古代史擬 【一】義理と人情とは  日本は過去、百済に、唐に占領されていた | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


   古代史擬  【一】


       義理と人情とは

  日本は過去、百済に、唐に占領されていた

 前人未到で、これまで何人もなしえなかった日本古代史の解明を、何の参考らしいものとてもなく、まったく自力で独特解明してこられたのは何故だろう。
まったく、これまでの日本史では例外ともいうべき納得できる真実で読めば合点でき、これが本当だなと判るのですが、民族の血の流れでしょう。
 誰もできなかったのは、日本という国は儲かることでなくてはしない。真実の歴史の解明なんか一銭にもならぬ。だから身銭をきってまで馬鹿なことをするような人間は居なかっただけです。
解明し後学のために書きあげたから、占領軍の方が、黒染の衣を着た坊主にちなんで黒色とした。要するによく外国で、宣教師を先に送っておいて、それで人民を手なづけてから占領軍が入ったみたいに、
墨染の衣を着た坊主を先に入れました。今でも岡山へ行くと、黒住教という宗教が残っています。それに対するに被占領軍の方は白となして、黒と白で色分けします。
しかし、本当はそれよりも、もっと古くに日本に来ていた、古代海人族は民族色は赤で、その方が人口は多いんです。これは神社で言いますと、白木造りの神社って申しますね。
あれは白木じゃなくて新羅造りなんです。日本において、新羅系の方が多くて、高麗(こま)は九州の薩摩だとか肥後もっこすが高麗ですが上州の方も強いんです。
埼玉県には高麗神社がありますけれども、彼らはその氏子なんです。同じ騎馬民族として共闘したのですが、勢力が今の慶尚道の新羅の方が強く、やがて、その下に入ったものだから白木造りの神社の前には、必ず狛犬が置いてあります。ガードマンみたいに、左右に二匹ならんでいるのがそれです。


 海洋渡来民族は平氏で民族色は赤。騎馬民族は源氏で民族色は黒

 古代海人族の方は、原住民の立場でいいますと、馬方は、民族カラーの白いフンドシです。ところが、カゴカキだとか、それから蓮台渡しだとか、馬を使わない方の人足は全部が赤フンドシです。
要するに、生魚をかじりながら日本へ流れついた連中ですから、私たちの子どもの時には、海で水泳する時には先生がみんな赤フンしめさせたもんです。
当時子供心に、白いフンドシだと汚れるから赤いのかと思ったら、そうじゃないんです。海へ、つまり水に入るのだからです。
 大体において、白と赤とは庶民の大半どころか殆どだということになるゆえ、紅白の水引とか紅白歌合戦だとか赤と白に限ってます。坊主相手のお葬式の時だけは白と黒になるわけです。
中国名、郭ムソウこと藤原鎌足が最初二千人連れて白村江の戦いにで663年に勝って日本に入ってきて、その次の664年の五月には御所へ入っています。
で、日本の歴史年表をみると、郭ムソウが表函を進む、要するに進物をプレゼントするということになっているんです。

ところが、マッカーサーの時を思い出してもらうとわかるけど、占領軍司令部は第一生命ビルですから目の前の二重橋を渡れば入れるのに、マッカーサーが宮城まで行って天皇に表敬訪問は絶対してないわけです。
おそれ多くも天皇陛下の方でマッカーサーのところへ行き、腰かけてでも写真をとればいいものを、占領軍は立って写真をとるもんだから、情けない変な写真になり今も残ってます。

さて、義理と人情をハカリにかけりゃ、義理が重たい男の世界って高倉健さんが歌うとカッコウいいけれど、義理というのは全部、物もらうとか金もらうことであります。
人情からいえば、田中某は評判が悪いし悪い奴だけれども、しかし田中某のお陰で道路工事の仕事が回ってくるとか、田中の側に投票をすると幾らになるとか‥‥

      義理とは、はっきり言えば「金」

 たとえば清水次郎長なら次郎長が悪い親分のところへ行きます。その時に、いまの若い人だったら、どっちがいいのか悪いのかなんて判断しますけれども、そんなこと絶対にしないものです。
悪い親分のところの子分が一所懸命になってバッサリ斬られるような調子でもかかっていくのは、たとえば女房が病気の時に入院費出してくれたとか、子どもが学校へ行く時に祝ってくれたとか言った義理で掛ってゆくのです。
これを義理がけっていうんですけどね。義理というのはお金ですよ。義理と人情をハカリにかけりゃ義理が重たい男の世界っていうのは、日本におきましては、金と人情をハカリにかけりゃ、
感情なんてことよりも、ソロバンの勘定の方が大事であると、もうかる方につかなきゃいけないというのです。ですから昔から「一文にもならくことを、誰がするものか」といった格言さえも、堂々と昔から日本には七世紀からはあります。
つまり唯お金しか信ずるものがないのが、本当に信ずる対象をもたず、七曜神さえ宝船にのった七福神にされて、夷也が稲荷にされ訳けが判らなくされた私どもの悲しさでしょう。

 丁度今から百年五十年くらい前の大正時代は、日本軍部のシベリア出兵からインフレがひどく、米価が四倍にもなり富士焼津や越後の裏日本の騎馬民族の流れをくむ女たちが県庁や町村役場、米屋を襲って米騒動が勃発しました。
これが日本全国に波及し各地で暴動が三百余ヵ所に発展。軍隊が出動して斧やナタを振う女たちを鎮圧。そこで大正デモクラシーという日本では初めての自然発生的な民主主義的な世となった。
なにしろ「おい、こら」とサーベルを振りまわすのを、おかみさん連中の薪割りのナタで叩き落し折ってしまって、やむなく軍隊がでて銃撃し、寺内内閣は解散した。
 当時、税金を機密費に貰っていた原敬が、平民宰相を看板にして新内閣を立ち上げた。そこで平民時代が日本にも、やっとのことでようやく生まれかけだしみたいになった。
昭和初期までの短期間だが、大正デモクラシーとよばれ、それまでの幕藩体制に対し反撥。その中で今も残っているのは柳田国男の民族学がある。
ついで弟子である折口信夫なんかが現れて、オカミの歴史に対して常民史観というようなことを言いだしました。歴史は英雄史観じゃダメなんだと。常民の、平凡な庶民の、庶民という言葉は使わないんですが、
平凡人、常民の日常の生活ですね、そういうものが本当の歴史なんだということで、いつの間にか、五十年以上たって、民衆の歴史は、柳田とか折口らの、そういう歴史観でいいんだということで、
一応は学問的にはキチンと表現されてるんだと、いつの間にか、そんなふうになっているところがある。

 そこに原住民の歴史という観点から、ひとつ大きな問題があるように思ったんです。
しかし何といっても、柳田国男は大正天皇の即位式の時に、宮内庁の役人として、何か奉職をしたというくらいで、いわば天皇崇拝ですけれども、同時に今までの政治優先で体制べったりでした。
 英雄豪傑とか権力者じゃなくて、一般の民衆の生活に則した歴史ということで、大きな影響力をもつようなことになってしまってるんですけれども、だが柳田や折口の民衆史観の、非常なインチキ性というか、
あるいは落とし穴といいますか、それをキチンと決着をつけるということが大切です。非常に重要じゃないかというふうに思うんですけれども。
柳田国男が『遠野物語』をいわば地元の佐々木さんのものをソックリそのまま出すという形で柳田民族学というのを引っ張ってきてると思うんですけれども、彼の常民はそういうエゾの話が出発点になっているというんですけれども、
原住民の抵抗とか、天孫族によって日本列島の原住民がだんだん追い込められるわけです。そういう観点が巧みな手法でだんだんその姿が消えていくみたいに実は感じて痛感してるんです。
あの人が集めた聞書きみたいなものの中にも、山の中で、農民が非常に落ちぶれた感じの、山の者と出会う場面です。
   
   源氏と平氏の日本原住民系人口は八割は居る

 しかし、これはすごく落ちぶれて、みじめな形で現れてきて、だんだん、しかしその姿も消えていくみたいな書き方です。
だから、彼らのそういう、だんだん消えて落ちぶれていく山林の貧困歌を自分は歌うようなあんばいなんだなぁなんてふうな形でできた原住民の話が出てくるわけ。
それで体制側に非常に従順に暮らしている‥‥そういう具合な庶民ですね。それを日本民族という形でそういうカテゴリーに位置づけさせて、それを日本人そのものだと、そんなふうに辻褄合わせしている処があるような気がするんです。
 しかし、折口さんは大分柳田さんとズレたところがあり、この人は敗戦後はある程度は、本音らしきものが出てくることになってるのかもしれませんけれども、折口さんの場合には、
芸能論という形で発表されている。やっぱり日本の芸能は征服された奴隷から出てきたんだということが、かなりはっきり言われているようなところはあると思うんです。
折口さんの場合、それでまぁ、ちょっとは程度の差があるというレベルの問題だと思うんです。

 それで柳田民俗学について何ヵ所か、ちょっと簡単に言及はされているところもあると思うんですけれども、そのへんはどうでしょうか。
----仄聞しました処では、柳田さんは今ではゲイが市民権をもってますけど、当時は最大の悪徳だったんで、これをバラすぞというような圧力を受けまして、俺はいいけれども、折口が可哀そうだからといい、
途端に民俗学の方へ行っちゃったわけだそうです。あれだけ頭のいい人ですから、あの人が原住民史をやってくだされば私ごときが生涯かけて前人未踏の途を手さぐり足さぐりでやらなくてもまだ当時なら資料も多く残っていたでしょう。

 次にやはり手がけられてやめられた白柳秀湖先生の場合は、ひとり娘さんがやはり人質みたいなことになって、男親っていうのは娘がかわいいから、結局あの先生も、せっかくいいところまで行ったんだけれども、
プレッシャーをうけ、やむあえず中止して右翼の評論家として歿られました。
 さて芥川賞をとった作家の死んでるのが九割までが自殺なんだけども殆どが自殺ということをみんな遺族が伏せちゃうのです。
たとえば火野葦平の場合だって、火野葦平がかわいがってたライオンの子どもが翌日は締め殺されゴミ箱にあったのは有名な話で、半田義之も、半田の場合でも、奥さんやお母さんが、自殺だというと、
何か精神病者みたいに思われちゃいけないからっていうんで、伏せてしまった。
寒川光太郎の場合も同じですけども。‥‥遺族が結局、後のことを考えて日本では‥‥自殺は性格破綻者か気違いみたいに不名誉と扱われているようです。
ですから遺族があると、せっかく自殺しても何にもならないことになる。川端さんぐらいになると、ガス管咥えて自殺しても、ちゃんと家族の理解があって本当のことを発表して自殺となって通るわけです。
それとも、太宰治みたいに愛人に連れられて玉川上水に飛込むと、それは証人がいるんだから、生き証人じゃなくても、死に証人がいれば、まあ大丈夫です。
それでも、太宰に近い人たちは、女に殺されたんだという説も自殺じゃないと‥‥流しているようですね。自殺ということは何か‥‥吉村昭っていうのが、作家というのは異常な者だと思われているけれどもノーマルな者である、
と東京新聞に書き「作家ノーマル説」というのは、それから三浦朱門とかの連中が言い出したことなんだけどノーマルだったら作家になるわけなんてないですよ。
アブノーマルだからこそ作家であるべきではないでしょうか。作家は無頼で破滅型でいいのです。