この控えの間は、『戦いの間』から直接つながっている。質素といっていいほどのハプスブルク家の宮殿とはまるで違って、ブルボン家の宮殿は明るく豪華だ。

 

 いくつも部屋を通り抜けていくが、華麗なタペストリーで装飾されている。タペストリーは壁の断熱を兼ねた。

 

 後に宮廷画家になったゴヤも初めはタペストリーの下絵画家から出発した。

 

『ポンペイの間』

 当時ナポリ王カール3世の後援で発掘が進められていたポンペイ遺跡の装飾をもとにデザインされたので、この名で呼ばれるようになったという。

 

 

 

 『ポンペイの間』にも2つあったが、真中に置いてある道具は何だろう。冬はそうとう寒そうなので暖をとる火鉢だろうか?西洋で炭なんて使うのだろうか。普通に火を焚いたら綺麗なタペストリーが汚れてしまうだろうし。誰か教えて欲しいものだ。

 

 

 

 

 このあたりのタペストリーの原画はゴヤの画集で見たことがある。

 

『ダイニングルーム』

 

 大きなタペストリーが架かっているが、3人の原画を組み合わせたもので、写真ではちょっと分かりにくいが奥のほうがゴヤの原画によるもので『マンサレナス川岸のダンス』が使われている。

 

 この庭園に入りたかったが、残念ながら入れなかった。

 戦国時代(1584年)、キリシタン大名・大友宗麟などの名代としてやって来た天正遣欧少年使節団は、フェリペ2世に謁見し歓待を受け、完成したばかりのエル・エスコリアル修道院にも来たそうだが、これを見てどう思っただろう。

 

 

 

 たっぷりエル・エスコリアル修道院を堪能したのでお腹が空いた。近くのレストランで食事をした。パンに穴があいていて卵の黄身が見える。何か意味があるのかもしれないがクスッと笑えた。

 

 次はマドリッドに戻って『ティッセン・ボルネミッサ美術館』の長い美術館話になるかも?