足利氏と明国の秘密 足利氏は源氏なのか 八幡(ばはん)船はでっちあげ 徳政一揆は「損得の得」 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 

    足利氏と明国の秘密

 足利義満は、「日本国王臣源道義」と書いた国書を送り、さながら明国に仕えるがごとき形だった。その後の将軍義教の時においても、『満済準后日記』という藤原師冬(もろふゆ)の子で、
義満の猶子(ゆうし)として三宝院二十五代目の座主となり、その当時、黒衣の宰相とよばれていた人の日記をみてみると、永享六年(1434)五月十二日の条には、
「唐朝書(明国書)を明人が捧げ持ってきたら、机の上において貰って、わが方は全員礼服に身をかためその前に整列して、まず汚れを払うために御焼香をしてから三拝。
将軍は跪(ひざ)まずき膝行して、その書面を頂かせて貰うのが、応永九年九月に義満公が、明国の勅使を迎えたときの作法であった」とのべられてあり、翌六月三日の欄には、
「将軍義教公は明史を迎えられるのに、階(きざはし)の下までにじり降り、そこから拝礼しつつ膝行するのはやめにしたいと仰せられたが、明国使は、それでは宣宗宣徳帝に対して不敬であると、
いくら頼んでも言下に斥け承知しなかった」旨の記載があり、「六月五日」の当日の条では、「公卿は四足門に平伏、楽人は総門で演奏。明国使は中外門より殿上人に迎えられて入り、将軍は曲録(椅子)をすすめ、
己れはその前に座って焼香、つづけて二拝してから明国書を頂けり」と、その明使接待の情景がでているが、足利氏はなぜ明国への追従外交にあけくれしていたのだろうか。

散々に交渉したあげくが、三拝する処を二拝にまけて貰ったきりで、足利義教もいやいやながら膝で這って明の使者に近より、香をあげて拝むなど、今では想像もつかぬ事だがこれは本当だったらしい。
 これでは日本の歴史家のとく、
「足利義満は明国との通商の益を得るため、やむなく文字の上だけで臣下と名のったにすぎぬ。つまり現代風に解釈するならば、名を棄て実を取ったのである」
 といった説とは余りにも、裏肚に違いすぎるようである。

 しかし、そうはいっても、足利時代に明国から攻めこまれかけたり、または、その以前から日本が占領されていて属国扱いされていたという証拠もない。となるとこれは、足利氏だけにしぼってみて、
何か明国と特殊関係があって、文字通り頭の上がらぬような義理があり、足利氏は代々そのために、天に陽があるごとく明国へは義理はつくさねばならぬと、室町御所の主であり、そして、「征夷大将軍」とよぶ当時の最高権力者の身が、いざりのように這って明国の使に拝謁を賜っていたのではあるまいかとさえ、どうしても勘ぐりたくなるのを押さえようがない。

 となると、この問題は足利義教の頃や、義満の代より遡って、どうしてもその始祖まで考究してみなくてはならぬし、また足利氏というものを根本的に洗う必要もでてくる。
 さて、そこで妙なことは、足利氏たるや、「源」を名のって、代々等持院で火葬をいとなんでいるが、どうもそれは治安上の政治的配慮からの処置ではないかとも思われる点がある。
 という理由は足利義兼が、その子義氏に三河吉良の庄を譲って、のちの吉良氏(吉良上野介の先祖)を立てさせたとき、
「この笹竜胆の白旗は源家重代の旗というが‥‥足利家には不用の長物。しかし其方は遠国へゆくのだから、もしもの用心に呉れてやる。万一の際にこの旗を立てれば、思いがけず味方する者が現われ来って、危うき場合にても助かるであろう」と渡した
という話がある。だから足利氏にしろ吉良氏にしろ、その分家の今川氏といえ、いくら表向きは「源のなんとか」と取り繕っていても実際は違うようである。足利尊氏側近の武将の書いたものといわれる『梅松論』の中でも、
これはそれとなく、「大友氏が足利氏に準じて『源姓』を称するのは、もともと中原在にて、藤原氏の大友の荘を相続したる者なれば、これはその系図を故意に、源頼朝の落胤などと作りしゆえの牽強付会なり。
○○同様に源にあらざればなり」となっている。但し○○の欠字の一行は、群書類従本には入っていなく、慶長本のみである。

  足利氏は源氏なのか

 さてそういう眼でみると足利氏には変なところが多い。
 足利高氏が摂津で敗北し、都落ちして西下するとき、「忠節もっとも神妙なる相従い奉る船は三百余艘、播磨の灘に並びたり」と出ているが、その数行前の『梅松論』の記述たるや、
「これまで供奉仕りてきし一方の大将の内、七、八人は引き返さんとす。この輩はみな関東の武将にて、これまで歴戦の功績をたてし者らなるが、しかりといえども御方(高氏)敗北とあってはやむなく、
いつしか旗をまき冑をぬき、笠印(足利方の)をとり、みな部下を率いて、とぼとぼと戻りゆく有様。その心中こそ哀れなりけれ」なのである。

これをみると播磨灘には足利氏をエスコートする海軍が三百余艘きて待っていたが、何故か上陸して戦わず‥‥そこまで足利氏の伴をしてついてきた、関東を主な出身とする陸軍兵は、
(乗船して西国へ行くのは困る)と、取って返して捕虜になりに戻って行ったというのである。「関東の将兵は船に馴れていないから、のったら船酔いして困るからだろう」という味方もあろうが、これまでの戦功を無にして、
それまでの足利方から離れていったのは、その海軍が、彼らにしてみると馴染めぬ軍勢で構成されていたのではあるまいか、といった疑問も生じてくるのは無理だろうか。


 というのは、これより半世紀前の元寇はよく知られているものの、この南北朝時代の日本へも、朝鮮半島から何度も兵船を連らねて来攻のあった事が、日本史で伏せられているせいではなかろうか。
『高麗紀』という朝鮮史料には、これは、はっきりと、「慶尚道海師元帥朴蔵、水師営金宗衍、壱岐対馬を占領のため軍船三百差しむけ、歴戦の末、わが国の勝利となる」とでている。
 といって、これまでの日本史には足利高氏の時代に、朝鮮からの来攻が有った事は
勝った負けたは別にして何も出ていない。が、もう一度、この間のことを振返ってみると、「足利高氏西下、鎮西(九州)へおもむき、すぐ西国より攻め上る」
 まるでシーソーゲームのように、足利氏というのは、負けるとさっさと艦隊に収容されて西下し、すぐにまた勢いをもり返しては海路をとり、京へ攻めこむというのを何度もくり返している。
 だから西国から九州までは足利氏の地盤のような気もするが、すぐ兵を何千何万と集めて短時日に戻ってくるというのはあまりに可笑しすぎる。

 足利高氏が死んだのが1358年(正平十三年)で、その三十三年後の1392年七月に、高麗王は李成桂に滅ぼされ、朝鮮国となるのだが‥‥もしも足利高氏をバックアップしていた西南海上の幻の艦隊が高麗の慶尚道艦隊だったと仮定するのなら、
その七年後の、「応永の乱」の勃発したすじも、成程と判り得る。勿論、日本史では、「中国地方六州と防長二州の八ヵ国を領する大内義弘は、その前々年金閣寺造営を手伝えと命令されてもきかず、
前年八月に朝鮮より朴敦元が国史としてきたとき義弘の挙動が、どうも怪しかったと管領畠山基国が云いふらしたのを憤って叛乱せしもの」というが、大内氏は淋聖太子系といわれながら、漢族との繋がりがある。
だから新興朝鮮の使が、大内氏へ打診にきたのは、旧高麗国水軍が足利氏の庇護をうけ、瀬戸内海に匿れているのをなんとか取り締まらせようと、この年に即位したばかりの明の建文帝の意志を通しにきたものとみるべきであろう。
『応永記』や『足利治乱記』によれば、その戦況は、「堺の町の十六町四方に井楼四十八をたて、矢倉千七百二十五個所を急造し五千の兵で守らしめた」
 と伝わっているが、山口県の大内義弘が泉州堺にたてこもったというのも、当時ここが明国との港になっていて、向こうからすぐ応援にくるものと、それを計算に入れての事だろう。

   大内氏は中国系

 しかし、このとき援軍は来ず、当てがはずれて大内氏は敗死したが、応永二十六年(1419)六月二十日には、北鮮韃靼(だったん)兵一万七千二百八十五人が、李従茂の率いる二百二十七艘の艦隊に分乗して日本へ来襲した。
『看門御記(かんもんぎょき)』(伏見宮貞成親王さま日記)によれば、「唐人襲来、既に薩摩の地にとりつき国人と合戦を始めているが、唐人の中には鬼のごとき者も混じっていて、人力では攻め難いのに、
次々と増えてきて八万艘にも及ぶ由が御所へ注進されてきている」とでている。

 かつて、源氏を倒した北条時代に元寇があって、その北条を倒した後の足利義持の時代ですら、またも襲われたというのは、「足利氏も北条氏同様に、非源氏系、つまりツングース北鮮系民族ではなかったこと」
を、これは意味するのではあるまいか。なにしろ足利高氏の頃は、さも本当らしく、「自分らは、源族だ」と高麗船団を利用し手伝わせていたが、その高麗が滅ぼされ新興の朝鮮になると、時勢は一変して、
(どうも怪しい)と使節が調べにきたりしている内に、大内氏の叛乱がすべてを明らかにしてしまった。そこで、足利氏としては、もう明国へ頭が上がらなくなってしまい、その討伐を恐れるの余り、臣従して、
焼香をしたり三拝九拝して明使を迎えるような態度をとったのだろう。
「神軍奇瑞」といった願文をあげてはいたが、当時の足利体制は元寇の時のように、また神風が吹くといった偶然性はあてにせず、ただもう堅実に、
「長い物にはまかれろ」と、いいなりになって向こうを刺戟しないように、懸命の努力をしていたように思われる。追従外交どころの騒ぎではなかったらしい。


  八幡(ばはん)船はでっちあげ

  徳政一揆は「損得の得」

「応仁の乱」の終り頃に全国的に起きた土一揆、徳政一揆の暴動によって室町時代は最後を遂げたものとされている。が、『宣胤卿記』(中御門宣裔の文明十二年からの日記)に、
「当時政道これすべて、御台(みだい)の御沙汰なり」とでてくる日野富子夫人が、内裏修繕を名目にして京へ入る七道に関所をもうけ、各地から京へ入ってくる物資に税をかけ、人間にさえ通行税をかけたのが、
「物価値上り」の元兇とみられている。
 それゆえ、いわゆる打ちこわしに集まった生活難の暴徒が、文明十二年(1480)九月に東寺へひとまず集まり、そこから北白川へ群がり出て、そこへバリケードを築き今でいう解放区をもうけ、
「七道」の衆とよばれた関所番人と一つになり、牛車を仆して片っ端から火をつけて廻って、掠奪をほしい儘にしたため、なんとも収拾がつかなくなり、「戦国時代」にと、やがて移ってゆくとされているが、
「足白」または「足軽」といわれたり、一条兼良の日記には、「悪党」と書かれていたこれらの暴徒は、いったいどんな人間だったのだろうか‥‥


 それに「徳政一揆」というのはモラトリアムだから、原則として、「借金のある側が、その棒引きや延期を求める」ものなのである。
 だが、よく考えてみると貧しい難民や百姓はいくら借りたくても貸してくれる所があるわけはない。つまり庶民が借金できたり、信用がないのに棒引きにする程、借財できるなどとは常識的には考えられない。
だから、これは年貢を先取りしてきた荘園の支配人みたいなのが、「先に何年分か取り上げたのは応仁の乱での物入りの為じゃった‥‥あの分は徳政として棒引きにし、
今年からまた新規に納めろや」と布令したゆえ騒ぎになったのではなかろうか。徳政とは民に徳でなく、足利体制に得だったのと逆にも想える。
 足利義昭まで十五代も続いた足利体制なのだが、それ迄なんとか支えてこられたのが、実力というより、その実どうも明国の後楯だったらしい事に気づくと、これ迄はなんでもなく見過ごされ教えられてきた事も怪しくなってくる。

『満済准后日記』の正長元年(1428)九月二十二日の条に、
「今川上総守(憲政)が駿河へ下り候うの用意をされているが、関東の大名の中には<白旗一揆>の徒も混じっていることゆえ、お気をつけなされ、もし戦などに使う事があっても、それらは使い棄てにて苦しくないものであるとの、
注意を受けられた」旨の記載がある。この<白旗一揆の徒>という呼称は、足利体制下における、「原住系の民の別所連中と、今ではそれに合流している源氏の末裔。
そして、かつて足利勢に逆らった楠木党や新田党の徒輩」をさす。源平合戦の昔から、彼らは事あるごとに、「白旗」をたてて、わいわいやっていたから、一揆とそれを軽くいなして呼んだのであろう。

 さて明国に臣従の形をとっていた足利氏は、仏教をもっての人心教化方策として、片っ端から、ナミアミダとやらせていた。
 処が白旗党余類の中でも騎馬民族系は、それに対抗して韓(から)神さまを信仰し、白頭山でも偲ぶのか、加賀の白山さまを各地に勧請。それより古いヤバダイ系や八はた系は、土俗八幡の祠を作り、
その辺りに、シャクテイ女神に仕えるごとく、男性のものに似た陽石を並べ、これを「道祖神」としてまつった。
 もちろん地域別に、ビシャモン、フクロクジュといった七福神を信仰の対象とする部族もいた。

 だから鎌倉中期に一遍上人がひらいた浄土宗の一派である時宗は、そうした異教徒を有難い仏教へ転向させるため、室町時代になっても布教して廻り、これを当時の言葉で、「はちひらき」といった。
土着の日本原住系の民に、当て字は色々とあるが、八、鉢、蜂、羽地、といった蔑称があったからである。
 もちろん、これに対する異説としては、松下見林の著などによれば、「異民何も知らざるをもって、渡航の華人これに呆れて、ぱあなりと八の字を与う。これ一二三四の八の音が、ぱあなればなり。
しかるに負け惜しみなるか、八は末広がりにて縁起よき文字なりなどという。しかれども<忘八>などというごとく華国にては、これ蔑みの語なるを知らぬもののいいなるべし」などというのもある。
 山中にとじこめられていた別所者の彼らが、インディアンなみに山頂で煙の交信をするのを、「蜂煙」、「蜂火」と書いて「のろし」、また彼らの決起を、これ「蜂起」というのも、意味があるのである。

 さて、『今昔物語』の中などには、
「いぶせき小屋に迷い来りつるものか。あな恐し餌取りの住み屋にや」などと出てくるが、それまで山奥にいた「八」たちも、応仁の乱の人手不足から、人買いの手で集められてきた。
 山中を駆け廻って獣のごとく生きてきた者達ゆえ、足どりが軽いから「足軽」とか、陽やけして黒いが足の裏だけは人間なみに白いから「足白」の蔑称がつけられた。
つまり応仁の乱で集めてこられた中で、辛うじて生き残った者も、戦後になると簡単に追い払われてしまったため、食ってゆけず、「やってこまそ」と仕方なく、徒党をくんで始めた一揆が、京周辺から全国的に波及したのである。
 つまり、裸一貫の連中が借金できたり、信用貸しで物が買えるわけもないから、モラトリアムの徳政一揆というのは間違いで、彼らは徳政反対の一揆に参加したのである。

 さて、それ迄にも、そうした原住系が足利体制側に仕えて、なんとか働かせて貰おうとすると、今でいえば洗脳だが、当時のことゆえ、(中味よりも人は見かけが肝心だ)と、まずその頭を坊さんなみに、くるくる坊主にさせてしまってから、
その名も、「何々阿弥」と抹香臭く改名させたものである。しかし、うっかり武器など携行させ、造反されては厄介だからと用心し、彼らには、「生花」「茶湯」「謡曲」といった仕事を課した。
今日いわゆる芸事の始祖の名がみな「本阿弥」とか「光阿弥」といったようになっているのはこの為なので、日本の文化は原住民製で決して支配階級が造ったものではない。

 また足利時代の謎の一つは、なんといっても和寇である。
「南北朝争乱に志を得ない不逞の徒が一葦の軽舟に乗じ、北は朝鮮海峡から南はアモイ台湾の南支那海沿岸まで掠奪せり」といった事になっていて、明国の『籌海図編』の永楽二年(1404)の条に、
「日本首(王)先に款を納め、わが国辺境を犯せし二十余人の擒を献ず」つまり足利政権は明国の命令で、それらしい二十余の首を斬って直ちに献擒した、という向こう側の記録である。
だから日本の歴史家は、南支那沿岸まで、「八幡大菩薩」の旗をたてた小舟が荒しに行ったものと考えて、これを昔から今日まで誰一人として疑う者すらいない。
 しかし焼玉エンジンやモーターのなかった時代なのである。そこまで交替で漕いでいったとでも考えているのだろうか。
 いくら人力で漕いでも、南支那海と日本との間は、冬は向こうへ吹いてゆく季節風があるから、その黒汐にのってゆけるが、これが逆の季節ではなんともなるものではない。
 だから常識的に十二月から二月まで吹く、その季節風に送られて南支那海へ行ったものであるなら、彼らとて生身ゆえ、何か着ていないと風邪をひく。処が絵では、赤褌一本のみな裸体の儘である。
 そこで、もし裸のままで行けたものとみるなら、それは風向きから考えても、逆の方角、つまり南支那海に面したベトナムか、マレー半島を考えねばならない。また、
「八幡船」と書いて、「バハン船」と読ませるのも、呉音でも漢音でもない。これも変である。


 しかし、もし世界地図が手許にあれば、マレー半島つまり現在のマレーシア連邦をみればよい。今でも南支那海に面している州の名は、「バハン」なのである。
そして四百年前の『バタビヤ日誌』の地図でみれば、マレーシア連邦全部が、「バハン土候国」なのである。命名の由来は、オランダが同地を占領するまで、つまり足利時代から徳川初期の頃まで、
そこはポルトガル人のバハン公爵家が、ベンハーの丘で統治をしていたというのである。
 だからポルトガル人が、バハンから南支那海を襲わせていたのが、「バハン船」で、明国もそれをよく知っていたが、ポルトガルは恐いから、なんでもいいなりになる日本へ文句をつけてきて、
足利政権は白旗党を捕え、その首をとって送っていたのだろう。
 
なにしろ、ああいう小舟は捕鯨船のキャッチャーボートみたいなもので、すぐ後方に母艦がいて飲料水や食物をつみ、また収穫した掠奪船をすぐ積み取ってやらねば仕事にならぬから、
ポルトガルの軍艦もバハンからずっと同行していたのであろう。とはいうものの、世界中どこへ行っても、己れの国が平気で泥棒をしたと認めているような国は、まああるまい。しかも間違えて‥‥
 まして「海国日本」などといわれながら、海流、潮流や貿易風、季節風を、もうすこし小学校でも詳しく教えておけば、とうの昔に、八幡船の謎はとけていた筈である。
 日本人の常識や判断が非科学的だと非難されるのも、こうした点からでもあろうか。


  剣豪なのか塚原卜伝

「こしゃくなり爺ッ」と抜く手もみせずに、氷のような大刀を引き抜きざま振りかぶり、二つになれと斬って掛ってくるのを、その時すこしも周章(あわ)てず、「何を致す‥‥」
 ちょうど囲炉裏に向かって雑炊をつくっていた処ゆえ、咄嗟にその木蓋をとって、頭上から電光のごとく見舞ってくる太刀先を、「慮外致すな」と受けとめ、相手が思わず、つんのめる処を、すかさず、
「この未熟者めが‥‥」と白刃を押えていた木蓋で、今度は相手の頭をポカリと叩きのめし、「このわしを‥‥塚原卜伝と知ってか」といえば相手は、土間にころげ落ち、
「命ばかりはお助けを‥‥」両手をついて三拝九拝。「この不鍛練者めが‥‥」そのまま手にしていた蓋を鍋に戻し、やおら温顔をとり戻し、
「もう直ぐ煮えるところ、雑炊じゃが一杯振舞おうかな」
 にこにこと何もなかったように落着いたものであった。
 ----というのが知られた講談の中の一部分の抜粋である。


 だが二キロもある日本刀の重みが、せいぜい二百グラムあるかなしかの木蓋に、加速度をつけて激突した場合、いくら鈍刀でもスポンと蓋は切れるか飛ばされるのが道理。
 それを食い止めたばかりでなく、反って叩きのめして、相手をやっつけるというのは、やはり世にいわれるごとく、塚原卜伝という人は、戦国時代の一大剣豪であったのだろうか。
 なにも講談をもって意地悪く追求するわけではないが、日本人は、単なる奉書紙を巻いた五十グラムのもので相手の真剣も叩き落してしまう、きわめて非合理、非科学的な荒木又右衛門の作り話さえ、
「武術の極意」とか「至妙の業」といった神がかり的なもののいい方で、さも当然らしく粉飾してしまって広めたり、「剣禅一致」といった判ったような判らぬ説明で、アイマイモコたる発想をもって尊しとするまやかし精神さえも堂々とまかり通るところの国民性をもつ。

 しかし日本人が特別そうした方面に豪くて、ヨーロッパ人は愚かで精神面で劣っているのかも知れないが、ケンブリッジ出版社からでている向こう版の剣道極意書であるところの、
『フェンシング必携』には、はっきりと、「剣技のすべては、その個人の運動神経の如何による。それは生まれつきのものである」とまで極言しているのである。もちろん突きだけのフェンシングと、大上段にふりかぶり、
「やあッ」と叩っ斬る日本刀とでは違うかも知れないが、吾々としては、「剣の途は至妙の一語につきる」とか、「剣は人なり」など難かしい事をいわれるよりも、運動神経と、ずばりいわれる方が、成程そうかと納得しやすい。

 そして鍋の木蓋と刀で激突したら、蓋の方がバッサリ切れてくれない事には、どうしても可笑しくなる。
 もちろん日本紙がいくら丈夫であったとしても、またそれを荒木又右衛門が握っていた処で、やはり真剣の方が当たったら紙を切ってくれねば、あまりにも不合理すぎて、漫画的な見方しかできない。
 なのに、この日本という国では、
「石が流れて、木が沈む」という諺があるごとく、ムジュンというものが大手をふって罷り通るような処もあるから、子供だましのような剣戟ごっこが、きわめて好戦的ムード作りに役立つとでも、為政者に思われがちなのか、
明治以降は日清日露そして満州事変、大東亜戦前夜には、きまって、「剣だ、剣だ」と叫ばれ、剣豪ものを流行させるような風潮があるようである。そして、そのたびに代表的スターのごとく、まっ先に担ぎ出されるのが、
この、「剣聖・塚原卜伝」なのである。だからして個人的に、卜伝に好き嫌いの感情などあるわけはないのだが、どうしても、その剣聖なるデフォルメに対し、槍先をつきつけるしかないようである。

     宮本武蔵は小説の主人公

 山の中で仙人みたいに木の実を食して暮したら、そんなに野猿のごとくにも警戒本能が発達し、運動神経は鋭敏になるものだろうか。
 脂肪分がつかなくなって何キロかは減量し、そのため身軽になって敏捷になるだろう位は想像がつくが、だからといって反射神経や筋肉の活動がそんなに素早くなるものだろうか。
 有名な歌手が海浜で声を鍛えたという話をきき、音楽女教師に好かれたい、認められたいの一心で、小学五年生の時、息吹山のキャンプで一週間あまり山中でドレミファを我鳴(がな)った。
 しかし直るどころか急性咽喉炎になって湿布をまかれ、酸素吸入器を毎日かけられ涙をぽろぽろこぼした思い出がある。
 これは芸大へ入って、いくら発声学をやっても音痴では駄目なのと同じことだろう。

 幕末の文化年間(1804~17)に美濃紙の本場武儀川べりの紙すきが、石臼でこうぞを細かく潰してホモジナイズ化するという、日本では画期的な製紙法に成功した。
このため従来の倍が量産されるようになり、従って紙価はこれまでの三分の二までに下落した。そこで安い用紙を用いて、いわゆる文化文政の出版ブームが起きた。
 さて、こうなると必要なのはライターである。
 そこで出現したのが、若狭小浜の軽輩武士だが、本居宣長なき後の松坂の塾へ入門し、古典をきわめたという伴信友がでてきた。
 月産千枚、その生涯に三百余の著書をだしたというから、今ならさしずめ大流行作家である。そして彼が書いたものも、
『春の秘めごと』といった初期のエロ本から、皇国史観の大家である故黒板勝美が、その『六国史』の序文に、恭々しく、
「この三代実録の原本は、伴信友先生校訂の貴重なるものでありまして」と、あるごとく、「清和・陽成・光孝」の日本三代実録の総漢文まで書いたかと思うと、天保時代の撃剣流行に便乗しようとする書店の求めに応じ、
「宮本武蔵」とか色々の剣豪をこしらえた。塚原卜伝も、また彼の三百余冊中の一冊で、その題名は、『塚原卜伝の伝』とつけられている。


「幼名朝孝、新右衛門高幹、のち土佐守と名のり、全国修行三度に及ぶ」ともっともらしい書きぶりであるが、この種本は、『甲陽軍鑑』である。しかし伴信友は、大衆作家には珍しい士分の出身で、ライターになってからも大小をさし、
いつも威儀を正していたから、近世における考証学派の泰斗として寓されていたゆえ、「伴先生のお書きになるものは間違いない」という定評があったらしい。そこで塚原卜伝の話も、
『山鹿語類』『鹿島史』『関八州古戦録』『翁草』といった享和以降(1801~)版本になったものには、版行するときに書き加えられたのか、みなそう入っているので、いつの間にか実在化され、かつては講談本の花形であったのである。
 というのも、他の武芸者は余りぱっとしないが、
「塚原卜伝は兵法修行にて廻国する際、大鷹三羽を据えさせて携行し、乗換え用の馬も三頭ひかせ、いつも上下八十人ばかりの門弟を伴って旅行し、行く先々の尊敬をえていた」とか、
「卜伝の一の太刀は、日本国中の大名たちへ相伝されているが、中でも公方の万松院殿(十代将軍家・足利義晴)光源院殿(義晴の子の次の将軍の足利義輝)霊陽院殿
(信長に追われた足利義昭)にもみな伝授し、おおいに徳とされたものである」といった記載から、足利将軍家の歴代が習うようでは、
「卜伝は超一流の剣豪だったのだろう」ということにされてしまったようである。

 しかし、はたしてこれは文字通り信じてよいものだろうか。
 この謎ときは、戦国時代における刀の在り方をまず考えればよい。弓は「調度」槍は「道具」とよんでいたが、刀はただ、「打ち刀」としかいわれていないのである。というのは、
(冑をかむり、鎧を身につけている場合‥‥)それを刀で切りつけたら鉄と鉄の激突ゆえ、はね返ってくるだけでなく、刀が折れ飛ぶか曲がるのが第一の難点。
 鎧の脇の下とか背と首筋のあきとか、狙える個所は限定されていて、その間隙を仕止めねばならないが、そこは突く位の間隔しか空いてなく、とても斬って掛れはしないことが第二の難点。
 第三の難点は、二メートルまたは三メートルの槍先で突くのであるなら、相手を中心においてその円周の距離間隔で自由がきくから、自分が誤って近づかない限り、向こうから害はうけずに済む。

   日本刀はなぜ「片刃」なのか


 処が刀の場合は鍔元から切先までは六十センチか七十センチゆえ、相手に刃を当てようとすると、どうしてもその三分の二に当たる二十センチまでの至近距離に近よらねばならぬ。
つまり相手を円の中心とみると二十センチの円周内が、己れの行動半径になる。
 これでは斬るつもりが逆に斬られる危険性がでて、巧くいっても相い討ちの恐れがどうしてもある。きわめて効果率が悪いのである。
 だからテレビや映画では剣その他の持ち道具が揃わぬ関係から、みんなに刀をもたせて恰好をつけているのも見かけるが、実際には戦場で刀は用いないのが本当。
 大道寺友山の『武道初心集』でも、できるだけ刀で戦ってはならぬが、人目をひくように刀で武者働きがしたいのなら、すぐ折れて使い物にならなくなるものだから、
予備の差料を持参して供侍の若党にささせ、馬の口取り仲間にもおびさせ、生きた刀掛けのように家来に何本も携行させねば、わが身が危いと注意書を残している。


 つまり武士は雑兵以外は、槍を戦場の表道具としたものゆえ、「槍一筋の家柄」とこれからいわれ、古来、「刀一筋の家柄」とか「刀二本の家門」などといわぬのも、この為なのである。
なのに、戦場において、さも刀を振ったように誤られているのは、何故かというと理由は芝居からである。
 現代では小道具屋の都合で槍が揃わず、ジュラルミンの刀を俳優はもたされ、やあやあやっている。が、昔はそうした理由ではなく舞台の横巾が五メートル位しかなかったゆえである。
つまり、そこで登場人物に槍をもたせては、一人で横が一杯になって、二人のからみがさせられない。


 刀なら、雪月花の型でチャンチャン振り付けができ、見得もきれて絵になるからである。つまり刀が一般化されたのは、舞台の狭さのせいでデフォルメされたのである。
 塚原卜伝を筆先で作り出した伴信友も、軽輩ではあるが士分の出ゆえ、そこはよく心得て、戦場で刀を振り回すような荒唐無稽はさせていない。そこでその著では、
「塚原卜伝は合戦九度の槍合せに、高名なる首を二十一個とり、その内には、槍下の首、場中の槍での首など七個を含む武辺なり」とかく。つまり剣豪ではなく槍豪であって、
相手を絡み倒し垂直に咽喉を突き下した勇敢な槍下の首や、乱戦になってわあわあ取り囲まれながらも、その場の中で狙った相手を、
「やあッ」と天晴れ突き立てて取った場中の首すらもある武辺者であった、というように説明をしているのである。
 
さてこうなると、「打ち刀」ともよばれた刀の、戦場における効果はなにかとなる。
 京城の韓国士官学校講堂に掲げられてあるところの、「日軍来襲の図」は、悪鬼羅刹さながらの朝鮮征伐の際の日本兵を描いたものだが、先頭の足軽はみな裸身で二刀を両手で手にもちあげ、飛来する矢をそれで叩き切って進撃している。
 日本は鉄の産出がすくなくヨーロッパや中国みたいな鉄の携行楯がなく、けやきや樫の八分か一寸厚味の板楯しかなかったので、とても重く持って進めず刀は矢払いに用いられていたものらしい。
(江戸初期の宮本武蔵を二刀流の元祖)とするものもあるが、それより一世紀前から、雑兵とよばれる連中は二本刀だった。が、この事実はさておき、雑兵でない将校クラスが刀をおびていたのは、
「者ども進めッ」と指揮刀代わりに用いていたのと、槍で突き倒した相手の首を切断する際の包丁代わりと、後は戦闘には使わなかったとすれば、何用だったのかという問題になる。

 

 それに、室町御所の歴代の将軍家が卜伝から、「一の太刀」の伝授をうけていたとすれば、非戦闘的なものを何故わざわざ習ったかという事になる。
 いわゆる武芸の習得ならば、槍術をこそ学ぶべきなのに変ではないかとなるからである。
 しかし考えてみれば、将軍家みずからが先頭になって、「それ突いてこまそ」と敵陣へ掛ってゆくわけなどはない。
 もっとそれより必要なことは、不意を襲われて槍で突かれる暗殺を防ぐことである。だから『甲陽軍鑑』という本は、あまり内容的には信用できない俗書にすぎないけれど、それに出てくる塚原卜伝の原型を、もし実在の者とみるなら、
それは今でいう、「護身術コンサルタント」ではあるまいか。と想う。つまり何時何処から不意に曲者に突いてこられても、これを素早く打ち払うコツを教えていたものだと考えられる。
なにしろ一の太刀で払いのけなくては生命に係るから、えらい人も習ったのだろう。
 つまり塚原卜伝は攻撃型の指南番でなく、防禦型の師匠であって、剣豪というより、防豪とよぶのが正しかったのではあるまいか。
 剣とはそういうもので、またそうした用途のために片刃だったのである。テレビや映画で、剣豪が刀身を鞘に納めながら、にっこりと、
「今のは峯打ちじゃ」つまり刃でない背の方で切ったのだから、生命には関係ない心配するなと、見世場を作る場面がある。
 だが刀とは、なにも峯打ち用に片刃になっていて和戦両用に巧くできているのではない。
 片方にしか刃がついていないのは安全剃刀とは違い、「打ち払い斥ける」のだけが使用目的だったからこそ、つまり被占領民の原住系に差別して持たされていたがゆえに、ああなっていたのであることを考えて頂きたいものである。