大日本史 伴 信 友   半 頬 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

         

  大日本史

 これは現代、神武帝から始まって後小松帝に到る迄を397巻と226冊に纏め、
別に目録5冊を付けた膨大なものだが、監修は水戸光圀だとなっている。

 しかし光圀の死後220年後の明治39年に完成したとなっているのだが、これはあまりにも時間が掛かり過ぎである。

  何しろ実際の光圀は、酒井大老と組んで、五代将軍に京より有栖川幸仁親王を迎えんとして失敗し、水戸常陸西山に押し込められ強制隠居させられた悲劇の人物である。
 江戸時代の閉門蟄居というのは、実に厳しいものであり、自由など一つも無く、光圀が群臣を集めて編纂したとなっているが、絶対これは無理な話である。 
では誰が何の為に大日本史を纏めたのかと言うと、幕末外圧で幕府の力が衰え、攘夷、開国の論議が沸騰した。
こうした時代を背景に朝廷から「征夷の勅を賜った者こそが征夷大将軍なり」と、水戸斉昭が水戸が江戸に取って代わらんとして、水戸城三の丸に弘道館を作り、
ここで家臣たちに突貫作業で著述させたものと考えられる。実際、水戸幕府と大書された大看板が幕末までは存在したと云われる。これは江戸で将軍になるための恰好付け、権威付けのためのものだったらしい。
光圀が作ったことは疑わしいというのは、何故なら水戸25万石の財力を投じ、何百年もの歳月をかけてようやく完成したでは、あまりにも不審である。


  伴 信 友

 江戸時代若狭小浜の藩士だったが、初めは90石取の平藩士だった。
しかし文化文政時代、美濃武儀川地域の製紙業が、原料のこうぞを石臼でつき、
 組織などを粉砕し磨砕して均一な状態にする技術が考案され、このため紙が大量生産可能になり単価も下がり、ここに文化文政の一大出版ブームが出現した。
 このブームに乗って伴は武士を辞め、流行作家となった。
そして書きも書いたり、版本300種類を刊行し、硬派の貸し本屋の人気作家になったのである。

現代も有名な「二島英雄記」によって宮本武蔵をこの世に送り出した。
 そして江戸時代の芝居小屋は狭い間口の舞台では、刀のカラミの見せ場しか無いので、ここにチャンバラのジャンルを広めて、おおいに剣道を一般化し、江戸に町道場を広める効果をなした。
 小説から誕生した宮本武蔵が実在だと思い込んでいる低脳人間が多く、映画やテレビが歴史だ等と夢々思わないで貰いたい。

        半 頬

 わっぷりという。
武士が目だけを出して、額を隠す面貌もこれに入るが、戦場で敵を威嚇するため赤髭や白髭を植えつける。
 しかしこれは生まれつきに髭が生える男が冠るものとは考えられない。
昔の戦場で携帯マイクも無い時代なのに、あんなに口元が小さいのでは、直接部下に命令を下す指揮官が冠る訳が無い。
北条氏康が、男が顔の前面に敵に斬られて出来た傷は、これ戦場で勇敢に戦って出来た傷だから、自慢できるとした。
 だからこれを男前傷といって誇った訳で、これが現代でも「男前」の言葉として残っている。
しかしこれは「良い男」の意味で今は使われているが、オカマのような、なよなよした軟弱な男の子が多い現在この男前は当てはまらないだろう。
 氏康の時代、戦場で幾度と無く敵と戦い手傷を負いながらも生き残った「強い男」の事。

だから戦国時代に男が顔に怪我をしないようにと冠ったのではなく、拝火教徒の末裔の女の武将が冠ったもので、つまり仮面、チャドルが転化した女人用なのである。
前線から遠い後方陣地に陣取って、味方に姿を見せ、督戦させて威張っていた女将の物なのである。
 現代、博物館や骨董店で何々着用の由緒正しい甲冑だと、能書きの付いたのは、江戸時代、武士の奥方の嫁入り道具なのである。
 吉良上野介の上杉から嫁いできた奥方も、夫が浪士に討たれたと聞くと、すぐさま甲冑に身を包み侍女達を率いて夫の仇討ちに行くと騒ぎ、家臣共が思い留めさせるのに難儀したという
逸話があるくらいのもので、赤糸脅しだとか、萌黄色の派手な色彩の物はこれ全て女鎧なのである。

 維新後、落ちぶれた武士階級がこうした夥しい甲冑類を古道具屋へ叩き売った。
当時明治政府は、廃仏毀釈令で、太政官の上に神祇省まで作って神社を格上げした。
 しかし綱吉の頃から仏教の下に置かれ差別されていた日本各地の神社は貧乏だった。
拝む対象に丁度良いと、これを安く買い叩き、神殿の奥に鎮座させたので、今見られるのは全てこの時代の物なのである。
付記・・・・・・但し咽喉部だけを守る半頬は、源平時代から男子の実用品だった。

 半 頬

 甲冑の胸当てから胴の部分を言う。
戦国期には胴丸と呼んで、雑兵は竹胴や木の幹をえぐったものを着用していた。

 現在古道具屋や、映画でよくヤクザの組長の応接間などに飾ってある鎧は
原価八万円程度の模造品である。

 日本は鉄が鉱物として産出されないので、鉄は貴重品で、戦場で使う盾も竹や
木製だったように、鎧も胸の心臓部や大切な箇所だけに鉄板を糸でつないで
用いていたのが本物で、各神社の宝物殿に飾ってあるのは、何某着用とあっても、

 徳川綱吉の神仏混合時代に皆寺の別当に奪われ失われて無くなった。

それゆえ、明治維新後に各大名や旗本家で代々の奥方の嫁入り道具の派手な
女鎧を古物商に売り渡し、それを独立した各神社で買い求めて宝物殿に陳列しただけの話。
だからオドシのカガリ糸や色彩が皆美しいのである。