虚子の亡霊(三十八)

ホトトギス百年史

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和十一年(1936

二月 「熱帯季題小論」虚子(東京日日新聞)。虚子渡欧。西山白雲南方の地名を季題とすることに反対。

四月 虚子ベルリン日本学会で「何故日本人は俳句を作るか」講演。

五月 倫敦PENクラブにて講演。パリでフランス俳諧派と懇談。

八月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)。

十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。

十一月 虚子『句日記』刊(改造社)。「外国の俳句」欄開始。草田男句集『長子』刊。

十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)

(杉田久女その七)

 上記の年譜を見ると、「十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」とあるが、この「除名」の表現は、正確には「削除」が正しいようなのである。そして、その一ヶ月後に、「草田男句集『長子』刊」とある。「ホトトギス」からは、関西の代表格の草城、九州の代表格の禅寺洞、そして、女性俳人の代表格の久女の、この三名の名は削除されたが、それに代わるべき、次の世代の中村草田男らが華々しくデビューしてくるのである。虚子は、何かを変革するときには、必ずや、新陳代謝の、新しい俳人達をデビューさせている。碧梧桐との対立の時代には、蛇笏・鬼城らの「ホトトギス第一期黄金時代」を飾る俳人達、そして、名実共に、自分が育成した俳人達を主役とするときには、蛇笏・鬼城らに代わって、「ホトトギス第二期黄金時代」の秋桜子・素十らの、いわゆる「四S」といわれている俳人達のデビューである。そして、その「四S」のうちの、秋桜子・誓子の去った後、「草城・禅寺洞・久女」をも放逐して、次の世代の「茅舎・たかし・草田男・立子・汀女」らの新しい面々を登場させているのである。上記の、「十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)」なども、そういった、当時の虚子の深慮遠謀の一端を覗かせるものであろう。ここで、『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「ホトトギス同人削除」の全文を掲載しておきたい。ここに、上記の「十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」の、その真相の全てが隠されているものと理解いたしたい。

『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「ホトトギス同人削除」

虚子の帰朝後ほどなく、「ホトトギス」昭和十一年十月号に、同人変更として「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除し、浅井啼魚、滝本水鳴両君を加ふ」という一頁大の社告が出された。「ホトトギス」は十月号から翌年の九月号までが一巻となっていて、十月は巻の改まる時である。毎年新機軸が出されるのだが、このような社告が出ることは誰も予測していなかったであろう。そのとき「俳句研究」の編集をしていた山本健吉(石橋貞吉)も「あっと驚いた」という突然の除名であった。久女にとって青天の霹靂の処置であった。久女はこのとき四十六歳。

 この社告の「除名」ではなく「削除」という語は、虚子の小説「柿二つ」のなかの一文を思い出させる。すなわち、Kこと虚子が母の病気のために当時在籍していた新聞社(万朝報)に「当分休む」とだけ手紙を書いて帰郷してしまった。やがて新聞社から、「記者席削除」の手紙を受け取った。虚子は退社させられたことに「余りいゝ気はしない」と感想をもらし、「退社を命ず」の代わりに「記者席削除」と通告されたことにこだわりを示し、「一寸変な気がした」と書いている。このときの不快感が虚子の心の奥底に潜んでいて、今度は虚子が三名をホトトギス同人から除名するにあたり、「削除」という文字の与える衝撃を意識しながら、この語を用いたのであろう。

 吉岡禅寺洞と日野草城の同人削除は、新興俳句の推進者であったことが理由とされている。禅寺洞が清原枴童らと創刊した「天の川」は、昭和初期まではホトトギス派の九州探題などといわれていたが、やがて禅寺洞は新興俳句運動に関心を示すようになり、昭和九年には「天の川」で無季俳句を容認することを表明した。草城は「俳句研究」昭和九年四月号で連作「ミヤコ・ホテル」で物議をかもし、昭和十年右には「旗艦」を主宰して、無季俳句を試みた。

 ふたりは「ホトトギス」の同人でありながら、虚子の提唱する花鳥諷詠とは対立する無季俳句を推進する革新派の騎士であった。「ホトトギス」は秋桜子の離脱で打撃を受け、さらに昭和十年五月には誓子も「ホトトギス」と袂を分かち「馬酔木」に移っていた。このような情勢のなかで虚子は、新興俳句に走る禅寺洞と草城を除名した、というのが大方の見方である。

 では虚子一筋に進んできた久女の除名の理由は、なんであったのか。虚子はその理由を明らかにしていないが、虚子の側から見た久女の自己顕示欲の強さ、虚子へのうるさいまでの傾倒、句集出版への執着、そこから発した「常軌を逸」した行動、さらには虚子から離反した秋桜子との交流などがまずあるだろう。また「花衣」の独創的な内容もあったかもしれない。そのような材料がそろって、久女は昭和十年九月から「ホトトギス」にまったく入選しないという状態になっていたことはすでに述べた。わざわざ同人削除までしなくても、久女はすでに事実上「ホトトギス」から締め出されていたのである。

 それにもかかわらず、あえて虚子は久女に最後通牒ともいうべき削除という衝撃を与えた。削除の決定的なきっかけは、そのタイミングからして蘇峰を介しての出版計画とかかわりがある、と私は考えずにはいられない。

 すでに見たように、虚子はかつて蘇峰の新聞社の社員であり、立子のことを頼みに行ってもいるのである。虚子の外遊中にいわば虚子の頭越しの出版を試みた久女は、まさに「斬つてしまへ」ということではなかったか。秋桜子の『葛飾』出版、「ホトトギス」離脱に対して示した虚子の不機嫌な態度からして、蘇峰を通しての句集出版の企てを知ったことが、久女除名をこの時期に断行した要因であったと私は思う。虚子のなかで積もりに積もった反感はここで沸点に達したのである。