菖蒲の節句は勝負する日 天正十一年裁許状は信長の置き土産 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


菖蒲の節句は勝負する日

印地打ちという言葉は現在死語になっている


 印地打 因地、院地とも色々と各地で当て字をする。〈今夷曲集〉に「五月五日に雨ふりければ」と詞書され、「風の手の礫のように、打ち散らす雨こそ、今日の空の印地なれ」とある。
 さらに〈百練抄五〉嘉承二年五月四日の条に「検非違使に京中の飛礫を制止さす」とあり、〈中右記〉にも「京中下人ども辻ごとに飛礫、互いに殺害しあう」とあり、
〈後愚昧記〉慶安2年4月21日の条になると一条通りにて雑人ばら伊牟地合戦をなし初め死者すでに四人も五人もでる(五月五日までには)もっと出でん」とあるし、

〈吾妻鏡〉文永三年四月二十一日にも「飛礫の後は武具にて闘争」と記されている。

これが時代が下がって江戸期になってもまだ続き〈雍州志八〉には「清荒社東の荒神河原にて毎年五月五日になると、京の竜ら集まりきたりて左右に分かれ、石合戦を日没まで烈しくなす」などとでているのである。
 「因地とは因果地なり」とか、「因地は院地、院内と京で書くのは散所を山所、産所と当て字するに同じ、別所ゆえ、誤ってよぶ地方もあり」とするのは、菊池山哉の〈日本の特殊部落〉にある。
 
前王朝(平安朝)や前々王朝(奈良朝)の民ゆえ討伐され捕虜になって京へ伴われてきた吾ら原住民祖先の者らの中で、従順に官奴となったり奴百姓となった者と、そうではなく山科、白河、桂、大原に逃げこんで、
あくまで抵抗した者とに分かれる。そうなると施政上おとなしく奴隷の境遇に甘んじている者への慰撫策として、五月五日に限っての、橋のない川の地域への殴りこみの黙認ではなかったかと推理できる。
つまり体制側は百姓たちに、川に泳いでいる鯉を竹にさしてきて勝利の祝いをさせていたのであるから、ヒナ祭りや五月人形といった節句扱いをするのは、日本原住民の側からすればすり替え行事でしかないのである。
石を投げ合うのだから砂利の多い河原を占拠して暮らしていたが、農業も商売もできぬ原住民は、それでは食ってゆけぬから、つたない芸をして役げ銭を集めだしたのが、
河原者とか河原乞食と蔑視された起源とすれば、各地で催されていたのも判りうると言える。
 現在、観光用に復元された岡崎城の二階にも安倍川原での、家康の印地打見物の画が掲げられている。


院  内

天正十一年裁許状は信長の置き土産



こまの印地打ちに関係する「院内」という言葉が在る。〈塩尻83〉には「正月万歳は尾州春日井郡守、山の木が崎長田寺の禅僧が同国愛知郡印内の者に教えたるが始り」とあり、
〈義経記〉には「白河のインヂ五十名堀河夜討」。山崎美成の〈民間時令〉には、尾張春日井郡楠木町アジマの書上げ書には

「往古陰陽師相勤める十六人の万歳に出申す由緒書はこれなく、知多郡藪、西大高、横須賀よりも万歳の太夫に出候」とある。
〈丹波風土記〉では「番太は捕物、八筋は竹細に、ヲゲは川漁、イヅナは異也の狐使い、トリアゲは産婆、新平は曲芸」と西北地帯では区別されていて、
「同地の者は男女共に赤褌、赤腰巻を好む」と平家筋の原住民系であると明記している。

また、〈掛川志槁〉では「遠江院内十一ケ所は気加、笠井、天心、河井、飯田、大淵、笠原、河村、勝間田、榛原、掛川と天正十一年裁許状にあり」となっていて、
支配は延寿院の修験者博士小太夫なりとし、「文化元年には広安寺と寺化している」と附記される。
 
天正十年六月二日に、仏教を弾圧し坊主皆殺し主義だった織田信長が死んで秀占に世変りすると、
延暦寺、高野山その他仏教側の政治献金で体制をたてたゆえ、仏教再興を信長の遺志に反し許した。
 そして神社や院内の祗堂に対し後の綱吉のごとく宗門改めをし、寺に改宗する処へだけ裁許したのである。
瀬戸内海の〈三島神社誌〉でも、天正十一年の裁許状騒ぎで捕殺されると神官家族が遁がれ、岩窟に隠れ住んでいた記録すらある。この〈掛川志稿〉には「陰陽博士職之事」もでている。

その内容は「右海道、つまり東海道七か国の惣別当の長吏になすは、延喜御門の御裏書きや尊氏将軍御判ものや海蔵寺証によって、明鏡のごとく瞭らかな掛川院内の松永大夫に申付けるものである」
そして声聞(唱門)と呼ばれる鉢叩きや、道の者となる院内者に限って商売を許し白旗系には固く停止。何重の輩があっても物の商いは許さず」

と書かれていて、「永禄六年十月十九日上総介 印」となっている。
これは当時掛川城へ逃げ込んでいた今川氏直を追い出すための、織田信長の扇動作戦であろう。
 織田信長の出自を尾張と書いている歴史書は間違いで、
信長の父信秀も勝幡城の城番に登用された時は八田信秀で、織田姓になったのは賜姓なのである。八田というのは弁天涯の、あの一帯に住んでいる人たちを今でも「ヤッタモン」と言っている。

だから安土城を作った弁天涯の絶壁八田になる。越前から出るわけはなく下織田とよばれた信長は近江が正しい。
だから後に、信長が殺された後は、あの辺の院内から出て世に出て成功した者たちは追われて全国に散らばってしまった。
信長という強力な後ろ盾が在って、商売で儲けた銀を信長に献上し、信長の天下取りに協力した愛知や近江の海洋渡来系商人たちは近江乞食と蔑まれ没落したのが実相。

山椒太夫と産所奉行

この院内の呼称は、院内、院地、山椒、山所、散所と当て字が様々ある。
ありていは、原住民が日本各地で討伐され、捕虜にされた者達が入れられていた限定地(捕虜収容所)である。浄瑠璃の安寿と厨子王で有名な「山椒太夫」は童話にもなっているが、
ここは徐地として別扱いだった。収容者はここの親方である太夫や長吏に人頭税を納めていたゆえ、長者であった。
人里離れた山深い収容地で採れる珍しい魚だということで、「山椒魚」と里人は言った。

歴史屋は頭が悪いのか横着なのか「産所奉行」を室町時代の職制で将軍家のお産を司ると解説する。
〈吾妻鏡〉の寿永3年7月20に梶原景時が、出産の奉行をしたからと引用して、まじめに説明をしている。
常識で考えて貰いたい。梶原景時や足利時代でも評定衆の中座や二階堂のれっきとした武者衆が、産婆さんや助産婦の剏行をするのはおかしいと想わないのか。
足利時代に前体制の北条の残党や、創業の邪魔をした南朝方の者を捕えて隔離して、さんしよ、別所と区別した。そして反乱や逃亡を監視するための役所だったのである。

歴史家の事実無根の誤りであろう。
 そうでもない事には足利末期まで、れっきとした武者がが代々にわたって奉行、しかも、さしつぎとよぶ予備奉行までが、ずっと置かれていたのは、いくらなんでも将軍家専用の出産係では、
まったく辻つまが合わないことになるのではなかろうか。
真実は何かといえば、足利中期からインドのカースト制を導人し、被差別制をとったので、真実はそこへ送りこむため人狩りを兼ねた散所奉行なのである。