NHK大河ドラマの虚妄(第二部)
またぞろNHKの大河ドラマが始まった。
「鎌倉殿の十三人」と題する「時代劇様電子紙芝居」である。
製作の三谷幸喜の肩書は御大層な、劇作家、脚本家、演出家、コメディアン、俳優、映画監督となっているが、実態は「虚像製造業者」の一人。
この男、性懲りもなくこの手の番組をよう作ってくれる。例によって人気タレントを揃え、ふんだんに金もかけているようだ。
第一回目は放映されたらしいが、老生全く観ていない。観もせず批判はおこがましいといわれるが、批判、批評以前のシロモノだから、情報はネット検索で取っている。
<吾妻鏡>を下敷きにしているようだが、これは全く歴史とは言えない。
源氏と平氏の解明もできていないし、そもそも鎌倉時代の実相も解っていない。
この時代を描くなら「北条政子」が主役にならなければならぬのに、弟の北条義時でのドラマ構成は全く理解の外。
以下に、鎌倉幕府、源氏、平氏、政子についての考察をUPしてNHKの低俗時代劇の虚妄を明らかにする。
ブログやSNSでは、このドラマを本物の歴史と思い込んで、嬉しがったり、信じ込んで「大はしゃぎ」人間も多い。
だが、娯楽と歴史は別物であるということを解ってもらいたい。(序文として再掲載)
源平男性史 第二部
南北朝時代
茶は博打
シャクティ信仰のシバ神の流れをくむ宗教をもつ北条氏に対し、「立正安国」の教えを唱え、日本を救うために立ったのが日蓮上人で、そのため上人は北条氏から反体制として弾圧されたのである。
さて上人の亡ったのが1282年。この四年後に、北条氏は、持明院統の北朝系、大覚寺絖の南朝系の両統が、交互に皇位をつぐように定め、南朝後字多帝の後に北朝伏見帝をたてた。
しかし、この南北交替制は、後の南北朝のごとくやはり巧くゆかなかった。そこで後醍醐帝は「正中ノ変」のあと、1331年に笠置山に移られ、「北条討伐」の詔を各地へ出された。
この大命を畏れかしこみ奉戴して、
「すめらみことの御為」と集まってきたのは、かって政子によって追われ、やむなく各地の別所へ逃げこみ、ずっと鳴りをひそめて居た者共の末裔である。
「上州新田別所」から新田義貞、
「三河足助別所」から足助次郎、
「河内切山別所」から楠木正成、
戦前、彼らは勤王の大忠臣と仰がれ、戦後になると、「土豪」だったとか「悪党」だったといわれるようになるのは、足利末期の太閤一条兼良が、その著にはっきりと、
「別所出身者を悪党」としていたから、無定見な歴史屋がそれを援用して、そうした判断をそのまま自分の学説へ加えたにすぎない。
さて、ひとまずは南朝方が勝って、「建武の中興」となるのだが、足利氏によってその体制は崩れさり、またしても南北朝の戦乱の世の中となった。さて、この時代は、
「軍書に悲し、吉野山」ぐらいにしか伝わって居ないが、そうした悲壮な双方の戦は、もちろん有ったろうが、その反面において、
「日本の男が、おおらかに女を沢山はべらして、酒池肉林」といった、したい放題のことのできた期間たるや確定史料の上からでは、まこと僅かな期間ではあるが、
この南北朝合戦の時を除いては他にはなかったのである。
もちろん、かつて九世紀の終り近く、陽成帝を廃し奉った藤原氏が、己れの勢力を宮中に張りめぐらすべく、その一族の女を次々と御所内へ送りこんで居た。
しかし、そうした場合は、困る程に沢山の女を押しつけられたのは御一人だけであって他の者には、そうした恩恵があろう筈もなかった。
だから藤原時代というのが、さも男天下のように思われ勝ちだが、実際はそうでもなかったらしいのである。何故かといえば、
「この世をばわが世とぞ思う、もち月の欠けたる事のなしと思えば」とまで豪語した藤原道長でさえ、五十四歳でさっさと坊主になり世捨て人になってしまって居る。
彼程の立場で、思うようにならぬ事はないと自分でも云っているのだから気楽に酒池肉林がやれるものなら、まだ頭を丸める事はなかったろう。
なのに、そうしたという事は、南北朝期に到るまで日本では、まだまだシャクティ信仰がはびこり、女がうるさく扱いにくく威張っていて、とても男の思うようには、ゆかなかったことを意味するのであろう。
さて、南北朝争乱の時こそ、男にとって、
「現世の極楽」ともいうべき時代だったというのは、この時期に初めて、
「淋汗の茶湯」という催しか現れてくるからである。もちろん又これを誤って、「林間の茶湯」と取り違えて、「野立てそば」ならぬ「野立ての茶会」のごとく解釈している歴史屋も居るが、これはそういうものではない。
「淋々と汗を流す茶の会」なのである。
古代ローマものの映画などで、蒸し風呂から出てきた将軍連が、べッドに横たわって美女にマッサージをさせたり、彼女らに果物をむかせ口へ入れさせて満足して居る場面かあるが、
つまりは、あれの日本版である。
違う点は、蒸し風呂の中で、女もみな素裸にして並べておき、肩をもませたり垢をこすらせたりしながら、「一茶やるべえか」と、茶碗の蓋をとって、
「茶柱が立って居るか、立って居ないか」の運当てから初って、「四種十服」といった難しい賭けまでした。
これは一口ずつ十回のんでみて、その四つの産地を舌で当てる飲茶博奕で、簡単なのは舶来か国産かだけを呑み当てる、
「本非」といったが、今でいう丁半勝負である。
もちろん、こうした茶博奕は、南北朝合戦の初まる前から、もう盛んであった。
恐れ多くも後醍醐天皇が隠岐の島へ、北条高時によって配流されたもうた1332年においてさえ、お公卿さんは薄情にも、
「後伏見上皇に集まりし公卿ら飲茶勝負。賭物を出しあい互いに茶の同異を当てあう」と『花園天皇宸記』の元弘二年六月五日の条には記されて居る。
まあ、こうした公卿ばっかりだったから、土豪とか悪党と今ではよばれている原住民の新田義貞や楠木正成がみるにみかねて、
「われらこそ、醜の御楯に」と各地から蹶起したのだろうが、さて、その連中も、建武の中興で御所へ出入りできるようになると、
「一茶やりゃあせんか」と公卿の本非引き、つまり後のポン引に袖をひかれ、「賭ければ儲かるのでござろうか?」
と、誘れるままに、カモにされるとも知らず手を出して引っ掛り、その内に、「何んとしても前の損を取り戻そう」と、やみつきになったものらしい。
そして公卿なら、お寺の本堂でやって、「寺銭に」と坊主へも儲けさせるために分け前を出して居たのを、神信心の武将ともなると、
「われらは寺はいやでござる」と、今のサウナ風呂のような蒸し風呂の中へ入りこんで、戦利品として拐してきた美女を裸にひんむいて並べておき、
「てまえが勝ったら、それなる女を……」「いや此方こそ勝ったら、目下、貴殿が禦して居られるその色白な女を頂戴」
と、酒を呑みつつ茶博奕をしていたものらしい。だから、楠木正成の子の楠木正儀の、
「吉野方についたり、足利についたり、また吉野方に戻る」といった反復ただならぬ行動も、「あれは足利方と茶博奕して負けたり、勝ったりして居たからだ」と当時のことゆえ、
理解すればなんでもないのに、戦前は難しく、
「いやしくも大楠公の御子ともあろうものが、敵にあっさり帰順したり、また元へ戻ったりしたのは、忠誠心に欠けて居だのではあるまいかと惜しまれる」と、
きわめて皮相的な見方をされて居たが、真相は、惚れていた女を負けて取られてやむなく降参したり、また目がでて女を取り戻したら、さっさと吉野へ帰ったり、そのくり返しをして居たのだろう。
もちろん、この淋汗の茶湯というのは、やがて世の中が鎮まるにつれ、掠奪してきて裸で並べる女がなくなってきたから、
「書院台子の茶」といったような、四角い卓子の上に金銀をつみあげ、「曲録」とよばれた腰掛けを四方において、そこで飲食しながら賭ける上品な形式に、
やがて変ってゆくのだが、十四世紀いっぱいは、「呑む、打つ、かう」を三つとも一緒くたにやれる淋汗の茶湯は盛んだったらしい。だから、
「建武の中興」の時の式目第二条にさえ、「茶寄合と称して、さまざまな賭物をなすは固く停止」とある。
つまり、せっかくの建武の中興が駄目になってしまったのも、後醍醐帝が、「自分が隠岐へ流されて居る間でさえも、皆が飲茶勝負ばかりしくさっていたは不都合である」と禁止令を出されたからであって、
「それでは詰まらん」と不平分子が多くなって、せっかくの新体制を喜ばぬ者が、
「あたら酒池肉林の男極楽をやめえとは、ギャンブル廃止で男性の歓びを奪うものであるぞ」と、みな反天皇側に組した為とも想われるのである。
なにしろ、それまでの日本の男共は、女上位に押しつけられて居たのゆえ、無理がらぬ点もあるが、確定史料の上では、なんとも柁びしすぎるような話が日本の男の性史なのである。