烏山八景句碑(その二)

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(2)謎に満ちた「烏山八景句碑」の変遷と巴人奉納句鑑賞

(情報9)『杖の土』(宋屋)→ 「野州烏山滝田天満宮に往昔亡師(注・巴人)が奉納した」俳額について、次のように掲載している。宋屋の奥羽行脚は延享三年(一七四六)で、この時には、巴人も潭北も没している。蕪村は結城・下館、そして、江戸の増上寺裏門辺りに居住していて、宋屋は蕪村を訪ねていたが、宋屋は蕪村には会えなかったことが記されている。

 朝日山  鶯氷らぬこゑあさ日やま       東武 其角

 中川   中川やほり込んでも朧月           嵐雪

 比丘尼山 独活蕨つま木(注・薪)こる(注・伐採する)日やびくに   

                        山   専吟※


前垂山  赤だれに猿の手もがな(注・欲しい)雲雀   琴風※

五郎山  花の夢こゝろはづかし五郎山     後名淡々 渭北※

桜井里  水聞(注・水番のことか?)ののうごきや家ざくら     

                         願主 巴人

牧野   筑子(注・こきりこ=竹の楽器)もまき野の藪は雉子の声 

                         烏山 斟計※ (注=斟計の「計」は「斗」と草書体が類似し「斗」か(?)句碑建立の大鐘新斗と関係ある俳人か?)


 元禄十五壬午(注・一七〇二年)春


(情報10)『安達太郎根』(淡々=前号・一世渭北)→「烏山八景句碑」に登場する渭北(淡々)が「奥の細道」の行脚の途次に、「烏山天満宮を拝し」、巴人が奉納した俳額を次のように掲載している(二世渭北=麦天は、蕪村の知友で、蕪村の「新花摘」の最終場面に登場する。そこで「義士四十七士式家〈注・高家〉の館を夜討して、亡君のうらみを報い(以下略)」の其角書簡(秋田佐竹藩重臣・梅津半右衛門ノ尉=其角門の其雫宛)を麦天が所蔵していて、蕪村に譲ると言う申し出を固く辞退したとの記載がある)


中川やほうり込んでも朧月        嵐雪

     鶯氷らぬ声朝日山          其角

     独活蕨妻木こる日や比丘尼山       専吟

     赤だれに猿の手もがな底雲雀        琴風

     宵闇の華に鞍なし五郎山         渭北

     水聞のの動きや家ざくら         巴人



(情報11)「松木淡々年譜稿」(「俳文芸三九号・四十号」・白数了子稿)→元禄十六年(発未)一七〇三 三十一歳 ○七月下旬 芭蕉の跡を慕い、奥羽行脚に出立。(中略)両吟半歌仙 斟計・渭北(烏山にて)(以下略)。


(情報12)『からすやま文学の碑散歩道』(皆川晃著)に次の記載などが見られる。



その一(下境・佐藤新二家文書 桧山豊山写)

(注・現存する「烏山八景句碑」の句形)

朝日山  鶯の氷らぬ声や朝日山      其角

中川   中川やほうりこんでも朧月    嵐雪

比丘尼山 独活蕨爪木こる日や比丘尼山 雪吟※(専吟の誤刻)

赤垂渕  赤垂に猿の手ほしや底雲雀  蓼風※(琴風の誤刻)

五郎山  花の夢心恥かし五郎山    渭水※(渭北の誤刻)

大沢   大沢や入日をかえす雉子の声   栢十

興野   その原や朧の月も興野山     湖十

桜井里  水聞の水の動きや家桜      巴人


その二 この「佐藤新二家文書」は、「下野国那須郡瀧田村朝日観音江奉納額写」で、「寛政元乙酉十二月二十五日奉納」とあり、「寛政元年」(一七八九)に奉納したものの写しである。ここには、上記の八句の他に、「其外」(江戸の存義・百万の句などの八句)と「奉納四季」(烏山藩大久保家の家臣団の句など十二句)が収載されている。


その三(皆川晃氏の見解=上記の現存する句形の※を修正したもの)

朝日山  鶯※氷らぬ声※朝日山                  其角

中川   中川やほうり込んでも朧月                  嵐雪

比丘尼山 独活蕨爪木こる日や比丘尼山          雪吟※(専吟の誤刻)

赤垂渕  赤だれに猿の手もがな※底雲雀        蓼風※(琴風の誤刻)

五郎山  花の夢こころ恥かし五郎山          渭水※(渭北の誤刻)

大沢   大沢や入日をかえす雉子の声                 栢十

興野   その原や朧の月も興野山                   湖十

桜井里  水聞の耳※の動きや家桜                   巴人



その四  朝日山=現在の句碑のある山のこと。中川=那珂川。比丘尼山=朝日山の北方に連なる丘陵。赤垂川=霧ヶ沢といわれる川で、赤垂渕から那珂川に流れ込む。五郎山=比丘尼山の北西に位置する丘陵か? 大沢川=境地区の北部に位置する谷間に拓けた村落を東から西に流れる川。桜井の里=那珂川の河岸段丘に拓けた村落一帯、現在の坂下から滝田にかけての呼称(「牧野の里」の写真が掲載されているが、この掲載されている写真は「桜井の里」の写真か? 「牧野の里」の説明はない)。



その五 現存する「烏山八景句碑」には、冒頭に「安政三丙辰南呂再建、善哉庵永機書」とあり、上部に「烏山八景」と刻まれている。「安政三丙辰南呂」は、「安政三丙辰」(一八五六年)の「南呂」(仲秋・八月)のこと。「善哉庵永機」は、「穂積氏」で、其角堂七世を嗣承している。


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烏山八景句碑(その一)

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蕪村(ぶそん)の師巴人(はじん)(たん)(ぽく)そして烏山八景句碑

         

(1)蕪村と巴人と潭北と烏山八景句碑とを結びつけるキィワードは何か?→ 赤穂義士・大高源吾(俳号=子葉)

(情報1)『新花摘』(蕪村)→(前略)常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源吾よりつたへて又余(注・蕪村)にゆづりたり。(後略



(情報2)『大田原史前編』(大田原市編集委員会編)』→「佐久山の実相院に四十七士で有名な大高源吾とその弟の小野寺幸右衛門(小野寺十内の養子)そして実母の三人の墓・位牌・過去帳が実在している。」



(情報3)『栃木県史(通史編四・近世一)』→「元文元年(一七三六)、潭北は病を得て佐久山に居住する弟の所に身を寄せていたことがわかり、また願書を出した弟渡辺嘉兵衛は烏山藩にあって士分格の身分を持った人物であったことが知られる。」→(烏山町中央「若林昌徳家文書」)→ 私兄常磐潭北儀永々相煩、野州佐久山町弟渡辺次左衛門方ニ罷在候間罷越度願  渡辺嘉兵衛



(情報4)蕪村の初撰集『寛保四年宇都宮歳旦帖』(寛保四年・延享元年・一七四四)に、「佐久山 潭北」として、「梅がゝ(か)や隣の娘嫁(か)せし後」の句を寄せており、この年の七月三日に没している。



(情報5)『烏山町史』(常磐潭北=小口芳夫稿)→晩年の潭北の遊説区域は、次第に関東から奥羽地方へ拡大し、白河に一泊したときの作に、次の詩句が残っている。(漢詩省略)この七言絶句の一篇のあとに、「道聞(きき)て一ト夜とまらん関の夜 渡辺潭北拝」、珍しく「常磐」姓を用いず、彼の署名にあまり見られない「渡辺」姓を用いている。



(情報6)「栃木県史しおり」(史料編近世8月報「俳諧と農民教化―常磐潭北雑感―」=村上喜彦稿)→ 元禄十六年(一七〇三)其角同門で潭北と交遊のあった大高子葉(赤穂義士)切腹、子葉三十三歳、潭北二十六歳。



(情報7)『からすやま文学の碑散歩道』(皆川晃著)の「落石地内41早野巴人句碑」→元禄十六年(一七〇三)二十七歳 二月四日、赤穂浪士自刃、「類柑子」に「孤芳を探る  かうばしき骨や新茶の雲の色」が入集。(注:「類柑子」にこの句が入集したのは、其角が没した宝永四年=一七〇八で、この句は其角追悼句で子葉追悼句ではない。)



(情報8)『烏山町史』(近世・転封=小口芳夫稿)→ 元禄十四(一七〇一)年三月、赤穂城主浅野長矩が、吉良良央を江戸城中において斬りつけ、切腹の上浅野家は断絶したいわゆる赤穂事件が起こった。このため赤穂城はしばらく幕府の管理下にあったが、元禄十五年九月、烏山城主永井伊賀守直敬が、三千石の加増を受けて、三万三千石をもって赤穂へ転封となった。永井氏の去った後の烏山城は、新城主の着任までの間、空城となって幕府代官の管理下にあった。



(管見1)赤穂義士の一人の大高源吾(俳号・子葉)は、烏山出身の俳人、早野巴人と常磐潭北の其角門の兄弟子に当たる。その兄弟子の子葉が、元禄十六年(一七〇三)に自刃し、泉岳寺に葬られ、その後、子葉の遺族が、佐久山大高家の菩提寺、実相院に遺髪などを埋葬し、その墓を建立する時に、当時、江戸在住の巴人と烏山在住の潭北とは相互に連絡を取り合いながら、その遺族の片腕になったのではなかろうか?(その時の形見分けのようなものが、蕪村回想録の『新花摘』の「大高源吾秘蔵の高麗の茶碗」で、それを、潭北が所蔵していて、それを蕪村に伝授したということなのではなかろうか?)

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富田昌宏句集『百壽千壽』

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『千壽萬壽』(富田昌宏句集

青麦(昭和三一年~三五年)


1 手枕の母の宵寝やお蠶疲れ
2 百姓に相続税や花大根
3 豚の子のつぎく生れ春雷す
4 夏痩の馬のあばらを洗ひけり
5 虫の音やしづかに閉づる農日記


薄暑(昭和三六年~四五年)


6 春暁の土ざつくりと掘り起す
7 乳しぼることを日課や柿若葉
8 塗り終へし畦ひとすぢに光りけり
9 柿吊し大根干して冬に入る
10 葱洗ふべく寒水を溢れしむ


水盗む(昭和四六年~五三年)


11 五六束藁を打ちたる農始め  
12 青柿や百姓一揆いつも悲し
13 水盗む大地に五体はりついて
14 生涯を農夫農婦や鳥渡る
15 斧を振る寒林痛き音返す


自画像(昭和五四年~五九年)


16 稲減反末法の世や農始め
17 祖父の鋤父の鎌継ぎかげろへる
18 穴の如し青田の中の休耕田
19 秋の蝶離農一家の荷にすがる
20 冬の田のすべてが終りすべて眠る


栃木弁(昭和六〇年~六十三年)


21 卯の花や妻に引き継ぐ田水番
22 芋の露北斗傾けゐたりけり
23 冬田茫々わが胸中の未完の詩

24 種蒔くや命こぼるゝ五指の間
25 百年を煤けし梁や寝正月


農業賛歌(平成元年~四年)


26 農業に生きる矜恃や春一番
27 田植機の愚直にすゝむほかはなし
28 夏草や瑞穂の国の減反田
29 新藁や光となりて散る雀
30 父を継ぎ子へ継ぐ運命里神楽


秋耕(平成五年~九年)


31 畦焼くや地下足袋ずぶと水に浸け
32 息づまる麦の青さやわれ農夫
33 秋耕の夜は自分史の稿起こす
34 職業を農と記しぬ文化の日
35 一身をいま日に晒し冬耕す


落し水(平成十年~十五年)


36 星屑のあふるゝほどに田水張る
37 一粒を噛んで早稲田を刈り始む
38 田を打つて打つてこの里守り来し
39 農に生き土に還る身初山河  
40 予後の身の水に躓く田植かな


松の芯(平成一六年~二一年)


41 ふるさとの竹に色あり竹の秋
42 転作を重ね葦田となりにけり  
43 種蒔や句は生活の句読点
44 農捨てし子に新米を送りけり  
45 掃苔や妻に問ひたきこと数多


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最東峰第二句集『百壽』のことなど

 最東峰第二句集『百壽』は、「初景色」・「種芋」・「箱眼鏡」・「百壽」・「みそさざい」の五編から成っている。その第一句集『ひむがし』は、平成十年に刊行されており、それ以降の、平成二十一年までの、およそ十年間の作品(今井剛一選の二百余句と自選の百余句)が収載されている。

 第一句集『ひむがし』の口絵(写真)に、昭和四十三年の「歌会始預選歌」入選作が紹介されていた。その「預選歌」と同じ主題と思われる「風土詠」を、今回の第二句集『百壽』の各編から一句を拾い、それらを「預選歌」の一首と並列して見ると次のとおりである。

 川すでに光りそめたり果樹園の

  ゆきばれに来て妻とはたらく  (第一句集『ひむがし』所収「預選歌」)

  

  見馴れたる山河まぶしき初詣    (第二句集『百壽』「初景色」)

  川上へ風のさざなみ芦の角     (第二句集『百壽』「種芋」)

川はいま海への途中麦の秋 (第二句集『百壽』「箱眼鏡」)

那珂川に青瀞いくつ下り鮎     (第二句集『百壽』「百壽」)

生み立ての牛に産気のやうな雪   (第二句集『百壽』「みそさざい」)

これらの作品に接して、その第一句集『ひむがし』の「序」(今瀬剛一)の「栃木県のその東を背負って立つ」俳人という思いを実感とする。そして、それは、那珂川と八溝と、そして、遠くの那須の連峰との、その山河から、その風土から「生まれ出る」、珠玉のような十七音字という思いでもある。そして、その背景には、「預選歌」の「和歌優美」の「やまとことば」の美しい調べが、「雪晴れ」ではなく「ゆきばれ」が、「働く」ではなく「はたらく」が、「既に」ではなく「すでに」が、「染めたり」では「そめたり」が、その「和歌優美」に対する「俳諧滑稽」が、今回の第二句集『百壽』に接して、その躍動している様を、「初詣」・「芦の角」・「麦の秋」・「下り鮎」・「産気のやうな雪」の、その俳諧の発句の骨法の「季の詞」の「思い入れ」に、歌人・斉藤穂とは別な、俳人・最東峰の雄姿を垣間見る思いがするのである。

最東峰第二句集『百壽』鑑賞(その一)

一 唵阿毘羅吽欠蘇婆詞四月尽(おんあびらうんけそわかしがつじん)

「序に代えて」の前書きのある一句である。「あとがき」を読むと、「おんあびらうんけそわか」の詠みで、「真言で功徳あれ、成就あれ」の意とのことである。最東さんの家が真言宗なのかどうかは知る由もないが、「歌会始」の預選歌に輝いたこともある最東さんは、「和歌優美、俳諧滑稽」ということを、他の俳人の誰よりも、熟知し、それを実践し続けている方である。第二句集『百壽』の上梓(発行年月日=平成二十一年四月二十八日)にあたって、その「四月尽」(季語)に、「唵阿毘羅吽欠蘇婆詞」(おんあびらうんけんそわ)、「功徳あれ、成就あれ」と祈願する…、そんな「序に代えて」の一句なのであろう。何とも、意表をつく、最東さんらしい、「序に代えて」の一句である。しかし、「俳諧滑稽」を地で行く最東さんは、そんな、大上段の鑑賞だけではなく、例えば、テレビドラマの「風林火山」の上杉謙信が、護摩を焚いて、「唵阿毘羅吽欠蘇婆詞」(おんあびらうんけんそわ)、「唵阿毘羅吽欠蘇婆詞」(おんあびらうんけんそわ)と、一心不乱に唱えている、そんなことが、この句に潜んでいるような、そんな「軽み」の一句という雰囲気もするのである。

二 死ぬ勇気生まれる元気年新た (初景色)

 「死ぬ勇気」「生まれる元気」とは、最東さんの発見であろう。余命幾ばくもない亡き伯母が、「お産も大変だが、死ぬのはもっと大変だ」と言ったのを記憶しているが、どういう死であれ、「死は勇気」の世界のものであろう。そして、「生まれる」、生の誕生は、「元気」の世界のものであろう。こういうことを、ずばり、新年の「年新た」に、「死ぬ勇気」「生まれる元気」と喝破する、俳人・最東峰さんは、やはり、「和歌優美」に対して、「俳諧滑稽」の何たるかを知り尽くした方という思いがするのである。

三 月の兎山の兎と年迎ふ    (初景色)

 最東さんの句はどれも平明な表現のものに徹しているが、どの一句をとっても、「そうなのか」と思うような、いわゆる、言外の隠された世界というものが、何とも魅力的なのである。この句は、「月の兎」「山の兎」「と」「年迎ふ」で、この「と」が絶妙なのである。「月の兎と」また「山の兎と」、この新しい「年(を)迎ふ」なのである。「月の兎」とは、子どもの頃によく聞かされた、「月に兎がいる」という伝説(『今昔物語』)や、『枕の草子』などに出てくる、「雪月花ノ時最モ君ヲ憶フ」(『白氏文集』)というようなこと、そして、「山の兎」は、文部省唱歌の「故郷」の「兎追いし彼の山」の、あの「山の兎」が思い出されてくるのである。最東さんは、月を見ては、「亡き友ら」を思い、そして、眼前の八溝の山々を見るたびに、「兎追いし彼の山」の、なつかしい「旧友」を偲びつつ、それらの「友垣」と「新しい年を迎える」というのであろう。

俳誌 「鬼怒」の編集などを携わっていた石倉夏生さんが、句集『バビルーサの牙』を

刊行した。その各章の五句選は下記のとおり。


片片(昭和五十八年~昭和六十二年)

樹の上に次郎三郎夏の雲

いなびかり長女は怯え次女は跳ね

三鬼や不意にライオン起きあがる

野火の焔の奥に三鬼の水枕

ひろしま忌蛇口の一つ上を向き

点点(昭和六十三年~平成四年)

野火の焔に悟空沙悟浄猪八戒

自転車に葱を括りて極楽へ

大粒の室の八島のかたつむり

逃水や西行芭蕉山頭火

枯野にて省略されし二人かな


云云(平成五年~平成九年)

にんげんが縮んでゆくよ青葦原

何を書くか木曽の木橋の秋の暮

十二月犀の細部を見に行かむ

初夢や全身の朱の鱗かな

定年の爛々と見ゆ烏瓜

念念(平成十年~平成十三年)

すべて虚の中のできごと去年今年

人間を眺め厭きたる冬木かな

ゆびきりが嘘のはじまり遠霞

絵の具のやうに言葉押し出す枯木山

潤みたる眼をのこし冬没日

昏昏(平成十四年~平成十五年)

濃く昏く川現るる昼寝かな

羽抜鳥とろとろと基督の夢

五月わが精神にある暗渠かな

白鳥の一羽が寺山修司らし

昭和とは西日を浴びし景ばかり

現現(平成十六年~平成十七年)

人通るたび春泥の笑ひゐる

目に耳に口に桜の咲きはじむ

眼の乾き脳裏の乾き亀鳴けり

身のうちに鬱の点在へびいちご

しもやけのうすももいろの昭和かな

瞬瞬(平成十八年~平成十九年)

野に遊び海より来たる雨に遭う

噴水は永久に白髪且つ怒髪

竹馬の兄が昭和を跨ぎ来し

闇に降る雪の疾さの昭和かな

バリカンの昭和の痛み麦の秋

この夏生さんの句集に接して、

随分前にアップした高柳重信のものなどを思い起していた。


○ 泣癖の

  わが幼年の背を揺すり

  激しく尿る

  若き叔母上

 高柳重信の『蒙塵』所収の「三十一字歌」と題する中の一句である。「五・十二・七・七」のリズムである。このリズムは、「五・七・五・七・七」の短歌のそれを意識したものであろう。

これが俳句なのであろうか? どうにも疑問符がついてしまうのである。ただ一つ、重信は「定型破壊者」ではなく、極めて、「定型擁護者」と言い得るのではなかろうか。この意味において、自由律俳人の「自由律」と正反対の、いわば「外在律」に因って立つところ作家ということなのである。それと、もう一つ、この『蒙塵』という句(多行式)集の制作意図があって、それは「王・王妃・伯爵・道化・兵士達のドラマ」仕立ての中での、その場面・場面の描写というような位置づけで、これらの句がちりばめられているようなのである(高橋龍稿「俳句という偽書」)。すなわち、俳諧論の「虚実論」の「虚(ドラマ)の虚の句(多行式)」ということなのである。これらのことについて、高橋龍さんは次のとおり続ける。「今日、正あるいは真とされるものは、十八世紀末の啓蒙主義、十九世紀以降の科学主義がもたらした大いなる錯覚にすぎない。正と偽は、同一舞台に背中合わせに飾られた第一場と第二場の大道具のごときもので、『正』という第一場を暗転させるのが詩人の仕事である。高柳さんはいちはやく第二場『偽』の住人となり、さらに奈落に下り立って懸命に舞台を廻そうとした人であった。それを念うと、子規以降のいわゆる伝統俳人の営みは、折角の『偽書』を『正書』に仕立て直そうとするはかない努力であったような気がしてならない」。その意味するところのものは十全ではないけれども、要する、「高柳重信の多行式俳句の世界は、日常の世界から発生するのではなく、その異次元の『偽』の世界であり、『虚』の世界のもの」という理解のように思われる。

 そして、高橋龍さんがいわれる「子規以降の伝統俳人の営み」は「実(現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」という営みであって、高柳重信の世界は、「虚(非現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」、その営みであったということを、高橋龍さんは指摘したかったのではなかろうか。とにもかくにも、高柳重信の多行式俳句の理解については、これらの「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」との、この二方向から見定める必要があるように思われるのである。

 この「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」ということについて、この夏生さんの句集の、山崎聡さんの「帯文」と、何かしら

重なるものを感じたのであった。

萩原枯石先生句碑建立

百千鳥エジプト文字の詩あれは  枯石

囀やほどくすべなき藤の蔓   あや子

萩原さんは旧制足利中の教壇に長く立ち、富田中学校で退職した。三十歳代から俳句を始め、同人誌を創刊したり、自ら句集を出版するなどしてきた。現代俳句協会会員でもあり、多くの受賞歴がある。

妻のあや子さんも同人誌などで活躍していたが、昨年四月、八十九歳で亡くなった。アヤさんの死後、萩原さんは鎮魂の気持ちから句碑の建立を思いついた。

二人には名草巨石群や厳島神社(通称・名草弁天)周辺で詠んだ句があった。九年前に息子を亡くし、悲しみを忘れるために俳句に没頭していたころ、名草を訪れ共に鳥を題材にして詠んだ「競詠」となった。

「百千鳥(ももちどり)エジプト文字の詩(うた)あれは」。萩原さんの句は宮城県加美町の現代俳句加美未来賞入選作で、春にさえずる多くの鳥はエジプト文字のように美しいが、不可思議だと詠んだ。

アヤさんの「囀(さえずり)やほどくすべなき藤の蔓」は、自由な鳥のさえずりと、ほどけない不自由なつるを対照的に詠んだものだ。

句碑建立に当っては旧制中学時代の教え子や神社関係者らが多方面で協力した。

除幕式の出席者らは「思い出の地に夫婦の句が一緒に並べられ、本当に良かった」と目を細くしている。

(平成二十年五月五日 「下野新聞」)


エジプト文字




百千鳥エジプト文字の詩あれは

ペーパーの語源であるエジプト(三千年の昔から)のパピルスに、描かれた画がパピルスアートである。

それは古代エジプト人と「魔除けの図」に、エジプト文字が画面いっぱいに書かれたものである。

エジプト文字は、文字というより絵である。それは美しい絵である。この文字は読めないというわけではない。実は日本の「いろは」に対応させることも出来るのだが、誰にも読めるというものではない。

掲句は、エジプト文字はとても美しい。だがどういう事が書いてあるのかわからない。百千鳥(囀)の声は美しい。すばらしく可愛い。だがどういう歌なのだろう。わからないなァ――というのである。

(枯石 記)

萩原枯石(本名・萩原八十吉・九十七歳)


高点句など

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○ まんさくの夜道はすこし坂がいい  橋本昭次  二五点

○ 生涯のいまが日だまり冬すみれ  一木文子  二三点

○ 野遊びやどの児の声も翼もつ   大町 道   二〇点

○ ハモニカのラ音が不調青き踏む  石川和子  一八点

○ 下萌や終生解けぬ農の枷      富田昌宏  一七点

○ 川風もかくし味なり炉辺のあゆ   木村山女  一六点

○ 芹を摘む水美しき国に住み     黒川静子  一六点

○ 売れぬ山からたつぶりと杉花粉  最東 峰   一六点

○ 大空に記憶の道あり燕来る     倉持太一  一六点 

⑳「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その三)                     


○天安門掃かれてありし十三夜(黒田杏子)                     


石田の「栃木俳句会・月々のことば」は、この句より始まる。そして、それは、昭和六十三年三月のことであった。石田と黒田との作句姿勢は、百八十度相違するといえるでろう。石田は、前の鈴木六林男らのそれに近いであろうし、そして、黒田のそれは、その六林男らとは最も離れた位置で句作りをしているということになろう。  

いわば、「芭蕉曼陀羅」の世界でいえば、石田・鈴木は、「不易流行」のその「流行」(刻々の変化の兆し)に重きを置き、そして、黒田は「不易」(変わらざるもの)に重きを置いているといえるし、そして、それだけの距離があるということになろう。     

例えば、黒田と同じ「天安門」でも、石田は、次のような問題意識を持っているのである。

「『いま天安門流血事件の俳句詠出の可否について朝日新聞の日曜版を賑わしており、稲畑汀子、上田五千石両氏の否定論、川名大氏の賛成論、金子兜太氏の中間論で幕が引かれようとしているが、ここに一人、熱血の叫びをあげるのは西川撤郎氏である。『私(注・西川撤郎)は、すなわちこの詩型を以て絶叫する死者と生者の(広場)・・・人生という名の苦闘の現場へ直参したい。今も正しく流血し続けて止むことのない、この苦悩と現身とを根拠として何処までも書き続けてゆこう。(略) 果してあなたは、引き裂かれた死者と生者の眼の中の(広場)を未だ花鳥の美意識を以て散策しようとするのであろうか。』              

この俳壇のアウトロー西川撤郎の叫びに、私(注・石田)は耳を傾けざるを得ない心情に在る」(平成元・一〇)。         

かって、「社会性俳句」を経験した者、そして、現に「社会性俳句」に関心がある者は、この西川撤郎の主張に、石田と同じように耳を傾けるであろう。しかし、アンチ「社会性俳句」の人達は、この西川撤郎の叫びに完全に無関心を装うであろう。そして、黒田は、この後者の立場を選択するのではなかろうか。そして、それは、決して、西川撤郎のいうように、黒田は「花鳥の美意識を以て散策しようとしている」ためなのではなく、黒田の私性(自然讃歌・人間讃歌)と詩性(感性的な詩心)とが、「人生という名の苦闘の現場へ直参したい」という衝動を抑え、そして、いわゆる「社会性俳句」的発想が、その黒田にとっては、五七五のリズムになって出てこないということなのであろう。   
 そして、このような黒田らの作句姿勢について、西川撤郎らは、「自分が生を置いている、この社会という現実」を直視していないという批判をすることは、かっての「社会性俳句」をめぐっての論議と軌を一にするものがあろう。                

それ以上に、かって、桑原武夫が、その「第二芸術論」に関連して、「芭蕉は世外的・隠遁的な風雅の道とつながりがあり、それが民主化を妨げる」(『俳文学大辞典』)としたという指摘をも思い起こさせる。     

これまた、黒田杏子俳句の来し方と行く末を見据えながら、これらの「芭蕉曼陀羅」ををめぐるミステリーに想いをめぐらすことも、俳諧(連句・俳句・川柳)に興味の抱いている者にとって、避けては通れないことなのかも知れない。              

それにしても、栃木俳壇にとっては、かっての平畑静塔に続いて、さらに、この黒田杏子を擁しているということは、大変に幸せなことなのだということも付記する必要があろう。                                      


21「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その四)                     


○涅槃図の中より出でて去る思ひ(平畑静塔)                     


「掲句は『鉾』主宰の山口超心鬼氏が『竹柏』の中から感銘句としてあげた一句である。作者自身を、涅槃図の中で嘆き悲しむ鳥獣の一員と見立てた俳諧味を高く賞揚していた。先生(注・平畑静塔)は『見立て俳句』の名手であるが、この句の面白さを表面化した従来の比喩とは違って、遠い眼差しの感じられる言葉のあっせんで、生きることの悲しみが惻と感じられる」(平成七・七)。    


かって、下野新聞(平成八・二・六)で、岡本勇の「長いこと平畑静塔、手塚七木の両先生に学んで参りました。そして『静塔愛』の琴線に触れることができ、また七木俳句からは『美の世界』に趙遙(ちょうよう)させていただきました。そして今、杏子(注・黒田杏子)先生のまだ見えざる俳句には、端緒を開いたばかりであります」という一文に接したことがある。             

たしかに、静塔の戦前の『月下の俘虜』から今日の『竹柏』までの、永いその俳句人生において、終始一貫して静塔俳句を支えていたものは、確かに「(人間)愛」だったのかも知れない。そして、それは、静塔らが山口誓子を抱いて「天狼」で一時期展開した「根源俳句」というものとだぶらせた場合、「作句する根源において『愛』を置く」ということになるのかも知れない。              

そして、静塔俳句が「愛」を秘めたものとして、七木俳句は「美」を秘めたものであろうか。このことについては、先ほど、西川撤郎の「花鳥の美意識を以て散策しようとしている」という言葉を思う時、その「美」という言葉は避けたいような衝動を覚える。   

とすれば、七木俳句は「詩眼」を秘めているという言葉が相応しいかも知れない。静塔俳句は、「作句する根源において『愛』を置き」、そして、七木俳句は、「作句する眼に『詩眼』が宿っている」と、このように、先ほどの岡本勇の言葉を置き代えた時、つくづくと、両者の、永い永い俳句人生が眼前に拡がってくるのを覚えるのである。そして、岡本勇が「黒田杏子のまだ見えざる俳句」という言葉に接する時、「杏子俳句の究極は『人間肯定の俳句』」という言葉を呈したくなる衝動を覚えるのである。    

これまた、静塔・七木、そして、さまざまな、栃木俳壇の面々の俳句の来し方と行く末を見据えながら、これまでの、さまざまなミステリーに思いを馳せる時、これこそが、即、「芭蕉曼陀羅」のミステリーかと、その堂々巡りの原点にいる自分を思い知るのであった。ここは、ともかく、この原点を確認したことを以て良しとして、何時の日か、これらの「芭蕉曼陀羅」のミステリーに挑戦する日々を心に秘めることといたしたい。                        


22「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その五)                     


○やませ来るいたちのやうにしなやかに   (佐藤鬼房) 


この佐藤鬼房の句について、石田は「東北という、辺境という、蝦夷の末裔という、彼(注・佐藤鬼房)の精神世界を育んできた反骨・反逆の意識が、東北の風土に根ざし、そこに生きる人間風景を照準とし、ひいては歴史的風土をみずからの視座に取り込み、重層で強靱な精神世界を確立したのである」という賛辞を呈している(平成五・五)。   

○熊食えと押しつけがましからざるや    (茨木和生) 


この茨木和生の句について、石田は「掲出の作品は奇想天外、しかもこれが絵空事でなく鮮烈な臨場感を漂わせている。痛快極まる作品といえよう。繊細にまとめられた作品の氾濫する現在、したたかで野太い和生俳句の希少性は高く評価されるべきではなかろうか」との評を下している(平成四・一)。  

○椿の花いきなり数を廃棄せり       (安井浩司)


 この安井浩司の句について、石田は、豊口陽子の次のような評を引用しながら、その豊口の「おそらく二十一世紀の俳句は安井浩司を基盤として始まるだろう」という展望を、ある期待感を持ちながら、その展開に注目をし続けるのである。        

「私(注・豊口陽子)はただ安井浩司の難解性の中に無抵抗なかたちで身を委ねてきた。それは、よくわからないながらも安井浩司の作品の中に何か魂を慰め、鎮め、あるいは発揚させるものを感じ取ったからにほかならない。海におぼれたとき、もがけば沈むが、水に身を委ねると浮くことができるように、私は安井浩司の難解といわれる海に身を委ねつ

つ、少しずつ見えてくるものを感じる」(平成七・八)。

 これらの、老練な佐藤鬼房らの世界も、そして、新進気鋭の茨木和生や安井浩司らの世界も、もう、何故か、先ほどの「芭蕉曼陀羅」のミステリーの、その堂々巡りの一つのように思えてきて、これ以上続けることは、苦痛にさえ思えるようになってきた。しかし、その苦痛を抑えながら、ここで、一つだけ言及しておかなくてはならないことがあろう。                

 例えば、佐藤鬼房らの「風土性に根ざした人間諷詠的なもの」の、この「人間諷詠」ということは、いわゆる「俳句」とは別世界を構成している「川柳」の世界で、最も、重点的に、その句材としてきたものであった。鬼房は、最も「川柳」とは遠い距離にあるような俳人に思われがちであるが、若手の「川柳」作家達は、この鬼房の世界から、数多くの成果品を吸収すべき未曾有の隠れ遺産が埋蔵しているように思えるのである。    

そして、そのことは、「月の夜へけものを放ち深く眠る(大西泰世)」らの若手の川柳作家らの句に、冒頭の鬼房の「反骨・反逆」の匂いが秘められており、鬼房を知ることによって、更に、それらは強靱なものとなるように思えるてならないのである。

 これと同じように、新進気鋭の茨木和生や安井浩司の俳句作家は、それが、「奇想天外な野趣味」といい、「難解極まりない呪術性俳句」といい、例えば、新興川柳運動の闘士・田中五郎八などの、「欠伸したその瞬間が宇宙です」の、この痛快極まりのない「生命の果ての一瞬」の「ユーモラス」なような把握の仕方を身につけたら、どんな未知なる世界が開けるものかと、そんな無い物ねだりをしたい願望にとらわれているのである。即ち、「俳句は川柳」を、「川柳は俳句」を、今こそ学ぶ時が来たのではなかろうかという思いがするのである。     

 そして、その俳句と川柳との生みの親の「連句」の興隆も確かなものとなってきた今日にあって、「連句・俳句・川柳」の、この三つの短詩型文学の切磋琢磨の時代こそ、来るべき、二十一世紀における、それらの未来像であるという予感がするのである。     


石田の「栃木俳句会・月々のことば」には、即ち、その昭和六十三年から平成七年までの十年間の石田の軌跡において、「連句」に関しての記述は見られるが、こと、「川柳」に関しての記述は見られない。いや、一か所次のような記述が見られる。「時実新子氏の言葉を借りれば『俳句ってこんなにシーンと、ただシーンとするだけで、心が波立たないものなのか』」(平成三・二)。                   


この時実新子は、今、川柳界で最も一般の人に知られている女流柳人の名であろう。  このささやかな「さまざまなミステリー」の最後にあって、そして、この「芭蕉曼陀羅のミステリー」の最後ににあって、この「俳句ってこんなにシーンと、ただシーンとするだけで、心が波立たないものなのか」という、その時実新子の言葉を最後にして、ひとまず了とすることといたしたい。

註 初出は、「石田よし宏『鷹』十一年」については、「鬼怒」平成三年六・八・九月号。

そして、「栃木俳句会・月々のことば」については、ホームページ「南郷庵通信」に登載していたものを改訂して、それを一つの稿とした。

⑯ 「類想句」・「類句」などをめぐる謎

  

「朝日新聞の『俳壇時評』に稲畑汀子氏が『他人のアイディアをもらって出来た俳句は自分の作品とは言えない』と述べている。掲句(注・「長いものにまかれ着ぶくれゐたりけり(石原八束)」は、最近出版された石原八束句集『幻生花』の一句であるが、『長いものにまかれる』という比喩は、既に一般に使われており、八束氏が独自に開拓した言葉ではない。だから汀子氏の言を借りれば、この句は八束氏の作品ではないということになる。八束氏は、この程度の借用なら許されると判断したに違いない。あるいはそのような意識もなく一句を成したのかもしれぬ」(平成六・一〇)。              


この種の、「類想句」・「類句」などをめぐるものが、何箇所(平成六・九、平成六・一一)か目にする。このことは、選句を担当している俳人が、いかに、「類想句」・「類句」・「盗句」などに神経を尖らせているかを物語るものであろう。                 

これらのことに関して、前の、「集団創作」と「個人創作」とをめぐる謎のところで見てきたとおり、古歌の一部を取り入れ余情を豊かにする「本歌取り」というのは、日本の文学史上、その有効な修辞法の一つとして認められたものであり、非難されるべき何ものでもなかった。そして、芭蕉の蕉門の俳諧(連句・発句)では、その『去来抄』などで、「本歌を一段すり上げ」ること、即ち、「本歌以上の働きを発揮すべきこと」が強調されていた。  


○道のべの清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ(西行) 

○道のべの木槿は馬にくはれけり(芭蕉) 

○道ばたの木槿は馬にくはれけり     

○道の端の木槿は馬にくはれけり      


この芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」の「道のべの」は、「道ばたの」でもなく「道の端の」でもなく、この「道のべの」ということになると、これは、西行の、遊行柳での「道のべの清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の「本歌取り」ということになろう。そして、間違いなく、芭蕉のこの俳趣の世界は、西行のその和歌的世界と異質の世界を詠出しており、即ち、「本歌を一段すり上げ」ていることは一目瞭然であろう。ここで、「類想句(同巣)」とは、「作句の発想が類似している句」のことで、「類句(等類)」とは、「類想句が特にどの句と限らないのに対して、類句の場合は特定の句との類似に力点を置く」もので、「道ばたの」とか「道の端の」の句は、「類想句」ではなく、「類句」そのものということになろう。 そして、「盗作」とは、「他人の作品の一部または全部を自分の作品として発表することで、「道ばたの」とか「道の端の」の句を、自分の作として公表したら、それは「盗作」として、相手にされないことであろう。  

さて、冒頭の石原八束の「長いものにまかれ着ぶくれゐたりけり」は、「本歌取り」という「歌」からの連想ではなく、「長いものには巻かれろ」という「故事・諺」からの連想で「本説(ほんぜつ)取り」と呼ばれるものであろう。               

そして、この八束の句は、見事に「本説を一段すり上げ」ており、堂々とした俳趣のある一句ということになろう。        

また、冒頭の稲畑汀子の「他人のアイディアをもらって出来た俳句は自分の作品とは言えない」というのは、前の子規やラファエル・ベアマンと同じように、西洋的な個人主義的な文学観に基づくものであって、芭蕉以来の集団主義的文学観の、集団の相互の連想性=(共同的)創作という分野を大切にする俳諧の伝統を否定するものであって、伝統俳諧(俳句)を大切にする汀子の発言とは、とても思えない発言に思われてくる。      

やや、極論ではあるが、発想法のオズボーンのブレーン・ストーミング(頭脳の嵐)のように、「他人のアイディアに便乗しろ(他人の考えに誘発されて、いろいろと連想しろ)」ということは、「俳諧(連句・俳句・川柳)」の世界において、非常に重要なことと思われるのである。            

やはり、「集団創作」と「個人創作」とをめぐる謎と関連して、「類想句」・「類句」などをめぐるミステリーの検討も、非常に大切なことなのだということも指摘しておく必要があろう。                                  


⑰「類想句」と「新しみ」をめぐる謎                        


「類句を避け新鮮味を追えば、同じ土俵にのれないという淋しさ・しかも共通軸を設定した時点で後退が始まるのだという恐れ・それでも多様な俳歴の人間が同じ土俵で、がじゃがじゃやりたいとなれば、それらの不安や淋しさそのものを共通軸に再出発するほかない」(平成六・五)            

これは、現代俳句協会「青年部通信(一七号)」の平田栄一の「軸のない不安から」の中の一文ということである。ここの「類句を避け」は、厳密にいえば、「類句・類想句を避け」ということになり、どちらかといえば、「類想句」にウエートがある表現といえよう。「類想句」というのは、その発想が「総じて常套的・共通的・没個性的」などと同意義であり、「陳腐・二番煎じ・古くささ」などを感じさせる句のことである。       

この「類想句」の反意語が「新しみ」で、巧みな言語表現を身上とする俳諧(連句・俳句・川柳)にとって一番大切なものの一つである。芭蕉は、「此道(注・俳諧)は心・辞共に新味を以て命とす」(去来「不玉宛て」書簡)とまで断言したという(『俳文学大辞典』)。                   

この「新しみ」についても、石田は随所で触れており(平成元・八など)、石田ほどあからさまに「新を求める心」をその俳句信条の第一にしている俳人も希有とも思えるほどなのである。そして、その「新しみ」を希求すれば希求するほど、平田栄一のいうとおり「同じ土俵にのれないという淋しさ」を味わい、そして、それを逃れるために、「共通軸」を希求しょうとすれば、それまた、「後退が始まる」というジレンマが、常に、俳人にはつきまとうのである。即ち、「新しみ」を希求することも地獄の苦しみであり、「共通軸」を希求して、その結果「類想句」に堕してしまうことも、これまた、地獄の苦しみなのである。そして、同じ地獄の苦しみを味わうならば、創造的な「新しみ」の世界を目指すことこそ、俳人の取るべき道であろう。            

『三冊子』には、芭蕉の姿勢が鮮明に描かれている。               

「新しみは俳諧の花也。古きは花なくて木立ものふりたる心地せらる。亡師(注・芭蕉)つねに願ひに痩たまふも、此新しみの匂ひ也。その端を見知れる人を悦(よろこび)て、われも人も責められし(注・風雅の誠を追求する)也。新しみはつねにせむるがゆゑに一歩自然にすゝむ地より顕はるゝ(注・俳風は一歩も渋滞することなく、常に新しみを保つこととなる)也」。            

その芭蕉の、「風雅の誠を責めている」その姿は、次のような俳風と変遷となって現れる。                  


○岩つつじ染むる涙やほとぎ朱(す) 〔(貞門期)縁語、掛詞等の技巧による句作り。〕                ○阿蘭陀(おらんだ)も花に来にけり馬に鞍〔(談林期)奇抜な見立てを得意とする古典      

などのバロデイー的な句作り。〕                

○芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 〔(天和期)漢詩文を基調とし脱俗陰閑的境 地の句作り。〕            

○古池や蛙飛び込む水の音 〔(貞享期)漢詩文的基調を脱し和歌的伝統 を踏まえ俳趣味のある句作り。〕    

○夏草や兵どもが夢の跡 〔(猿蓑期)漂泊の歌枕巡礼の旅をとおして「不易流行」の思想を得て自然と人生の一 元的感合の絶唱としての句作り。〕   

○此秋は何で年寄る雲に鳥 〔(軽み期)あらゆる心の意匠を訣別し人生 の哀感を淡々とした日常的表現に託した句作り。〕                


ことほど左様に、芭蕉ほど「新しみ」を希求した俳人は、芭蕉の前にも、その後にも絶無なのである。それが故に、全ての俳諧(連句・俳句・川柳)の形相は、この芭蕉の足跡を探ることによって感知される。まさに、芭蕉曼陀羅の世界なのである。        

平田栄一が「軸のない不安から」と独白する時、それは、そのまま、ある時の、芭蕉の残映なのである。

全ての俳諧(連句・俳句・川柳)に携わる者は、すべからく、この芭蕉曼陀羅の世界、即ち、芭蕉曼陀羅のミステリーに挑戦を強いられているのである。                              


⑱「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その一)                      


「夏石番矢氏から届いた演題が『アニミズムという背骨』。早速『カタカナ語の事典』を開いた。アニミズムとは『自然界のあらゆる事物に霊魂があると信ずること』とある。ただこれが我らの俳句とどういう関わりがあるのか、分からない。番矢氏にサブタイトルを求めて電話を入れたところ『より大きな伝統を求めて』というタイトルを頂いて、これなら分かる」。「戦後五十年とか正岡子規の俳句革新百年とか松尾芭蕉の奥の細道三百年とか、そういう俳句歳時記的な時間帯で考えるのではなく、縄文時代からの文化伝統を基礎にして、二十一世紀につながる俳句という姿で見直すべきでないかとの論旨である」(以上、平成七・九)。                 


この夏石番矢については、かの『俳文学大辞典』の中には、この夏石番矢の四字を見ることはできない。このことは、この大辞典を刊行した角川書店の前社長で俳人の角川春樹と反りがあわず、それで漏れてしまったのかも知れない。

 いや、それ以上に、夏石番矢は、この『俳文学大辞典』の、それこそ「俳諧という背骨』ともいうべき、松尾芭蕉の世界、即ち、「芭蕉曼陀羅」という世界を認知しておらず、それに代わるものとして「アニミズム俳諧曼陀羅」という世界を提唱しており、かの『俳文学大辞典』には馴染まない俳人として排斥されたのかも知れない。しかし、夏石番矢ほど、くそみそに排斥される一方、熱烈に歓迎されるている、若干四十歳代の新進気鋭の俳人(俳句実作家で俳句理論家)も見当たらないのである。     

 これは、何か理由があるのだろうか。これは、まさしく、前の「俳諧・俳句の新しみ」をめぐる謎と関係し、もし、本当に、「俳諧・俳句の新しみ」を希求するならば、それは、松尾芭蕉の世界、即ち、「芭蕉曼陀羅」という世界とは、別次元の世界での創作活動こそ望まれるべきものなのであろう。     

そして、そういう、夏石番矢的な、脱「芭蕉曼陀羅」、そして、同時に、夏石番矢的「アニミズム俳諧曼陀羅」という世界の樹立が可能なのかどうか、この壮大な試行が、成功するものなのかどうか、はたまた、セルバンテスのドンキホーテのように、茶番劇に終わってしまうものなのかどうか、これは、いまだ、その試行の途上であり、もう、しばらくその経過を見る必要があるのかも知れない。しかし、石田が掲出句(平成七・九)で挙げている「東方の虚空を思量できるか大杉」程度のものであれば、これは、やはり「芭蕉曼陀羅」の世界のものという印象なのであるが、同じ句集『巨石巨木学』でも、石田の、次のような掲出句(平成四・三)になると、夏石番矢的「アニミズム俳諧曼陀羅」という感じもしないでもないのである。  

○知彗桜黄金諸根轟轟悦予        

○花の窟に滅相もなき赤ん坊       

○襷石悉皆雲集極楽国士         

○榧の木不動わが影武者を消したまえ    


また、「アニミズムという背骨」あるいは「大きな伝統を求めて」というタイトルも、実に、脱「芭蕉曼陀羅」ということからして、的確なタイトルであり、前の、「アニミズム俳諧曼陀羅」と併せ、今後の、夏石番矢の動向には、格別の注目が必要になると思われる。即ち、「芭蕉曼陀羅」ををめぐるミステリーに対する、果敢な一つの挑戦を、来るべき二十一世紀を目指して、夏石番矢が試行していることに対して、大いなる拍手をおくりたいのである。     
                    

⑲「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その二)                     


○対岸に芦刈るは元狙撃兵(鈴木六林男)                      


この鈴木六林男の句について、石田は次のような鑑賞文を寄せている。       

「『狙撃兵』とは、敵の指揮官や重火器の射手など重要目標を撃つため特に訓練され、研ぎ澄まされた神経と鋼鉄のような肉体が要求される非人間的な、ただならぬ存在である。その狙撃兵が、戦争のなくなった今はただ黙々と芦を刈っているというのだ。しかも見事なのは『対岸』という『場』の設定である。鈴木六林男にとって『狙撃兵』は永遠に『対岸』にあらねばならぬ向う側の存在なのであった。在るべき自然を破壊して止まぬ人間の業の巨大さを思うとき、私もこの『対岸』の持つ重要な意味を認識せねばならぬ必然に迫られているように思った」(平成七・三)。 

西東三鬼の弟子筋にもあたる鈴木六林男は、夏石番矢とは違って、『俳文学大辞典』にその名を見ることができる。そこでは、「句は戦争と愛を主題とする」とある。六林男は、「戦争と愛」を主題とするというよりも、戦争や諸々の社会事象の矛盾やそこに生きる人々をその人々の立場で見据えた「社会性俳句」の旗手という名が、より妥当するとも思われる。「社会性俳句」とは、戦後一斉を風靡したもので、その説明としては、沢木欣一の「社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から産まれる俳句を中心にする」(『俳文学大辞典』)で十分であろう。        

この六林男らの「社会性俳句」は、桑原武夫に「第二芸術論」とこき下ろされた「俳諧(特に、俳句)」についての、思想的・社会的無自覚の態度を改めさせ、その対象を拡充させたという大きな役割を果たしたのであった。しかし、その「社会性俳句」というのは、芭蕉以来の俳諧の世界を否定するものではなく、沢木欣一のいう「広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句」の名称であって、それはいわば、「芭蕉曼陀羅」の世界の「不易流行」の、その「流行」(刻々の変化の兆し)の一態様とも取れるものであろう。      

そして、その六林男らの俳句姿勢は、先ほどの夏石番矢らのように、核弾頭で「芭蕉曼陀羅」そのものを破壊しようとするものではなく、それは、いわば、「対岸に芦刈るは元狙撃兵」のように、狙撃銃をもって、「芭蕉曼陀羅」の一画像を狙撃するようなものととらえることができよう。          

例えば、六林男の「栃木にいたぞうれしい酒焼日焼け顔」(平成三・一〇)などは、芭蕉俳諧以来の典型的な挨拶句として理解できるものであろう。また、「鶏頭や子規想いあと銀行へ」(平成三・八)などは、現在の六林男の「日常詠」そのものであろう。これらの六林男の俳句を見ながら、戦後、若手俳人達を虜にした「社会性俳句」の「社会主義的イデオロギー」というものが希薄になった今日、『俳文学大辞典』の和田悟朗の解説のとおり「六林男俳句は戦争と愛を主題とする」という、個別なテーマへの移行が認められるのであろうか。          

これらの六林男俳句の来し方と行く末を見据えながら、「芭蕉曼陀羅」ををめぐるミステリーに思いをめぐらすことも、これまた、無上の一興ということであろう。