帝国陸軍戦略を歪めた桶狭間合戦と 厳島合戦 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


帝国陸軍戦略を歪めた桶狭間合戦と 厳島合戦

 日清戦争のあと遼東半島が敗戦国の清国から、日本へ割譲されることになると、これに横やりを入れて反対してきたのが、当時のロシアだった。
 そしてフランス、ドイツを誘い、東洋の平和を害するから、これを還附せよと三国干渉をしてきた。名高い「三国干渉」である。
 
涙をのんで日本が屈服し返却すると、ロシアは関東州を租借し旅順に東洋一の要塞を作り、あべこべに日本を脅かしてきた。これは売られた喧嘩であり、後年云われるような「軍国主義」ではない。
 「このままでは日本は潰される」国民の一人一人が憂えたのである。軍部も国民全体の輿望をにない、いかにして強大な敵を防ぐかと、日夜涙ぐましい努力をした。
 しかし比べようもないほどに当時のロシアは大国であり、日本は小国である。彼我の動員できる兵員の差はありすぎ、猫に狙われる小鼠のような存在が日本だった。
 恐れ多くも明治大帝は日夜宸襟を悩まし給うたが、国民も脅えきって不安の内に動揺を押えきれなかった。
だから直接その衝に携わる明治軍部も上御一人に対し奉り、国民全体の危惧を守るため、「小にして大に勝つ事例」、つまり先例を求めるため、当時の歴史学者を総動員した。
今としては、出鱈目にすぎるものだが、どうにかでっちあげて作成されたのが、「参謀本部編日本合戦史」で、これが、この時の所産である。そして当時の歴史学者は、

 「奇襲」として、まず織田信長の桶狭間合戦。ついで、「狭に小な地域を作戦上利用すれば、そこへ投入された敵の大軍は混乱してしまい、味方は小軍であっても、これに乗ずれば潰滅的な打撃を与えられ、全滅すらもできる」と、
その好個の戦例として、毛利元就の「厳島合戦」をとりあげ、これを当時の明治軍部に推せんした。さて、「餅はもちや」と軍部は歴史学者を信用した。
だから、「戦国時代の信長や元就のやった事が、我々にできぬことはない、彼も人なり吾も人なり」と発憤した。
 その結果が、大東亜戦争になると、これが参謀本部の作戦指導方針になり、一にも奇襲、二にも奇襲といった戦法になって、
 「狭小な土地に敵軍を導入すれば、敵は混乱して、吾が軍の勝利とならん。毛利元就の厳島合戦を見習え」ということになった。

 この結果が、まずアッツ島の玉砕、タラワ、マキン、そしてガダルカナルから、インパール敗退。サイパン、沖縄と、吾々日本人たるや、かっての日本歴史に現れた厳島合戦の先例のため、どれだけ無益な死を選ばされたか分らぬ。
しかし、常識で考えても、狭い土地に多勢が押よせたからといって、少数の方が地の利を得て勝つということが本当にあるのだろうか。
 最近の日本は戦争をしていないが、昭和の学生デモを見ても、佐世保、成田、神田、新宿などでの全学連と機動隊の衝突では、いつでも圧倒的に数の多い方が勝っている。つい先日のフランスのデモの画像でも、警察は圧倒的な数である。

ましてや戦争というのは古来どんな場合でも、大軍の方が優勢なのは決りきっている。なのに、なぜ日本だけが、「狭い限定された地域では、小軍が勝てる」と盲信され、多くの同胞が死ななくてもよいところで、戦死をしいられてしまったのか。

歴史解釈の誤り 

 今日では、軍国主義が悪い。作戦指導を誤った旧軍部が悪いという。だが、そんな事をいっても、こういう盲信がある限りは、また同じ繰返しが将来起きないとも限らぬ。
よってそれを避ける為にも、
「軍部を誤らせ国民の多くを死においやった昔の歴史解釈の誤り」は、この際それが意外であっても、あくまで真実は見つけねばならないのではなかろうか。
 さて、日本中どこの神社でも、その社頭の立札には「魚鳥とるべからず」とか「殺生禁断」とでている。これは厳島神社も同じである。
 しかし、その殺生禁断を社前だけではなく、宮島全体にまで範囲を拡張したのは何時頃からか、というと、毛利史料では、これを古来からの掟のようにしているが、実際は厳島合戦前はそういう事はないのである。

 例えば大永三年に、ときの大内義興が友田興藤を討つ時も、大内の臣弘中武長は水軍をひきいて宮島へ渡り、友田勢と戦い血を流して島を占領している。
 だからもし、島全体が殺生禁断の掟が古来からあったものなら、ここが戦場になる筈はない。だいたい、「厳島(宮島)は明神の霊域ゆえ一切の不浄汚わいは古来から厳禁。死人がでたら土を削って海中へ流す」
 というのが文字に残っているのも、これは十月二十八日だけで、年は不明の神職棚守房顕がかいたものである。
 この者は厳島合戦の終ったあとの閏十月一日付けをもって、毛利元就より表彰状を貰っているから彼は同時代人である。そして、
 「もし浦々に死人がでたら、これは海中へ投ずる定めになっていた」と、「野坂文書」に入っているものときたら、厳島合戦後の二十九年目に当たる天正十一年三月十三日の日付で、元就の孫の毛利輝元が発布したものである。
 
 つまり厳島合戦の始まる前にあっては、世問なみに、社前での殺生禁断の立札位はあっだろうが、それを破ったらどう、というような掟などはなかったらしいことが解る。
 なのに突如として、「厳島神社のある宮島で、人を殺したり怪我をさせたら、神罰をたちどころに蒙る」といったような話が弘まったのは、マスコミがなかった当時としては、口コミとしか考えられない。
すると宮島に当時多くいた琵琶法師たちの組織的活動がどうも決め手になってくる。このため後年になると。

毛利元就の策略

 「毛利元就公は、つれづれのあまり琵琶法師をよんで平家物語を語らせた後、宮島は狭小の地だが彼処(あそこ)を陶(すえ)方に占領されては、毛利家は潰れる他はないと歎いてみせた。
そこで法師は、これは良い事をきいたと陶晴賢に通報したので、晴賢は膝を叩いて喜び、宮島が元就の泣き所であったか。これは吉報を知らせてきたものであると、その法師に多額の褒美を与え、すぐ大軍を催おして宮島へと渡った。

 そこで元就公は、愚かなる敵めは、まんまとわが罠に落ちたり・・・・・・何万の大軍が猫の額程の島に押し渡っては、足の踏み場もない程の混雑ぶりであろう。これぞ天の賜りたる幸運である。
小なる軍勢にして大をうつは、それ地の狭小を選ぶべしとは兵書の教えにもある。もはや勝つたるも同然であると、弘治元年(天文二十四年)九月晦日(みそか)。
宮島へ向って渡海されると屍山血河の大奮闘にて逆臣陶晴賢以下一人残らず討取られ、その勇名を天下に轟かせられた」というような話にもなる。

 だが、これでは、毛利元就の息の掛った神官の棚守や元就の孫の輝元が、しきりに、「安芸の宮島は殺生禁断の地にて、もし死人を出せば、その上を削って海へ投じねばならぬ程で、人殺しなどしたら神罰てきめん」
 と宣伝している話と、元就が島を襲って片っ端から殺人を犯し大勝したのとは、あまりにも矛盾しすぎる。
 「君子は豹変す」というが、厳島神祉の神霊も、特別に元就に対してだけは神罰を見合せたのだろうか。狭小の地だから小軍が勝つ」というからくりは、どうもここらに、その謎が秘んでいる。
大内義長の差し向けた諸将の一人で陶晴賢との激戦で厳島合戦の様子が毛利史料では「漸獲首級四千七百余」とその凄まじさが出ている。