戦国の異色大名 山岡道阿弥(景友) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 

戦国の異色大名 山岡道阿弥(景友)

この一族は山岡景佐、山岡景隆、山岡景友、山岡景猶、山岡景以、山岡景之、と多く、信長から秀吉に仕え、最後は徳川家康に仕え、
幕府の役職である甲賀組の元締めとなっている。
山岡の、この名前が道阿弥というが「あみ」がついているということが大切で、この「あみ」から考えてみたい。


まず、戦国時代の前政権は足利幕府である。この足利幕府というのは、大陸の明国の影響を強く受けていたことを理解しなければならない。
この「明代理政権ともいうべき足利時代」に、反体制の日本原住民たちは、反仏教徒とされていた。
この時代も大陸系の人間は「良」とし、素直に仏教を信じず、抵抗する原住民を「賤」として差別していた。

そして彼らを同朋衆、「同朋(同胞)なみ」のセミの準人間に昇格させる条件として頭を丸め僧休にさせ、ナンマイダを百万遍唱えて仏に仕える条件つきで室町幕府が許可したものだが、
謀反をされてはと用心して茶湯、活花、謡曲などの非武装職に限っていた。

山岡道阿弥家のごとく足利時代に近江半国の守護代となったのは極めて異例で、その一族が京御所を監視する、信長の安土街道見張り役の、
瀬田の城主ともなって室町幕府の危惧し用心した通りに結果は命取りの存在となった。
しかし山岡一族はとてもただのアミ系ではなくて、尋常一様ではない処の普通の素状ではない事になる。
 今でこそ弾圧逃れに一心無私と称しても戦国時代の「下剋上」の世では、それまでの圧迫をはね返して、サンカ部族の天下取りが企てられていたとみねば、山岡道阿弥の謎はとけない。

(注) サンカとは、日本純粋原住民で、大陸や半島人の混血を嫌い、独自の文化を持ち、時の政権の追及を逃れて暮らしていた。
   彼らは、文字を持たず、同族同士の結婚で純潔を保った。彼らの頭目は「おおもとさま」といい、その下に地方の頭として「あやたちさま」が居た。
 サンカのテーゼは、原始共産主義ともいうべき「統治されず、統治せず、相互扶助」だった。
 そして、野山、河畔で「ゆさばり(地面にテントのような布制の住居)」で家族単位で暮らしていた。 もちろん、村や町にひっそりと暮らしていた者も多く、これらを「とけこみ」という。
 彼らは生活の為様々な仕事はしたが、主に竹製の蓑(精米に使う、もみ取り用の大きなザル)を作り、百姓に売って銭に代えていた。
 戦国期になると、大陸系に虐げられ、差別されていたサンカ族が主に関西以東で隆起し、時の守護大名を追い払い、国取りを成し遂げた。
   有名なサンカ大名には加賀の前田家や上杉景虎や伊豆の北条らがいる。

 

そもそも近江の国は野洲川に、神話では天の王朝だが、実際は建国統一の六世紀七世紀まで、現在愛知県の三河額田群のオオキミが今では八ッとよばれる黒潮渡来部族を伴って、
中ツ国いまの、中国地方より攻めてくる鉄剣部族と、帆立貝殻を石で砠いだ貝剣で防ぎ戦っていた遺跡がある。
 後に、ここの八田別所の信秀が尾張へ出て織田家に仕え、織田姓を賜姓されて名のり、伜の信長がやがで、この近江のビワ湖畔に安土城を建てるのは後の話だが、
神話で隠しこんでしまっている、ややこしい国である。


 故菊池山哉が労作「蝦夷と天の王朝」を残しているが、彼も日本書紀と古事記伝を頭ごなしに信じてしまい、カミがかりの大昔の神話とし、片っ端から何々のカミと封じこめてしまっている。
けれど七世紀の建国統一の祭に、原住民は邪魔になるゆえ消すため「神話の世界」へ封じこめたものと理解して読んでゆけば、隠されているベールがとれてきて、
引用文献も西暦九世紀の勧学院派の著述と判る。
 さて近江のあと半田の守護職六角承禎は、講談では「カメ割り柴田勝家」にかかって道化役にされているが、「日本の特殊部落」の本によれば、
とんでもない話で、この六角氏とは、足利体制の政治警察の長官で、

「売僧千人ヲ手足ノゴトク各地四方へ散ラセテ、ソノ情報ヲ集メシム」とでているように、仏教側の足利体制の半国でも守護職ゆえ、諜者をみな僧侶の恰好にさせ、雲水に仕立てたり、菰
で身を包む乞食のコモ僧に化けさせては、諸国の情勢を探らせて足利将軍家に報告していた。
 近江一国を半々に分けて、六角と山岡を守護職につけていたのは、明国代理政権足利ゆえ、「夷をもって夷を制する」の中華方式だった……ということが判る。

ということは、千名の諜報団を動かし徳川初期の柳生但馬守のような働きをなしていた六角承禎に匹敵するだけの、実力の持主と山岡道阿弥はなる。
が、近江瀬田城主山岡景之の四男として始めは、三井寺の光浄院の門跡をついでいたのだが、足利15代将軍義昭が備後の人見山へ逃げるとき秘かに呼びよせて、彼を還俗させて、
 「山城半田の守護職に任命する。よって近江半国守護職の父景之と共に、必らず力を合せて京を取り返してくれよ」と、縋りつかんばかり頼んだという。

そこで彼は「山岡八郎右衛門景友」と名のって、信長は認めなかったが山城半国を自分の所領としてしまい信長へ宣戦布告した。
 しかし足利義昭の旧臣だった明智光秀が、討伐軍とし攻めてきたので矢合わせだけでこの時は和平した。
 信長に降参したが、彼の働きとしては、安土築城の大工頭岡部又左に手伝ったくらいで目だつ事はしなかった。しかし、
秀吉の代になると『お咄衆』の政治顧問役を二万石で勤めた。

処が秀吉が死に、家康が伏見城に入るや否や、その家来でも与騎でもないのに、道阿弥は伏見城の裏に、万が一にも攻撃された際に家康が逃げ込めるように、
大曲輪を独力で造営した。これには近江膳所城主の次兄山岡景佐も協力した。

なにしろ祖父山岡景就の代から「甲賀24家」は山岡家随身だったから、いわゆる甲賀者が、手足となって働いていたから勢力があったとされているが、
クコの殼を撒いて敵を脅かすのは戦場での働きだけだが、普段は情報集めやスパイ働きもしたのだろう。だがサンカ食糧たるや、
 「ヒエ、アワ、トチ、ソバ、ムギ、クリ、マメ、イモ」が主食であったことから考えれば、垣根に使うぐらいのクコの分量では、とても殼を俵につめて運べる程ではない。
彼らは食料としていたからこそ、殼が山程あったのではあるまいか。となると丹波綾部に「サンカ」の地名が、戦前まであったスミトモとも呼ばれたオオトモのアヤタチさまの居付き地帯とも繋ってくる。
 上州の新田が、トケコミで世良田、徳川の地名を現代まで残しているゆえ、大御所家康の出身にも結びついてくる。
(鹿島昇説では、家康はサンカ葵族、秀吉は木の陰族。)

つまり道阿弥も、世良田の家康と同じ慶長サンカだったと判断できる。
 騎馬民族の民族色は白の源氏は、北条政子やその一族に担がれたただけで散々に利川されて棄て殺しにされている。
一方、海洋渡来民族の赤の平氏は、熊野浦から集団上陸して天下をとり、福原に港をつくり、平安時代が続いた。平の 平忠盛、 平清盛、 平時忠、 平重盛 などは有名だが、
その他何万人といたはずの者たちの名は伝わっておらず、全てひっくるめて「平家一門」だけしか姓も伝わらぬ西南系兵団の力を使ったのはよいが、
彼らがもちこんできたマラリヤにかかって清盛は感染死する。しかし

義経を使って源氏を一掃させた北条政子は、紀元前三世紀から日本へ住みつき「天の王朝」と神話にされ七世紀には封じこめの古平氏を復興させての北条時代を築いた。
契丹系の梅鉢サンカは、天慶の乱とされる敗戦から663年目にようやくにして、家康と秀忠の二代きりで消えはするものの、
初めて天下をとり日本全国を平定させた。家康四天王とか家康神将十六人衆というのも、家康を盛り立てて戦ったが、これら全てもサンカなのである。

(注)有名な太田道灌の「ミノ一つだに無きぞ悲しき」の歌から見える、サンカの実態は、以前にUPしてある。
 「太田道灌と江戸城、箕のひとつだに、出せばよろしく」を参照していただきたい。