考察 日本武尊(やまとたけるのみこと) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


考察 日本武尊(やまとたけるのみこと)

ウイキペディアの記述では以下のようになっている。

ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。


現在、このお方は、国民的英雄ということになっているのに、古事記と日本書紀ではてんで臆病者扱いや、泣き虫にされている。
こうした、別個に削って匿している差は、民族と信仰の相違ではあるまいか。ということは、尊はれっきとした日本原住民出身で、宗教はおそらく拝火教徒と想われる。
だから仏教政権の藤原氏が書いた記紀では、悪意ある記述になったのであろう。
     
 明治の史学会の重野会長の〈日本武尊の事につき史家の心得〉にしても、やはり同じことです。
 「常陸国風土記には倭武天皇とある尊の東征について、古事記と日本書紀とは記載が違い、本居宣長は前者をとり一般は後者によっている。
記では尊は東征を厭い嫌われたが、父帝の命令ゆえ、やむなく泣き悲しみつつ、アラブルまつろわぬ者らの東征におもむかれた事となっているのに対し、
紀の方では、尊が推せんした、兄の大碓皇子が逃げ、叢中に隠れてしまったゆえ、代って尊が東征とあります」

 古事記には伊勢に立ちより倭姫命より、火打石の袋を貰って東へ行く際、尊はあらかじめ死出の旅である事を覚悟していた心の内を、密かに打ちあけて出かけられたとあります。
原文では、「倭建(伊勢ヲ過ギタル時二、オバノ倭比売姫二対シ、天皇(アニ吾死ヲ欲シテオラレルラシイ。西方ヲ討伐シ辛ウジテ戻ツテ来タバカリダト言ウノニ、マダイクラモ経過シテイナイノニ、
今度(東方十二道ヲ平定シロト命令ナサレ、軍衆スラモ付ケテ下サラナイノデス。コレデ(私メニ死ンデコイトオッシャルノト同ジデハナイデスカ」とあるが、日本書紀には「紀異。今不取」とします。


 つまり「不給以軍衆」が尊をして、死んで還れと突きはなされた真因なりとされているが、まさか景行帝が御子に対して軍衆もつけずに、当時の東方十二道は濃美平野までですが、
派遣される訳はないときめつけて訂正しておられるのです。しかし〈国事旧紀〉によれば、騎馬民族として渡来された崇神王朝の御孫の景行さまは、
それまで土着していたアマの民「天の何々」と今ではいわれる拝火宗の八坂姫と婚姻した。となると兄の大碓皇子にしろ尊にしろ、共に八坂姫の御子となる訳です。
 今の愛知県の尾張や三河一帯は拝火宗の人々が漂着して、住みついている地帯なのであります。拝火宗の末孫は今でも、日本全国の庶民の六割五分をしめています。
煙を身体になすりつけて拝む人々の血脈なのです。しかも拝火宗には掟があります。今でも浅草寺は大変な賑わいなのを見ても解るだろう。

「同門同火の禁」とよぶ、同族は討たず同族以外とは火種を同じくしないという厳しい戒律なのです。ですから八坂姫の血をひく兄弟が泣いて拒んだり、叢の中へ逃げこまれたというのも、
卑怯とか、臆病というのでは絶対にないようです。
 
古事記にも日本書紀にも出ていませんから推測ですが、遊牧民族の景行さまは漁業や農耕をする天の王朝系の八坂姫と婚姻されたのでしょうが、
大陸勢力から、圧力が掛って、当時は八坂姫と別れて別の大陸系の妃がおられたのでしょう。そして八坂姫の民族を討伐するには、相手を安心させるために、その血脈の兄弟を使おうとなさったのに対し、
同族は討たずの掟で、兄弟は共に拒まれたのでしょう。

 故に唯一の拝火教の身内の伯母を訪ねて、民族のシンボルである、火打石を貰い東征したのでしょう。
 軍衆をつけなかったのも、尊が同族は討てず逆に説得されて叛旗を翻されては厄介であると、単身で放逐みたいな恰好で、小碓命は濃尾平野へ行かされて棄て殺しで夭折させられたのであります。
 
故に、日本武尊として庶民も今では、おいたわしく想って尊のことを尊敬申しあげているのです。
 とはいえ良が民で、賤が草とされていた時代に、草薙ぎの剣をふるわれたというのは伝承されている、火をつけられた草を斬ったのではなく、草とよばれる吾ら原住民の先祖共の討伐でしょう。
 本当の草でしたら、鎌みたいな刃物でなくては、直線の剣では斬れも刈る事も出来はせぬ筈です。

 当時の景行帝はもはや勢力が失せ、古代海人族の八坂姫にうませた兄弟を死なせようと、棄て殺しするために派遣されたものとみるべきで「毒をもって毒を制しめよ」と大陸の兵法通り、
死なされたゆえに、みな「ヤマト」と名をつけて追慕の念を今ももっているのではないでしょうか、タケルは勇士の事です。
 「孝ならんと欲すれば、同族を心ならずも討たねばならず」と、お気の毒な早死にされた皇子さまが実像なのです。