朝鮮通信使の真実 石平氏渾身の一冊 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本に帰化して13年、良質な元中国人、石 平 氏の渾身の一冊
「朝鮮通信使の真実」の紹介 
日本人を「羈縻」(きび)と見下した朝鮮人
朝鮮通信使は友好使節ではない
事実上の朝貢使節だった
日本人に、美しい国土に、文化にも、日本で見るもの聞くものすべてに難癖をつけた通信使

 

 

 

現在何かと問題の多い韓国だが、韓国が李氏朝鮮の時代には、日本に朝鮮通信使を派遣していた史実がある。
この通信使は一体何の目的で日本にやってきたのだろうか。日本人が学校で習い、また現在通説となっている「友好親善のため」とは全く違う目的があったのである。
最初は大阪落城後、九年を経て、徳川家康が江戸幕府を樹立した時が第一回に当たる。
詳しくは江戸時代の慶長十二年から、文化八年までの二百数十年間、朝鮮王朝は十二回にわたって、徳川幕府に、外交使節団を送ったのである。
これは日本が朝鮮使節をお願いして呼んだわけではない。向こうが自主的に、勝手にやってきた。
当時の李氏朝鮮も中国(明)に朝貢していて、日本にも同じく朝貢していたのが実態である。
この通信使の正使や副使らの書いた「日本見聞記」には驚くべきことが書かれている。
それは日本に対する劣等感から生まれた、日本増悪が文中の至る所で爆発している。
以下にこの本の一部、106ページから109ページを引用して紹介します。


以上は、現代の韓国人学者である鄭章植氏によって紹介された、朝鮮通信使節団の一員である南龍翼の示した通信使派遣の目的に対する認識であるが、
その中で南龍翼はまず、通信使の派遣は清朝の朝鮮に対する侵攻とは関連性のあることを示唆した。
「朝鮮は『胡乱』(清の侵入)に遭いながらも、南辺の不安を憂慮した云々とはまさにその意味である。
それは、本書の第一章の分析とも合致しているところであるが、その一方南龍翼は、「日本に頼るのではない、日本の武力を借りるつもりはない」ことをことさらに強調して、
朝鮮王朝のプライドを守るために、日本に頼っている事実を必死になって取り消そうとしているのである。
 
そして案の定、彼はここではやはり、「羈縻」という言葉を持ち出して、日本への通信使派遣は文明的上位国の[蛮夷]に対する教化政策だと解釈した。
 世界大百科事典第2版の解説によると、いわゆる「肩摩」云々とは、中国歴代の王朝が周辺民族に対してとった「肩摩政策」のことを指している。
語源的に言えば羈縻の「羈」が馬の手綱。「縻」が牛の鼻綱のことで、そこからつなぎとめる意味に転じたという。
文明の中心国が周辺の「蛮夷民族」を手綱や鼻綱で馬や牛をつなぎとめるように懐柔して支配下におくのは、まさにこの「羈縻」という言葉の意味合いである。
 朝鮮知識人の南龍翼はここで、朝鮮を文化的中心国だと自認した上で、日本のことを牛や馬のような「蛮夷国」だと見なし、朝鮮による「羈縻」の対象にしているのである。
したがって彼から見た朝鮮通信使の使命とはまさに、朝鮮王朝の「正道」にしたがって、日本を「羈縻」し「教育感化」するために日本にやってきた、ということである。
 しかしどう考えてみても、南龍翼の示したこの認識は、現実の中にある日本と朝鮮の立場と、現実にある通信使の実態とは正反対であろう。
 朝鮮は文明的上位国として日本を「羈縻」しているわけでは全くない。そんなことはできるはずもない。
朝鮮はただ、日本に平身低頭して朝貢使としての通信使を大人しく派遣してくるだけの国である。朝鮮は文化的中心国として日本を「教化」しているわけでもない。
水車もサツマイモも日本から導入しなければならない朝鮮は、一体どうやって日本を、教化」すのであろう。

 そして、このことを何よりも知っているのは南龍翼らの通信使ある。毎回の朝貢の旅では彼らは徳川将軍に向かって朝貢の拝礼以上の四度半礼をしなければならないし、
幕府からの朝貢使扱いに甘んじる以外にない。南龍翼本人に至っては、彼が従事官を務めた通信使節団の任務は日本の将軍家の世継誕生への祝意表明であることは周知の事実であり、
彼らの一行もまた、家光の命によって不本意の東照宮参詣を余儀なくされた。

 つまり南龍翼は、自分たち通信使のやっていることが屈辱の朝貢であることを身を以て知りながら、「羈縻」だの「教化」だのの上目線の言葉を持ち出して、
自分たちの惨めな立場を粉飾する以外にないのである。それこそは阿Q流の精神的勝利法の朝鮮版そのものであるが、こういう立場に立たされた朝鮮知識人の哀れさと苦しさは、
痛いほど分かってくるであろう。
 こうした哀れさと苦しさの中で、通信使として来日した多くの朝鮮知識人の場合と同様に、南龍翼のとった心の自己防衛策の一つはすなわち、
自分たちの得意する儒学や詩文を鼻にかけて、日本人を徹底的に馬鹿にすることである。

例えば南龍翼の日本人に対する酷評について、鄭章植著・前掲書はこう記している。
 「『人物』においては、(南龍翼からすれば日本が)海外の無識な土地なので、これと言える人物もまったくないが、例外的に目につく者がいると、古来の文士二十人、
武将十九人、現存の老中を評価しているが、やはり人物についても酷評に近い。当時の日本文筆界の第一人者と言われる林羅山を、『詩は格調がまったくなく、文も蹊径に疎く』」と記したように、もっぱら儒学と詩文が人物を評する尺度になった」
 「(南龍翼が)帰国後に書いた使行録には、日本の儒学を指導する立場で忠告し、日本の詩文が稚拙だと評し、日本の学問をそしるのが常であった」(鄭章植著・前掲書)
 鄭章植著・前掲書はまた、南龍翼が囗本の詩文と学問を譏るために書いた下記の文章・・・・・・・。

以下略

 

 韓国が何故現在も日本を貶めることばかりするのかという詳細は、本書を読んでいただければ理解できるでしょう。
現在の韓国を知る上での必読の書と言えます。
ここからは私の持論になるのだが、日本の奈良時代は紛れもない百済人が建てた政権なのである。
(ここのところの詳細は、当ブログ「坂上田村麻呂」も併読していただきたい)

日本に来ていた百済(馬韓)人が、奈良に君臨し、同じ朝鮮半島からきて日本に定着していた新羅(辰韓)人や高麗(弁韓、現在の北朝鮮)人たちを、蛮族として撃ち払い、寒冷地の東北地方へ押し込めた歴史がある。
その後大陸の強国唐が勃興し、半島の朝鮮三国は占領され、余勢をかって唐は日本に上陸し奈良王朝を倒し、藤原王朝をたてた。
これを日本史では「平安時代」という。この王朝は三百六十年続くのだが、源頼朝の騎馬系部族と(新羅系、高麗系を含む)北条政子の海洋渡来系部族が協力して、
鎌倉幕府を開いた。次の足利氏の室町幕府、戦国時代から信長、秀吉の桃山時代を経て、家康の江戸時代となるのだが、
これらは全てが、騎馬民族系か海洋渡来系、即ち「日本原住民系」の政権なのである。

豊臣秀吉になると、天皇家を取り巻く公家たちは大陸系血脈だから、彼らを纏めて大陸へ追い出し、己が日本原住民を代表して新天皇になろうとした。
そのために己の新御所として、京の十丁四方を取り壊し、豪勢な聚楽第も建てた。
大陸に打ち入るため朝鮮を通り道として(文禄・慶長の役)北京周辺を占領して天皇や公家たちに与えようとしたのである。
だから、朝鮮の占領など全く計画になかった。しかし朝鮮としては秀吉の雄大な計画など知る由もなかったから、日本軍と戦った。
しかし、武力(鉄砲)の差は圧倒的に日本が優勢で、朝鮮は敗北の一歩手前まで行ったが、大陸の明軍が鴨緑江を渡って援軍として来てもらい敗戦は免れた。
この戦争により、朝鮮は、国土は荒廃し人心も乱れ、日本を恐れ憎むことになる。
だから朝鮮通信使の第一回は、家康が国交回復につとめた結果、日朝和約が成立したので「回答兼刷還使」と呼ばれていた。
秀吉に侵略され懲りたので、次の徳川政権の動向を探りに来たのである。
だから朝鮮としては、かっては奈良時代、日本に君臨していたのに、秀吉によって逆に攻められ苦しんだ。
その後、江戸時代になると、軍事も文化も経済も全てが朝鮮を凌駕している現状を羨み、妬み、その裏返しの感情が精神的優位性に頼った結果、悪口雑言の羅列になったのだろう。

現在発行されている韓国、中国関係書物の一部を以下に挙げておきます。
「ゆすりたかりの国家」「歴史を捏造する半日国家・韓国」「韓国・韓国人の品性」「反日・親北の韓国はや制裁対象」「恩を仇で返す国・韓国」
「韓国を救った日韓併合」「優しい日本人哀れな韓国人」「中国・韓国の正体」
史実を丹念に抉剔した良質な本が多いが、紹介した「朝鮮通信使の真実」は是非一読していただきたい珠玉の一冊です。

奈良時代については以下に記しておきます。

 
哀号、哀号と奈良時代を懐かしむ挽歌
記紀は藤原氏によって捏造された。

西暦8世紀の人皇43代元明帝の710年から、784年の人皇50代の框武帝の延暦三年までをさし奈良時代とします。しかしナラはクダラ語で言う処の国の意味なのです。
 西暦六六三年の白村江の戦いで、奈良王朝の百済人は、本国のクダラ救援に総力をあげて攻めこんでゆき大敗した。その翌年から当時は三つ編みの弁髪の中国の将兵たちが堂々とのりこんできて、
奈良の王宮へきていますのに、なんで今さら唐によって滅ぼされてしまったクダラが、日本列島にナラ王朝などを作り得るでしょうか。変な話だが、これには裏がある。

 また仮りに8世紀初頭から、圧迫された日本原住民たちが堪りかねて捲き返しに一致団結して、駿河の清見潟までアイウエオを一二三四五の合言葉に怒濤のごとく進撃してきましたゆえ、
大東亜戦の時に本土決戦にそなえて信州の松代へ大本営を移そうとしたごとく、20世紀の今でさえワラビ採りに行った主婦二人が襲われ殺され迷宮入りしているような、
辺ぴな長岡へ急遽、都を移した延暦三年までがクダラ王朝であるとみるならば、これまた可笑しなことが二つあります。
 この年代に、まず古事記が712年にでき、ついで8年後に、日本書紀ができている事なのです。

 クダラ王政下でしたら諺文(おんもん)でなくては変なのに、これが唐よりの四角い文字即ち漢字で書かれているという事である。マホメットのコーランがイスラム語で書かれているからこそ信用されるのでして、もしラテン語でしたら十字軍遠征時代の手作りと怪しまれ、
絶対にアラブの信仰の対象にはならないでしょう。
 仏書や仏典にしても初めはサンスクリット語のものが、中国経由で渡来したからこそ漢字漢文になっても許容されている。
それでも梵語、梵字も伝わっているのです。となると漢文体の古事記や日本書紀の原本も中国大陸経由できたものでしょうか。オンモンとよぶ朝鮮文字が共に残っていないのも、実に変な話です。
 唐令そのままの大宝律令が、飛鳥浄御原律令を拡大整備させたものとし、藤原不比等が立法化したとされ、
彼が西暦708年から右大臣となるのも、これまた、まことに申して辻つまが合いません。


 その才覚をかって登用とか、藤原鎌足の子ゆえといろいろに言われますが、正直に申して朝鮮の人より中国大陸の人方が頭が良かったということもありません。
ただ本当の歴史からみて中国大陸の唐人は戦勝人間でして、朝鮮半島人は当時は戦敗人間だっただけ差異でしかありえません。

 さて大陸人は、白村江の戦いの前から日本へ渡来してきていたのを桃の文字を使用し、その後は藤と変えますが、この時代からは藤原と同一の貴姓にします。
騎馬民族の崇神王朝系の蘇我の人々が、芝居では「曾我の仇討」という同音の当て字も使いますが、一般には「われこそミナモトの民なり」と源を姓に統一しますし、
その前の天の王朝系も当初は、みな天の御一門である。のちになると改姓して皆それぞれ熊野者も「平」の御一門となる。

処が百済、新羅、高麗となると統一姓はございません。「コウラーイヤ」と芝居で松本幸四郎らに掛け声が残る他は、瀬戸物の青磁の名物ぐらいです。
もちろんコマと縮めれば、狛犬とかコマエ百姓、独楽のコマの原語もそうですが、占いコックリさんとしても残っている。

 新羅となると、八幡太郎義家の弟で、新羅三郎義光ぐらいで統一姓どころか何も伝わりません。
 百済にしても「クダラにあらざれば人にあらず」とし、クダラねえといった俗語が21世紀の今でも使われる程なのに、法隆寺の百済観音像の他は、平安初期の画人百済可成の名ぐらいしか残りません。
 三韓時代から日本列島を植民地にして、あらゆる地域を三分し備前・備中・備後と命名していたくらいのオーナーなのに、各別はおろか統一姓すら伝わっていなくて、
奈良の国名すらも、今では「オナラのごとく消え」とされ、江戸期でも「音はすれども姿はみえず、ほんにそれゆえヘイ城京」と狂歌にされているくらいです。

ということは徹底的に奈良人は進駐軍によって奴隷扱いされキイの川の流域に初めは閉じこめられ、やがて男はヨボの走り使い、女だけは単身進駐の大陸人の臥床御用だったようです。
 「いにしえのナラの都の八重桜今日ココノヘに匂いぬるかな」の唄にしても、

桜の花は八重桜にしても染井桜にしろ決して芳香などは致しはしません。
 また、良い香りは、かおると言いまして、匂うというのは臭いということです。ヤエは古代クダラ語の女人のこと。サクラは寅さんのような香具師言葉になっては、人寄せの連中の意味になりますが、
群がるとか多いの複数の意味でした。つまりこの歌を綺麗ごとに教えこませているのは学校歴史の嘘でして、当時の怨歌であるこの意味たるや……

昔の奈良の女どもは粟ばかり食していたゆえ、キビ、つまりコウリャンを食させるようになったので、消化不良でガスが溜るのか、その最中にさえプウスカ洩して臭くて堪らぬわえ……
といった進駐軍の歎きのバラードが真実なのであります。

 が21世紀の令和になっても「朝鮮美人」とよばれるのが、白人とのハーフ全盛の現代になるまではおおいに賞讃され、かつては女優の司葉子がそうよばれて人気があったのをお覚えの方も、
まだいられるでしょう。
 つまり8世紀を女上位の時代とみれば、ブウブウやりながらも威張っておられた奈良美人の世ですから、これを奈良朝とよんでも、一向に差支えはありません。
しかしクダラ系の中大兄の天智さまの死後、その御子の弘文さまを倒して、取って代わった天武さまは反クダラで大陸人である。次の持統さまはその妃であられたゆえこれは同系。

御子の文武さまとてやはり同系。ついで立たれて大和平城に遷都された元明さまとて文武さまの御生母ゆえ、やはり同系貴種であらせられるのであります。
次の元正さまも元明さまの皇女ゆえ同系。聖武さまは元正さまの御子ゆえ、やはりまた同系です。

 藤原鎌足の孫にあたると伝わる光明皇后さまを迎えて、おおいに仏教のPRをなされ、やがて御子の孝謙さまへ西暦749年に御譲位なされたが、
7年目にまた御自身が取って代わられて人皇49代の称徳さまにならせられたもうが、慎しむべきは何んとかの途と下世話にも申すよう、道鏡さまのことで問題になり、
やがて崩じられて、次は光仁さまの世となりまするが、さて781年の天応元年、「正月三日、光仁帝、不豫ノ故ヲモッテ、桓武四十五歳二譲位」という緊急事態となるのであります。

 何故に継体王統に突如として、この時に消滅させられていた奈良系の桓武さまが人皇50代になられるのかという謎は、なんの文献も残されてはおらず「六国史」にさえも何もでていません。変です。
 まさか唐によって滅ぼされた百済が、このとき再興して唐を破り日本へ攻めこんできて、河内の国より桓武さまをかつぎだしたという訳でもないようです。

だが、明白に同年十二月に前帝崩じたもうや、恐れ多くも桓武帝は「天皇哀号卜咽ヲ摧イテミズカラヤムコトアタワズ」つまり、帝は悲しまれて、
哀号、哀号と叫びつづけられ咽喉をつぶしても、なお叫ばれ哀悼の意を表されたというのです。
が何故にこんなことを、藤原勢力がここまで書き残しているかといえば、せっかくの王統がここで替わるゆえ、その埋め合わせに挽歌として強調して、こうした文章を書き加えたのでしょう。
不自然さはそのせいだという事がこれで判ります。
                 
つまり西暦七八四年までが奈良朝となるのならば、最後の3年間だけが実際の奈良系の王朝です。
それなのに一括し「奈良朝時代」などと日本歴史がするのは、結果論によると申しますか、はたまた、「終りよければ、すべて良し」のきめつけでしょうか。
まことに何も裏付けするものは残っていません。
これは中国勢力(藤原氏)が自分たちの都合で、すべて匿してしまっているので、今も誤られている藤原日本史なのであります。

さて、せっかく大化改新のクーデターを敢行させた黒幕のフィクサー藤原鎌足が、中大兄の死後はその御子の弘文さまも殺して、自分らの世となし、
朝鮮美人の臭みにも馴れ、おおいに持ちこんできた仏教の興隆につとめていたのに、この期に及んでどうして、又も逆に戻ったのかとなります。

それは日本原住民が蜂起したため、治安維持のために旧奈良人を味方にせねばならぬ突発事態になったから、やむなくとった政策であろうと想われます。
その証拠に、西暦七七四年七月に藤原王朝は、陸奥按察使兼鎮守将軍大伴駿河麻呂を副将軍として河内守紀ノ広純を任命して、検税使を各地に向わせ反乱鎮圧に出向いているからである。
そして駿河麻呂が討死となるのは日本書紀に書かれている。

さて、世に史書と云われるものは数多く存在する。記紀を「これしか無いのだから、これが正しい」として、歴史屋は金科玉条のものとする。
しかし、実態は上記した通りである。ここで一つ例を挙げれば、現在一級史料と云われる「細川家記」がある。
あれだけ詳細に書き残されているということは、本能寺を襲った第一戦部隊に、先祖の細川幽斎が参加していたという、事実を糊塗する目的の書なのである。
誰が、何のために、何を隠したいが為に書かれたのか、ということを必死に考えることが大切なのである。
そして、記紀などは「歴史の改竄」等の生易しいものではなく、己らに都合よく歴史を捏造したものだという事である。