NHK大河放送「麒麟が来る」の考察 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 

NHK大河放送「麒麟が来る」の考察

一月十九日、第一回の放送を観た。
製作は池端俊策ということだが、彼は映画「復讐するは我にあり」や「楢山節考」などの名作を手掛けているのに、
時代考証が全くなっていない。一つ一つ上げればきりがないので、ここでは何点かに絞って指摘したい。

先ず、鎌倉や戦国時代、江戸時代でも武士の表道具は「槍」なのである。刀は首切りか、槍を打ち払うための「打ち刀」と呼ばれていて主武器ではない。
なのに相変わらずのチャンバラ思考で、刀での斬りあいに主眼を置いている。

また、野盗の首領が鉄砲を持っているのにも驚いた。種子島に伝来してから、器用な日本人はすぐさま真似て精巧な火縄銃の制作に成功している。
そして九州からそれはじわじわと浸透して、三河の今川氏も装備している。だが高価な鉄砲が野盗づれが持てるはずはない。
駿遠三の太守である今川義元が五百丁も揃えられたのは、その大国の財力がバックだった。だから貧乏小国の尾張の信長など、一丁も無かったので、今川の武力を恐れたのである。

次に、4K放送のカラー効果を狙ったのだろうが、赤、青、黄の原色の着物は酷すぎる。
当時の下級武士や庶民の着物は、おがらや藤づるで編んだ粗末なもので、木綿などは高級品なのである。だからその色も暗いくすんだものが多かったのが実情。
小者時代の秀吉も、信長に仕えてお仕着せの紺色の着物を支給された際、「こんな綺麗なおべべは着たことがないずら」と喜んだというぐらいなのである。

さて、主役の長谷川博己だが、線が細すぎて頂けない。ちょい役で漫才屋の岡本隆史が出ていたのも笑止の沙汰。

光秀の若い頃から、本能寺後山崎合戦の最期までを演じるのだろうが、ハリウッドの名作「ゴッドファザー」のアル・パチーノのように、
大人しい弟時代と、ゴッドファザーになってからのあの凄みのある見事な変身。
長谷川も、若年で諸国を遍歴し、戦国の荒波にもまれ、信長に重用され、国家主権者である信長に謀反するという、通説通りの光秀を演じる。
その苦悩や葛藤の深みを演じきれる俳優とはとても想えぬのだが。
さて、光秀に関する、その実父、母親、正確な年齢などの一級史料のないのが現在である。だから様々な説がまかり通っている。
だが光秀という武将はこの時代においては稀有な勤王家であり、心根の優しい良質な人物であったことは確かである。
比べて秀吉のごときは、時の親王様を殺し、自分が次の天皇になろうとした不届き者である。
明治のぼんくら学者どもが「豊臣は反徳川だったから勤王だろうと」正一位まで贈位しているが飛んでもない間違いである。

当ブログでは様々な角度から、光秀犯人説を否定した記事を書いている。どの説を、誰の説を信じるかは読者の自由である。
以下は、光秀の内面を考察した、一文だが2019年の記事の再掲載であることをお断りしておきます。

 

「見花」と題されて、「咲きつづく花の梢をながむれば、さながら雪の山かぜぞ吹(く)」という短歌がある。
これは、旧候爵蜂須賀家に伝わっているもので、明智光秀の署名があり、明智光秀の真筆として名高いものである。

が、これと同じものが明智光秀が迷って出て祟りをせぬようにと、祀られている福知山の御霊社にも余り保存はよくないがある。
つまり光秀には、この他にも、「われならで誰かはうえむひとつ松、こころしてふけ志賀の浦かぜ」
といったあまりうまくない歌が、『常山紀談』の中に、光秀が唐畸の松を植えたときのものとして書かれているが、真偽不明なのは、
そっくり同じ他人の作があるからである。だからして明智光秀の作と認められるのは前掲のものしかないことになる。

そしてこの歌は巧拙は別にして、光秀にはきわめて感銘深いものだったといえる。
では何故そうなのであろうか? といった疑問が、どうしても浮かんでくる。

雪の山風が吹くのは当時の美濃、それも東の飛騨に近いあたりである。今では石畳しか残っていないが可児郡の明智城の遺跡へゆくと、
 何百年と星霜はたっているが、そこには樹齢もわからぬような、山桜の古木がずらりと並んでいる。

だから光秀がまだ十兵衛とも名のらず、奇白丸とよばれていた幼時に、山頂の明智城から何かを見下ろし感銘をうけたことが有ると考えられる。
  が、五歳や六歳の少年にとって、終生ずっと忘れられぬような記憶とは何だろうとなる。
  そこで光秀が生まれたと推定される一五二八年から起算してゆくと、享禄五年七月が天文元年に改元されるから人文二年二月二十日、

太陽暦では三月十一日に当る日に、明智光継の三女の小見の万が斎藤道三の許へ、輿しにのせられて山を下っていった事実をつきとめることができた。
 当時は、十五歳位で嫁にゆくのが当り前な時代なのに、行かず後家みたいに何故か二十一歳になるなるまで嫁に行っていなかった。
この謎は推理するしかないのだが、小見の方は明智城内に居た若い武士と肉体関係を持ち、未婚の母として光秀を産んでしまった。
 相手は何かの戦の際戦死し、光秀は母と祖父明智光継に育てられたとしか考えられない。
だから光秀の出自を名門土岐氏の出だとする歴史家の説は信じられないのである。

そして、嫁いだ後、天文二十年三月に、小見の方が急死すると、斎藤十兵衛を名のっていた光秀は、明智姓に名乗りを変えて、
 突然出奔してしまっている。なのに五年後の弘治二年に道三が旧土岐勢力によって殺された時、すでに小見の方は死んでいて、無縁のはずなのに、
 明智城は包囲されて、一人も脱出できないように、この山城は周囲から火をかけられて、皆殺しにされている。

どうも十兵衛が隠れていて仇討ちしまいか、と警戒されてとしか見る外はない。

さて信長の妻の奇蝶は美濃から嫁に行ったので美濃御前ともいわれていたが、小見の方の産んだ娘である。
こうなると光秀は道三の子であるばかりでなく、信長には義兄にも当たるのてある。
こうして一つの短歌でも、手探っていくと、隠された歴史が何かと浮かび出るものである。

明智光秀は生母を愛していたとは思われるが、、義父の斎藤道三を慕つていたかどうか判らない。
  しかし、三つ子の魂百までもというけれど、やはり同じような理想主義者だったのは、確かなことのようである。
 京で、日蓮宗の僧として修業したことのある道三は、応仁の乱で荒れ果てた京を見、酷税に疲れ果てた庶民の窮状を見かねて、
 現生の幸福を説くのが日蓮宗の教義だから、流れてきた美濃でその理想を実現しようとした。

光秀も諸国を回ってみて「この乱世ををひとまず旧へ戻すために」というので、越前一条谷に身を潜めていた十五代将軍足利義昭を、坦ぎ出すことに全力を投入した。
あまり良質ではないが、旧細川侯爵家に伝わる『家記』では、
 「永禄十一年七月十日、光秀はその家臣溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余名にて、阿波囗で義昭を迎えさせ、穴問の谷をへた仏が原のところに、光秀自身が五百余の兵をひいて待ち
 うけ、そこから義昭の護衛をした」とでている。

しかし足利将軍を復活させたところで、世の中が良くなるわけはない。やがて絶望した彼は、織田信長をもって、
 「彼こそ自分の理想を実現できる男ならん」といった見方をしたらしい。なにしろ信長は斎藤道三の女婿であるから、道三の理想主義を受けついでいるものと考えたのだろう。

 というのは、その頃の信長は、まだ「天下布武」などとは号して居らず、
  『掛川史稿』といった古書には、すこし話は難かしくなるが、

 「遠州駿河の院内に限定居住の者らは、これまでと違って松永太夫の申し付けさえ守るならば、商売を営んでもよろしい。
しかし他の部族は年末といえど難渋して居っても一切勝手は許さないものである。永禄六癸亥年十月十九日、上総介(判)」が収録されている。

 従来これを、静岡県掛川は当時まだ今川領だったゆえ、氏真が書いたものとみて今川家裁許状としているが、今川義元の伜が、こんな反体制な布告を領内にする訳はない。
  院内とは院地とか散所、別所の名称で今も地名は各地に残っているが、これは高松古墳が出来た頃、日本列島へ渡ってきていた弁髪の藤原氏にその祖国を占領され、
やむなく帰化を申しでてきたクダラやコウライ、シラギの者らで軍隊を編成し、これを日本原住民の討伐にさしむけてよこし、
 捕えた者らを各地に分散収容したときの限定地域のことをさすのである。
  つまり、かつての天の朝の残党でヤソタケルとかヤマタオロチなどと、ヤを名のって日本中に散っていた部族のことである。
  いわゆる王朝時代と袮される藤原氏から足利氏にかけて、差別されてきたヤの部族に対し、その限定地域から出てもよく、長吏太夫の命令さえ守るなら商売をしてよい、
といった布告は、まだ今川家の朝比奈三郎兵衛の領地だった掛川地域の、そうした被圧迫階級に対し解放を約束した信長が出したアジ文書と見るしかないであろう。


  日本歴史では、信長が各地の税金をとる関所を廃止したり、清州の城下を楽市として一切無税にしたことを、仁政のように特筆しているが、この上総介文書をみると、
 「商売の許可は、後にヤン衆とかヤア衆、ヤアさんとよばれる人々だけに限られる、だから、それでこれまで差別圧迫されてきた怨念をはらせばよいであろう」
  といった具合だから、商人はこれ一人残らず日本原住民とそれからは定まっだのである。

こうなると、もう関所の必要もなく、清州の城下を彼らの解放区にしたのも当然の帰結といえよう。
つまり今でも商売をする店がヤの字を、「三河屋」「尾張屋」「越後屋」と付けるのも、信長の先発隊が堺の町などへ押しかけて、「矢銭」とか「屋銭」といった名目で、
 賦課金を強制割り当てしていたのも、信長がヤの部族をおおいに利用したゆえんだろう。

小説や講談では個人のバイタリテー、つまり武勇伝で天下をとるようになっているが、今も昔も組織を握り、大衆動員しなければ、なんともなるものではなかっただろう。
さて、一般大衆の被圧迫ぶりを流浪しながら見てきた十兵衛の目には、これまでの被差別階級を自由にしてやり、商売という利潤追及の生計を許し勢力を伸ばしてゆく信長のやり口が、
 彼が憬れていた新体制に思えたし、
  「信長こそ新しい世直しの旗手」とみえたのであろう。だから、せっかく一度は奉じたものの旧体制そのものの足利義昭から、光秀は鞍替えしてしまったのだろう。
もちろん若かった頃に奇蝶へ禍失をおかしてしまったので、その贖罪のため夫となった信長に尽したとする見方もできよう。
  しかし勢力を広げるまでは解放戦線の旗頭であった信長が、やがて独裁者になって、
 「武力をもって天下平定」と、その方針を変えてくると、おおいに光秀は悩んだらしい。
  だからその頃の光秀は、信長に換るものとして時の正親町天皇に近づき、次に帝位につかれることになっていた皇太子誠仁親王とも仲良くした。
 道三が日蓮宗を信仰し帰依したように、彼は天皇家を宗教的なものとし、

「天皇教」といった信心をもち、その力で革命を考え企てていた点がないでもない。
  だから、今と違って衰微していた皇室に対し、光秀の奉公は他に比のないものであった。
 「その勤皇の志あつきを嘉し、馬、鎧、香袋を賞として授く」と、天正七年七月二十日、正親町帝はみずから光秀へ賜っているけれど、天皇みづからが勤皇であると認めた者は、
 先に和気清麻呂、後に明智光秀しかない。

 秀吉は信長の死を知っていた

 

 『御湯殿上日記』なる当時の宮中の女官どもが書きつづった記録では、この事件は御所の飯米にあてられた領地を奪われ、収獲がなく困っていられるのを光秀が討伐して取り返し、
 奪われた分は立て替え納入した為といわれている。が、光秀は、かつて足利義昭のために信長が造営した「武家御城」とよばれていた二条城を作り直して、誠仁親王に献納し、
 「下の御所」といわれていたのをみても判るが、あまり皇城が敬われていなかった時代なのに、光秀だけはおおいにシンパとなって奉公をした。
  何故かというと光秀は、新しい明日を何んとかしようと思っていたからだろう。
  さて、備中高松はともすれば四国のようにも間違われるが、岡山の裹の山間である。
そこの竜が鼻の本陣に居た秀吉は顔をしかめていた。何故なら、
 「四国の長曾我部守親に、四国は切り取り放題じゃと、彼へ嫁入った斎藤内蔵介の妹の産んだ子へ、信親と己の名を一字やられた癖して、
 信長様は己が子の信孝どのが成人されると、四国探題にしようと、長曾我部征伐の軍勢をだされるそうではないか」と低くうそぶいた。すると

 

「信長さまは女ご嫌いゆえ、どうしてもせねばならぬ子作りには、前に男児を産んだ女人のみを召されてます。
よって信孝様より下に男の子が八人もおわします。ぢやによって今の儘でゆけば、これまでの功臣は次々に粛清されて、信長さまの御子さまが跡釜につくことになりまするな」
 「そのことよ。わしにしろ柴田勝家、滝川一益と子のない者だけが、重く用いられているのは、どうもその含みがあっての事らしい」
 謀臣黒田官兵衛へ秀吉は笑って見せた。しかし笑顔はすぐ引っこみ、

「散々っぱら働かされて、はいそれ迄よでは堪らぬわえ」と口を突がらせてから、
 「だから馬鹿を見ぬよう手は打ってあるゆえ、まあ六月一日あたりを大願成就とみて和平交渉は早くに毛利と纏めよ。
ぐずついては元も子もなくなるぞ」と官兵衛に命じた。


  が、予定より一日遅れで秀吉ら働く者にとっては何よりな、独裁者信長爆死の報が京より届いた。
そこで秘密裡に進め、もはや調印待ちだけになっていた毛利方との和平交渉を、六月三日朝に済ませると、秀吉はむっとして、
  「次の血祭りは光秀だな」と唸った。黒田官兵衛が、
  「殿のライバルのせいですか」と、いった意味を聞くのに、
  「信長さまの独裁主義も古いが、亡き道三入道譲りの光秀めの理想主義も鼻もちならぬ。これから天下を制圧するのには、己れが御所の主になるしかないのだが、

光秀めは皇太子誠仁親王と仲良しゆえ、わしが帝位につこうとすれば光秀めは馬鹿ゆえ、すぐ刃向かってこよう。一日も早く叩くしかあるまい」と放言した。

が、秀吉のこの言葉は出まかせでもなかった。
  のち誠仁親王が怪死したとき、奈良興福寺の英俊はその天正十四年八月七日の日記に、
 「誠仁親王さまの急死は、はしかだというが三十五歳の皇太子がかかられる病いでない。もうこうなったら次の帝位へつくのは、秀吉とはっきり定まったようなものである」
と明記しこれは、『多聞院目誌』の名称で活字本にもなっている。

さて秀吉は故信長の葬い合戦として山崎街道で光秀を討ったとし、
 「山崎合戦」なるものが華々しくあったように、陸軍参謀本部編の<日本戦史>の一冊にもなっている。しかし、この戦史の原本というか土台になっているものは、
 「豊臣秀吉より織田信孝の家老斎藤玄番允らへ、宛たる戦況報告の手紙」とされている。

 この玄番允は斎藤道三の忘れ形身で、奇蝶の異父弟だから、明智光方の義弟に当る。
  しかし<日本戦史>では、秀吉は織田信孝を名主に頂いて信長の葬い合戦をした事になっている。だったら後になって秀吉が、その戦に加わった信孝へ、自慢たらしく戦況の報告書を出すの
 は、それが家老宛であっても可笑しすぎる。恐らく真相は囗のうまい秀古が、
 「信長さまの急死を聞き取るものも収りあえず、かくは駈け戻ってきた……これから新しい世作りをするため談合しよう」と、黒田官兵衛あたりを使いに飛ばせたので、律義な光秀は己が持城
の山畸西ヶ岡の勝竜寺城へ秀吉を迎えにきたものらしい。
  が、この城は光秀を裏切って秀吉にに加坦していた細川幽斎の親代々の居城だったのである。
  それゆえこの辺の事情を推理すれば、まんまと光秀は偽られて、細川の策に落ち秀吉に殺されたのではあるまいか。


 戦史では、六月十四日、十五日の両日の合戦となっているが、十四日は戦らしいこともなく光秀は城から出ず、
 十五日になって火を発し城を出たところを殺されているのである。
  無実の罪で汚名をさせられ殺された者が迷って祟りをしないようにと、封じこめにまつるのが、「御霊社」だったと、現在では明確になっているけれど、
 光秀の為に、江戸の元禄時代から京都福知山には大きな御霊神社があり今も多くの参拝人で賑わっている。
また、画像のように、坂本では未だに光秀を犯人とした説を信じて歌碑まで作っている。