸:
願いをかけるときのポイントは、
まず目をとじて心を落ち着けます。
そして、願いがかなって
登場人物たちが幸せそうに
している場面を思い描きます。
そのイメージを天に送り出します。
それが1回分の願いです。
「罪悪感」に関する
少し長い記事になります。
誰かの言動に接したとき、
あなたの胸の内側がモヤモヤして、
「“常識”からして
それってどうなの?」、
「“普通”はこうだよね」、
「“社会のルール”からすると
絶対おかしい」…、
そういった言葉が浮かんでくる
ことがありませんか?
・・・・・。
そういうときの心の動きを
少し注意深く観察してみましょう。
誰もがうなずかざるを得ない
決まりごとを持ち出すことで、
自分の本当の気持ちをごまかして、
本質をすり替えようとしている
可能性があります。
常識を持ち出して人を裁くと、
一時的にモヤモヤした気分は
消えますが、返す刀で自分自身の
心を切りつけ、さらには縛って
しまって、心の自由を厳しく
制限してしまいます。
ですから、魂の成長進化の
視点から見るとこれはあまり
おすすめできません。
この現象を解説しますと、
心の中でこういうことが
起きています。
まず、ある出来事が
あなたの身に起きます。
そこであなたは
嫌な気持ちになりました。
嫌な気持ちのままですと
心が苦しいですから、
その気持ちを解消したい
と思います。
気持ちは内側から外側へ
吐き出すと消えます。
しかし困ったことに、
そのありのままの気持ちは、
自分があまり見たくない
(よくないものだ)
と思っている気持ちです。
ですから、何か他の理由に
置き換えないと内側から外側へ
吐き出すことが出来ません。
そこで気持ちを
正当化する必要が生まれます。
誰もが認めるであろう
「常識」を持ち出すのです。
「常識」に照らし合わせて、
「常識」で理論武装することで、
「その出来事や相手に批判的な
気持ちになってもよい」という
お墨付きを自分に発行します。
その上で、嫌な気持ちを
外側に吐き出すのです。
その時に先ほどあげた
言葉たちが出てきます。
このやり方の問題は、
うっかり「常識」を
持ち出してしまったために、
今後自ら「常識」に傷つけられ
縛られてしまうことです。
ブーメランのようにかえってきて、
あなたの自由を厳しく束縛する
わけです。
それが魂の活動をも
制限するようになります。
ですから、私がおすすめするのは、
わざわざ「常識」を持ち出す
のではなく、「最初の気持ちに
さかのぼって、その気持ちを
ありのままに認めること」です。
最初に起こった嫌な気持ちの
多くは、不思議なことに
「七つの大罪」に当てはまります。
七つの大罪というのは、
キリスト教西方教会でいう、
「人間を罪に導く可能性があると
見なされてきた欲望や感情のこと」
です。
「傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・
強欲・暴食・色欲」ですが、
いかがでしょうか?
最初に湧き起こる嫌な気持ちは、
七つの大罪のどれかに
当てはまりませんか?
参考までに、私に嫌な気持ちが
湧き起こる場合は、「傲慢」に
当てはまる気持ちが多いです。
「この私に悲しい思いをさせた。
この私を脅かした。軽んじた」
という気持ちが多く現れますね。
大罪は、人間が本質的に持つ
強い動機と言えます。
宇宙は人間を有機的に
動かすために、これらを人間に
組み込んだのだと思われます。
ですから私は、
大罪と呼ばれる欲望や感情を
すべて肯定する立場です。
大罪を肯定すると、
大罪に執着しなくなります。
逆に隠したり目を背けたりすると、
大罪にとらわれて罪悪感を覚えて、
振り回されて引きずられます。
自分の中にあるものは
どんなものであれあると認める。
その上で、
「自分がどうありたいか」
を決めて、
「自分の中にあるものを
どの程度使うか」、
「どの程度表現するか」
は自分で選んでいく。
そういう姿勢がよいと思います。
既にそこにあるのに、
ないことにしてしまうほうが
よほど危険です。
湧き起こった気持ちは、
そこにあることを認めれば
大人しくしてくれますが、
無視したり否定したりすると
暴れ出して手に負えなくなります。
「大罪」というたいそうな名前が
ついている欲望や感情ですが、
一皮向いてみると、
ただ「悲しい」、「悔しい」、
「欲しい」というような
極めてシンプルな気持ちです。
ですから、
「悲しかったんだね」、
「悔しかったんだね」、
「欲しいんだね」、
とうなずいてあげれば
それで落ち着くのです。
外側にはき出すために
わざわざ「常識」を持ち出して
正当化する必要はないのです。
先ほどの私の傲慢もそうですが、
「悲しくて、怖くて、
悔しかった・・・」、
本当にそれだけなんですね。
それを私は自分の「自分勝手さ」
を見たくないために、
つい他の論理や言葉に置き換えて
しまうのですが、それだけです。
ですから、
何か難しいことを考えて
物事を正当化しようとしている
自分に気づいたら、
最初の気持ちに素直になって
言葉にして、その言葉に
うなずいてあげるようにします。
どうぞあなたも、
「常識」という後々自分の
首を絞める論理を持ち出して、
気持ちのすり替えをせずに、
最初の気持ちをありのままに
認めてあげてください。
自分にわかってもらえば、
気持ちは落ち着きますし、
魂はもっと自由に縦横無尽な
活動ができるようになります。
あなたはあなたの心のなかで、
どんなにネガティブなことを
思ってもよいのです。
どんなに暗い欲望を持っても、
どんなに自己中心的な想像を
働かせてもかまいません。
プラスはマイナスがあってこそ
存在できます。
光があれば闇があります。
「自分の心の中には、
光と闇の両方があってよい」
と受け入れたとき、
あなたは光にも闇にも
とらわれることなく、
宇宙の自然の流れの中で
生きることができます。
あなたは本当に過不足なく、
いまのそのあなたでいてよい
のですよ。
どんなことを思ったとしても、
それはあなたが思うことに
なっていた思いですから、
そのままそこにあってよいのです。
心の中にわき起こる思いを、
一つ一つ裁いたり、
責めたり嘆いたりすることは
一切必要ありません。
あなたの心から発する
すべての思いを「よし」と認めて、
その罪悪感から
解放してあげてください。
心に思うことと、
実際にやること、
表現することは
違っていてよいのです。
ですから、
何を思ってもよいのです。
はじめに現れた負の思いを
しっかりと受け止めれば、
負の思いは宇宙にとけていきます。
そして人の心に最後に残るのは、
魂の奥底から現れるのは、
慈愛だけです。
そうしたら、その最後の思いに
従えばよいのです。
追伸:
そこにあるものは、
そこにあってよいのです。
あるものをただあるとすれば、
心に残像を残すことなく、
宇宙の流れの中で
自然に移り変わっていきます。