日本刺青異聞 夷  俘 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


日本刺青異聞
   

 図は、江戸時代の刑罰の刺青である。各地によって腕への刺青はみんな違っている。アイヌ人種は刺青をするが、蝦夷と書いて「エゾ」「エミシ」とよび、アイヌ人種と混同されてしまっているのも、
この刺青から誤られたらしい。

というのは、〈日本書紀12〉履中帝元年の条に「阿曇速浜子を召され、汝は仲皇子と供に逆を謀て国家を傾けんとす、その罪はまさに死に当るが特に墨を科す、とあるゆえ、
大和朝廷に人墨の習慣はなかったとする、だから刺青をするのはアイヌゆえ、夷俘とはその同類か奴隷にされた徒輩だとする。
しかしなにも刑罰としてではなく、九州から沖縄にかけても刺青のの風習がある。
沖縄那覇には久米と呼ぶ親衛隊が、王城の周りを囲み、刺青を入れた勇士が「鎖の側(さしのそば)」と呼ばれて警護していたものである。
久米の仙人の部族が沖縄へ渡った後裔ではないかとさえ、今日では考えられている。
さらに発掘された縄文土器の土偶にも明らかに刺青と見られる文様が在る。
だから刺青の歴史は一万数千年続いた縄文時代の風俗として世界最古と言えよう。


文字として残された最古の記録は「魏志倭人伝」で、卑弥呼が治めていたと謂われる邪馬台国に住む人々が刺青を彫っていたとされている。当時の遺跡からは顔面に刺青を彫った人々の土器が見つかっている。
江戸時代になると、刺青は火消し衆によって広まり、彼らはは自身の体に刺青を入れ、遺体が誰のものかを識別できるようにした。この遺体識別という事は「火事と喧嘩は江戸の華」と伝わるがそれだけ火事が多く火消しの死亡が多かった証拠である。
幕政改革断行の八代将軍徳川吉宗は「無宿人狩り」を励行させ、寺人別帳に入っていない者らを「寄場送り」として捕まえ、
 この苦役につかせた。だがその代わり進んで火消し課役を望む者には、特に解き放ちにした。
 そして彼らの名称を「我焉(がえん)」とつけた。つまり「我れ終る」の意味なのである。覚悟をつけさせるための命名だが、全く残酷である。彼ら火消しが云う「勇み足」というのは、勇敢の意味ではない。早まってドジることをいう。
 
「いなせな勇み肌」と今では江戸の華みたいに格好良くされているが、その実相は死罪に近い残酷物語だった。
 吉宗の付けた名では本気で火消しをしてはしてくれないと、漢字は当て字だから出初式の梯子乗りからとって、「我猿」とマシラの如くと変えた。
家を突き壊す破壊消防に、武器になる気遣いのない木槍を持たされていたから、今でも木やり節に、「兄貴どこかと姐御に聞けば、兄貴二階で木槍の稽古」と、まるで咽喉をふるわせていたみたいに思われるが、
唸っているものなら階下まで聞こえるし、わざわざ兄貴何処かと尋ねなくても判る。


歌川国芳などの浮世絵師が刺青を描いたことで、刺青は「生きた浮世絵」として流行し、職人の間にも広まり、デザインも変化した。明治時代になると、刺青は「反社会的な存在」として弾圧されだしたが、刺青禁止令が発布され、社会全体で刺青を廃絶しようとする風潮が出始めた。第二次世界大戦敗戦後、刺青は「ヤクザのシンボル」として認識されるようになったが、1992年に「暴力団対策法」が試行され、刺青は一般市民から敬遠される対象となり現在に至っている。

夷  俘

前項で「夷俘」という言葉について解説するとこれは「いふ」と読む。
 文学博士喜田貞吉説によれば、天孫降臨した人たちを大和民族として、日本原住民の内で降参したが従順でないのを「荒蝦夷」とする。素直に農耕に従事した者達を「熟蝦夷」としている。しかしこれは皇国史観によって事実誤認である。
 
 日本列島へ神降りたまいて当初から存在した大和朝廷と、百済系の奈良朝やそれに代わった平安王朝を仮定すると、夷俘とは有色人ではない白色人種のアイヌか、それに従っていた徒輩ともなる。先に日本列島があり、漂着したり渡来してきて、そこへ人間が住みついたのであるから、どちらが先住民族かということになる。

なにしろ(続日本紀〉に「中華の風俗に馴染もうとせぬ不逞な夷俘」との一節があるのをみれば、藤原体制下にあっての夷俘とはイアルサンスーと数を算えることや、漢字使用を拒み、
掌の指を一本ずつ折って五までの計算をしていた人種となる。
ならば彼らは前体制の者ということで、つまり奈良朝以前の騎馬系蘇我朝の後の源氏となる非農耕民族か、それ以前の漁撈耕作もする天の王朝系の平氏とか平民と後には呼ばれるようになるアマの飛鳥人である。
つまり前が夷、後者が俘が正しいことになる。
平安朝の公家の一条兼良の<江次第抄>に「俘囚はもともと王民なるのに夷の為に略せられ、賤隷となる夷俘ともよばれる。類聚国史風俗部にみゆ」とあるから、俘囚は「もと日本人」の扱いをされている。
奈良時代から平安初期にかけて、律令国家に対する順化の程度によって、蝦夷を区別した呼称の一つ。俘囚(ふしゅう)よりも未順化のものをさす。ただし、平安後期には両者の区別は不分明となった。
続日本紀‐天平宝字二年(758)六月辛亥「陸奥国言、去年八月以来、帰降夷俘。男女惣一千六百九十余人」の記載が在る。