虚子の亡霊(四十)

昭和二十一年(1946

一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。

二月 「祖谷」創刊。

五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。

六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。

八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。

十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。

十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

「俳句第二芸術論」(その一)

 上記の年譜を見ると、日本俳壇も戦後一新して、もはや「虚子の時代」は終焉したような思いにとらわれる。「春燈」は「人事諷詠」派ともいうべき久保田万太郎の主宰誌、「浜」は臼田亜浪系の大野林火の主宰誌、そして、「風」は戦後の社会性俳句の牙城となった沢木欣一らの主宰誌と、ぞくぞくと虚子の「ホトトギス」系でない俳誌 が誕生してくる。ホトトギス系は、松本たかしの「笛」、皆吉爽雨の「祖谷」、中村草田男の「萬緑」、村上杏史の「柿」であるが、草田男の「萬緑」などは、もはや、虚子の視野外のものといえるであろう。それよりも何よりも、「新俳句人連盟」は、時の戦後の「平和と民主主義」の風潮下にあって、かっての新興俳句やプロレタリア俳句を標榜したアンチ虚子・「ホトトギス」の俳句集団、そして、「俳句人」はその機関誌である。時に、虚子は七十二歳、小諸に疎開していて、九月に「玉藻」を復刊して、軸足を「ホトトギス」より「玉藻」に移していた。こういう時に、桑原武夫の「第二芸術・現代俳句について」(「世界」)が世に問われ、虚子をはじめとするいわゆる日本俳壇を代表する俳人達の「主宰誌・結社・家元俳句」などの実体を晒して、あまつさえ文学・芸術の足を引っ張る「主宰誌・結社・家元俳句」などの社会的悪影響を厳しく指弾したものといえよう。

 桑原武夫が取り上げたその日本俳壇を代表する俳人達とは、「阿波野青畝・中村草田男・日野草城・富安風生・荻原井泉水・飯田蛇笏・松本たかし・臼田亜浪・高浜虚子・水原秋桜子」の面々である。この十名の俳人達は、「井泉水・臼田亜浪」の二人を除いて(この二人も虚子と深い関わりはあるが)、その全てが、虚子そして「ホトトギス」門の俳人達で、いかに、明治・大正・昭和(特に戦前)の俳壇が、「虚子・ホトトギスの時代」であったかということが浮き彫りになってくる。

 この桑原の論稿には、「この十名の選択は、たとえば誓子を落しているように、妥当をかくかもしれぬが、手許にある材料でしたことゆえ諒せられたい。なお現代俳句の新しい試みとして、誓子、秋桜子らの「連作」形式があるが、考えるひまももたなかった」との付記が施されている。この山口誓子も虚子・「ホトトギス」門であり、いわゆる「四S」の、「秋桜子・草田男・誓子・素十」の、その「素十」こと高野素十だけがその名がないが、この論稿の結びのところに、その素十の影すら窺い知れるのである。ここの結びのところは、実に、論旨明快のところで、この論稿の出だしの「うちの子供が国民学校(戦時中の小学校)で」ということと対応しての、いはば、この論稿の全体の結論ともいうべきところなのである。ここを掲載すると下記のとおりである。

「そこで、私の希望するところは、成年者が俳句をたしなむのはもとより自由として、国民学校、中学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい、ということである。俳句の自然観察を何か自然科学への手引きのごとく考えている人もあるが、それは近代科学の性格を全く知らないからである。自然または人間社会にひそむ法則性のごときものを忘れ、これをただスナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはないのである。」

 この「スナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神」とは、秋桜子の「自然の真と文芸上の真」の「自然の真」を標榜していると指摘された、その代表格の素十の、いわゆる、スナップ・ショット的「草の芽俳句・抹消俳句」への批判と取れなくもないのである。こうして見てくると、この戦後間もなく書かれた、この桑原の論稿は、当時の日本俳壇全体の警鐘であると同時に、その中心に位置するところの、高浜虚子とその「ホトトギス」とを標的としての、一大警鐘であったとも取れなくはないのである。しかし、この桑原のセンセーショナルな警鐘に、日本俳壇の当時の伝統派も革新派も騒然となるのであるが、その中心・中核に位置するところ虚子は、「『第二芸術』

といわれて俳人たちは憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところが、十八級特進したんだから結構じゃないか」と平然としていたというのである(桑原武夫『第二芸術』所収「まえがき」)。それを聞いて、桑原は、「戦争中、文学報告会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った」と記している(桑原・前掲書)。

 後に、桑原は、昭和五十四年四月号の『俳句』(角川書店)に「虚子についての断片二つ」という題で、「アーティストなどという感じではない。ただ好悪を越えて無視できない客観物として実に大きい。菊池寛は大事業家だが、虚子の前では小さく見えるのではないか。岸信介を連想した方がまだしも近いかも知れない。この政治家は好きな点は一つもないが」と書いているとのことである(中田雅敏著『人と文学 高浜虚子』)。この桑原の指摘は、その「俳句第二芸術論」も論旨明快であるが、実に、「虚子その人」を的確にとらえているものと、改めて、その批評眼の鋭さを思い知ったのである。あの、伝記物を書かせたは無類の上手の田辺聖子すら、その『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)で、「虚子韜晦(とうかい)」と、その正体をつかむことのできなかった「虚子その人」を、A級戦犯でありながら戦後に総理大臣まで上り詰めた「岸信介を連想した方がまだしも近い」というのは、けだし、桑原の明言であろう。

 これが、日本俳壇の名物俳人の一人として今に名が馳せている西東三鬼に至ると、その桑原の論稿の反駁書で「現代俳句の大家といはれる人達は鋼鉄製の心臓の所有者で、全く芸術的良心など不必要な人達である、私はこの点で桑原氏の前に頭を垂れて恥ぢる」との、これまた明言を残しているという(松井利彦著『近代俳論史』所収「第二芸術論への反駁」)。この「鋼鉄製の心臓の所有者」とは、上記の十名の日本を代表する俳人達のなかで、ただ一人、高浜虚子に捧げられるものなのではなかろうか。とにもかくにも、この三鬼の、「現代俳句の大家といはれる人達は鋼鉄製の心臓の所有者で、全く芸術的良心など不必要な人達である」という指摘には、桑原の「俳句第二芸術論」以上に、センセーショナルなる警鐘として受けとめたい。