虚子の亡霊(四十一)

昭和二十一年(1946

一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。

二月 「祖谷」創刊。

五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。

六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。

八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。

十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。

十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

「俳句第二芸術論」(その二)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」については、これまでに何回となく接していたのであるが、今回、講談社学術文庫のものを、他の論稿のものと一緒に目にして、従前のときに抱いたものと違って、この桑原の「俳句第二芸術論」は、正岡子規の「続・俳句革新」というような論稿のものだということを痛感した。この「俳句第二芸術論」は、丁度、子規が明治維新と軌を一にして、その「俳句革新」を成し遂げたように、終戦直後の、大きな時代の変革のときに、桑原が、その子規の「俳句革新」の延長線上に、子規の当時と同じような宗匠俳句然とした沈滞ムードに活を入れようとした論稿という感慨である。こういう感慨を抱いたのは、この講談社学術文庫のものが、昭和五十一年刊行と、それが公になったときから、凡そ三十年という歳月を経てのものであり、その「序」の昭和四十六年の「毎日新聞」に掲載された下記の記事に大きく起因していることと、さらに、「短歌の運命」・「良寛について」・「ものいいについて」・「漢文必修などと」・「みんなの日本語・・・小泉博士の所説について」・「伝統」・「日本文化の考え方」の、いわゆる、「俳句第二芸術論」をはじめとする日本文化論八編が収録されていて、その八編のうちの一つとしての、この「俳句第二芸術論」を目の当たりにして、その「短歌の運命」とともに、これはまさしく、子規の「俳句革新」の二番手の「続・俳句革新」の警鐘だということに思い至ったのである。

 とにもかくにも、昭和四十六年の「毎日新聞」に「流行言」と題した桑原武夫のその記事の全文は下記のとおりである。

桑原武夫「毎日新聞」一九七一年三月十三日付け「流行言」

むかし、昭和一ケタ台のことだが、東大の学生新聞に高浜虚子の散文をほめた短文を書いたことがある。すると間もなく、それを転載してよいかという手統が「ホトトギス」編集部から釆た。そして次号には虚子の一文がのり、自分の散文は俳壇ではあまり評価されていないようだが、具眼の士は認めているのだとして、正宗白鳥、室生犀星の評言をあげ、そのあとに、無名の私の文章が全文掲げられてあった(「ホトトギス」一九三四年五月号)。私の文章が公けの場所に引用され、ほめられたのは、これが最初である。

昭和二十二年ごろ、虚子の言葉というのが私の耳にもとどいた。・・・「第二芸術」といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか。戦争中、文学報国合の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った。

 数年後、ある会で西東三鬼さんに紹介された折り、あなたのおかげで戦後の俳句はよくなってきました、と改まって礼をいわれて恐縮したことがある。「第二芸術」については多くの反論をうけたが、今はほとんど忘れてしまって、虚子、三鬼両家のことしか思い出せない。まことに身勝手なものである.

 そんな私はその後、短詩型文学の動向にしだいに無関心となり、注目を怠っている

(大江健三郎、高橋和巳といった一流の才能は、短詩型文学を志向しないのではないか)。あれだけ人騒がせなことをしておきながら、と怠慢をとがめられるとつらいが、人それぞれ仕事というものがあるので許してほしい。その私に二十五年後の感想を求められても、現状をふまえぬ発言は空疎であろうし、だいいち失礼だろう。

文学は不易の価値を求める、というのが公式であろうが、そうした発言は時として不遜の感をあたえる。今という時にのみつくそうという作品もあるはずだ。後まで残るかどうかは歴史が裁きをつける。そして、当座の仕事をはたして消え去る作品がすべてつまらぬともいえない。批評の仕事はとくにそうである。批評はすペて時評というべきかも知れない。

 敗戦後およそ朝鮮戦争のころまで、焼けあとの実生活は苦しかったが、人々の意識には、窮乏の中のオプチミズムともいうべきものがあった。そこにただよっていた理想と自由への熱意はどこか瑞雲めいていた。依然としてパワー・ポリティツクの支配する世界を身にしみて自覚していない甘さはあったろうが、それを今の繁栄の中のペシミズムの立場から批判してみても、アナクロニズムになる恐れがある。これは当時一世を風靡したすぐれた社会料学者たちの論説について言えることだが、私の貧しい一文もこれらと同じ空の下で書かれたのであった。詩と散文との差異についての考慮が欠けていたことなど至らぬ点は間もなく思い当ったが、金子兜太氏のいわゆる「愚行」をいま自己批判する気にはならない。

ともかく四分の一世紀、歴史は流れた。あのころの雰囲気は近藤芳美氏の文章に巧みに感覚されている。

「・・・瓦礫の街の、澄み切った空の不思議な青さだけが思い出される。地上の貧しさ、苦渋と関わりない不思議な青さだった。「第二芸術論」の一連の文章を二十五年後の今読返しながら、わたしはふとそのような日々の空の色を連想した。議論のいさぎよいまでの透明さのためである。それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」。

私は、もって瞑すべし、という感動を禁じえず、大好きな句を思い出すのみである。

   いかのばり昨日の空のありどころ    

 これが、桑原武夫の、「俳句第二芸術論」の公表から、「四分の一世紀」(二十五年)経ってからの、氏その人の感慨である。そして、そこに引用されている歌人・近藤芳美の「それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」、そして、「議論のいさぎよいまでの透明さ」という一文に接したときに、あの明治維新という大変革期のに、あの「議論のいさぎよいまでの透明さ」をもって、颯爽と登場した、正岡子規その人がオーバラップしたのである。

ここで、かって、子規その人に無性に憑かれていた当時の、これまた、「四分の一世紀」(二十五年)前の、子規の「俳句革新」(メモ)のものを、その「議論のいさぎよいまでの透明さ」の証しとして、その一部を再掲をしておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/53749537.html

○ 子規の「俳句革新」というのは、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による」俳句革新運動であった。子規が批判の対象とした、月並(月次)俳句とは、当時の俳諧の宗匠達が開く毎月の例会を意味したが、子規は、それらの月並俳句を「平凡・陳腐・卑俗」として攻撃したのである。                  

○ そして、子規の月並俳句(旧派)の批判と子規らが目指す近代俳句(新派)との違いは、子規は、その『俳句問答』(明治二十九年五月から九月まで「日本」新聞に連載され、後に刊行本となる)において、要約すれば以下のとおりに主張するのである。

○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    

○答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。

○第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。

○第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。

○第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。   

○第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。