薩摩のシャグマは何故赤、白、黒なのか | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

薩摩のシャグマは何故、黒なのか
日本ではいまだに「大和民族一つで構成されている」というのが通説になっている。
これは、古代や封建時代では誰もそんなことは思ってもいなかったし、言ってもいなかった。
維新後に天下を握った薩長勢力の明治軍部の宣伝なのである。明治政府は欧米に追い付け追い越せと「富国強兵、殖産興業」政策を推し進めた。
しかし、列強植民地政策と衝突し、日清、日露戦争と立て続けに戦うことになる。だが日本は江戸時代を通じて数百年間も外国と戦ったことなぞ無かった。
そこで明治軍部は平和ボケした国民を一致団結させて外国と戦わせるため、戦意高揚のため、国民精神作興に御奉公させるためのスローガンとして大いに喧伝したのである。
このお上の政策にいち早く迎合したのが日本の歴史学会で、歴史屋共が筆を揃えてそれを学説にし定説化してしまった。
しかし、それまでは源平藤橘という如く、騎馬民族系の源氏、海洋渡来系の平氏、唐を藤の字に当てた大陸系の藤原氏、契丹系で橘と変えた橘一族と、大別すれば最低でもこの日本列島には
四っ以上の民族が混在しあって棲み分けていたのである。だからいにしえより「名のり」つまり藤原の何某とか平の誰それといったように、日本列島における四大種族の区別をは、各自が昔は明白にしていたものなのである。
さて、この民族の部族の名乗りは、徳川期になるまで厳しく掟とされていた。
戦国時代の合戦絵図などを見ると、各陣営ごとに本陣には、その大将の旗や幟が立てられているその脇に、「馬印」と呼ばれる金色のひょうたんや、黒の大きな傘、白い羽毛の飾り物や赤い吹き流しが、
堂々とひるがえって立っている。
もちろん徳川期になってからも大名行列の先頭には、合戦の際の旗や幟は禁止されていたが、馬印だけは立てていたもので、「武鑑」の類にも、先頭のそれさえ見れば、
何系の何処の殿様かは一目瞭然に判るように絵入りで記載されている。つまり大和民族は単一民族なりなどと大真面目に言い出したのは、明治二十二年の長州が招聘したドイツ人のお抱え教師の
リースの制定からで、彼はゲルマン民族だから、それを日本史もろくに判らぬため強引に日本に当てはめたのである。
しかしそれまでは、
「赤布をひるがえしているのは真田幸村で、あれは平家の流れ」とか
「白扇大団扇は、白色なれば後藤又兵衛じゃ。ならば別所出身の源氏なり」
「千成瓢箪が金色なるは、やはり豊臣家は古平氏であったか」
といったように、寄せ手の徳川方も、同族同士討ちはしないようにと、やたらに戦は仕掛けずに、突き込む敵は選んだものなのである。
明治維新の際でも、様式武装で大砲までも引っ張っていても、この慣習は薩長側でも棄てず、「しゃぐま」とよぶ、てんの毛皮を、赤、白、黒に染めさせて、
馬印代わりに部隊ごとの先頭に立つ士官の頭に被らせていた。
それゆえ伏見街道を三万の軍勢を連れ、徳川慶喜は討薩表をかざして、先手には大目付の滝川土佐守が大阪から攻め上ってくると伝わると、
「滝川は拝火教徒のの流れじゃ、ならば彼らの民族色は赤だから、先頭には赤しゃぐまを被った部隊で突きこめ。すりぁ相手は此方の十倍の人数でも、ためらい迷い逡巡するは目に見えとる。
そこを一斉射撃で突き崩してしまうのだ。よいかぬかるな」
と、薩長側ではずらりと赤毛で攻め立てた。
一方、日野に住んでいた近藤勇や土方歳三らの新選組だけは、総崩れの幕府軍の中で唯一人最後まで頑張ったというのも、赤毛に対して同じ拝火教の多かった江戸の旗本どもは、
祖先からの言い伝えで、同族は討たずの戒律で、赤毛しゃぐまの士官のかぶり物を見て退却したが、新選組は宗旨違いだから、あくまで抵抗できたのである。

ちなみに、新選組は日野や百草の生まれで、ここは弾左衛門地で、婚礼縁組の一切の届け出をして許可を受けている土 地柄であり、宗教は白山信仰なのである。
それゆえ、鳥羽伏見で敗れて戻ってきた新選組が甲陽鎮撫隊として甲府へ向かう時弾佐衛門は黄金二万両の他にヘーゲル銃二百挺に弾薬をつけ、人夫百名も出している権勢ぶりなのである。
四民平等の明治になるまでの日本は、四民はそれぞれ対立しあっていた真実をよく理解しなければ、日本史の真実はつかめないのである。
つまり四民といっても藤は京の体制側の公家でこれは別格。
庶民とされている民族色赤の平家は拝火教徒、白の蘇民将来信仰は源氏、墨染めの衣を着る坊主からきている黒の仏教徒らが三つ巴になって対立させられていたのがこの日本で、
これを相克歴史という。
現在適当に書き写され、時代によって書き直されてきて残っている古文書まがいの解明は、労多く功少ない行為で、色分けで確かめた方が判りやすいのである。