サンカ いろは ことつ唄  知らぬが仏(日本人の無宗教感が凝縮されている) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


          サンカ いろは ことつ唄

  いろは歌留多から見える日本史の真実

   知らぬが仏(日本人の無宗教感が凝縮されている)

「知らぬが、ほとけ」この歌留多は、勿論、徳川五代将軍綱吉の神仏混合令という法律が出来てからのものである。
なにしろ寺社奉行はというのは、奉行といっても、幕府の職制では、老中、若年寄につぐ程の大役なのである。
その名の通りに寺の下に神社が隷属しているか否かを取締まる今なら国務長官にもあたる。

これが国家命令として、御仏を本置する寺を守護するのを仕事とし、神社は各寺の支配下にちやんと入っているかどうかを監察した。ところが祇の御宮に対しては目の敵にし苛めて酷に扱った。
 神社は各仏閣の執事や別当が派遣されて管理下に入っているのゆえ、寺からの報告だけで事たりたが、祗の御宮や御堂には、国家権力である徳川家ご威光によって、
徹底的に頭ごなしに押えこんでゆくしかないとばかり、情け容赦もなく手厳しい弾圧と差別をくりかえし加えたのである。

当ブログの「吉田松陰」のところで、祗の御宮というものが幕末でも冷酷に扱われた在り方を克明に書いておいた。宮守りはエタとされて婦女を犯されても殺されても、寺人別帳に入っていない以上は人間扱いをされない存在だった。
そのため己が留守中に嫁ぎ先の両親から夫や妹までも、一家皆殺しにされても、何処へ訴えようにも相手にされぬ宮の嫁が、自力で一家の仇討ちをしようと十八年掛って本懐をとげたのを吉田松陰が感心し、
彼女から口述筆記をとるため、松下村塾へ招いて逗留させたところ、高杉晋作ら門人は、塾の汚れとなるから、早く女を追い出して、松下村塾のおきよめをするように再三にわたって陳情どころか抗議をした話である。

 今日の日本では、雑多な宗教が溢れすぎて、どれを信仰してよいのか国民は判らないでいる。地方では昔ながらの氏神さまを祖神にしているような土地ではまだ救いがあるが、
都会ともなると有りすぎる信仰対象に迷ってしまう。結婚相手が見つかるかも知れぬから創価学会の集会へ行くとか、車免をとって車を買うと、交通安全を祈願して、成田山詣でをし、お守りをぶら下げている。

妊婦は安産がしたいと水天宮詣で。結婚式をするなら白のウェディングドレスの似合う教会でキリスト教の数時間だけの信者と、まるで受験の時だけ天神さまへ祈願する学生のように、
目まぐるしく拝む対象が次々と変ってしまう。だが信仰は、薬みたいに用途別というものではありえない。こんな国は日本だけである。


 一つの信仰対象に対して、すべてを託してゆくのが信心であって、アクセサリーみたいに、向き不向きとか、似合う似合わぬの問題で、拝む相手を変えたりするものではないのである。
 「過ぎたるは及ばざるがごとし」つまり余りにも多いということは、まったく何も無いのと同じだというが、このせいで日本人には、何を拝んでよいか判らぬゆえ、無宗教者が多いという。
 特に都会ヘトケコンでいる人々は、テレビで地方の祭りを放送し、ワッショイワッショイやるのを、もの珍しく視るというより羨望の眼ざしで釘づけされたみたいに眺めるか、さもなくば
コバカにし、祭りを無視してしまうのは、宗教心が自分の心の中で混乱しきってのせいである。現在でもキリスト教国のごとく一つの宗派で総ての住民が纏まっている処は先進国となっている。
 「多神教の国」といって、色々なのを雑多な民族が拝む地方を、さも未開発後進国のごとく軽視みたいな解釈をつけて放映するのは、変てこだが、日本一に大きい有料放送ネットワークである。
 「先端技術開発国」の国民とされつつも、宗教心となると面白可笑しく放映されてしまう。
男根の木型に似せたものを担ぎまわるのや、その反対に女性自身に似た割れ目の大きな貝殻を拝む、天下の奇祭珍祭ばかりの取材ビデオを、フラッシュ式に茶の間で放映されてばかりなのである。
 「五穀豊穣を祈っての農作信仰」であると、そうした奇祭には、さも取ってつけたような尤もらしいナレーションが必ずつけられる。それゆえ信仰とか宗教心なるものは田舎者に限っての、
農耕民特有の儀式かと間違えたり、夏場の海辺神事をみると漁師だけのものかと誤られる。

といって信仰心を向ける対象が、さっぱりわけがわからずでも、心のウズキは感じているのかもしれない。
 「お祭り好き」といった表現で、ワッショイワッショイと女性でも御神輿担ぎに廻るのもいる。まったく宗教心抜きで金儲けだけの観光客集めの「七夕祭り」といったのや、ひどくなると、
「産業復興祭り」などと堂々とやるから、「銀座祭りパレード」までが信仰でもなく宗教でもなく、ただ人集めと物を売るだけの目的で、盛大に催されているが、誰も疑義を挟む者がいない。
つまり「祭り」というのが、もはや「祀り」ではなくなってしまって、お金儲けだけになっている。

 「阿波踊り」にしても昔は徳島の大麻神社の神事だったのに、今は、よしこの連を始め一人も詣りにはゆかず、観光客に囲まれて街路をねり歩いてエライヤッチャと踊りだけの行進をみせる。
では、どうして唄を忘れたカナリヤみたいに、こんなに各自の信仰が忘れさられてしまい、日本人が無宗教になってしまったかといえば、この原因たるや徳川オカミの「神仏混合令」なのである。
  『知らぬが仏』とばかり、明治の神祇省廃止なのが、今では歴史屋さんさえも知らぬせいなのである。
 なにしろ五代将軍綱吉の時代、法律によって、それまでは相互に睨み合い戦国時代までは共に殺しあっていた朝鮮系の「神道」が、中国系の「仏教」の下に組み入れられる法治国体制が確立した。
  「この世には、神も仏もないものか」とか[神仏にお縋り申して]と、将軍綱吉の側用人、柳沢吉保の側室染子の方の実家、正親町家の青侍兵馬だった近松門左衛門によって、
オカミヘの迎合浄瑠璃で宣伝されて広まり今日に到っている。

なんせ、かつては「壬申の乱」から「南北朝合戦」まで、朝鮮勢力と新興明国の中国勢力との代理戦争ばかりしていた国なのに、その二つだけが徳川オカミによって混合され、近松によって神仏といつに括られてしまった事が原因らしい。
 朝鮮クダラの祖神として河内に祀られていた平野四神が、皇大神となった神道と、建国統一のための舶来宗教の仏教とは、ともに為政者側の宗教であり信仰であったにすぎない。
人口比率からゆけば僅か5%から10%のものなのである。日本列島に先住していた為に、奈良朝時代から被征服民とされ奴隷扱いされてきた九〇%から九五%の者らの信仰は、まったく別個なものである。

 『神祇省』を設立し、諸政一新の明治新政府が、太政官の上においた最高権威の「神祇」こそが日本列島原住民というか先住民たちの建国以前からの心よりの信仰対象そのものなのであった。
 しかも「士農工商」と徳川体制オカミに都合のよいランク付けの法治国にし、使い棄てしてもよい旧被征服民族をランクの枠には入らぬ非人、江津多と埒外の存在とした。
前足利体制はまだ役に立つ者には、念仏を百万遍唱えさせ阿弥名をつけ、セミ同胞の同朋衆にしたけれど、徳川家光以降は、まったく、騎馬民族系の白ッや、海洋渡来民族の赤の八ッは、
二本脚で歩く人間なのに、四本足の動物なみにしか認めようとはしなかった。

 五代綱吉の神仏混合令にしても、韓神は中国渡来仏教の下に格下げというだけで、まだ寺社奉行支配で神社は保護はしなくとも認定はした。
しかしである。「祗」の方は、「淫祠」「邪教」として徹底弾圧を加え、信者は迫放し宮は破壊しつくした。つまり徳川オカミ公認以外は、すべて抹殺すべしというのが寺社奉行の仕事であった。
徳川家だけが独占輸入の火薬原料の硝石を出島で確保し他は抜け荷で持ちこまぬようにした後は、切支丹伴天連狩りは一切していない。

寺社奉行が厳しく取締まっていたのは、保護せず抹殺したい各庶民信仰そのものであったのが実態なのである。現在それぞれの宗教家が「埋没したカミガミ」とか「匿されたカミ」と掘り出そうとしているのもこれである。
さて厄介なのは、新羅を「白木」とした白山神社や白髭神社といった神社である。本来ならば徳川家からすれば反体制の存在の非人信仰であるが、京の吉田垂加神道が、上納金をとって、
新羅も朝鮮国ゆえと、庇ったから、江戸期には加賀白山を本社に四千社近く存続した。一方、京では吉田習合神道御本家に直接上納金をいれて、祇園、八坂は、社として残れたものの、
地方ではそうはゆかない。そこで庶民の智恵というか、プレッシャー除けに八幡の藪知らずのような人目につかぬ処へ放置して拝みもしたが、都市では逆手にとって、七福神信仰にしても、
本堂に見せかけの仏像をおいて「寺」という恰好に化けさせて信仰した。つまり「賤」と「草」の祗宮でも「浅草寺」と寺としてしまうような例は、毘沙門さんを初め、限りなく多く、
当時は「知らぬは仏ばかりなり」だったにしても、今では「知らぬは庶民ばかりなり」である。

また、菅原道真を祭った天神(雷神)というのも盛んである。契丹系の道真を、唐系の藤原氏が大宰府へ流し、死なせてしまった。その後天変地異が多発したため、道真の祟りを恐れて、
天満宮へ祭った。藤原氏は大陸系で仏教勢力だから、原住民(サンカ)は反仏で神祇側ゆえ圧迫されていた。
体制側は当時まだ迷信が幅を利かせていたせいで、前記のように祟り除けとして北野天満宮や、湯島天神といった、いわば官製の宮を建てた。
これは拝む対象とは全く違い、サンカたちは道真を拝む「隠し天神」なのである。だからサンカたちは戒めとして、

「通りゃんせ、通りゃんせ。ここはどこの細道じゃ、天神様の細道じゃ、どうか通してくだしゃんせ、・・・・・・行きはよいよい、帰りは恐い・・・・・・・・」の歌で子供の時から用心した。
従って、この歌の意味は「お参りに行くときはバラバラで行っても、帰りは見つけられやすいから、集まって帰ってはならない。」なのである。