徳川家康は日本原住民 サンカの出身 家康とタバコの関係から考察 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

徳川家康は日本原住民 サンカの出身
 
 家康とタバコの関係から考察
 
<<家康と煙草>>
 
   「駿府記」の慶長十七年七月十日の条に、
「南蛮よりの妙薬にて、万能にきわめてよき効能ありと申しはべりて献上の者
ありしが、如何に用いるやと尋ねられそうろうところ、点火して胸深く吸えば
可とお答え申し候ところ、煙の出るやと仰せあり、その煙にて悪気邪気しっかい
払いますると謹んで述べしに、首をふられて、拒まれたまい、立ち給えり」
とだけある。
  問題は家康へ、何病にもきく悪気邪気払いをなす妙薬として、奉げられた物は、
どう見ても火を付けて吸う煙草しか、この場合は考えられぬという事である。
  「慶長風俗絵巻」にも、最早巷には輸入された莨が万能薬として大流行して
いて、長刀位の大煙管を共奴に担がせた武士の絵も、絵巻屏風にはいくつも
出ている。
  処が。倅秀忠に江戸は委せて、静岡の駿府城に入っていた家康が「煙が出ると
申すのか」と不機嫌になってしまい、席を立ってしまったのは何故かという
疑問が生じる。
今でこそ「嫌煙権」とかいって、煙草嫌いな人も多くなっているが、慶長十八年
には、英国人が駿府へまで来て、家康に珍奇な献上品を捧げ、よって通商交易も
許可していた時代である。
  新興都市の江戸では長い大煙管が流行して、刻み
煙草を詰め、遊里の女達まで競って吸っていた今でいう処のナウな物である。
  なのに家康は好奇心が全くないのか、それとも煙草嫌いだったのか。
鯛の天婦羅を賞味していたと伝えられるし、変わった料理を好んでいた物好き
にしては妙である。勿論現代のように癌になるとか、心臓に悪いと言われだして
いたら、不機嫌になる訳も判るが、当時は万病に効く薬とされていた。
  後で判りやすく書くが<家康が煙草を嫌った訳>は、彼は歴とした日本原住民系
の出身で、煙草そのものではなく”煙”を嫌ったのである。
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  日本列島が大陸人によって侵略統一された時。
いち早く降参して奴隷となった人々が居た。
捕らえられ、進駐軍のお情けで種を頂戴して、以後綿々と続いている。
  しかし隷属を嫌い、頑強に抵抗し、戦って破れてもなお、流浪の民となりながら
種を仕込まれる前の女性を伴って山や海へ逃げ、子孫を残した人達もいた。
 
  そして次々にそれぞれの土地に落ち着き、居付き、生活する人達がつまり、
純粋な日本原住民であり、サンカと呼ばれる人々である。

  しかし何時の時代も体制側からは差別され、弾圧や虐殺を幾度となく、くりかえ
されてきた。このサンカの人達は家族毎に人目を避け、小集団で各地を転々と
旅して、この集団が(これをセブという)安全確認や危険通知に山から山へ
合図し合うのを狼煙という。
  しかし近間どうしの合図にあげる煙は極細い
微かなものである。
  それを待ちかねて家族で注意深く眼を光らせているゆえ、
一本の細い煙でも判るらしい。
  このセブへ交替に入り込めると、飲み水や、洗濯の水も湧かして沐浴もできる。
魚を捕って焼石で調理もできる。
  そして一度に五ケ所しかセブは張れないから、
他の家族は自分たちの順番が来るまでは藪蚊に刺されつつ茂みに隠れていた。
  そしてその辛抱してじっと待つことを、彼らの言葉で”焔待ち(ホマチ)”という。
だから焔待ちの煙ゆえ、煙草などくゆらせられたら見間違う惧れがある。
  だから誰も煙草などに火を付けぬのが、彼らサンカのセブの掟なのである。
  三年後には大阪を落城させ、天下平定を成す家康ですら、煙を出すと聞けば
顔色を変えたくらい、このサンカ出身者はセブノロシと紛らわしいゆえ、
嫌煙なのである。

  この一事からも三河の名門出の松平元康と違い、家康は世良田出身の部落民、
即ちサンカ出身だということが判る。
 鹿島説では家康はサンカの葵族であり、秀吉も同じくサンカ民族のコノハナ族というが
 この説は正しい。

   <サンカ焼石>
 
 前記の処で焼石、と出てきたが、関連するので紹介する。
先土器遺物包含層には丸石の群が見つかり、俗に芋石と呼ばれている。
これは
サンカの調理炊事法と呼ばれている。熊本や東北でも地面にその儘で残っているが
何処でも皆山中で発見されている。
  サンカは鍋釜類は携行せず、ささら衆と昔は呼ばれたごとく、青竹を縦割りにし、
中節を削って谷川で捕った小魚や食せる山菜を重ねて、並べて荒塩をかけ、
石を上に置いて蒸すようにする。
 米飯を炊く時は、麦を下に置き上に米や粟は乗せるようにして、焼石をのせる
前に良くかき廻す。
 サンカは海流で流されて日本列島に漂着した連中も混ざって
いるから、日本列島に上がらずハワイ方面まで流されて行った人々もいた。

  だからハワイでも「カルア」と呼ぶ焼石料理があって、豚でもパンの実でも
何でも煮炊きに鍋やフライパンは用いない。
 近頃は観光客寄せの名物料理に「焼石料理」を売り物にしている所が多いが、
これは歴としたサンカ料理である。
 石を温めてほかほかにしたのを厚手の布袋にいれ「温石」と称して今日のカイロ
の元祖を考案したのは、吉良上野介の一つ年上の妻て゛、上杉十五万石の三姫
だと伝わってるが、
  足利時代に、南無阿弥を唱え僧体に似せて同じ人間扱いに
して貰えて同胞衆(同明衆)と呼ばれる連中に転向した日本原住民系が、
この焼石料理を京にも広めた。
 だがその儘では野趣に富んでいても室町御所には不向きだった。
そこで石を裸で焼かずに杉の皮などに包んで用いたが、いつの間にか高尚化
されて今は「懐石料理」等と呼ばれ京名物にさえなって、極めて由緒ある
会席料理に化けている。
 しかし本当のサンカの焼石料理は、雑草や枯木に火が移って山火事にならないよう
完全によく水をかけて消して、跡形無くして去っていく。
 だから何の痕跡も残さぬことを俗に「焼け石に水」とも言い、今でも一般に
用いられている。
   【補記】
  サンカを書いた有名なものに三角寛の「サンカの社会」がある。
しかしこれは仏教側からの立場で書かれていて、
 悪人として彼らを一括している。
柳田国男も果敢に挑戦したが、折口信夫とのホモの関係をお上に握られ民俗学へ
転向を余儀なくされている。
  1997年1月10日付けの北海道新聞に東大のY教授が「世界の歴史刊行」
に寄せての一文が載っていた。
  文中柳田の民俗学に触れて次のように書いてある。
「柳田の民俗学で使われる”常民”という言葉は、市民でもなければ平民でも
ない存在を指す。それはやはり”常民”としか呼びようのない文化の基底を
担う人々なのだ。彼らに対する無私の愛、その存在への想像力こそ、柳田学から
現代史学が受けた貴重な刺激ということになろう」
  この先生、国際関係史とイスラム史が専門らしいが、柳田が何故民俗学へ転向
しなければならなかったかの、経緯も判らず、常民もサンカの意味もまるで
判っていない。
  また、後段で秀吉とフエリッペ二世のライバル関係から云々
と的外れな考察もしている。
  私は以前少し触れたが五木寛之の「風の王国」では、居付きサンカとトケコミ
サンカを一緒にして常民の側に置いて書かれていて惜しいが、この方が
東大の先生の考察より数段ましである。