御歳暮 中元 贈り物社会日本 音物問答 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 御歳暮 中元 贈り物社会日本 音物問答
 

      
日本では、やくざが他を訪れるとき、形式だけでも手拭を包んで持って行ったり、武士が他を訪れるときは先ず持参の色代を式台に置くという慣わしがあった。これは江戸時代に収賄が一般化しだしたゆえ、今ではごっちゃにされてしまっている。
 つまり歳暮は、その年いっぱいの挨拶であるが、中元はとなると、全くその起源も判らなくなっている。
百科事典を見ると、正月と暮の中間だから「中元」で、江戸時代、贈り物をする風習が始まって、中元大売出し等というのが行われだした、となっているがこれは間違いである。
唐六典』には、「七月十五日、地官為中元、懺侃言罪」となっている。
つまり、一月十五日の上元は天帝に対し、供物を寿ぐのだが、中元は地にある同じ人間どうしが、平素の交際における不行届を詫びて、物を贈ってその謝罪をするのだ、というのだから江戸時代からというのは、とんだ間違いで、唐六典が輸入された平安期以降が正しい。
 勿論これが形式的になりだしたのは江戸時代からのことで、「音物問答」という文化年間の本では、

○武家屋敷入り口に敷台があるは、玄関に立つ時の踏台の用の為ではない。もしその用途なれば根太材を組み厳重にするべきだが、四方かまちのみで中央が空になっているのは、その上の音をよく反響させる為なのである。
○これは挨拶のことを色代と書き、しきだいと訓するごとく、訪問客が手土産持参の節、昔は銭束が多かったので、どさりと敷台に置くと、その目方でおよそどれ位か音で判るゆえ、取次ぎの申次衆は聞き耳を立て(まだ不足)と思えば知らん顔をしていて、追加して重くなった音が聞こえると、ようやく腰を上げ「・・・・・どうれ」と初めて案内に出たもので、今の世に、よく銭を追加するのを「色をつける」等というのも、色代から始まった言葉なのである。
○音信不通などと、沙汰の無いことを言うのも、その昔は銭の事を指して、銭も送ってこなければ、便りも来ないというのである。
 さて、近頃流行の辻講釈的歴史小説では、「武人不銭愛」(武士たる者は銭に執着しないものである)等というものがあるが、
あれは見てきたような嘘を言っているのであって、七月の声を聞くと日本橋の本阿弥邸などに行列ができるのは、切紙を求めに大名諸家の用人などが集まってくるからである。と書かれている。
    本阿弥家が賑わった訳
 これだけでは今の人には判るまいが、江戸時代に本阿弥家の切紙が中元にもてはやされたというのは、鰹節の切手や松坂屋の商品券が贈答用になったというのではない。武士にとって、槍は「槍一筋の家柄」という如く、攻撃用具だが、刀は「打ち刀」と、古来から呼ばれるように、突いて来る槍や飛び来る矢を打ち払うために用いた、いわば自己防衛の用具だったから、この刀を贈答品にするというのが、好適のものとして喜ばれたせいらしい。
 が、刀には勝手に銘を切り込む贋刀、つまり偽作品が多いので、良いものだと思って贈っても、それが不良品だったら返って逆効果になる。
だから本来は、本阿弥のような専門目利きの鑑定書をつけて贈るのが、武士としては進物をする心得というものだった。
しかし此処が難しい処で、とにかく人間はそうした立場になると、悪いことをやりたがるもので、江戸中期の本阿弥の何代目かが、目利きの鑑定師の立場なのに
眼が眩んで盗作をやってのけた。
 刀の銘を切り変えたか、贋と承知で証明書を出したか判らないが、やってしまったのである。
こういうことは現代でも、文学博士の肩書きで、道具類に対してそういう事をする者も居る。
 刀剣類に今も偽物が多いのは事実だが、江戸時代は社会的制裁を受けるどころか、露見した上は、自分で制裁しなければならなかった。
幸い刀の手持ちは沢山あったから何代目かの本阿弥さんは、一本を腹へ、一本を咽喉へ、そしてもう一本を心の臓へ突き刺し自決してしまった。
するとこれが、
「一刀でも痛かるべきに、三刀も刺すとはさぞや苦痛であったろう」と江都の同情をひいた。
 日本人は死にさえすれば、その罪を憎んでその人を憎まずといったモラルがあるから、本阿弥家はその徳で続くことになった。
 
 しかしそういう事があった後ゆえ、代は変わっても、鑑定書を貰ってもどうしても疑心暗鬼になりがちである。
 そこで本阿弥家では、本物に証明書をつけるのを止めにして、
「一金五十両也、右金員引き換えに、何々銘の刀と引き換えまする」といった切紙を出した。
勿論、五両、十両の贈答用にはもってこいのものも、どんどん作製したから、中元の季節になると門前に行列が出来た。
 というのは、なにしろ天下泰平の世では、
「貰うはよいが、錆びないようにたえず手入れしたり、時々砥ぎに出さねばならぬ実物の刀は厄介千万」と、その切紙を持って、交渉に行くと、本阿弥家でも、
金準備高を無視して乱発している日本国の紙幣のようなものだから、
(本物と交換と言って来られては困るが、金で引き換えるのは願ったり叶ったりである)と、それゆえ、
「これは十両の切紙でございまするな、当方の手数料を一両二分引かせて頂き、はい八両二分どうぞ」と直ぐ現金払いに応じた。
 
こうなると刀剣鑑定は看板だけで、手形割引業のようなものだが、贈る方も貰う方も、手数料はとられてもこんな重宝なことは無い。
だから中元は本阿弥家の切紙が便利がられたが、不思議に下元、つまり暮のお歳暮には用いられなかった。
おそらくこれは、現金のやりとりゆえ、暮は露骨すぎるということで、贈るのは慎んだものらしい。