日本奴隷史の考察 大宝律令は中国製 首切りの謎 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本奴隷史の考察

奴長とは

奴隷求籍帳とは

 

学校歴史では、日本に奴隷は居なかった事になっている。
だが奴隷は厳然として存在していたのである。
アメリカと違って、黒人をアフリカ大陸から狩り集めてきて奴隷にしたのと違い、
日本先住民が一握りの、大陸(中国)や朝鮮(百済)勢力に奴隷にされていたという違いはある。
昔は奴隷とは言わず「奴(ど)」とか「奴(やっこ)」と呼んでいたので、現在でも「ヤッコさんは辛いね」と、
江戸端唄として残っているぐらいのものである。また、豆腐を賽の目に切ったものを「冷ややっこ」というのも、
悲しい我ら祖先の状況を表したものなのである。この奴隷の存在を日本で初めて書物にしたのは阿部弘蔵の「日本奴隷史辞典」が嚆矢である。
百田尚樹著「日本国紀」は、明治以後の近現代史には見るべきものがあるが、古代に関しては全く評価できない。何故なら、
「日本には奴隷がいなかったと」間違った考察をしているからである。好漢百田のためにここで指摘しておく。

大宝律令は中国製

さて、701年に制定された<大宝律令>では、庶民を、陵戸、官戸、家人、公奴婢、私奴婢の5種類に分類している。
つまり人間を選別して、区別したのである。勿論こんななことは、日本原住民がするはずはない。
日本では様々な種類の先住民、原住民はさして争いもなく、平和に住み分けて生活していた。
そこに、高度な文明、即ち仏教と漢字、鉄製の優れた武器によって中国大陸から進駐してきて、中国の制度を其の儘踏襲し、律令国家としたものなのである。
そして原住民の内でも、抵抗したり逃散した者も多くいたが、いち早く編戸の民となって恭順し、
おかみから稲束を渡され耕作し、米を供出している者は良民とされた。

「けにん」と呼ぶのは、官戸と認められて者の兄弟や親類で、同じく官から渡された稲を耕作している者たちをいう。
公奴婢とは、おかみから払い下げられた原住民捕虜の男女を、官戸が監理して働かせていた者らである。

私奴婢は、官戸が自分で購人した私有の日本原住系の子孫で、その売買や他への譲渡、質入れも自由だった。
そして、一緒に収容しては勝手に性交するので、牛や豚のように、男女別々に収容し、子取りといって、
よく働く男女だけは交配させて子を作らせた。この制度は、人開としての扱いではないので、西暦901年から延喜22年(922)には法的に廃止された。

しかし実際は北条政子が文治革命を起こし彼らを助ける12世紀末までは、まだ奴婢は牛馬なみの扱いだったのである。
それゆえ江戸時代になっても、一般庶民の問で北条政子を救いの女神として、弁天様信仰として崇めていたのである。
また政子が立案して北条時代に発布されたもので、建前上は頼朝の名前で出された「頼朝御判二十八ケ条」がある。

これは、原注民系に対し、日本の山野に元からある物はすべて彼らの領分なりと決め、彼らの限定職としたのである。
そのお陰でかっての奴婢も、どうにか生計の途がたてられ男女が共に暮らせるようになったから、源頼朝は現代に到るも人気がある。

   奴長

〈東大寺要録〉の天平勝宝元年(749)9月20日民部省の通達にて、
翌2年2月22日に聖武帝と光明皇后が束大寺へ行幸された折、200人の奴婢が寄進された時の筆頭人のことである。
それには「奴長伊万呂年四十八」と書かれてあるのが初見。
つまり捕えられた時から原住民部落の長吏であつたらしい。

「良臣の具になるような手先の器用な者を選んで、将来寺普請の時の工人になるように仕込ませ、
文芸歌舞や音曲にむくような女は、供仏大会の儀式にそなえて練習をさせ、接待係となす。
こうしてこれは、奴婢として寄進された寺奴婢の子々孫々に到るまで継ぎ継がせてゆく職業ゆえ台帳に記す」とある。
つまり後の寺人別帳は8世紀の昔から始まったもので、寺奴婢は私有財産ゆえ、誰と誰を一緒にさせたら何という子が生まれたと、明治になるまで克明に記入していたので、これは仏の慈悲による戸籍簿ではないのである。

  奴隷求籍帳

この帳面には「重役の非人」と頭書きされているのは、豪いというのではなくて、寺の田畑を耕作使役する他に、
今いうガードマン役も兼任させた身体強健な寺奴隷の謂である。
寺役の田畑働きの他に、僧が諸会に行く時には供奉もする。朝は早くから寺領の見張りに精をだし、
夕方も田畑仕事より戻れば、暗くなるまで大仏や宝蔵の番をし盗難火難の防災に責任をもつ者の重ね役帖の事。
その子孫が「奈良坂の法師ばら」と後に呼ばれる東大寺の僧兵になるのだが、一般の寺では普段は野良仕事をなし、今のように時刻を知らせる為ではなく、
非仏教の原住民が寺を襲う際、警戒警報に門近くにあった釣鐘が乱打され、
急を知らせるのをきくと、近隣の百姓が、スキやクワをもって駆け集り、襲ってきた反仏派の連中と戦って寺の防人となって、
奴隷ゆえ命惜まず必死にあくまでも戦った武闘兼務のもの者どもである。
江戸期になっても旗本神祇組とよぶ反仏派が各寺を襲うので、各寺領の中から強いのを選んで寺男にしたのが、
芝居で有名になった寺奴の幡随院長兵衛らで、ガードの人手がいるゆえ『口入れ屋』とよぶ私設職安を設けて、
江戸初期には派手に闘争しあったのが、明治になると男伊達とか町奴とも間違われてしまうのである。

読んでお分かりのように、今日、日本人の八割以上が「庶民」と呼ばれ、奴隷の末裔なのである。
日本人の習性として、己の先祖を美化したがる傾向がある。だから「昔は武士だった」と自慢する人も多い。
そして怪しげな系図屋に大金を払って先祖の系図を作ってもらって嬉しがり自己満足している。
しかし、この日本列島に綿々と続いた差別と弾圧に耐え抜き、子孫を増やしたのは紛れもなく奴隷なのである。
そして荒れ地を開墾し、様々なものを作り、豊かで素晴らしい文化を発展させたのも我らのご先祖様奴隷なのである。
明治からは、工業立国として繁栄し、世界を相手に戦い敗戦したが、昭和史を見れば解る通り、世界第二の経済大国にのし上がったのも奴隷(庶民)の労働力だった。
だから先祖が奴隷だろうが武士だろうが、卑下することも、自慢することもない。
会社の社長が次々と交代するように、天皇は変わったが、日本株式会社は連綿と続いてきた。
令和の御代になり、悠久の二千年を生き抜いてきた我ら庶民は大いに誇りを持つべきだと思う。

幡随院長兵衛と旗本神祇組の争いについては以下を読んでいただきたい。

旗本奴と町奴の、華やかな男伊達の争いと美化したものもあるが、実像は仏教と神の根深い闘争なのである。

 

「幡随院長兵衛は男でござる」と水野十郎左衛門の向けてくる槍先を、何もいわずに、「さあ、ここをどんとお突きなせえやし」
すっ裸の胸を叩いてニッコリ笑うのは、お芝居や講談だが、今では悪役なみの、「水野十郎左衛門」に話をもってゆくことにする。いまの歴史家は、まこと単純なもので、
「ブルジョワジーの興隆に伴う町人階級の利益保護のために、長兵衛ら町奴はうまれ、特権階級の旗本奴と対立した」と説く。
しかし徳川時代といっても、ざっと三世紀はある。
まだ戦国の匂いのぬけていない明暦年間と、幕末に近い文化文政の頃とでは違う。
この水野十郎左衛門の祖父というのが、高柳光寿博士の文中にでてくる水野藤十郎勝成なのである。
そして、この勝成というのは、三河苅屋城主だった水野勝元の弟忠重の倅だが、関ヶ原合戦の起きる前に家康から召されて、
「汝、光秀にあやかれよ」明智光秀遺愛の槍を貰うと、「はあッ、光秀のごとく頑張ります」と、それからは奮戦し、元和元年大阪夏の陣では、「天下の豪傑岩見重太郎」こと薄田隼人。
大坂一の暴れん坊の、後藤又兵衛基次。
この二人を、光秀遺愛の槍をもって仕止め、「誠忠無比」「剛快無双」と謳われ、「備後福山十万石」の大名に昇任した人物である。さて、幕末の有名な詩人菅茶山には、『福山志料』の著があるが、その中に、
「備後福山の西北に本庄村、東に三吉村、そしてその先の深津村は橋のない川が流れて、住民を<三八>とよんでいる」とある。
 これは水野勝成が福山の領主になった時、三河苅屋の八を伴ってゆき、彼らを直属の秘密警察として、新しく貰った土地の監察をさせたから、それで(三河から伴ってきた八)が鈍って、いわゆる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」とよばれる者になったのである。さて現代では、橋のない川はとかく問題になっているが、徳川初期はどうだったかというと、この福山では殿様の警察組織ゆえ、「三八は常に大小の二刀をさし、歩く時は槍を先に立て通行した。この三八の者らは牢番警吏拷問を仕事とした。また処刑も彼らの一存で一方的に取り決め、初めは深津村専故寺前で斬罪にしたり、その首をさらし物にしたが、のちに榎峠に移された」とある。

   首切りの謎

なぜ、こんなに絶えず首斬りをしたのかというと、これは需要があってヨロクがあった故、必要以上に死罪にして殺していたものらしい。と云うのは‥‥化学薬品のなかった頃は人間の内臓が特効薬で、肺病には生血、レプラには尻の肉。心臓病にはハツ、肝臓病にはタンを食すれば薬効ありとされていた。
ところが今も昔も病人は多く需要も多い。
が、冷凍設備がなくて死人のストックもきかない時代ゆえ、注文が溜まってくると、それっと、「御用ッ」「御用ッ」と三八衆は出動し、適当に誰か召捕ってきて、ゴウモンも公然の仕事だから、「生血を入れる竹筒を用意しておけ」「レバーを包むイモの葉っぱを揃えろ」
とセットしておいてから、バッサリ殺してしまい、
「お待ち遠うであった」と配達したらしい。つまり、このために専故寺もそうだが、彼らの薬師系の寺は、備後以外でも「医王山」とか「医王仏」などという。
 しかし、現在吾々の口にするビーフステーキが、さくらステーキであるように、そうそう人間は殺せないからイミテーションに牛馬を代用にした。 そのため皮はぎもしたが、竹細工でお茶の茶筅作りも利休時代からしていたので、「茶せん」「おんぼう」の別名もある。
 何故この人達が、やがて明治大正となり橋のない川、つまり差別の対象になったかというと、五代将軍綱吉の頃の弾圧からになる。そして明治になって警察制度が代わって、かつての警察権がなくなったため、「おのれ、よくも今まで好き勝手しやがったな」と他の住民に報復され落ちぶれたせいである。

さらに、有名な「人斬り長兵衛」とよぶ八部の親方がいて天保から安政にかけて此方の淵でズラリと並べてはバッタバッタと斬ってのけ、「富士の妙薬」といわれた生血は竹筒一節一分銀二匁で売った。
脳味噌は生薬として梅毒の特効薬で銀五匁。心臓や肝臓はラウガイといわれた肺病用銀三匁で斬刑の時は奪い合いで薬屋が求めにきた。需要の多さに何でも死罪にし怖れられていたという事実もある。


     江戸城で何故に白衣を着たのか

 水野十郎左衛門の話が、その祖父の勝成にさかのぼり、備後福山の三八にまで、脱線して展開してしまったが、私がいいたかったのは、「旗本白柄組」の時代というのは、八の連中が戦国時代の名残りで、まだ肩で風をきり、槍をたてて威張っていた頃だという事である。
 そして、彼のグループの久世三四郎、加賀爪甚十郎といった連中も、みな三河横須賀まむし塚出身の別所者で俗にいう、「白須賀衆」の旗本の面々だったのである。
 さて彼らが刀の柄に白糸の編んだのや、白革を目につくように冠せ、自分らから、「白柄組」と名のったというのは、そうする事が、あの時代では恰好良いことであり、女にもてたからだったのではなかろうか。といって、看護婦さんは白衣をきているから、天使のように素晴らしい、などという少女的な発想とも、これは違うのである。かつて東京に都電が四方八方に動いていた頃。

夏ともなると(都の催し)という掲示が車内に出たものだが、上野公園の納涼大会に並んで、そこに書かれた文字で、
「八朔」というのが見られた。
これは八月一日の当日限り、昔の江戸城では将軍から茶坊主に至るまで白衣をき、吉原の女郎衆も白一色になる行事である。といって、(お女郎衆は博愛を衆に及ぼしているから)と、ナイチンゲールにあやかって、白衣をというわけではない。彼女を有名にさせたクリミヤ戦争は、1856年つまり幕末安政三年だが、江戸のお女郎衆は家康入部の頃から、八月一日は揃って白衣をきていた。ところが八月一日という時候がら、
(現代でも、その前には学校や官公庁の制服も、衣替えになるからなあ)
と間違えやすいが、陰暦の八月一日は秋風のたつ九月である。何も防暑のため白をきたわけではない。
 これは家康の臣内藤清成が書いたという、『天正日記』によると、

「天正十八年(1590)八月一日に、小田原城攻めが終り、秀吉から国替えを命ぜられた徳川家康が、白衣を羽織って江戸入りした」
旨の記載がある。つまり八月一日は、「江戸開都祭」といった意味での、「八朔の祝い」で、諸大名や旗本もみな白上下をきて、揃って江戸城へ式日として伺候したのである。さて、では何故、「白衣をきて家康の一行は入ってきたか」ということになるが、内藤清成は、その日記の八月七日の条に、
「とうこういん(東光院)へ参拝」と明記。八月十三日のところには、
「家康公の御乗馬花咲が病気になって倒れたので、豊島鳥越郷の江田[穢多]をよびて渡す。彼らは源頼朝公以来の江田一族だと申しでた」とある。これは「東鑑」に江田小次郎。

 

「平気物語」に江田源三、「源平盛衰記」に江田弘基、「太平記」には、江田源八、とあるように、いわゆる源氏の主流をなす者が名のった姓で、彼らは北条氏に追われて山間僻地へ逃げ込んだが、足利時代には、「白旗党余類」といった蔑称をうけ、その信仰も、かつては白山や土俗八幡や荒神を信心していたが、やがてこれが、「東光」とよぶ、東方瑠璃光如来の薬師派になって団結していった。つまり、

「西方極楽浄土を説く仏教徒」が墨染の衣、つまり黒を身につけるのに対し、彼らは、「白衣をもって対抗していた」という歴史的事実がある。そして源頼朝が、総追捕使の官をうけた時点に於て、各地の江田一族の白旗党に、末端の警察権をもたせたので、それが慣習となって、彼らがお上御用の逮捕権をもったり、断罪権を明治五年まで握っていたのである。

「弾正」とか「弾正台」というのは唐の官名の輸入だが、「弾左衛門」というのは、幕末までは漢字は発音記号と同じで当て字が当たり前だったから、「断罪衛門」のことではなかったかとも考えられる。また、「松永弾正」とか「仁木弾正」といった名があるが、これは「井伊掃部頭」といった類と同じで、白旗党余類にのみ与えられた侮蔑的官名で、信長の父の織田信秀も、八田別所の出自ゆえそうした名乗りを貰っている。
つまり水野勝成が、三河の八を伴っていって、「警官兼検事、そして獄吏」に用いたのも、なにも特殊なことではなく、当時は日本全国どこへ行っても、番太郎、下引き、目明かし、牢役人は彼らだったのである。だからして江戸期も中頃になると、重なる怨みに民衆は、「源氏」という呼称を、きわめて悪意的につかった。例えば、ならず者のことを、「源氏屋」と蔑んだり、いかがわしい女の屯する青線を、「源氏店」とよんだ。
 
しかし芝居も河原者とよばれる彼らの分派集団だったゆえ、現在の人形町と堀留の中間にあった岡場所などは、
「しがねえ恋の情けが仇」の芝居をする時には、わざと、玄冶店(げんやだな)と文字づらを変えて上演していた。
 もちろん俗説の「清和源氏」などというのも、系図屋さんや筆耕者の江戸時代の作りごとで、清和帝が土着の原住民に係りなどあろうはずはなく、これが全然無関係の虚妄にすぎなかったことは、今なき高柳光寿先生の努力によっても解明されている。

    寺側のガードマンが幡随院の長兵衛

 さて、旗本奴として反仏的な水野勝成の五男の跡目の十郎左衛門などが、「吾々は白系だぞ」とエリートづらをして、のし歩くのに反感をもったのは、お布施を、「なんまいだ、なんまいだ」と数えて、坊主丸儲けを豪語していた寺ということになる。
「けったくそ悪い、仏罰をあてたろまいか」となったらしい。昔なら、僧兵でもくり出す所だろうが、時代も江戸期となると、そうもゆかず各寺の寺男から腕っ節の強いのが選抜された。
 ところが、ばらばらに寄せ集めたのでは、とても喧嘩にならない。そこで幡随院の住職良碩上人という坊主が、スカウトしてきたのが常平とよぶ者だった。
これに今でいえばジムを境内に作らせて、トレーニングさせてから、「幡随院の長兵衛」という寺の名をPRするような名をつけた。すると各寺から、「この小僧は頭がよぉないで、お経はなかなか覚えぬが腕っ節は強い」とか、「うちの境内で悪いことをした奴だが、強そうだから牢へ入れるよりは」といった連中を次々と、幡随院のジムへ送りこんできた。そこでこれらを順番に訓練して、「唐犬権兵衛」「小仏小兵衛」などと名づけ、とりあえず四回戦ボーイに仕立てると、
浄土宗だけでなく日蓮宗の寺からも、「法華の平兵衛」以下が送り込まれてきた。
また、浄土真宗でも、これとて、「念仏佐平次」といった連中を育てて送りこんできた。だから今でいう三派全共闘ということになった。そして各宗派をうって一丸となしたこの全仏教連合は、その総合名を、「黒手組」と、白柄組に対する名称にした。

後年は講釈師がこれを間違えて、
(花川戸助六を黒手組としてしまった)が、実際はこの時の連合団体の総称であるのが正しい。
もちろん、これだけに人数が増えてしまうと、寺でも布施やサイ銭だけでは賄ってゆけない。そこで「割元」とよぶ、男の派出野郎会を始めた。といって、この時代のことゆえ料理や炊事に廻すのではなく、武家屋敷へ供揃いの類の人手不足の折に出すのである。
さて、こうなると旗本白柄組のところへも注文があれば、人手をさしむけるようになる。

そこで双方が衝突となると、町奴とよばれる長兵衛方が向こうの内情を知っているだけに、なにかと好都合でゲリラ活動をする。
溜りかねた十郎左衛門が、向こうのボスの長兵衛と、(白昼の対決)をすることとなった。

ところがこれが無法な西部の荒くれ男なら、互いに路上に現れて、早射ちで相手を倒しあうのだが、まだアメリカなどという国は出来る前で、それに既に当時の日本は法治国である。
武士社会では「鯉口三寸(十センチ)抜いたら御家は断絶、その身は死罪」という治安維持法が千代田城の松の廊下だけでなく、広く一般にあった。
いまも警官はみな拳銃を持っているが、だからといってアメリカなみに、人をみたら泥棒と思えとやたらに撃たない。いや撃てないのと同じことで、武士が刀をさして
いるからといってテレビのチャンバラみたいに、抜かなくては損みたいに振舞わすということはなかったのが当時の実情だった。
それに武士の刀は公刀ゆえ、抜刀するには、やむを得ざる理由がある場合か、扶持を貰っている主君の許可がいることになっていた。
だから、果し合いは人目につかぬ室内となった。
この時、講談では長兵衛が風呂へ入っているところへ、卑怯にも水野十郎左が、「許せッ」と袴のももだちをとって押しこみ槍をつきつけ、裸の彼をブスリとやった
ことになっている。

     江戸時代に現代風の風呂はなかった

しかし、そういう事はなかったろう。第一あの時代にあんな当今みたいな体ごと入る風呂などははあり得ない。
 幕末まで、風呂というのは今のサウナみたいなもので、湯気で身体を温める式のものである。桶に水を入れてわかすのは、江戸中期でも五右衛門風呂といって関西独特のものだった。十返舎一九も弥次喜多が初めての経験のため浮板をとり、下駄ばきのまま入って釜をこわすように話を書いている。
 炊き口から火を燃やし積んだ石を熱して湯気をだすのは容易だが、ボイラーのない時代ゆえ、浴槽を作って中へ入るには、大きな釜を作るしかないが、それが技術的にも一人用の五右衛門風呂の釜くらいが精一杯で、何人もが浸れる大きな鉄函は当時の鍛工では出来なかった。

では身体ごと浸る風呂はいつからかというと、これは幕末の産物であって、初めは街道の茶店の葭簀の蔭に溜めた天水を入れた桶をおき、太陽熱で温かくなったのに、汗まみれの旅人が銭を払って汗流しに入ったものなのである。
 江戸では、川へ入っての水浴しかしたことのない薩摩人が幕末に増えてきてから、「水風呂」の名称でこれまでの蒸し風呂と区別して三田ッ原に出来たのが最初で、西部劇のバスなみに、ぬるくなると三助が熱湯をそそいでいたが、それでも、「水風呂で風邪をひいたとくしゃみをし」と物珍しさで入湯にいった江戸っ子の川柳があるくらいである。

つまり、こうした全身入浴の風呂なら生まれた侭の姿で入るが、ふつうの浴室はサウナゆえ、男は下帯、女も湯巻をまいて入り、その部分は目に入らぬから、
「男女混浴」も日本では自然だったのである。
 つまり長兵衛が湯船からザブンとでてきて、ぐっと胸を張って殺される場面は、恰好はよいが、あれは絵空事にすぎない。
『福山水野家記』によると、
「成之(十郎左衛門)三千石にて分家お旗本として召されしが、徒党をくみ競いあう。明暦丁酉暴徒(長兵衛)不敵にも忍びこみ襲う。発覚して浴間へ這いこむ。柘榴(ざくろ)口は狭少なるを以って入れず、成之の家臣これを仕付槍にて刺す。しかれど、その槍が権現さま拝領のものゆえ、その時はお構いなかりしがその後も乱妨やまず七年後に蜂須賀家へ預けられ、家事不取締に問われ死罪仰せつけられ、成之の家系はこれにて絶ゆ」とある。

福山十万石は十郎左衛門の里方ゆえ身びいきもあるだろうが、三千石の直参旗本が、割元風情の男を自邸に招待するというのもおかしい。
やはり実際は秘かに邸内へ忍びこみ、見つかって這って潜れる柘榴口から隠れ、これを十郎左の家来が突き殺したのが本当かも知れぬ。となると、これまでの芝居はまるっきりの出鱈目、フィクションということになる。

しかし双方共に、別に男を売るといった事より、ありては白の神信心と、それに対抗する黒の仏徒側の宗教争いゆえ、それくらいが落ちかも知れない。
 が、今でもテレビドラマをみて実存と思い込む人がいるように、日露戦争後から大正にかけてのデモクラシー時代に生まれた(町人の味方の侠客長兵衛)というイメージにとりつかれ、十郎左を悪玉扱いする向きもあるが、それではせっかく明智光秀の槍を貰ったその祖父の水野藤十郎勝成にすまないようなもので、「男でござる」と客観的にいいきれるのは、作りものということになるのであろうか。カッコがよいのやらもっともらしいのは信用できかねる。