虚子の亡霊(二十)
ホトトギス百年史
昭和九年(1934)
二月 虚子還暦、「還暦座談会」四月号に。
三月 改造社「俳句研究」創刊、四月号に草城「ミヤコ・ホテル」発表。
四月 新興俳句有季定型と無季定型に分裂。『高濱虚子全集』刊行開始(改造社・昭和十年三月までに全十二冊)。
九月 虚子「俳句の手ほどき」をJOAKで放送。
十一月 虚子編『新歳事記』刊(三省堂)。「桐の葉」創刊。
花鳥諷詠(その六)
「ホトトギス」初代主宰の高浜虚子のいう「花鳥諷詠」とは、三代目主宰稲畑汀子の言によると、「花鳥諷詠とは季題を詠うことである」ということになる(稲畑汀子著『俳句十二か月』)。ここにいう「季題」とは「季語」と同じ意味で、「俳句で句の季節を示すためによみこむように特に定められて詞(言葉)」(『広辞苑』)ということになろう。とすると、「俳句は花鳥諷詠(詩)である」とする、日本最大の俳句集団の「ホトトギス」においては、その「季題を詠う」ということから、必然的に、「季語・季題を分類して解説や例句をつけた書」の「歳時記」というものが、そのバイブル(聖典)ということになってくる。そして、虚子が、初めて、三省堂から、『新歳時記』を世に問うたのが、上記の年譜のとおり、昭和十一年十一月のことであった。時に、虚子は還暦の年である。それよりも、後に、「ホトトギス」を除名されることになる、当時の「ホトトギス」の若き俊秀であった、日野草城が、「三月 改造社『俳句研究』創刊、四月号に草城『ミヤコ・ホテル』発表」と、「日本俳壇に草城あり」を喧伝した年でもあった。さらに、上記の年譜を見ていくと、「四月 新興俳句有季定型と無季定型に分裂」と、まさに、「俳句に季語が必須である」とする「有季定型」派と「俳句に季語は必須要件ではない」とする「無季定型」派の対立抗争が激化する年でもあった。そして、日野草城は、「無季俳句」を容認する立場で、草城が「ホトトギス」を除名されるのは、「季語・季題を詠う」ことを「俳句」とする、「花鳥諷詠」の立場からして、当然の帰結でもあった。ここらへんのところを、『よみものホトトギス百年史』所収の、「『ホトトギス』と日野草城」(宇多喜代子稿)の一文は、誠に貴重な興味深い内容を含んでいる。ここに、その全文を掲載しておきたい。
「ホトトギス」と日野草城(宇多喜代子稿)
「ホトトギス」の創刊百年という俳誌歴は、部外のものにもただならぬ重みの実感をもたらす。
初学のころを石井露月をテキストにする系譜で過ごしたので、なにかにつけて高浜虚子が話題にあがっていた。その後、ゆきついた桂信子のところでも、桂信子の先生が日野草城、草城のもうひとつ上の先生が虚子ということで虚子のことがしばしば話に出てくる。俳句の世界というのはどこへ行っても辿ってゆけば高浜虚子に行き着くという実感は、いまに至るまで私から消えない。
さて、日野草城が関わりをもった「ホトトギス」とは、この百年のうちの大正七年から昭和十一年までの十八年間と、昭和三十年一月から翌年の一月までの計十九年間であった。間が抜けているのは、その間「ホトトギス」の同人を除籍されていたことによる。除籍の理由についてはさまざまの説がある。最近、俳文学者の復本一郎による、除籍は草城の志願によるものではなかったかという新しい説が出された(「草苑」三○七号)。たしかに草城はこれでもか、これでもかと大虚子を挑発する発言を繰り返している。
「周知のごとく、悲しいことには、今日の僕は先生とその主義主張を大いに異にしてゐる。僕の昨今の言説行動に就いては、恐らく先生の好意を期待することは出来ないであらう。今日先生が僕に冷淡であるのも尤もな次第である」(「俳句研究」昭和十一年七月号)
このようなことを書かれてはたしかに不愉快である。同年十一月号の「ホトトギス」 誌上に一頁を費やして 「同人変更」として「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除し、浅井啼魚、瀧本水鳴君を加ふ」と大きな活字で通告が出された。草城の発言が七月、虚子の措置が十一月、あきらかに「俳句研究」の発言直後の除籍措置だということがわかる。
除籍の前年に三十四歳の草城は「旗艦」という俳誌を創刊した。無季新興俳句という虚子のもっとも嫌悪する主張を掲げた俳誌である。草城の「ホトトギス」 初入選が十七歳、初巻頭が二十歳、現在の高校生から大学生の年である。今から見れば、主宰になった三十四歳という年齢にしても破格の若さである。「旗艦」に集まった青年たちの平均年齢が二十四歳だったのだから、現在とははなから比較にならない。ところが虚子はすでに還暦を過ぎた老境である。彼らと同じ位置の俳句が目に入る道理がない。ズレがあって当然である。
若い草城とその周辺は、時代の刺激を受けて新しい境地を開拓しようとさまざまのことを試承るが、これはこの時期に生まれ合わせた者の説かが引き受けなくてはならない役割だったのである。それを引き受ける役とは誰にでも出来るものではなく、それこそ「時代」の方がその役にふさわしい力と才の持ち主の現れるのを待っていたような人でなくてはならない。「ホトトギこ の草城除籍は、起こるべくして起こった「時代」の必要だったのだと思い至る。
若い力が大きな山をつついては噴火させ、新たな山をつくってゆくというかの時代の俳句のありようは、まことに健全であった。若者たちは当面の損得とか、結果の善し悪しを度外視して動いた。晩年、病床にあった草城は虚子の見舞いを受け、ホトトギス同人に復帰した。死を前にしてふたたび虚子の懐へ再度戻ることが出来たのは、かつての行為が健全であったからである。この時の虚子が八十一一歳、草城は五十四歳であった。
先 生 は ふ る さ と の 山 風 薫 る 草 城
二十年ぶりに会った先生虚子に対する草城の感慨の句である。昭和三十一年に草城が亡くなり、それから三年にして虚子が亡くなっている。「ホトトギス」 の百年には百年にふさわしい出来ごとが埋まっている。