信長を殺したのは誰だ? 謀略 権謀 術策 陰謀の渦中に死んだ光秀哀れ | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


    信長を殺したのは誰だ?
謀略 権謀 術策 陰謀の渦中に死んだ光秀哀れ

 画像は太田蜀山人が徳川幕府に奉職していた際、当時の大名各家へ命じて、
系図史料などを提出させて、これを台命で纏めた物が『寛政杏花園集』とか『太田南畝・家伝史料』の
名目で伝わっているが、その中の一つでこの『大日本古文書』の中の『蜷川家古文書』の中にあらゆる秘密がある。
これが作成された寛政五年は、本能寺の変から二百十年たっているが、まだ春日局の子孫は栄えていたから信頼できるだろう。

 さてこの二つの系図をくっつけると、
(稲葉一鉄の娘を嫁にし、それに春日局を生ませた斉藤内蔵介は一鉄の娘婿の斉藤玄番允と義理の従兄弟どうしの仲)という関係になるのが一目瞭然である。
 天正十年、当時権中納言であった山科言経が、その六月の日記に、

「斉藤内蔵介、今度の謀叛の随一なり」と、明記している男と、彼玄番允の妻どうしが肉親だった点が問題なのである。
さて、今でもまだ、『川角太閤記』などの俗悪書によって、内蔵介を明智光秀の家老として、歴史家や歴史辞典も間違っている。
 しかし光秀が、信長にまだ仕えていない元亀元年の時点においてさえ、『信長公記巻三、元亀元年五月六日』の条には、浅井長政が俄かに裏切りの気配を見せ、信長が栃木越えで逃げる殿軍として、

「稲葉伊予父子(一鉄、重通、貞通)をそえ斉藤内蔵介を江州守山へ残せし処、町の南口より焼討ちをかけ突入する輩を追い崩し、あまた切り捨てて働き比類なし」と、明白な記載がある。
 光秀が信長に奉公するのはこの翌年だから、一軍を指揮していた信長の直属将軍である内蔵介が陪臣に身を落とし、光秀の家老に落ちぶれる筈など無い。

 天正十年当時、軍監として、つまり信長の名代として明智光秀に付けられ、丹波亀山に駐在していたからこそ、彼内蔵介はその地位を利用して、近江坂本城にあった光秀に無断で、
「徳川家康追討」を名目に、信長の命令なりと偽って兵を進め上洛したのである。
これは『フロイス日本史』の中のカリオン書簡にも「信長は三河の王を討ちに京に来た」と、明白にのっている。

 なにしろ『長宗我部古文書』にも、
 
 「長宗我部元親は宮内少輔国親の子で、四国全土を制覇せんと志をたて、その資金を得んと欲し京角倉に仰ぎ、その一門の斉藤内蔵介の妹を嫁女となす。
よって、その間に生まれし弥三郎十六歳の天正八年、内蔵介これを携え信長に目見得し、その名より一字を賜り長宗我部信親と名乗り元服す」
 とあるくらいのもので、光秀の家老くらいの身分では、信長に直接目通りできるわけも無く、また四国全土を征服した元親が低い地位の男の妹など嫁に貰うわけなどない。

 この男と妻どうしが身内の玄番允が、三日天下ならぬ十五日天下の岐阜城主になったのも、詳細に解明してゆけば納得できるものがある。

 六月二日に斉藤内蔵介が信長に叛乱しなければならなかった原因も、(天正八年に四国全土の保障を長宗我部に与えておきながら、二年たつと三男信孝へ四国をやりたくなって約束を反故にし、
信長が同日、四国向けの渡海船団を住吉の浦から出帆させることになっていたから、それを阻止するための実力行動だった)ようである。

秀吉もこれに加担していたから、この叛乱の資金を出していた京の、蜷川、角倉財閥を厚遇し、家康もまた、後の徳川の世になるや、その腐れ縁で、
「角倉了以にだけ「御朱印船許可」の特例を出してやり、海外貿易の独占を許したのである。さて、『明智光秀』の著書を出している、故高柳光寿歴史学会会長は、
そういえば、その当時にはこういう例証があるとあげて、

 「光秀が信長殺しというのは、斉藤内蔵介の娘(春日局)が徳川の権勢を握ったあと、その死後も孫の稲葉美濃守あたりが老中として威光を示していたので、春日局やその子孫への遠慮から、
初めは斉藤内蔵介は光秀の家来ゆえ、主命でやむなく謀叛したとつくりそれがエスカレートして光秀が信長殺しにまで変えられたのだろう。つまり次々に記入され筆写されて伝わっていくうちに、それが定説化され、
幕末頼山陽の『敵は本能寺』の詩吟が流行し普及されついに常識にとなったらしい」といった意味のことをあげていたが、


(斉藤内蔵介は四国渡海軍を牽制する為、本能寺を爆破した)のだが、彼は単なる殺し屋で、革命家ではなかった。それゆえ当時大阪城に居た四国遠征軍が解散するのを見極めると、
これでよしと丹波へ引き上げてしまった。
 そこで昼過ぎに上洛してきた明智光秀に対して、「洛中が略奪暴行の巷と化している。難民がこの時とばかり衆を頼んで火付けして廻ってる。今のままでは御所も危ない。汝光秀は事態収拾をなすがよい」と、
時の正親町天皇からの沙汰が出た。

 当時信長の重臣は北陸、関東、備中に散らばって戦をしていた。
だから光秀は今で言う戒厳令をしいて京の治安を安泰にした。当時は御所を警護する能力のある者は他にいなかったからである。

 利口者の徳川家康はマッチだけすって、さっさと領国へ逃げてしまい、兵を集めて愛知県の鳴海から津島の間に布陣し、形成は如何にと観望していたきりだが、律義者の光秀はそうではなかった。
 これまでの織田信長という仏教嫌いの体制側の大黒柱が、髪の毛一本残らずに吹っ飛んでしまい、「仏都」とさえ呼ばれる京洛の者達が喜び勇み、それに便乗した浮浪者や難民の群れが各所に放火し、
乱暴の限りを働いているのを眼前に見て、光秀としては、
 「おおみ心を安んじ奉るのが、この国土に生を受けし日本人の至高な義務である」と、直ちに坂本から従えて来た三千だけの兵で、同日の午後から御所を守護し、洛中へ警備兵の巡廻をさせ、治安維持の任についたのである。

俗説では光秀は、浪々して困っているところを信長に拾われ、ひとかどの武者になったごとく説く。
しかし前述の如く言経の父『山科言継』の元亀元年二月の条に、「岐阜より三郎信長上洛、光秀の館を宿所にかり、三月一日に伴われ禁裏へ伺候」と出ている。
この山科元継は信長の父織田信秀が勝幡城に居た頃、京で食い詰めた蹴鞠の家元姉小路卿らと共に頼った行き、そこで蹴鞠の興行をしたこともあるから、思い出して懐かしがって日記に書きとめたものだろう。

 又今と違ってホテルの無かった時代だから、信長は光秀の邸に泊めてもらったらしいが、まさか単身ではない。
足利義昭を擁しての上洛だから、身の回りの家来だけでも百余名は側近についていたろう。

 つまり光秀の京屋敷たるや、信長に仕える前であっても、すでに収容人員何百も入れられるような大邸宅だったことになる。
なお、三月十六日には、三好義継、松永久秀の両名が共揃いを仕立て、二十四日には武田下野と和田維政が、美々しい行列で光秀邸の信長へご機嫌伺いに行って泊まっている。

浪々していても、すでに光秀は大金持ちだったのである。
 (何故に光秀がこんなに裕福だったかの謎は、解明されていないが、それは信長の妻奇蝶が腹違いの姉弟だったことに起因するのだが、この詳細は次回に譲る)

同年七月に上洛した際も、七日まで信長は共揃えを連れてやはり光秀邸に泊まっている。この頃から光秀は足利義昭の代理の恰好で、朝倉攻めの信長の出陣に加わりだしたが、家来になったわけではない。

 翌元亀二年十月二十九日に、岐阜城へ赴いた光秀に対して、銭二百疋(一疋は十文)を贈っているのも、給与ではなく礼金だろう。が、当時の一文は時価で1000円に当たるから、
それは二百万円に当たる。これは前の宿泊料だろう。

 さて、御所へ信長を初めて案内して行ったのは光秀だからして公家達は後に光秀が信長に使えるようになってからも、やはり同格ぐらいにしか見ていなかったらしい。
というのは信長は本当のところあまり御所の役には立っていない。
逆に鉄砲隊を率いて御所の中で威嚇運動さえしている。ところが光秀は違うのである。前述したように、

 『御湯どの日記』とよぶ当時の女官が書きためた御所の記録によれば、皇室御料米山国荘を、宇都左近太夫が横領し、畏れ多くも飯米にも事欠かれた際、光秀は自分の米を運びこみ、
内侍所以下皇太子誠仁様以下女中衆にまで献じ、兵を率いて宇都を征伐した。
 このため御所では、末の者に到る迄やがて山国米の配給を受けられるようになった。よって正親町天皇は、馬、鎧、香袋などを「その勤皇の志を嘉せられ」下賜されたという旨が出ている。

 それは当然な行為であったかもしれない。が、天皇がおんみずから勤皇とお言葉を頂けた彼は、数少ない日本人の一人なのである。

 だからこそ、軍監斉藤内蔵介が、前もって従弟に当たる玄番允と連絡を取り、後に改姓して細川となった長岡と共に、信長の妻奇蝶の助けを借りて挙兵したのであるが、
斉藤内蔵介は信長や信忠を強力火薬で吹っ飛ばしてしまうと逃げてしまった。

 この後始末も帝からの勅命と在らば「大君のへにこそ死なめ、かへりみはせじ」と仰せかしこみ、律義者の明智光秀は大命に従ったまでのことである。

    征夷大将軍になった光秀

正親町帝は先に女房奉書を下して、その勤皇の志を賞した光秀がも粉骨砕身よく京の治安を安泰にし、御所の警備にも身を挺したのを欣びたまい、六月七日には勅使を派遣された事実がある。
 使いに当たった公家は、神祇大福の位を持つ吉田神道の、右衛門督兼和であった。のち彼はその名を兼見と改め、次の国家権力者の秀吉よりの摘発を恐れて、二重帳簿ならぬ二重日記を作っている。

 だからその<兼見卿記>には、七日に行き八日に戻ったことのみ記入し、何の伝達だったかは明らかにされていない。
が、さて、大命降下を受けた光秀は、本城の丹波亀山には斉藤内蔵介が頑張っていて戻れぬから坂本へ戻った。そして斎戒沐浴してから六月九日朝に上洛。

公卿百官に迎えられて禁裏に伺侯し、御礼として銀五百枚を献納した。この事実を日本史では無視しているが、余程優渥な勅命だったらしい。
ついで光秀は京五山と大徳寺へ計二百枚の銀を贈っている。これが問題なのである。
 中世ヨーロッパでは王様が即位するときに、法王庁から洗礼を受け、神に誓ってから王位に着き、一定の金額を奉納する風習があった。

一方日本では、足利将軍家も何故か、京五山と大徳寺より「受禅」なる仏教の洗礼を受け、征夷大将軍に任ずる慣習があった。
そしてその際に贈るのが銀二百枚の定まりだった。このことは伏見宮様の『看門御記』にもでている。
 今までここまでの解明は誰もしていないが、光秀が正親町帝に五百銀を奉納しているのは、従来の古例に即したものと見れば、
「六月七日の勅使ご派遣の大命降下」たるや、征夷大将軍の宣下であったのは間違いない。
 寿永の昔、後白河上皇へ強要し、征夷大将軍の位を得た旭将軍木曽義仲のことは、在位僅か数日でも記録に残っている。

なのに帝自ら思し召しで六月九日に正式にお受けし、旧来の風習通りに手続きをした光秀の記録は、何処にも伝わっていない。

取って代わった豊臣秀吉体制が極めて厳しく、大徳寺や京五山の寺院記録も『兼見卿記』同様に、やはり二重に書き直した為らしい。
有名な斉藤道三入道の忘れ形見なのに、玄番允がさっぱり知られておらず、奇蝶を仇として狙い、実際は織田信雄が放火した事実があるのに、安土の町の人々は今も不勉強で無責任な歴史屋達の説を真に受けているから、

「光秀に焼かれ、それから町はすっかり寂れたのだ」と、国鉄の駅の所在地なのに、旅館もない言い訳にしている有様である。
 さて、『兼見卿記』や『多門院日記』によると、光秀が、
「おおみ心を安んじ奉ろう」と御所へばかり詰めている内に、本能寺の変を素早く察知した秀吉は、三日の朝の内に対戦中の毛利家と講和を結び、四日の朝には備中高松を開城させて、
すぐ備前へ引き返し、七日には居城の姫路へ戻っている。

 そして改めて出動準備をし九日には兵庫まで兵を進めて来た。豊臣家御用記録の『秀吉事記』では、秀吉は亡君の仇討ちをするのだと、髪の元取りを切って弔い合戦として長躯尼崎まで出陣したというが、

どうも光秀は(自分への加勢に来た)ぐらいに軽く考えていたらしい節がある。前後の事情からすると、秀吉も九日までは光秀を討つ気ではなかったらしい。
 が、九日になって京へ近づき、「光秀へ征夷大将軍の宣下」と聞いたときから、秀吉の心境は一変した。なにしろ武門の者にとって、その地位は最高のものである。
 のち秀吉があくまでも征夷大将軍にならず、関白になったのも、光秀の後塵を拝するのを彼としては避けたからである。

(・・・・・・このままでは、これまでのライバル光秀へわしは臣従せねばならぬ)とそこで狼狽して「何が何でも光秀を討たねばならぬ」と決意をここで決めたらしい。

 そこで弟の羽柴秀長や御子田正治を先手に戦闘態勢を取らせた。 
『秀吉事記』や『太閤記』では、このとき、織田信孝らが、「父信長の弔い合戦であるから」と、進んで秀吉に協力し、その部隊と共に彼らも一緒になって戦った事になっている。
それゆえであろうか、
『古文書雑纂』に収められている六月十三日付信孝書状というのには、自分らは天神馬場まで来ていて、明日は西岡へ進発する筈だ、などとなっている。そして、
丹羽長秀も共に軍を進めたようにされている。しかしこれは嘘である。
もし信孝が、本当に信長の弔い合戦をしたものなら、清洲会議の論功行賞で、信雄の尾張、伊勢二国に対して彼が半分の美濃一国だけということは在り得ない。

 また今日、この山崎合戦の手掛かりとされる唯一の証拠は、旧浅野侯爵家所蔵の(秀吉から、信孝に見せるため、その家老岡本と斉藤玄番允宛に出された書状)のみだということは前述したが、
(信孝が実際に参戦していたものであるなら)その戦の状況を、後になって秀吉が、詳細に尤もらしく報告する必要がはたしてあるだろうか。

 また丹羽長秀は、秀吉に言いくるめられ、さも参戦したように口裏を合わせていたかもしれない疑いがある。
 だから弔い合戦に秀吉と共に戦い、光秀を討ったと称する栄光から、彼は羽柴筑前守なる秀吉の前名までも貰い、越前と加賀二群の合計百二十万石になった。

 が、これは天正猿芝居に過ぎず、丹羽長秀が死ぬと秀吉は、「家臣の騒ぎとか軍律違反」と適当に文句をつけ、その倅長重へは、百十九万石減らし、僅か四万石しか相続させていない。
もはや秀吉に実力が出来ていたから、こういうことも平気で出来たのだろう。
つまり秀吉はライバルの光秀を討つのに大義名分が必要だったから、偽計、即ち騙まし討ちで殺し、光秀を信長殺しにしたのだろう。

 しかし徳川家康は信長を殺させたのは自分のようなものだから、その真相を知っている弱みで、「光秀は武人の鑑だった」などと家来にも言っていた。
そこで家康の光秀贔屓から、「家康側近の天海僧正こそ、あれは助けた光秀を匿っての変名で同一人物」等とも噂されたのだろう。

 ところが家康が、斉藤内蔵介が殺されるまで自分の名を出さなかったのを徳として、その末娘ふくを探し出して、自分の種を仕込んで(後の家光)春日局にしてしまったから、
彼女のため、父内蔵介を庇い立てするため、その孫の大老堀田正俊の頃から、

 「信長殺しは光秀」とまたされてしまい、現代になっても徳川史観のまま歪められているのである。
 正親町帝の大御心にそい奉って、草莽の武将として散華していった明智光秀が、埋もれていた勤皇の士として、改めて再評価される日はそう遠くあるまい。