天海僧正と徳川家光 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

                                                 天海僧正徳川家光

家光は秀忠の子ではない
ならば母は誰で父は誰なのか


現在、徳川史観では、三代将軍徳川家光は二代将軍秀忠の子だという事になっている。
しかし、家光は京伏見城で生まれたのが本当らしい。そして父も母も全く違い、そのため徳川家はこれから始祖家康の血脈が絶たれ、幻想の徳川史観が始まるのである。

家光が三代将軍になって京へ行った時、その際家光の感覚として、うすぼんやりとした勘ではあるが(自分が伏見城で産まれ、京が故郷であるらしい)という事は、どうも脂気ながら判っていたらしい。
もちろん土井利勝の他に、のち若州小浜の領主に昇進する酒井忠勝などを、そっと督励して、天海僧正の素性を洗わしていたので、その線からも、これは内密に割り出せたのかも知れないが。

家光はだから「懐郷」の念は強かったようである。だから家光は、二十歳の時に上洛した後も、何度も京へ行っている。
もちろん自分の出生の謎を探り出そうという、そんな悲願もあっての事であろうが、京を生まれた土地として愛し、「誰か故郷をおもわざる」という心境もあったらしい。
江戸から夥しい金銀をもっていっては、京の庶民に、これをくまなく配布している。なにしろ寛永十一年七月十一日の上洛の時などは、「銀十二万枚を京の町々へ軒なみに、みな公平にと下しおかれ、これ一戸あたりにては、百三十四匁八分二匣なり」という位の豪華さである。
現在の換算でゆくと、一軒あたり三万円強にもあたる。
 国家主権者というのは、いつの時代どこの国でも、彼らは人民から重税をまきあげるもので、家光のように自分からもっていって、それを配給するというのは珍らしい。
おそらく彼の体内の血の流れが、そうさせたのではあるまいか。俗間でいう「故郷に錦をかざる」という類でもあろうか。

さて、東京の山手線の池袋から東上線にのると、四十分で川越駅につく。そこからバスにのると「喜多院」の門前へ出る。大宮や浦和からも直通バスがある。
 ここが天海僧正の復興した昔の「仙波北院」で、現在の「川越大師の喜多院」なのである。
 元和二年に徳川家康が亡くなって、翌年その遺骨を駿河の久能山から日光へ移すとき、天海僧正は、この自分の寺に四日間もとどめて、大法要をいとなんだという。
 寛永十五年(一六三八)一月二十八日の川越大火のため、喜多院も厄にあって、山門、経蔵、鍠楼門、本堂(現在は上野寛永寺本堂)の他は灰塵にきした。
しかし春日局の命令によって、家光は、堀田加賀守正盛を工事奉行にして、新たに東照宮、多宝塔を新築させ、江戸城内の客殿や書院、庫裡なども、ここへ移した。

今日、徳川家康が江戸城を作った時の書院造りの建物で、現存している建築物はこれだけであるというので「国宝建造物」にこれらは指定されたこともある。
 前方後円式の古墳の上に、徳川家光の発願で建られたという開山堂は、別名を「慈眼堂」ともいい、家光が自分から天海僧正の像を刻ませ、それを、ここへ祀らせたものだという。
 そして家光の世子の四代将軍家綱は、寺領五百石のこの喜多院に、更に二百石の加増寄進までしている。
どうして天海僧正に、家光の子までが、そこまでの追慕の念を示さればならないのだろうか。
 なにしろ<徳川実紀><柳営婦女伝系><編年集成>など、あらゆる徳川資料では、

「寛永二十年九月十四日、春日局  歿
  同   十月一日  天海僧正 歿」


と半月はずらしてあるものの、まるで二人が手に手をとって死んでいったような記載をしている。
そして家光は、慶安元年四月には、天海僧正のために「慈眼大師」という謚号まで、朝廷に乞うている。
だから家光というのは、天海によって仏教に帰依していたのかというと、そうでもないらしいい。おかしなことになっている。

 仏徒と公家の連携を弾圧取締るため徳川家康が発布した「公家法度」にそむいて、当時の後水尾帝が、紫野の大徳寺や花園の妙心寺の僧侶に、
紫衣や上人号を勅許されたことを取調べる為に、元和九年に秀忠と共に上洛した時は、家光は三代将軍の宣下を受けただけで引きあげた。
だが三年後の寛永三年の六月二十日になると先に秀忠が上洛し、八月二日には家光も将軍職として京へゆき、それまで下賜されていた紫衣や上人号を一斉に取り上げ、無効であると厳しく弾圧している。
そして、文句をいったり抗議をした大徳寺の沢庵和尚らは出羽の月山などに流されてしまっている。
 
こうした処置をみると、徳川家光というのは、天海僧正だけは大切にしているが、他の坊主には冷たい。
もし仏教に入信しているものなら「坊主憎けりや、けさまで憎い」の反対で、天海以外の僧侶に対しても、もっと温かくあるべきで、これは、どうも信仰上というより、個人的なものとしか受けとれない。
寛永二十年(一六四三年)に春日局と天海僧正の二人は、半月遅れで互いに共に他界したようになっているから、時に天海は歿年百八歳という事になり、春日局より四十三歳の年長ということにされている。
 
しかし平均年齢の延びた現代でさえ、百歳以上の高齢者というのは僅かしかいない。先日他界したベネズエラの男性で114歳が最高である。
 そんな何十億分の一というような長寿者が、医学も進歩していなく、生活環境も恵まれていなかった十七世紀に、現実にいたとは想えない。
 つまり天海僧正の年齢というのは、これは「虚妄」以外の何ものでもない。
後世、「山崎合戦のあと叡山にて匿れ、秀吉の死後に下山せし明智光秀は、神君家康公の御憐愍により保護され、その名を南光坊(天海)と改めてお側近うに仕え、軍議その他のご相談ごとに預かり、世に黒衣の軍師ともいう。
だからこうした伝聞ももっともらしく流布されているのである。

三代将軍家光公におかせられても、春日局と南光坊を敬われ大切に遇せられるによって、寛永丁丑(一六三七)に島原に一揆起こりたるや、大久保彦左衛門は直ちにと登城し、
『このたびの征伐の討手の大将と目代は、春日局と南光坊が仰せつけられるものと覚えたり』と殿中大広間にて睹大名にいう。
耳するもの驚きて『戦さをしてゆくのに、その大将と軍さ目付が、女人や僧侶にては叶うまじ』と申せば、彦左衛門はからからとうち笑い
『かかる大事の際には、平素より格別のお扱いを蒙って居らぬ者にては、とても物の用に立ちうべしとも思われじ、されば、今日、上さまより大切に遇されているは、
この両名以外に天下には有らざればなり』と答えぬ」
といったような〈大久保物語〉の中にある記述からしても、
(光秀と天海は同一人物なり)という俗説が弘まった結果、明智光秀の年齢にも合致するように、天海僧正の歿年をつくったので、百八歳などという高年齢になったのであるまいか。
でなければ、「めでたやな、めでたやな、三浦の大介、百八つ」という、唱門師衆の「長寿延年隕」ぐらいにしか、日本では現れてこない百八歳という特定年齢が、とってつけたように天海につく筈もない。

 さて天海僧正によって再興され、慶長十六年十一月、徳川家康の命によって酒井備後守忠利が、四万八千坪の地に縄張して造営されたという、武州川越の仙波喜多院の客殿の奥まったところに、
 「無量寿殿」とよばれる「家光公生誕の間」が、今も現存している。

 天井や襖は一見しても判るように、京の二条城や昔の伏見城と同じように、枠型はりこみで彩色絵板である。
完全な京風建築のもので江戸前のものではない。喜多院の由来説明書では「江戸城紅葉山の別殿を移した」とあるが、これは京から運んできたものに間違いない。
 襖紙の絵は「狩野探幽」の筆とある。すると安土桃山時代のもので、やはり秀吉の頃の京のもので伏見城内からと見るべきであろう。
秀忠や家光が、古い絵をもって唐紙に仕立てたとは考えられぬし、それに襖には、襖寸法というのが決っている。掛軸の絵が気に入ったからといって、その絵をもってきて引き伸ばして唐紙に仕立てようとしても、それはできない寸法なのである。

 さて、この「伝教」という額が違い棚においてある家光誕生の聞の無量寿殿に向って、その左側に、極彩色の花鳥風月の絵が残っている衫板戸がある。
そして、その廊下の突き当りに問題の厠(かわや)があるのである。
まこと可笑しな話だが、山岡荘八の「徳川家康」の本がブームになる以前は、「家康公の厠」と説明の木板がでていたが、現在は「家光公の厠」と変っている。


この奇怪な変化に気付いて首を傾げた人も多かろうと思う。
江戸期の〈川越風物誌〉にも、「武州喜多院は古刹にて、神君家康公のおん指料の橘友成作るところの糸巻太刀など宝物殿にあり、又神君御使用と伝わる杉本竹箕の下厠などもあり」というのがある。
だから、家光が生まれた産室の脇に、家康公の厠がついていたのは、徳川三百年を通し明治、大正、昭和とその儘だったらしい。
しかし山岡荘八の家康ブーム後は、「家光は秀忠の子」と思う人が多くなったから、「家光の産室の側に秀忠の厠なら判るが……当時は駿府にいて、江戸にはいない家康の厠があるのは妙だ」とも、
寺へ苦情をいいにいったのだろう。
寺でも「伏見城から移した」という事は判らず「家光ならば江戸生まれ」と思っているから、これを「江戸城紅葉山からのもの」と説明するたて前から、
「家康の厠」という長年の看板をおろして、当りさわりのないように、「家光公の厠」と書きかえしたものらしい。
しかし産室の隣りに本人のWCがあるというのは、どういうものであろうか。

     伏見城幻影

現今のように、頭のよい子に育てられる人工栄養ミルクをもって哺育した子供でも、オギャオギャア内は当人が立ってつかつかと便所へなどはゆかないものである。
おむつという軽便なもので前後の始末はしている。まして現在の「家光公の下厠」と明示されているのは床上四十センチだった痕跡がある。
すると家光は生まれながらにして五尺以上つまり一米五十五センチぐらいの身長もある健康優良兒だった事になる。
そんな馬鹿げた話はまずないから、家光が成人後に使用したものとみると、

「徳川三代将軍家光というひとは、長じた後も、尿意を催すたびに、こらえて溜めて放出は自分の誕生した産室までいって、そこの厠で用をたしていた」、という世にも変てこな結果になってしまう。
さて左端に、その厠があって、中央奥に家光の産室がある右側は、寺の祀壇が飾ってあるが、この建物に木立がくれの軒廊があって、それに続く二階建ての天井の低い堅牢な居室が、現在は喜多院の客室に用いられているが、「春日局の居間」と明示されている。

 これも家光が寄進して、春日局の死後に、「その冥福を祈ったものだ」とされている。
しかし春日局は、江戸は湯島の天祥院。京には麟祥寺という大きな伽藍を、自分でその生前に己の死後供養用にと造営させている。だったらば、その両院のいずれかに、春日局の居間なるものは移して、冥福を祈ってやるべきが至当と思うのに、家光は、なぜか天海僧正の木像と一緒に、ここへ春日局の居室を移している。つまり俗っぽい思考力を出せば、

「死んでからも来世も仲よう睦じゅう」といったようにも見うけられる。
 しかも、家光の産室をはさんで、天海と春日局となると、これは何を象徴しているのであろうか。
 しかし表向きには、産室についている厠が「家康公ご愛用」となれば、これは江戸期にあっては、
「三代将軍家光公のお腹さま(生母)の寝ていられた御産室に、家康公も寝ていられたからこそ、権現さま専用の厠もついていた」という説明にもなって、
「家光公は、権現さまのお種」というように思われていたらしい節がある。


 四代将軍家綱、五代将軍綱吉が、共に家光の子で異母兄弟であったから、二代将軍秀忠と三代将軍家光が、共に家康の子で異母兄弟であったとしても、一向に差支えはなかったらしい。
 なにしろ「春日局」というのは個人名ではなく、これは、「征夷大将軍の側室にて、小御所へ伺候しうる者の官名をこれを、春日局とよぶ」と〈足利年代礼記〉にもあり、
足利将軍には代々の春日局が十五人もいて、最後の十五代将軍義昭の春日局のごときは、
〈土井兼覚日記〉の天正十二年二月十四日の条にも「昨年来、義昭将軍は、その春日局をもって上洛させ」と、〈毛利家史料〉の内の〈吉川家文書〉にも、
「(足利義昭)将軍その春日局をもって出洛させ、毛利家の待遇良しからざるを云いふらし迷惑至極」
 といった個所がある程だし、斎藤内蔵介の娘の春日局にしろ、徳川家康も征夷大将軍になっているから、その側室であったとしても、これは別に官名詐称にはならないものらしい。
しかし、徳川家光を神君家康の子ではなく、秀忠の子としない事にはまずかった理由は、家光及びその子の家綱、弟の綱吉の三代にわたって、神徒系の徳川家がまったく仏教系に変ってしまい「神仏混淆」という時代に変遷してゆく為の糊塗策ともみられる。