百姓とは何だったのか 今も使われている「村八分」の意味 武士道の欺瞞 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

百姓とは何だったのか 今も使われている「村八分」の意味

    ◎百姓とは   ◎村八部の存在
 現在百姓と一口に言うが、もともとは「万姓」のことである。
江戸時代の百姓というのは、農村で主に米を生産していた小作人をイメージするが、これはとんでもない間違いである。
 農村では「豪い様」で農作業など全くしていない。
大きな萱葺き屋敷に「男部屋」「女部屋」を持ち、丁度米国の南北戦争以前の南部の農園主の如き存在であった。
 「ド百姓」と呼ばれるのが奴隷の「ド」をとっての呼称で、彼らは寺の人別長に入れられている私有奴隷百姓のことで、大百姓の「女部屋」や「男部屋」へ収容されていたのは「小作男」とか「小作女」のことだったのである。
(注)日本には元々「奴隷」という言葉は無く、昔はヤッコ「奴」とかドと呼んでいた。
だから日々の悲惨な奴隷暮らしを悲しんで「ヤッコさんはつらいね」という言葉も残っている。日本は巨大な奴隷国家だったと、明治になって解明した阿部弘蔵の
「日本奴隷史辞典」が嚆矢である。
奴隷が逃げても直ぐ見つかるように、碁盤の目にして周りを取り囲んで住まわせていてこのことの名残が現在使われている、豆腐を四角く切って食すのを「冷奴」という。
 
 テレビや映画では、村の名主や庄屋が奴隷百姓の側の総代となって、共に阿漕な代官や役人に抗議するように設定されているが、あれは誤りである。
 百姓というのは、各作男や作女を働かせていた搾取階級で、武士だけがこの階級だというのは間違いである。未だに築百年などという茅葺の馬鹿でかい家が、地方の田舎に見られるのが、先祖が庄屋や百姓だった名残である。
余談になるが、搾取階級で、一切の生産をしなかった武士たちを、格好良くして「武士道」等と持ち上げているが、そんなものは美化された与太話でしかない。
 それは昔から存在したものではなく、新撰組が作ったものである。
彼らは皆運動神経の良さから、立身したさに新撰組に集まった。
だから次々に集まる入隊希望者もみな似たり寄ったりの非武士階級だった。 そしてこうした連中は武士階級ではなかったがゆえに、隊員の即席教育用に「局中法度」なる隊法を作り、隊員は武士の恰好をするだけでなく、精神的にも心を入れかえろとばかりに、土方歳三が考え提示した。
 
 一、士道ニ背キ間敷事
 一、局ヲ脱スルヲ不許
 一、勝手ニ金策致不可
 一、勝手ニ訴訟取扱不可
 一、私ノ闘争ヲ不可
 
順に説明すると、以下の通りである。
 一、武士らしい行動をせよ
 一、新選組から脱走するな
 一、勝手に借金をするな
 一、勝手に裁判をするな
 一、私闘をするな

 
 処が、これが今では武士道そのままのように、定説化されている。
 この武士らしい行動とはどんなことなのか具体的にはさっぱり判らない。江戸時代に武士道なる思想など、特に確立していた訳ではない。
 
 強いて彼らの思考方向や処世態度を挙げるとすれば、石高の多寡は別として彼らは労働しないで一生涯、孫子の代まで食うに困らぬ安定生活者だから、食わせてくれる殿様大事、御家大事が本分で超保守主義の塊なのである。
 だから上役には絶対服従で、戦争は無いため出世は望めないから、何かの役について少しでも役付き手当てという収入を得るのに必死にゴマをする。
 こうした心理状態は現代の役人や官僚に合い通じるものがある。
 幕末、貧乏旗本だった勝海舟など、勝家は小普請組という無役で小身の旗本で勝が幕府海軍伝習所に入り、御役手当てがついたとき、父親が泣いて喜んだという位のものである。
 
 
 従って新しいことを考えるなどという思考回路は無い。
こういう連中が大多数だったから、明治維新の武士階級の目的とは、
 弱体化した徳川幕府に代わって、自分達の殿様を将軍にし、自分達が直参となって楽な生活をしたいというのが大きなテーゼだったのである。
 
 
  水戸藩然り、薩摩も長州も西国の諸藩はほとんどがこれである。
 (注)現代では国民のためには何もせず、高給を盗ってのさばり、出世と天下りに血道をあげている高級役人や官僚がそれに当たる。
 国民の税金で肥え太っている、吸血ヒルなのである。
  
  閑話休題    
 そして百姓は、今言う警察権の導入で代官所へ頼んで、実力行使で奴百姓の抗議の座り込みの連中を叩き殺して解散させ、追い払っていたのが江戸時代の「強訴」の実態。
「百姓」と呼ばれるのはその土地の支配権を持ち、奴隷百姓の娘は三十歳まで女部屋へ収容して、己らの好き勝手にして、器量のよいのばかりでなく、娘達の初夜権まで全て有していたのである。
 そして男部屋の者は女部屋へ近づく事は許されなかった。
また幕末には、農繁期には百姓宅へワラジを脱いで客分になっている、剣術使いに、野良荒らしを防ぐためという名目で、棒術や剣術を徹底的にしごかれていた。
 そして勤勉に良く働き奉公した者に限って、女部屋の中から三十過ぎて初夜は奪ったお古を払い下げられて、初めて世帯がもてたのである。
 有体は、村中の女のセックスは大百姓のもので、男は百姓の為に命を張って奉公するのが勤めだった。
 ここが今は解らなくなって「悪代官」を直ぐに出してきて「正義の味方」に始末して貰うのが時代劇の筋立てになっている。
 しかしこれも間違いで、勘定奉行によって各地の天領に派遣される代官は、一にもノルマ、二にもノルマで、年貢を少しでも多く取るのが仕事だから、それには大百姓の協力が不可欠で、彼らの自治を認めたというか、勝手にやらせて黙認していたのである。
 今で言えば資本家に当たる搾取階級の百姓の請願で、江戸中期以降は旗本などが己の知行地に入って年貢米を取ったり、下男下女の調達も許されなくなり、大百姓に一切を任せざるをえないように、政令化されてしまったほどである。
 余談になるが、土佐柚原村の庄屋の倅の
 天誅組首領の吉村寅太郎は生産を全くしない武士階級を廃止し、天皇を頂点に 諸侯と百姓の合議制をテーゼにして明治維新を提唱している。つまり幕末維新というのは、当初は被 圧迫階級の源住民(神徒系)が、その蓄積した金融資本によって、政治体系を変革する目的で始めたものが、終局において西南勢力と東北勢力の武力衝突になっ
 た、とみるべきだろう。
 
「庭子」と男衆や女衆を呼ぶ地方も在り、「嫁は庭先から貰え」という言葉の意味もここから来ている。
つまり名主、庄屋や大百姓も奴隷百姓と一緒くたにしてしまい、武士だけが搾取階級と見なすのは間違いである。
 つまり、江戸の行政長官である町奉行をテレビや映画では、江戸町民の味方で、町民を守る立場だなどとうそぶくのと同列の嘘である。
 
 代官、大百姓の手先、八部衆
    
 さて、江戸時代に天領の代官や大名領の陣屋の手先として、手代の下につき、大百姓の警護にあたっていたのは、五代将軍綱吉以前は三河から出ていた八部衆だった。彼らが各地へ、目付けに送られていたので、彼らを三河の八の者だから、「三八」と呼び、罪もない者達をデッチあげて、逮捕、拷問、裁判までの司法権を独裁していた。この風習があまりに酷かったため「嘘の三八」「嘘っ八」といわれて現代にさえこの言葉は残っている。
 
 
(注)この「八」とか「ハチ」又「ヤ」という呼称は日本史には古くから出てきて、古代では「やわたのオロチ」だとか「ヤタガラス」と蔑称として語られている。
これは海洋渡来民族で大陸勢力に抵抗して負け、遠隔地に隔離された民族で、この流れの者は多い。
豊臣秀吉も若い頃は「藤吉郎さりとて八のものにて」と安国寺文書にあるように、この部族の出身だし、戦国武将にも蜂須賀、蜂屋の苗字が散見される。

 代官検地の収穫予定検分の際は大小二本の刀を差して、六尺棒をついて先頭にたって、下に下にと先触れして歩いていた。
 これは年貢の割合を決める重要な役目だから、大百姓が八部米という、袖の下を割り当てて出していた。
三から一を差し引くと二になる事から、サンピンとも呼ばれていたのは、普段やりたい放題の彼らを畏れ憎んでいた奴隷百姓たちが陰で嘲笑していた蔑称でもある。
 この村の八部衆が大小二刀を差していたのが、幕末や明治初年の「勤皇のシシ」という人達の写真が残されていて、武士とは大小の二刀を腰におびるものと想われているが、
彼らシシとは格好良く「志士」の字を当てられているが、その多くは脱藩者や郷士あがりでひとかどの武士など居なかった。
だから、実際の武士は違ったようである。
つまり「介添え」とか「脇差」と称して大刀と一緒に小刀も差して出かけるのは、公式というか儀礼的な場にのみで、従って大刀を預けて上へあがる際に格好が付かぬから、小刀を差していったもののようである。
 
 歌舞伎の院本ものでは、士分は誰でも大刀一本のみで、殿様クラスの身分だけが小刀を腰に差し、小姓や付き添いの者に大刀を持たせているが、あれが侍の本当の姿だったようである。
身分の低い軽輩で、藩の重役達に踊らされ、絶えず切り合いをしなければならぬ鉄砲玉並みのシシの連中は、背に腹は変えられぬから、日本刀は直ぐ折れたり曲がってしまうため、スペアとして重いのを我慢して日本差しにしていた。
 上士は、鈍刀でないものを持っているから一刀だけで済むし、勤皇だ左幕だと内部闘争の多かった幕末には、道場からガードマンを雇って、用心棒として大刀を持たせたのである。
有名な新選組の芹沢鴨も、始めは用心棒だったくらいのものである。
 
だから日本刀は、ほとんどが鋳物で切先三寸だけ鋼の重たいのを二本差す連中を、二をぬいてサンピンと嘲っていただけのことである。
 本物の武士は、武家諸法度の抜刀罪が重罪だったから、幕末の剣豪といわれる者達は前述したように皆この村八部の出身だった。
馬医者の倅で、上総で八部をしていたのが北辰一刀流の千葉周作だったし、八部で紺屋だった桃井春造など揃ってこの出身だったから、剣術指南役は五人扶持か三人扶持しか与えられていなかった。