真説 片桐且元 (第一話) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。




          真説 片桐且元 (第一話)

2016年に放映されたNHKの大河ドラマ真田丸では佳境に入ってきて、片桐且元も登場して来た。
片桐且元・史実にのっとって豊臣家に尽くし最後は敵になった悲運の武将 として描かれている。
しかしこれは史実でもないし、明治時代の芝居その儘で、実像とは全く違う。

 豊臣家臣団の中で裏切ったり、日和見した武将は数多く居る中で、この男ほど悪質で酷い仕打ちをした者は他に居ない。
後段で詳細を記すが、難攻不落の大阪城が落城したのも片桐のせいなのである。何故ならこの男、徳川方の大砲の射程距離内に秀頼や淀君の住む天守閣を入れるため、城の図面を渡している。
家康が英国から輸入したカルバリン大砲は射程が450mでしかない。それでも国産大砲よりはより射程は長かった。

このため休戦という謀略で城の外堀と、どさくさ紛れに内堀までも埋めてしまった。
これで裸城同然となった大阪城の秀頼や淀君の住む天守閣まで砲弾が届き、これが原因で落城となった。

 実力が無く、したがって仕事もできず、出世が出来ないことを逆恨みしたか、秀吉の死後、豊臣家に対して徹底した陰湿な策謀を弄している。ここでは真実の彼の姿を考察してみたい。

(私は「電子紙芝居」と呼んでいるテレビだが、何だ、NHKと違うではないか?と驚く人が多いので、古書として入手できるもの、公共図書館で読める程度の資料に関しては、その出典は皆書き込んでおいた。
テレビを歴史と勘違いしている人や、疑い深い人はどうぞご自分で調べてもらいたい。そして新しく日本史を見直されるのも結構と想う。さて、国民の衆愚教育には三つの「S」がツールとしてある。
それはスポーツ、セックス、スクリーンで、まさに現状の日本が当てはまる。
野球やサッカー、オリンピックに浮かれまくり、不倫は日常茶飯事で性犯罪の増加、テレビと来てはお上の情報の垂れ流しでマスコミの役目である「権力の監視と批判」を全く放棄している。
さらに、芸もない漫才屋のバカ騒ぎ番組の氾濫。そして嘘八百の歴史ドラマの氾濫は目を覆うばかり。せめて自国の歴史ぐらいまともに理解してもらいたいと想う危機感からの投稿である)

        歴史を知らない坪内逍遥  

「桐一葉落ちて天下の秋を知る」の幕切れの台詞で知られた「桐一葉」という芝居は、明治三十七年二月に東京座で初演された。
なにしろこの作者がシェークスピアの翻訳家として令名の高い坪内逍遥で、それに「史劇」の肩書きがついていたから、
「従来の無知蒙昧なる歌舞伎芝居と異なり、かかる史実にもとづき、考証的に執筆された脚本を坪内文学博士によって得られた事は、我が国劇界の最大の収穫と言うべし」と、当時の劇作家松井松葉は、都新聞に激賞記事をよせ、
同じく劇評家の三宅周太郎も、東京日日新聞の紙上でこれを紹介し、
「庶民が居ながらにして正確な歴史を、観劇という安易な方法で学べるとは、これぞ明治の聖代の有難さである」と執筆した。

(この「史劇」を真似たのか、昭和に入り、自分は嘘八百の時代小説を書きとばし、これを「史実」「史伝」と呼称したのは故海音寺潮五郎である)

これを誉めざるは知識人にあらずといった具合で、本職の歴史屋黒板勝美文学博士までもが「これぞ歴史劇」の折り紙をつけた。
だから気を良くした坪内は『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』といった続編まで書き、これが先代中村吉右衛門の片桐且元が当たり役として当時は良く上演されたのである。だから明治、大正、昭和とこれがすっかり世に広まってしまい、
文学博士の権威と歴史学を講義する教授の折紙とで、
「片桐且元は悲劇の大忠臣なり」とされ、現在も常識化されている。しかしその実像たるや、己の保身と出世したさに豊臣を裏切った大悪人だった。

          桐一葉の芝居とは

さてそれでは、日本歴史の専門家が、史実に基づいた劇作として賞揚した「桐一葉」とはどんな内容の芝居だったのかといえば、
「なに、このわらわが東下りして、家康ずれに目通りせいと、これ且元、そちゃそないに申すのか」
「はあ、家康はもはや寄る年波ゆえ早晩寿命はつきましょう程に、何卒それまでのご辛抱。ならぬ堪忍するが堪忍とか・・・・」

「まあ、あの色好みの家康の許へ、この身に行けとは、ええ汚らわしやのう・・・・」叱りつけられて片桐且元すごすごとうなだれて退場。
これを帳場外で聞いていた豊臣秀頼が、怒りの表情で入れ代わりに登場し、淀君に向かい、
「わが母じゃを関東へ下らせあの家康めの許へ送り込まんとするは・・・・定めし且元め江戸より云いつかって参ったに相違なし。ご心配さっしゃりますな。かまえてこの秀頼が母じゃを東下りなどさせませぬ」と見得を切る。


ここに木村長門守重成が現れて、手勢を率いて且元を討てと命令される。
そして且元の館へ乗り込むと、片桐且元は悪びれもせず「人間寿命五十年と言うに、大御所様は齢すでに七十余歳、それに引き換え秀頼公は、まんだ二十余歳。老木はやがて枯れゆき、若木は延び育つは世の習いというもの」と言い聞かせる。
さらに「老齢の大御所に逆らわず、言いなりになって時期を待つことこそ、豊臣家を安泰に守り奉る家来の道ではござるまいか」

「さようでごさったか。かかる誠忠無比の御意志とは存じよらず、疑ってまいったのはこの木村重成一期の不覚。誠恥じ入り申します」
「なんのなんの、亡き太閤殿下への忠義の心は共に何の変わりとてない」と話し合っているところへ、
「この裏切り者め」忍んで来た石川貞政が、不意に縁下から突きかかって来た。
それを且元は扇子であしらいながら、膝下に組み敷いてしまい、

「何者に唆されて参ったか存ぜぬが、まこと片桐且元が不忠不義の裏切り者ならば、汝ごときが槍の錆にならずとも、ここでみずから腹かっさばき、冥途の太閤殿下にお詫び言上つかまつる」と寂しく笑うのに、
「そない御心とは露知らず、ああ恥ずかしや恥ずかしや」刺客として忍び込んできた石川貞政は、申し訳なさに双肌脱ぎとなり、その場で割腹せんとするが、
それを且元は押しとめ、
「これさ命を粗末にするでない。汝も豊臣恩顧の武士ではないか。秀頼様のお役に立たねばならぬ命を粗末にするな」
と、諄々と云って聞かせれば、石川貞政も男泣きに涙をこぼす。

そして且元は「かく、この大阪城の者共に疑心を抱かれている現状では、このまま城中に自分が留まるは、かえって紛糾の種をまいているようなもの」
と、思い入れ宜しく、豊臣家の内紛を恐れて、自分から大阪城を出て行こうと寂しい決意を見せる。
そして終幕の大阪城外長良堤の場では、見送りに来た木村重成に後事を託して、朝霧に包まれた天守閣を遥かに望みつ、
大きな桐の葉の落ちるのを見て、
「桐一葉、落ちて天下の・・・・・・」と五三の桐が紋である豊臣家を、桐の樹にたとえ、賤ガ岳七本槍の一人である昔からの忠臣の自分を、
その葉になぞらえての、
(桐の一葉が、かく散ってゆくからには、豊臣家の命運も最早これまでであろう)
とその誠忠をどうしても判って貰えず、追われるごとく去って行かねばならぬ、男の挫折と悲壮感を余韻に残して、
「はりまやッ」「大統領」の掛け声を受け、柝が入って幕が閉じられてゆく舞台なのである。

  実は弟、片桐主膳正の方が有能だった

『武家事記』によると、片桐且元は、弘治二年(1556年)の生まれである。この時点では織田信長二十三歳。豊臣秀吉二十一歳。
『寛政譜』では、且元は幼名を助作、又は助佐とよび、秀吉の小姓役として奉公。賤ガ岳七本槍から三千石になり、従五位下東市正に任官。
その後三十八年にわたって昇給したのは僅かに千二百石である。つまり七本槍の他の者はもうこの頃には、
加藤虎之助 肥後二十五万石。
加藤孫六嘉明 伊予十万石。
福島正則 尾張清洲二十四万石。
脇坂甚内安治 淡路洲本三万石。
となっているから、片桐の四千二百石というのは最低である。
(賤ガ岳七本槍というのは嘘で、実際は秀吉配下の九人の小姓共が、勝ち戦に乗じて「それ行け」とばかりに走り回ったに過ぎない。実際の戦いは前田利家
が秀吉方についたため、その裏切りによって勝てたのである。信長時代「小豆坂の七本槍」というのを秀吉がパクッタだけの話)

さて、人間には運不運もあるが、同じように秀吉の下で働いて、まるでその間認められなかったと言うのは、どうしようもない男だったということになろう。
なにしろ秀吉は気前良く扶持を出すので有名だっただけに、且元の弟の加兵衛に対しても天正十三年三月二十六日に、山城国枇杷庄四千石を与え、
従五位下主膳正に任官させ、後播磨揖東郡で一万石与えたと、『豊臣大名帳』や『伊達文書』に出ている。

が、さて弟の主膳正がそれで、兄の且元が昔のままでは可哀そうと同情されてか『寛政譜』によれば、
「文禄四年八月十七日付けをもって、賤ガ岳の役の追加戦功として五千八百石追賞され、摂津茨城一万石拝領」となっている。
十二年も前の手柄を持ち出さなくては、昇給させられぬ程に彼は無能だったらしい。
『摂津国郷帖』によると、
「茨木城主片桐且元の弟同主膳正千里が丘に砦築く。郷人皆争そいて砦に集まるもの多し」とある。
これは当時は且元より弟の方が買われていたらしく、『東武実録』『藩翰譜』によれば、晩年は家康から大和小泉城を貰っている。
それは、『寛永系図伝』には小泉三万五千石城主とまで出ている。
つまり『桐一葉』の芝居で、坪内逍遥博士は且元一人しか知らなかったので、彼を主人公にしているが、本当の立役者は弟の方なのでこれでは全く史実に合わない。

        信じられる史料『駿府記』

さて、徳川家康側近の後藤庄三郎か林道春の綴ったものとされる『駿府記』が現存している。
家康が将軍職を秀忠に譲ったのち、駿河府中城に隠居していた慶長十六年八月から、元和元年十二月、つまり死の四ヶ月前までの日記である。
文中例えば、慶長十六年十一月十五日の条などみると、
「大御所様御寸白(すばく)ゆえ御鷹やめ」とはっきり出ている。寸白というのは、男性器の尖端から白い膿が少し出る病気で、婦人用には「こしけ」ととうが、
今で言う淋病のことである。つまり家康は局部が痛むからと、当日の鷹狩りを中止と書かれて在るほどのものだから、それは信用できるものだろう。
さて、その御寸白二ヶ月前の「九月三日の条」には、

    家康の腰巾着に成り下がった片桐且元

「片桐市正着府出御前、為御加増知行一万石、自秀頼公雖被下、関東御前憚不領之、則今日拝領」の記載がある。
判りやすくすれば、大阪表より片桐市正且元が、駿府まで来て家康公に目通りし、
「秀頼公よりこのたび、一万石加増の沙汰がありましたが、関東のお許しが無くては受けられるものではなく、そのままにして御座いますが、如何しましょうや」
と御伺いをたてた。すると大御所におかせられては、
「市正は、これまでやっと一万石しか貰っておらんではないか。苦しゅうない、くれるものは取っておけ」
とお言葉があり、それで市正は、大御所様のお許しを得て、豊臣家よりの加増を受けることにした、といった内容である。

秀吉子飼いの片桐且元が、豊臣家から加増して貰うのに、わざわざ大阪から静岡まで飛んでいって、「如何しましょうか。もし駄目とおっしゃるなら受けませんが」
と、伺いを立てている事実を、一体何と見たらよいのだろう。慶長十九年になると、五月三日に又も片桐は駿府へ出掛け、大御所家康に御目通りを願って、何かの御礼を言上している。そして大阪へ戻ったかと思うと五日後の八日『駿府記』に、
「片桐市正御目見得、刻移る迄長々と御雑談。なお干飯二箱、倉炭三箱持ち来たりて献上」とある。

   大仏供養 にケチをつけたのは、且元と家康の陰謀だった

この時何を四時間にもわたって密議したかということは、この家康側の日記には出ていないが、『当代記』と呼ばれる松平忠明著と伝わる根本史料の第九巻の
五月二十日の条には「大阪之片桐市正此間駿府逗留今相上、八月二日東山大仏供養之旨、大御所有命也」
どうして秀頼が亡き秀吉の回向のため建立する東山の大仏供養の件を、大御所家康が片桐市正に命令するのか、納得できないところだが、
『当代記』同年八月一日の条に「去年の夏、大阪の片桐市正東国へ下りし時、駿府の家康公に前もって申し上げておいた東山大仏堂の建立が完成」
とあるのである。が、八月二日の条には、

「天台五百真言五百計僧侶集会千人。施餓鬼用餅六百臼分諸白酒三千樽、その他結構至れりつくせりで式をうげんとせし直前、家康公『国家安康』なる
東福寺清韓長老の筆になる鐘の銘の写しを見られ、甚だしく腹を立てたまいて挙式の中止を命ぜられる。よって結縁のため見物に集まってきた群衆はみながっかりして散らばり、清韓長老は即日処分された」旨が詳しく記されている。

大仏供養はこれによると八月二日開催で、千名の僧侶と万に及ぶ群集が京の東山に集まって、さて、これからという時に家康からストップを掛けられ、
それで解散と言うことらしいが、この時代には電話も無線機もない筈である。
どうして京の現場へ、静岡の家康からそうタイミングがよい指令が出せたのであろうか?
また工事完了日などと言うものは、現代でも中々予定通りには行かないものであるが、大仏殿建立といった難工事を前もって、それも駿府で八月二日と取り決めたのが、どうして巧い具合にそのとおりになったのであろう?

常識を持って考えるなら、
「五月八日に且元と家康が四時間にわたって、秘かに密議した内容」とは何であろうか。それは秀吉が残した膨大な大阪城の金銀を、できるだけ消費させてしまうため、金に糸目をつけず工事を徹底的に強行させ、派手に支度させること。
そしてもし七月一杯に完了しても予定日を前もって八月二日と決め、これを第一に厳守し、且元が責任を持つこと。
第二は、鐘銘その他の資料は前もって且元が持参して家康に手渡し、それによって難癖をつけ、供養式を中止させる段取りは、家康の方で責任を持つ・・・・・といった具合だったと考えられる。

だから家康は徳川家の文部大臣とも謂うべき、林道春らのブレーンを動員して、ケチをつける箇所を早めに見つけ、これを七月中に京所司代板倉重宗に通告して置いたらしい。重宗は八月二日の当日まで待ち、いよいよ挙式という時にこれを発表して、
大仏供養に集まった僧俗たちを解散させてしまったのである。

何故そこまで、片桐且元にできたのかという、謎解きは『駿府記』の同年八月の条に、
「東山大仏殿、治工、京三条釜座名護屋越前少縁藤原三昌、施工大檀那、正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公、奉行、片桐東市正豊臣且元」
と明記されているのを見れば、これなら且元が奉行だから、初めからどうでも家康の指示通りに動いていたことが良く判る。

第二部に続く