麒麟が来るが終わって マムシの道三は三人いた | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


麒麟が来るが終わって


NHK大河放送と銘打った「麒麟が来る」の放映がやっと終わった。
私はこの番組を「歴史もどき、電子紙芝居」と呼んでいるが、一話を見ただけでそのお里が知れたので、以後一度も観ていない。
だが、この番組のファンは多いらしく、ブログでも「良かった」「素晴らしかった」等々、好意的書き込みがかまびすしい程である。
全く日本人の「歴史音痴」ぶりには何時ものことながら呆れるしかない。
ネットの書き込みを見ると、光秀は生き残って、天海僧正になったという含みを持たせての、大団円だったらしい。
天海僧正は、幼名を白妙丸と言い、光秀の娘の婿で、明智秀光の子供だが、命は助けられ、延暦寺へ預けられたのである。
さらに、信長謀殺の第一人者だった斎藤内蔵介(信長の妻奇蝶の末の弟)の娘の於福(後の春日局)、彼らが家康と織りなす複雑怪奇な人間関係。
これらも当ブログでは解明してあるので、興味のある方は読んでいただきたい。

https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12531171078.html

https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12644008346.html




当ブログには光秀や信長関係の記事が多いから、真実の歴史に触れたければ読んでいただきたい。
この項は、斎藤道三の続きとして書いたもので、道三の悪評は嘘で、マムシとか悪党の意味も解明しておきました。

マムシの道三は三人いた
マムシの元祖は「楠木正憲」



当ブログでは、斎藤道三の実像を何度かに分けて掲載してきました。
俗説では道三は「マムシ」だとか「悪党」と云われているが、実像は他国を侵略せず、美濃領内の産業を興し国を富ませた、立派な武将像として記した。
二人目は勤王精神の大忠臣「楠木正憲」である。
三人目は、飛騨城主の二代目「金森可重」である。この項は楠木正憲についての考察です。


「大師は弘法」に奪われ、というが、今では「まむしの道三」という呼称も、斎藤道三だけのことのように伝えられてしまっている。
 しかし美濃から飛騨、現在の岐阜県に伝承されているところの、まむしの道三は、この他に二人いる。
 漢字でかけば、「蝮」となるが、美濃から飛騨にかけてはこれが多く群棲しているから、山中へ入ってこれを捕獲する名人もいたからして、その中にも、「まむしの道三」とよばれた者も居だろうが、その二人は決してその程度の者ではない。

 『美濃旧記』によれば、「楠木正成の子孫にして十代の末に、楠木道三正憲なるものおり、足利氏の末世に、南朝方の親王さまを奉じてこの地にあり。追及の手が伸びて迫るや鉄戸の御行在所を築谷敵より守る。
が、衆寡敵せずして討死するや、その魂ぱくが、まむしとなって叢にとぐろをまいて、その死せし後も親王さまの防禦をなし、いたく諸人の涙を誘ったものである」
 とでてくる楠木一族の最後の一人であり、その死後も尽忠精神を捧げた楠木道三正憲が、「まむしの道三」とよばれていたのであるが、こちらは斎藤道三が生まれた明応三年(一四九四)より十一年も早くて、
足利義政が銀閣寺を造営した文明十五年の出生ゆえ、どうも、 ……斎藤道三が現われて、まむしの道三とよばれたのではなく、
 「まむしの道三」と呼ばれた存在が実際には先にもうあって、それが美濃では有名だったからして、後の斎藤道三が、同じ名だったゆえ人口に膾炙されたその称号が、そのまま冠せられてしまったのではなかろうかと想える。
 つまりこの正憲道三入道の方が、どうしても、まむしの第一号となるのである。


『太平記』では、湊川合戦の有様を、「足利勢は吉良、石堂、高、上杉ら六千余騎にておしよせ、楠木正成その弟の正季は何度もとって返し三時が間にわたって戦けるに、僅か七十二騎となり、もはやこれまで腹を切らんと、
六間の客殿に二行に並び、念仏十遍同音に唱え、さて正成が最後の願いはと弟にきくに、正季うち笑いて、たとえここで死すとも七たび生き返り朝敵を滅さばやとこたえ、兄弟差し違えにて死す。
宗徒一族十六人従う兵五十余人もみな後を追い、ここに楠木一族は焔の中にみな包みこまれて、そのまま絶ゆ」
 と書かれてあって明治以降もこの儘信ぜられているが、幕末までは、「二時間にあたるのが一刻」という勘定の仕方だったから当時も、「三時間」という用語はなかったろう。だからして、「一刻半」でないとおかしい。
こうした現代的な書き方はどうも明治軍部によって歴史家にリライトされた臭い。

 もちろん一時を一刻とみても、それでは六時間であまりに長すぎる。故久米邦武博士も、「岸和田弥五郎軍忠状」というその頃の書きつけをもちだし、軍部で強調するような、
 「楠木一族玉粋」というのは誤りだと主張したが、そうでないと、俗にいわれる「大楠公、小楠公」の楠本正成、正行の父子二代だけでなく、楠本一族は戦国時代まで今でいう「反体制」のオルグ的存在だったのだから、
話の辻つまが合わないことになってしまう。
 なにしろ『太平記』や歴史書には、「湊川合戦で討死した正成」と、青葉茂れる桜井の駅で別れ、のも、「四条畷合戦で死んだ一子正行」の父子だけが問題にされているが、楠木一族はそんな二代きりの水の泡のようなものではない。
 アポロ十一号が星条旗を月に立てた時に「バンザイ」と自国のことのように手を叩き、勝手にテレビ局で彩色した画面に昂奮した人もいるが、楠木党はそんな軽薄さてはないのである。
 それは「執念」というべきか、「根性」と讃えるべきか文字通りに、「七生報国」と、後醍醐天皇の皇裔を奉じ、「一死奉公」のまことをつくしている。

 しかし楠木一族は、織田信長が足利十五代将軍義昭を追うまでは、厳然として、「朝敵」とされていたし、また戦後の今は、「士豪」「悪党」扱いをされている。
 しかし単なる土豪や野武士で、その子孫や郎党が、戦国時代まで二世紀にもわたって、「尽忠精神」を一貫してゆけるだろうか。
 僅か六年しか華々しく戦っていない楠木正成が後世に有名なのも、その孫、曾孫の孫に到るまでの、世界史にも稀れな執拗なレジスタンス精神を示しだのによるものだろう。さて、

「湊川や四条畷で楠木一族は滅亡した」ように、学校で教わったり、本で読んでいる方には唐突だろうから、その間のことをおおざっぱに書いてゆくと、まず正成、正季の末弟で、
 「楠木正式」というのが居る。この者は河内東条城主であるが、甥にあたる楠木正行が弟の正時らと四条綴で討死してから七年目。後村上帝が足利尊氏に追われるや己れの城に迎え奉った。
 そして正行の末弟楠木正儀に兵を集めさせ、桂川をこえ上洛させた。しかし足利義詮に逆襲され、天皇にも鎧兜をつけて頂き、正式は賀名生にお供をした。
 そして、その三十六年後の元中五年には、「楠木正勝」という正儀の長子が兵をあげたが、三月に山名氏清の大軍に包囲されて討死。
[楠木正秀]はその子だが、二十二年後の応永十五年(一四〇八)に足利義満が死ぬと、「長慶帝の御子説成親王」を、上野宮のおん名で奉じ、吉野山吉水院に挙兵した。
 そして二十年後には、楠木正式の孫の、「楠木光正」が後村上帝の皇孫泰成親王を、「小倉宮」の御名となし、伊勢国司北畠の協力のもとに奉じて旗上げした。


 しかし安濃岩田(三重県津市)で幕軍の土岐軍と戦って敗れ、その後は変装して光正は奈良へ赴き、将軍義教が東大寺へ〈蘭奮待〉の名香木を切りにきたところを、秘かに待ちうけていて、
「おのッ朝敵めッ……」と雨中に斬りこんでゆき、筒井順慶の祖である延慶法印に召擂られ、京六条河原で殺されたこともある。これは、『看聞御記』にもでている。
又その日記の、「永享九年(一四三七)八月六日」の条には、「楠木兄弟は兵を河内にあげ、室町御所よりの討伐軍畠山持国の兵と戦いて破られ殺さる」ともある。

姓名は、はっきり出てこないが「楠木五郎左衛門光正」の弟の者達らしい。
 そして六年後の嘉吉三年(南朝年号天晴元年一四四三)九月二十三日には、「楠木二郎」の率いる河内の武者共が、皇居の北門より入って清涼殿を占領。
 神器を取り返し後村上帝の玄々孫の尊秀王の即位の儀をおこない、京をでて叡山の根本中堂によって幕軍を迎えうった。しかし南風競わず尊秀王以下楠本二郎も包回されて殺された。
 しかし河内に残っていた楠木二郎の弟の、「楠木雅楽助」は、説成親王の御子である、「円満院の門跡円胤親王」を改めて奉じ、これに屈せず大和吉野郡北山に直ちに挙兵をした。


 これは『康富記』文安元年(一四四四)八月六日の条にもでている。
 しかし南朝に味方するものはすくなく湯浅城にたてこもって抗戦したが十二月二十二日落城。
 とはいえ雅楽助正氏は、それでもへこたれず神璽を奉じ幕軍に殺掠された尊秀王の御子の一の宮を北山、そして一石宮を河野谷に分けてお守りした。
 そして、あくまで楠木氏の一族郎党はみな死力をつくして防衛した。
 しかし十五年目の長禄元年。関東では太田道潅が江戸城を築いた年の十二月のこと、赤松党が吉野へ忍びこんで二皇子を虐殺。ついで翌年は神璽さえ赤松党に奪われた。
 このとき楠本雅楽助も、宮の伺候人(取次衆)宇野大和守と共に討死したが、その忘れ形見は、その後十二年間雌伏。


 応仁の乱が起きて足利氏の内輪争いが起るや文明二年(一四七〇)又しても紀伊の宇恵衛門の館にて旗上げをし、南朝年号での、「明応元年三月八日」に紀伊海草郡藤白坂の上に陣をしいた。
このとき雅楽助の遺孤の、「楠木正栄」の奉じたおん方は、『大乗院寺社雑事記・文明三年八月十六日』の条によると、
 「南朝方にここ一両年、日尊と号して諸方へ檄文をとばし、種々の計略をなす人これありて、後醍醐帝の御末の方なり」と出ている御方なのである。
 しかし楠木正栄の力が及ばず、正しくはこれより一年前にすでに討たれてしまっているのは、『親長記』文明二年十二月六日の条に、
「南方余流の人うちとる。賊首京着之由」の記載がある。つまり、日尊王と正栄の首級は畠山政長のために斬られ仙洞御所へ送られているのである。

この殺掠された楠木正栄の末弟が、「まむし」の異名をとった元祖の、「楠木正憲」である。彼が生き残れたのは、(日尊王が藤白坂に陣をしいたとき)別動隊の恰好でヽ  
後村上帝の皇孫小倉宮の徂孫にあたられる親王に供奉していたからであるのだろう。
この時の模様は、故渡辺世祐博士の考証によれば、

 「その兵およそ七十騎ばかり、長櫃三荷をかっぐ従兵を供させ、大和高市郡橘寺にあり、親王の宮は錦直垂を着用されて居たりし」という。
 のち、この宮は楠木正憲や大和の国衆の、越智家栄に守られて、大和の高市郡の、「お里沢市の霊験記」で名高い壺坂寺を行在所にし、四方に反体制の者を兵に集めていた。
 さてこの頃、京では室町御所の細川勝元とその舅の山名宗全が、東軍西軍に分かれ世にいう、「応仁の乱」が初まっていた。

しかし東軍の細川方は、室町御所や仙洞御所を擁しているのに、西軍の山名方には担ぎあげる者がない。
 そこで山名宗全が南朝の親王さまに目をつけ、文明三年七月に北野松蝉院に迎えいれた。ついで翌年宗仝の妹が院主をしている、「安山院」へと移し奉った。
 が、このとき、山名宗全じきじきに、「安山院は尼寺ゆえ、武者共は遠慮するようにせい」といわれ、それまで供奉していた楠木正憲も、やむなく河内へひとまず引きあげた。
 が文明五年になり、三月に山名宗全が病歿した後、とんと親王の消息が不明になったのだ。


戦かう空也堂

ベトナムの彼楠(ペナン)、菊水(キンスイ)、ラオスの楠公(ナンコウ)は日本名

 現在では近鉄奈良線の「八重の里」でおりて右側。大阪からなら東成区の新今里の旭ペイントの煙突のみえる荒川をこした先に、「瓜生堂」の地名だけが今では残っている。
しかし戦国時代の初め、この辺りは、「河内芳江城」に対して築かれた楠木一族の出城の一つで、今は布施市に入っているが、「弥刀源氏城」と共に、河内金剛山を守る橋頭堡をなしていた。
 といっても何もいかめしく櫓をもうけ土塁をきずき、掘割を設けた砦というのではなく、竹藪に囲まれた館ぐらいな建物だったらしい。

 というのは、筏流しで十津川や吉野川から京阪へ材木を送り出し、事ある際の軍資金にしていた大和の吉野あたりとは違い、
 「河内の国」には、そうした金になる木もなければ金山もない。まったく、これという程の産物もない。楠木正成の頃はたとえ七年間にしろ体制側にあったから、地子銭とよぶ今の固定資産税や、
その他の税金や旧租をみ立て収入源をもっていたろうか、末弟の、「楠木正式」や、その次の世代の正勝の頃には、もう反対制側だったから税収など取りたててはいない筈である。
それに、当時も人を集めれば、「無届け集会だ」と、室町御所の、「鬼のニキ」とよばれた山名組下の仁木弾正隊が、ジュラルミンより重い、樫木の三センチ厚みの楯をふるって押し寄せ、まさか、
 「道交法で規制する」とは云わずだが逮捕した。そして当時のヘルメッ卜に当る兜から、武器はすべて押収されてしまって、身柄送検のかたちで捕えらてからは、明国船や南蛮船に奴隷として売られていたのが、その頃の実相である。
その故か今も、「彼楠」(ペナン)とか「菊水」(キンスイ)といった地名も、ベトナム方面には残っているし、ラオスには、「楠公」(ナンコウ)といった村落さえ今も、その名を伝えているのである。

 そういえばベトコン戦法のゲリラのやり方などは気のせいか、千早城で楠木正成が用いたという熱湯浴せや、藁人形のカムフラージュ。竹串を埋めた落穴といった戦法もその儘で再現しているのである。
これにはアメリカ軍は随分と面喰い苦しめられた。

 だから正確な史料などなく、想像にすぎないが、アメリカに負けず頑張った北側解放戦線のベトコンは、彼地へ渡ったわが楠公一族の郎党共の末裔かもしれないといった気がする。
 なにしろ現存する〈印度ゴア市民上申書〉によると、「ゴアや馬来半島のババンなどでは、白人は僅かしか居住せず、防衛の軍人はみな日本人奴隷が当てられていた」旨の記載がでている。
 それゆえ当時ベトナムを支配していたポルトガル人も、日本人を兵に使っていたから、今はその子孫が混血して残っているのかも知れないのである。

 つまり以前、関西べ平連が積極的で、河内の青年が勇敢なのも、楠木正成かその郎党の血脈をひき、かっての同胞愛による体内の血の雄叫びかとも想像される。
しかし現在のべ平連なら、「週刊アンポ」を売って資金稼ぎもしたが、まだ憲法で人権が守られていなかった時代にあっては、「楠木全共闘に、資金カンパをして下さい」と、紙袋をもって募金できよう筈もない。
 なのに正式、正勝、光正、二郎、正氏、正栄と、名前が伝わるだけでも六代に渡って、南朝の天皇さまや、その御子、お孫さまを手弁当で奉戴もうしあげ、今のフォークなら、
「君の行く道は希望へと続く、空にまた朝日の昇るときこそ、若者はまた歩き初める」と進軍をする資力が何処から得られたとなるのである。伏見宮貞成親王なども、その日記には、

 「河内に、楠木兄弟永享九年八月六日挙兵せしも、畠山持国の兵に撃たれ殺さる」とのみあるようにしか扱わずだったが、こうした無名の一族までも入れると、「楠木正成の後裔」たる者は、
誰でもその一生に一度は旗あげして、悠久の大儀に殉じているようである。しかし、いくら昔は物価が安かったとはいえに如何して武装蜂起する軍資金を、楠木正成の子孫どもは、代々かき集めたかがここに問題になってくる。
なにしろゲバ棒とよぶ角材一本にタオルと鉄兜だけでも、一人あたまに三千円はかかるのに、本物の槍や長柄を装備させ、今でも一筋二千円もする矢をもたせるとなると、食費共で一人何万円も掛るのに、
楠木正成の子孫は、代々みな何んとか資金ぐりしては、「大君のへにこそ死なめ、かえりみはせじ」と、河内の山でシュプレヒコールしては、幕軍騎動隊と勇しく戦い、そして次々と散華している。

 だから問題は、この資金源だが、今も使われている河内言葉の、「ど頭かちわってみそとったるでえ」とか、「口の中へ手えつっこんで、奥歯がたがたいわせたろか」といった類のものに、案外と、その謎をとく鍵かおるのではなかろうか。
 なにしろ河内には、これといって何も産物がない。だから金作りの方法としては、加工業しかない事になるが、こうした土地言葉が、その名残りではなかろうかといった気がするのである。
 ということは、今も昔も日本人は薬が好きで需要が多かったが、昔は化学製品の新薬などなく、ただ漢方薬のみで、これは樹皮草根を主にしたが、霊薬というのは、「熊の肝」とか「猿の頭」といった動物製に限られていた。
つまり目には目、歯には歯というのでもあろうか、眼病には目玉の黒焼き、虫歯の痛みには、歯を石臼でつぶした粉剤などがあった。
 が、その内でも頭蓋骨の中の脳味噌を丸めた六神丸などは、特に万病に効く霊薬とされていて、きわめて高価なものだったらしい。

 --―私が母から聞いた話では、祖母は彼女をうむ前に、(頭の良い子に育てましょう)と売っていたガラクトウス入りの粉ミルクなどなかった時分のことゆえ、
 「胡蝶」などという十本入りの両切煙草が、一箱五銭だった頃なのに、一箱五円の、「六神丸」を服用したというが、これは非合法薬品で、その頃は中国人の行商が、
「ポコペン、これ生きた人の頭をがち分って作る神薬あるよ。誰にも話すいけないあるね」非常に恩にきせ売ってくれたものだそうで、嘘みたいな話だが本当である。
レプラもまだ、「天刑病」と呼ばれ、人間の尻の肉、特にまん中の孔のあいている襞の所が特効薬とされていた明治時代にあっては、これを河童みたいに狙って通行人を何人も背後から襲い、尻肉を斷りとっ
た野口男三郎という青年さえいたのである。

 だから、楠木正成や正行は知らぬことだろうが、その曾ぐ孫や玄々孫の時代には、まだ、「河内木綿」なども産出しなかった頃ゆえ、他に売り歩く品物もないから、戦場へ忍んでいって、
ど頭をがち割ったり奥歯をがたがたいわせて脳味噌をぬき、当時の高貴薬を製造し、これを代々 の楠木の当主は郎党共を使って、                            
 「ええ、特効薬でござい」各地に売って廻らせ、それで資金を作ると、南朝の御血脈の許へ伺候して、現今のフォークーソングでいうように、
 「君の涙、君の汗がむくわれまする日が、いざ参りました」と先祖代々の殉忠の志をのべ御出馬を願い奉り、郎党や近在の男共は、「夜明け前の暗闇の中で戦いの炎をもやせ」とばかり篝火をたいて挙兵の檄をとばし、
『さあ、夜明けは近い、夜明けは近い』じぐざぐデモならぬ行動体列の出陣をし、室町御所派遺の幕軍騎動隊と戦っていたものらしい。