染井吉野異聞 大老柳沢の陰謀  | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本各地に桜が絢爛と咲き誇る三月。染井吉野にまつわる、権力者の爛れた欲望に翻弄された哀しくも憐れな女「染子」と、権力の陰謀に加担し、利用された松前伊豆守。
 そして柳沢大老一味による贋金造りの発覚を恐れて殺された吉良上野介の、これは悲哀史なのである。

江戸時代、徳川家は、多くの大名を取り潰し、その実収は四百万とも五百万石ともいわれていた。
 一方、京の天皇の居る御所の収入は、僅か二万石で、徳川和子が入台した際、化粧料として一万石を持参した為、合計で三万石だった。
だから当時、京の公家は姫を関東の大名家へ側室奉公に出し、その支度金や送金で生計を立てていたのである。
そして江戸の町屋の娘が芸事を習って芸者に出たように、幼児より今で言うベッドサイドブックの、枕草子や四十八手春画入りの、現在現代語訳で出版されている源氏物語とはまるで違う、
ポルノ本で性教育をされていた。

 (注)この「源氏物語考察」は、平安期王朝文学の華で高尚なものとされているが、間違いで、これは進物用のポルノ本だった。
さて、五代将軍徳川綱吉も、御台所は京から嫁いできた鷹司教平の娘信子であった。信子と一緒に京からついてきた梅小路局、右衛門助局、大典持局たちも綱吉は側室にしていた。
一方、綱吉の寵臣で時の老中、柳沢吉保も正室さめの他、側室として正親町公連卿の妹町子を始め何人もの侍妾が居た。 さて、綱吉の側室の一人で染子という女が居た。
彼女は四代将軍家綱の許へ、京より近衛関白家の姫が輿入れしてきた際、共をしてきた中に当時十三歳の染子が居た。彼女が大奥で一の井戸番の大役を七年間勤めていたが、
二十歳の時綱吉の目にとまり側室の一人となった。 綱吉は染子を気に入って多くの時間を染子の許で過ごすようになった。処が綱吉は染子を寵臣である柳沢吉保へ下げ渡してしまう。
 時に染子は綱吉の子を身篭っていた。綱吉のこうした行動は奇怪だが、彼が上州館林の頃の家老であった牧野備後守を、将軍宣下と共に側用人として江戸へ連れてきた。
その心安さからなのか牧野の妻女と娘までも共に差し出させ、用いていた事実がある。 これを綱吉の性癖として片付けるには、その気性の異常さが窺われて、歪んだ性格がみてとれる。
さて、元禄八年四月。石神井の三宝将池を水源地にし、滝野川から巣鴨へ清らかな千川上水がそそいでいる当時の駒込村四万七千坪を、将軍綱吉より、「別邸でも作るがよかろう」と柳沢吉保は拝領した。そこはかねて染子が、茶を入れる清水を求めに使いを出し、水を汲ませていた井戸があった土地である。

 

そこで吉保は考え(これは染子が上様に寝物語に話して、では水を求めに使いを出すのも厄介であろう。よし、ではあの一帯をそなたにくれてやろう・・・・と、便宜を計るために賜ったのだろう)と、
吉保は染子を呼んで、にこやかに微笑して見せ、 「染の井戸からとって、拝領の一帯をば染井とつけようぞ」と労るようにいって聞かせた。

 それから己が名を取って、「染井」と呼ばれるようになった千川の沿岸に、童女の頃に親しんだ吉野山の苗木を取り寄せて、づらりと染子は気晴らしに植えさせた。
だから、元禄十五年になって、七年がかりで六義園が出来上がった頃には、染子が作らせた桜並木もみな成長して、薄紅色の花が一斉に咲きほころび満開となった。
そこで、「ほう、よき趣向であるな・・・・」と六義園初開きに招かれた将軍綱吉も、美しい吉野桜に感心してしまい、 控えていた柳沢吉保を振り返って機嫌よく顎をしゃくって見せつつ、
「この麗しい桜花は染子の志にて、ここに美しゅう咲き誇ったもの」目を細めていってのけてから、おもむろに、 「・・・・・・よって、染の桜とか、染井桜と名付けてはどうかな」
 共に一人の女を抱き合っている間柄の親感からか、相談する如く呼びかけてきた。
このため、江戸時代に染井の桜は有名になり、同種の花をみんなひっくるめて「染井吉野」と総称されるまでになり、今でも一般化されているし、昭和二十年のアメリカ軍の東京無差別大空襲で焼き払われるまでは、「飛鳥の花見」として親しまれていたものである。 知ったかぶりをする歴史屋は、吉原の遊女吉野太夫の命名だというが、
吉野の桜を染子が名付けたのが本当の処で、それが徳川体制下ゆえ広まったのである。
が、生きていた頃の染子は、「一緒まい」つまり京言葉でいう、共用の女と秘かに町子たちに蔑まれつつ、 「うちかて、何も好きで二人の男はんに抱かれとうて、抱かれとるんやないし・・・・」と、
 桜の咲く季節だけでなく、何時も涙ぐんでいたのは、今ではあまり知られては居ないようである。
「染井吉野」の由来もだからまるっきり判らなくなっているのである。 また染子がテレビの如く綱吉を振ってのけ、そのため館林へなど遠ざけられては、その後五十五回も、わざわざ綱吉が柳沢邸へ通ってくる筈などない。 さて、綱吉が柳沢邸へお忍びで通うたびに、一番悩まされたのが、警護を言いつけられる、京町奉行から、柳沢の推挙で栄転してきた、
江戸南町奉行の松前伊豆守で、「染井の桜は見るのも嫌だ・・・・・」と、口癖にしていたというが、この男も当時としては柳沢の犠牲者の一人だったのである。

  蝦夷地(北海道)松前城下町

「どうせ住むなら、御城下の浜よ、町は五万石お膝元」と<松前追分>では唄われている。 だから、松前藩は俗に五万石などと間違われていわれている。
しかし、「黒印制書」を徳川家康から賜った初代藩主松前志摩守の時でも、米作をしない北海道のことゆえ、何石といった明示はされていなかったのが本当のところ。
 つまり北海道人(アイヌ)の住む一帯を支配して、交易によっての利益を収入とするのを許すといったお墨付きを貰っただけである。 そして慶長九年正月二十七日付の、
この一札で松前家は大名になったから、「福山城」を築き城下町も作った。それでも元禄十五年には福山城下の和人は五千人で、当時は北海道全体で二万人足らずゆえ相当に繁盛していたことになる。
余談になるが、松前藩の勢力範囲といっても、北海道全体には及ばなかった。だから現在の北方四島には和人は住んでおらず、オロッコやギリヤーク族が少数住んでいた。
従って、外務省が「日本固有の領土」というのは無理がある。
さて、松前氏を名乗るようになってからは、慶広が初代でも、蠣崎信広から通算すれば松前伊豆守高広は九代目にあたっている。
しかし、「我が家は、大名とは申せ禄高なしゆえ・・・まことに恰好が付かぬため、例え形式にせよ何石でも付けて下されば、少しは肩身が広かろうにと、祖父公広、父氏広も、熊皮や鮭のごとき土産物だけでなく、
黄金を老中や若年寄にも贈られた。が、受け取る時は恵比須顔でも、後はどなたも知らん顔」 跡目を継いだときから、如何にすべきか考えこんだ。
何とか他の大名並にして欲しい、というのは松前家代々の悲願で祖父の代の前から、運動はしていたが駄目だったからである。

 
蝦夷の土産や金を送っても何の報いがないため、伊豆守はここで新たな決意をした。
というのは、とき貞享から元禄になった頃で、七歳のみぎり、切米十俵で、「坊主役」で奉公していた者が、小姓から小納戸役に出世し、元禄元年十一月には、
「側用人」となり一万二千三十石にまで立身しているのを聞き、それが、 (その柳沢弥太郎吉保が、将軍綱吉とホモの関係で取り立てられた)ことは、松前伊豆守はまさか知らぬものだから、
大いに発奮してしまい、 「・・・・御当代の将軍様は、誠心誠意に勤めさえすれば、坊主役ぐらいの者でも万石大名にして貰える。だから自分もしっかり働けば、普通の大名並にして貰えよう。
巧く行けば何処かへ御国替えして頂けて、ちゃんとした領主になれるだろう」と伊豆守は覚悟をはっきりつけたのである。

  松前伊豆守、柳沢の贋金造りの加担をする  (最後まで正式の大名になれなかった松前伊豆守)

この後、伊豆守は柳沢に役職に付かせて貰おうと願い出た。この時代、俗に金儲けしたければ長崎奉行、損をする気なら厄介だけの京町奉行と謂われていた、
精々三千石どまりの旗本が勤める軽い役職の京町奉行にさせてもらった。 この時、柳沢は三州吉田城主小笠原佐渡守を京所司代に代え、伊豆守は町奉行としてその補佐役となったのである。
 さらに、京に顔の聞く高家である吉良上野介からは、「このたび京でなされることは、お上の為の天下の大事、よって大いに励みなされ」と言われた。
 そして、「こちらが京銀座の年寄り役深江作左衛門、そして柳沢様の御名指しにて、新鋳小判の一切を宰領するすることとあいなった中村内蔵助である」京まで同行してくれた吉良上野介の引き合わせで、
京銀座鋳造方の者らに逢った松前伊豆守は、色々と聞かされて、初めて事の重大さに気付き眉を吊り上げて唸った。なにしろ、これまで通用していたところの、慶長大判以下のあらゆる金貨を流通禁止。

そしてお上の権威で全部回収してのけ、江戸の金座銀座では人目につくから、京で銅を入れて作り直して数量を倍にして発行するというのだから、はっきり贋金つくりをするのも同然の話である。
 この陰謀の発案者は荻原彦十郎重秀で、協力者は京所司代小笠原佐渡守、吉良上野介、松前伊豆守、中村内蔵助、そして裏で糸を引く大物は柳沢吉保となる。
そしてそれから、何とかして他の大名並に本土へ国替えして貰うか、さもなくばせめて恰好だけでも何万石かの格式にして欲しいと大いに頑張った。

   松前伊豆守 交代寄合衆に出世する

元禄十年四月になって、それまで三州吉田四万石だった京所司代小笠原佐渡守が、武蔵岩槻五万石に加増され、柳沢によって待望の老中職に抜擢されて栄転となった。
松前伊豆守も六年間にわたって、ひたすら新鋳貨幣の秘密護持に挺身した報酬に、「江戸町奉行」となり、京から小笠原と共に戻ってきた。
 しかし当人にすれば、せめて大目付の役職ぐらいにはしてもらえるつもりでいたゆえ落胆した。
 のち十代目松前矩広の代になって一万石並び格、十一代松前邦広になって初めて一万石扱い格と昇進できるのだが、この時六年間の努力によって得た処の交代寄合格というのは、
「禄高は一万石未満であっても、旗本並に列せずして、大名の格式に準じて待遇される格式であって、参勤交代を命じられる事もありうるもの」まあたいした身分ではないが、
異端大名の松前家にとっては、これまで何の格式も無かっただけに、福山城へこの知らせが届くと、搾取され続けの北海道人のピリカメノコまで動員され、
「三日三夜にわたり福山城下は祝う」という記録が残っている程である。
記録と言えば、八代将軍吉宗の頃、元文元年になってさえも「蝦夷地には領主を欠く、天領の直領となし有能の士を送るべし」と、率直に板倉源次郎がその著の「北海随筆」に書いて幕府に建議している。
また半世紀後の天明八年に、北海道を回ってみた古河古松軒ですらも、
「蝦夷の地は松前公の支配のごとくみられているがそうではない。島の主というような者とてなく、領主といった存在は、住民は知らず各部落ごとのおとなの自治によって事を済ます」と述べている。

一四五七年の長禄元年五月にコシャマインが、侵略してきた武田信広に対して決起してから、慶長十一年八月に福山城を建て松前氏が睨みを利かせた後も、
寛永二十年のヘナウチの乱、慶安元年のメナミの戦いと、北海道では反乱ばかりが続いていたゆえ、 「木綿針一本で鮭五匹」とか、「熊の皮一枚で米一合」といった過酷な交換率で儲かるため、
松前の家来共は利潤追求ばかりしていて、民政はまるっきりほったらかしだったらしい。 だがそれでも、殿の松前伊豆守が晴れて格式を取得したとなると、
 「交代寄合衆にまで、殿様がなれたとは名誉なり」と福山では大喜びしたらしい。

   浅野浪士の刃傷事件起こる

しかし元禄十四年になって厄介なことが持ち上がった。柳沢吉保が勘定奉行に取り立てた萩原彦十郎重秀が、京の中村内蔵助を使って真鋳小判をどんどん製造して、
全ては万事めでたくやっていたのに、吉良上野介一人が、何故か急に高家衆より出世できぬことを不満に思ってか、 「この仕事、おろして頂きたい、辞めて隠居しとうござる」と、
改鋳盟約の五人組から、俄かに脱退したい旨を言い出してきたのである。
 当惑した柳沢吉保は、吉良の饗庭塩を追い抜いた播州赤穂の、浅野内匠頭に、秘かに策を授けたりした。 しかし、当人が失敗すると城中坊主部屋へ一人で隔離。
異例だが網掛けの籠が、千代田城中まで持ち込まれ、田村邸へ護送された。 到着した途端に浅野内匠頭は頸をバッサリ落とされてしまった。詳しくは判らぬが、松前伊豆守の睨んだところでは、 (浅野へは決して後で咎めだてはせぬから、殿中で吉良が抜刀するように仕向けろ)と柳沢が言いつけたので、
そうすれば吉良に「抜刀罪」を適用して閉門切腹させることが出来、脱盟者の始末が付けられる為と考えられる。
 それゆえ浅野も徴発するだけだから、本気で斬りも突きもせず、吉良にはぐらかされ、殺しもせず自分も死なぬ、といった古今に例の無い安全刃傷の結果となったものらしい。
柳沢も自分が浅野に命じたことが他へ漏れるのを恐れて、腹心の目付け役庄田下総守をつけてやり、ただちに浅野の首を取ったが、しかしそれで済む様な単純なことではなかった。
今は老中になっている小笠原佐渡守も、そこは案じて、江戸南町奉行になっている松前伊豆守を秘かに呼び、
 「吉良殿をば早々に始末せねばと、わしの屋敷近くの本所松坂町の近藤登之助の空き屋敷へ移らせたが、なかなかもって浅野浪人は討ち入りをしない」 と、困りきったように頸を振ってみせ、
「わしの先代からの家来で茶湯頭をさせている山田宗偏の許へ、もと浅野内匠頭の家来の大高源吾なる者が弟子入りしているゆえ、吉良が在邸の日時を教えてつかわせと、な」と、
言いつかったことを唸ったりしてみせた。
それゆえ、 「ほう柳沢さまが・・・・・」と松前伊豆守もうなづき、辺りをはばかって声を低くし、
「・・・・てまえにも実はそれとなく、浅野浪人が松坂町界隈に住むのを大目に見てとらせいといわれました」と告げた。
 「そうか、われらは柳沢様の御召にそって、吉良殿を浅野浪人に討たせ、始末をつけるよう手伝わねばならぬな」と小笠原はしみじみした声を出した。
さて南町奉行の松前伊豆守は先祖からの悲願を、何とか自分の代で達成せねば、先祖に申し訳ないとする悲壮な覚悟から、どんなことがあってもやらねばならぬと、
「十二月十条四日討入り」と決行日が前もって判ると、夕方は午後七時半で閉めるのが定法の町木戸を、定廻り同心をくりだして、赤穂浪人のために開けさせておく便宜を計ってのけた。
ここは芝居や、安藤広重の続きものの錦絵で、浪士討入りの引き揚げが、川舟に乗ってなされたように描かれているのは、まさか南町奉行松前が、柳沢吉保の命令で後援し、
秘かに町々の木戸を当日に限って開け放って便宜を計ってやったとは知らぬからである。

 元禄十六年になり、二月四日に大石らの死刑が執行され一件が落着。 ほとぼりが冷めるのを待ち、同年十一月十三日に、松前は褒美に、ようやく柳沢吉保から大目付に格上げされた。
 しかし松前家は、それでも正式の大名にはなれず、やがて慶応四年二月になって、 「朝廷に勤皇をすれば、必ず大名に致してつかわす」と恩命を拝し張り切ったが、
幕府軍脱走土方歳三らに福山城を奪われ、第十七代松前崇広は、「無念なり」と憤死し、やがて大名のなくなる明治の世となってしまったのである。