契丹秘史 唐を滅ぼした文化の高い契丹 日本史では「北宋」「南宋」を「宋王朝」とする | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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契丹秘史
唐を滅ぼした文化の高い契丹
日本史では「北宋」「南宋」を「宋王朝」とする

Chinaは現在国連用語だが、インドやアラブ、ベトナムでは中国を今でもキタイと呼ぶところさえある。ソ連でもキタイスキーである。
この契丹(宋は)西暦960年から1270年まで、文化的にも唐よりはるかに偉大で、一大文化国として尊敬されていた為であるが、何故か日本では匿しこまれている。
日本史では「遼」とか「宋」となっている。
さて、「日韓同祖遡源」を大正十五年に発表して、日本と満州族それに韓国人は祖先を一つとすると発表したのが、当時陸軍経理将校だった浜田秀雄で、
かつてシベリヤで逮捕処刑されかけた時に、随行した韓国人通訳が身代りとなって銃殺され助かったのを徳としての刊行と、表向きには伝わります。

 大正十二年の関東大震災で朝鮮人虐殺をしたのが裏目にでて、併合(植民地ではない)した朝鮮各地で反日運動が起き、陸軍部内としては満州進出の為には有効適切とみとめて刊行させた本で、
後になりますと、「五族協和」をモットーに建国された満州国の根本理念となります。

さて浜名寛祐が今は瀋陽とよぶ奉天城内で〈契丹古代史二千文字〉をみつけ、日露戦争が終ると帰国して、その当時歴史学界の第一人者とみられていた金田一京助の許へ、
これが「幻の遼の正史です」とみせるため川原衛門に伴われて、現物をもってゆき見せた処、当時の歴史学者共の大権威はパラパラ拾い読みしただけで、
「学究でもない非専門家の素人が何を言う」と笑いとばしてのけた。今日になると、彼はアイヌモシリに甘言をもってユーカラの邦訳をやらせ、都合のよい物だけを自分の名で発表し大学者とされていた男で、
北海道小樽宮の絵文字さえ判らず神主の偽作だとと発表した。後にフゴッペで同じ物が発見されてからは、大恥をかいて馬脚を現わした人物だが、大学教授が豪かった明治時代ゆえ、浜名寛祐は断念してしまった。

 しかし浜田秀雄が譲りうけた契丹二千文字を改めて考究し、それから二十余年かけ、「地名と契丹古伝よりみた日本の紀元」全四巻を発表しました。
天文学で素人や少年が新星を発見したりしますが、歴史も非専門家の方が真実を探究しています。梅原猛や江上波夫とても歴史専攻ではありません。
 明治二十一年五月七日に学位令が施行されるに先だって、日本でも歴史学博士の称号を出そうとした時、ドイツから招聘されていたリースが頑として、
日本人には歴史学博士などの称号は無理。文字が読め学べる程度だからと主張して、文学博士しか認めなかった。

ゆえに今でも歴史学博士は日本には存在しない。これがせめてものルードウィヒーリースの、日本へ残した功績かも知れないと言えましょう。
 紺屋の白袴みたいな文字を読めるだけしか能のない教授は、なんの苦労や勉強もしていないが、契丹二千文字は、忌字とされていたもので、解明の苦労たるや歴史屋あたりにやれる事ではない。
 そもそも日本史で隣国の中国大陸の一大文化国だった契丹を、故意に匿してしまうのは訳があります。

大陸で唐を滅ぼし取って代わった契丹は日本海沿岸まで勢力をのばし、寒流にのって次々と人間を移してきました。時の醍醐帝が、唐の血を引く藤原時平に対抗させるため、
契丹から来ていた、その中の一人の菅原道真を蔵人に登用。
 しかし大陸の唐はなくなっても天武帝以来、平安京の御所にくいこんだ唐勢力は堅固なもので、道真は九州へ配罪とされて死なされてしまう。
だから、その道真の霊が祟り、雷となって仇をするのを恐れ、藤原氏は九州の太宰府に「祟りよけ」の天満宮を建てたのである。

数多くの契丹人も唐よりの藤原氏と同じ中国人なのに、漢民族でないという理由から、貴種から庶民に格下げされてしまいます。「わが母国唐を滅ぼしくさった憎っくき奴ら」だからなのです。

浜田秀雄の二十余年の結晶で判りやすくなった契丹二千文字の中には鈴、鬼、木といった、今も一般に使われている当用漢字も入っていて、
鈴木、鬼沢、鬼頭、木村、木下各姓の上につきます。現代でもこの「SU」とか「KI」と発音される苗字は多く、須藤、杉田、杉村、砂田、菅原、菅、須賀、菊池、木下、菊田、木沢、北沢、清田など
多く見られる。
 スのつく苗字は鈴木を筆頭に数的にもきわめて多い。しかしその割に、あまりパッとしません。つまり世に抜きん出て出世している人は前にも述べましたが案外と少ないのです。
 それは、何しろウ姓列かイ姓列の二つの姓列の中で事業を伸ばしたり、人間関係を円滑にしていかなければならないので、やむなく他姓と交じり合ったりしてますから、
それで去勢され、まず駄目人間になる結果を引き起こすからでしょう。
 それに、もう一つ、このスのつく姓が、ウ姓列に入っていながら振るわない理由は、八七九年つまり九世紀の終わりの醍醐帝の御即位のとき、それまでの藤原氏の専横に堪りかねられた新帝は、
菅原道真をば藤原時平の対抗馬とし左大臣とし、右大臣の藤原時平と競り合わさせたためです。

 いくら菅原氏が有能であっても、大化の改新以来、高松塚古墳の壁画にあるごとき唐美人を、本国より続々と輸入してきては、
「呑ませる、握らせる、抱かせる」の三代方針によって、勢力を張りめぐらしていた藤原氏には道真とてかなうはずはなかったようです。
 四年目には、首になって九州へ流され、その二年後の延喜三年二月二十五日には、罪なくして彼は配所で死んでいます。

 のち、その罪は許されたものの、菅原の名を遠慮して、鈴木とか杉村といったように、上にスの発音をつけたこの部族は、「負け犬」のごとくなって、もはや先人に懲りて栄達はのぞまず、
ひっそり暮らして、他に打ち込むこともありませんでしたから、子作りばかりに励みました。
 
それゆえ子孫はどんどん増え、おかげで今や日本中津々浦々に至るまで、スのつく人は多くなり、みちあふれているといえます。
 しかし藤原系に疎外された歴史をもつため、せっかく王朝側近派に一度はなっても、後は中途半端なことになって、正嫡な民とは認められぬ「庶民」の立場で今日に到っているのです。
今の官房長官の菅氏も、頭脳明晰で陰で力を発揮し、総理の座を望まず、安部総理の長期政権を支えているのを見ても判るだろう。
一方、次期総理に意欲を燃やしている石破や岸田は、要領がよく、お利口さんで、変わり身の速さと、優柔不断さで、いまひとつ信頼されないのである。

本姓「ハ」の付く女性の不思議

一方、キのつく人はイ姓と違って、全くといっていいくらい、時の体制に近い考えをもっています。内心はどうであれ表面では従順といってよいくらいにイエスマン型です。ですから、
相性としてはイ姓列の他ウ姓列ともうまく結びついていけるのです。もちろん抵抗要素が少ないからです。
 いうなれば、温厚篤実、真面目人間というところで、企業にあっては、ストライキのときなどには、真っ先に裏切って会社側につくという、きわめて権勢への順応性のある人たちです。
 そして自分では、「利口である」と自認し得たり、世渡りのうまさを誇れる型です。
 ですから、波乱万丈といったようなことはまったくなく、少しぐらいの反骨はあったとしても、良きサラリーマンして模範社員のごとくみられて、
一つ会社にとどまってうまくどんどん出世をしていけるタイプといえます。
戦国時代にもこの姓の武将や武者は結構の数が居た。秀吉の家臣や馬回りの武者にも多く見られる。
ス行
須賀備前、須田満親、諏訪頼重、栖本親高、吹田毛右衛門、陶晴賢、末吉利方、菅沼定利、菅屋長頼、杉浦重勝、杉原家次、杉原長盛、杉村長右衛門、
杉山源兵衛、杉若籐右衛門、杉若無心、鈴木佐太夫、鈴木重時、鈴木正之助、鈴木与三右衛門、薄田隼人正、薄田源太郎、薄田清左衛門、薄田千十郎、薄田若狭守

キ行
木曽八郎太郎、木曽義昌、木下家定、木下和泉入道、木下勝俊、木下一元、木下祐久、木下仙蔵、木下俊定、木下利房、木下利匡、木下頼継、木下昌利、
木村重成、木村宗無、木村常陸介、木村大善、木村吉清、木村由信、喜連川国朝、吉良氏朝、吉良義昭、菊池義勝、菊池義国、岸田忠氏、北畠具教、吉川広家、
京極高次、


(蛇足だが、当ブログを愛読して下さる読者に良い情報を提供する。それは、一世の色豪で文豪、故菊池寛の言葉で「本姓ハの付く女は何かとプレゼンをしてくれるよ」である。
これを私は何十人の女と付き合ってきた経験から、間違いがないことを保証する。橋本、橋田、羽田、羽根田、服部、浜村、浜田、半田、半藤、蜂谷、畠山、畑田などである。
普通、物を提供するということは、何らかの見返りを期待するものだが、この彼女たちは全くそれがない。ただ相手が喜んでくれることに楽しさを感じているようである。そして平均以上の美人も多い)

さて、はっきり言って、この契丹系の人間は、頭の回転の早い、よい男や美女がこの文字のつく家に生まれでてくるのは必然の事で、そうでない者は藤原氏の王朝時代に百済系に挟まれて、
生き残れなかったからでもありましょうか。故に藤原王朝史では共に天を頂かずと、契丹のキの字も避けて通史には何も残していないのを浜田は解明したのです。
つまり奉天城内とよばれていた中国人だけの旧城内町で「契丹秘史」を彼が見つけ出したからこそ、
京大グループが伊藤博文の命令で、御国の為にとみな集めて燃してしまいました古史料が、日本の起源を明瞭にするための、欠くべからざる資料として、
今や不死鳥のごとく蘇ってきて、どうにか朧気ながらでも日本史のアウトラインを吾々に提示してくれるのです。