今川義元の首を取った毛利新助 信長の家臣毛利新助 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

   

今川義元の首を取った毛利新助

  信長の家臣毛利新助


 この時代は現代のように誤字当て字ということはなかった。なにしろ舶来の漢字は一般化してなくて、ただ音標文字みたいなものだったせいである。
つまり[毛利]も「森」も発音さえ似ていれば同じように扱われていたのである。
 「バジェー天主教史」にも、その名の出てくる豊後佐伯の切支丹大名の毛利高政も、「森勘八」という名の方が一般的である。
 だから毛利新助も「森の新助」か「門利の石松」といった通り名もあったろうか、と調べたことがある。しかし見つからなかった。

静岡県には「遠州の森村」という土地があるから、家康の家臣団には森を名のる者も多い。
 だが信長の家臣では、美濃系の森三左の一族しかいない。そして毛利と初から名のつくのは〈御湯殿日記〉や〈駒井日記〉に名のでてくる毛利河内守秀頼だけである。
 しかし、この人は尾張守護職斯波義達の孫にあたるから、もとは信長の主筋である。
 秀吉のごときは、彼は郷土尾張の高貴な家柄だというので、のちに羽柴姓から豊臣姓まで贈った。だから「羽柴河内侍従」とも呼ばれた時期もあった。

 桶狭間合戦の時に、この毛利河内守は、その弟の毛利十郎や、藤吉郎の嫁になる寧々の実兄の木下勘平(この翌年より信長の鉄砲奉行になる)と共に、まず今川方の武者首をとってきたということが
〈原本信長記〉には出てくる。だが、その毛利一族の仮名の中にも「新助」の名など入っていない。これはどうも赤の他人らしい。
 「毛利新助」の名が初めて出てくるのは、その桶狭間合戦のフィナーレにだけである。
 
「服部小平太が今川義元にかかりあい、膝の口を斬られて倒れ伏す。毛利新助、義元をうち臥せてその首をとる」という個所だけである。
 なにしろ織田信長にとって、この今川義元の首級をあげたのは、一世一代の晴れ舞台だから、殊勲者の新助は、その後さぞかし立身した事だろうと、とかく考えられやすい。
 なにしろ初めは尾張半国ぐらいの信長が、やがて、「天下布武」のキャッチフレーズで、どんどん立身してゆくから、小者として採用された藤吉郎でさえ、後には羽柴筑前守秀吉みたいに出世をする。

 だから、今川義元の首をあげた新助も、それ相応にエリート・コースを進んだとみられるが〈総見記〉といわれる信長家臣の一覧表にさえ、新助の名などは出てこないのである。
 天正十年の武田勝頼征伐で家臣団がみな大幅にベースアップされ、小姓の森蘭丸でさえも、美濃金山五万石の殿様になっているのに、新助ときたら、その加増の顔ぶれの中にも入っていない。
そして 桶狭間合戦の後は、新助の名は消えてしまって現れてこないから、討死かそれとも病死でもしたのかと思うと、そうでもない。
 彼が、その後も元気で息災だったのは、桶狭間から二十二年後の本能寺の変の勃発した時に「新助改め新左衛門」の名で、やっと出てくる。徳川史料〈当代記〉巻二の、
 「二条の城に入られし織田信忠(信長の長男)が『か程の謀叛を企つる奴ばらが、なんで街道口をあけておくものか』といえば、毛利新左衛門、福富平左衛門らは『もっともなる御諚』と申し上げ……」
 という個所と、それに続く、「御運も末と覚えたり。二条に相いたてこもりし人々、坂井越中、団平八、斎藤新五、毛利新左衛門ら究竟の衆六十五人。素不惜身命と戦えど相いはてる」と名が出てくる。
 
〈信長公記〉巻十五の「お討死衆」「ご近習毛利新助」と前名で現れ、その子の毛利岩」と並んで記載されている。

 つまり新助は二十二年前の桶狭間合戦の時と、二条城で死ぬ時の二度しか名前がでてこない男である。そして「城もち大名のリスト」に入るどころか、二十二年たっても「ご近習」ぐらいにしか立身していなかった。
果たしてこの謎は何だろうか。「手柄さえたてたら出世する」というのは、少年立志伝とか講談本の類であって、現実の世の中では、いくら頑張ったところで案外に立身など出来るものではない。
だから、その四世紀後の石川啄木でさえ「働けど働けど、わが暮し楽にならざり、じっと手をみる」といった短歌を作ったりするのである。
 
当今でも、いくら精一杯に努力し会社の為に働いても、なかなか部課長に出世できない人も多いと想う。まじめに精勤しても役付きになれず停年退職する不遇な人もいる。
 女房などというものは「あなたは甲斐性なしねえ」と同情するような、しないような言葉をやたらと、夫に向って口にしたがるが、「男というものが世の中を生き抜いてゆくのは……そんな甲斐や不甲斐の論ではない……十六世紀の毛
利新助をみろ。今川義元の首をとったところで、生涯、役付きに出世できず、ひらの近習のまま、最後は命まで捧げているんだぞ」と、それを説得させる為にも、この謎に迫ってみよう。

桶狭間で義元を討ち、鉄砲を掻っ払ってきた連中には、一挺につき銭を何枚と恩賞が初から決っていたが、義元の首には御褒美なんか定めてはいなかった。
 毛利新助が切取った義元の首を、今川の家臣岡部五郎平(五郎兵衛元信)が信長から「今川義元の首級を取り戻したるは、東国にては知らぬ者もなき有名な話なり」と大久保彦左の〈三河物語〉にも記載がある。
 さて、それとは別に、
 「小軍にして大敵を恐れるなかれ、運は天にありの語を知らずや。掛らばひけ。退かば引付くべし。戦に勝ちぬれば此場へ乗こみたる者は、その家の面目末代の高名なるべし。ただ励むべし」と信長が奇襲に先だち、
各員一層奮励努力せよと訓辞したという話が、嘘かまことか、〈信長公記〉にでている。
 だから明治三十一年に三国干渉をうけ、占領した遼東半鳥を奪い返された明治陸軍は、ロシアを仮想敵国と見なしていたから「小軍にして大敵と戦う」これは好テキストと採用され、明治三十五年に参謀本部は、
その戦史研究資料に「日本戦史」を刊行し「桶狭間合戦」をもって奇襲戦法の模範とし、参謀教育をこれでやった。
 もちろん底本は「尾州桶廻間合戦之事」や「新編桶狭合戦記」などが用いられている。しかし、これらの物は、徳川家康の子の義直を藩祖とする尾張藩において、
 「徳川家の開運もこの合戦から」という建て前から、藩史の「成功記」にしろ、その儒臣のものにしろ、結果論からして、遡り勇ましく書かれすぎているものである。
 「だから、戦に勝てば、その者の面目末代まで高名なるべし」などと気張ったことが孫引されて書かれてあるが、この桶狭間合戦に参加した者で、高名になったり出世した者などは、現実にはただの一人もいないのである。

 不思議な話だが、信長の家臣団は、この合戦を転機にして入れ替えられたように変っている。という事は家臣団を伴わずに側近の者と野次馬だけで突入したことになる。
又は何らかの事情があって、参加した者を次々と死地へ送りこみ、信長が消してしまったのかということになる。

 佐脇藤八や加藤弥三郎も二年以内に討死しているし、この合戦に参加したかどうか確定史料はないが、この時の家老職の林佐渡守や佐久間玄蕃なども、天正八年には揃って馘首、追放処分にされている。
何かしら暗い陰翳がそこには大きく、ぽっかり穴をあけている。
昭和になって二・二六事件に参加し将校の命令で重臣を襲撃した兵隊が、その後満州事変の前線へ送られて、あらかた名誉の戦死をとげさせられたという事例がある。どうも似通っているようである。
だから芝居やテレビでは、桶狭間合戦は織田信長一世一代の晴れの舞台になっているのに、信長の祐筆(秘書)太田牛一筆と伝わる<信長公記>では、この永禄三年の合戦を「天文二十一年」と変えてある。
 信長の家来の祐筆が、こんな間違いをするのは可笑しいし、奇怪至極としか言いようがない。

つまり伝えられている桶狭間合戦の勇壮さや奇襲は華々しいが、それらはデフォルメされた虚像で、現実はもっと厳しく、これは「裏切りのバラード」でしかなかったようである。
 なにしろ尾張の古地図で当時の信長の勢力を再検討すると、一村五十名とみても、二千名の動員など出来ぬ弱少ぶりなのである。だから堂々の「合戦」などではなく、近隣の百姓や野次馬数百人が、雨宿りで休憩中の今川義元を暴殺したと考えるのが正しかろうと思われる。
 さて、この毛利新助は近習役ぐらいにしかなれなかったが、その後二十二年も生きのびて居られたというのは、恐らく立身出世を諦めて平凡に暮していたから、信長の目にも余りふれず、それで助かったのではあるまいか。