沖縄史の再考察 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

     沖縄史の再考察


現在の沖縄の問題は後述しますが、が、過去の事象を一つだけ記しておきます。それは前第四代太田知事と元総理大臣村山富市氏の大きな違いです。
米軍基地撤廃と沖縄県民の幸福を一心に願う太田知事と、連立の御輿に乗って権力の座に就いた、
理念、信念、勇気もない、経済、外交、治安、安全、防災、危機管理、無能無策の村山前首相との”格と質の違い”でした。
「元旦に青空を見ながら辞任を決意した」とトボケた言葉を残し、政府予算を作るだけ作っておいて国会提出の前に”敵前逃亡”の醜態を曝した。
私は歴代総理の中で特にこの爺さんがきらいです。閑話休題。私は沖縄の問題を考えると内心忸怩たるものがあります。
昭和38年。未だ本土復帰前の沖縄航路に三等航海士として、若かった私は、喜々として従事しておりました。
当時沖縄へ航く際、日本船でも外航へ”資格変更”するという、なんとも珍妙な状況でした。

馬齢を重ねた現在も、当時の記憶が鮮明に想いだされます。
熱帯樹のカジマルの根株の太い蔓。蘇鉄と芭蕉の鬱蒼たる木立。檳椰子の林。
まさに風光明媚な緑色に映えた、東シナ海に浮かぶ東洋のバハマです。若かりし頃の恋や、ホロ苦い思い出のある、私にとっては因縁浅からぬ地です。
さて、未来の沖縄の”在るべき姿”について考えるに当たって、私は隠された歴史の中から沖縄の悲惨な側面に光を当て、かの地に対する認識を、多くの国民に新たにしてもらいたいと思います。

  薩摩と沖縄の関係

西暦1609年(慶長14年)に、運天から沖縄(当時は琉球)へ上陸して悪虐の限りを尽くしていたのが薩摩人なのである。島津藩在藩奉行所を設けて、
本島全島をその支配下に置いた。刃物どころか得物さえ持たせなかった。これは首里城の王族から庶民まで徹底していた厳しいものでした。
だから、武器なしで身を守るため『唐手』(トーデー)が発達した。だが「唐手に先手なし」つまり先制攻撃は禁止という、武闘とも言えないような、悲しい護身術なのである。

誤解の無いように断って置くが、ここで薩摩はケシカラン、悪い奴だ、等と糾弾するつもりはない。後で触れるが薩摩が琉球を植民地化し、苛斂誅求をしなければならなかった蓋然性があったのです。
文部省学校歴史では教えていないが、抑圧する側とされる側の悲しい歴史、民族間の争いを理解してほしいからです。
世界的にも、古代から中世はまさに民族闘争の歴史そのものです。現代でさえアイルランドとイングランド、アラブとユダヤ(イスラエル)、トルコ紛争等、
地球上至る所で民族間の陰惨で悲惨な闘争が絶えません。

以前、ボート賭博の親玉のオッサンが「人類は皆兄弟」などと悩天気なことを言っておりましたが、私はこの問題は根が深く、人類の理性が更に高くなり、精神的成熟度が深くなるまで、
当分、解決は難しいと思っています。
人類は「豊かな生活を求めての争い」の連続でした。だから人間の遺伝子に組み込まれた過去の怨念情報は仲々消えないと思うのです。

過去の怨念を捨て、お互いを宥恕出来る為には、過去を隠さず、自分たちに都合のいい歴史ではなく、正しい歴史認識に立脚した、いわば、情報開示が必要だと思うのです。
特に日本の場合、古事記、日本書紀、を金科玉条として足利史観、徳川史観、皇国史観そのままの現状からは正しい民族の認識は生まれよう筈もありません。
だから韓国、中国との様々な軋轢も双方の歴史認識のズレのため、解決しないのです。またまた閑話休題。


沖縄に久米部落というのがある。土地の者曰く「この部落は6、700年前に中国から移住してきた人々が住み着いたもの」といい、
伝承では「久米村36姓」は「唐栄」とも呼ばれ、中国語だけを用いていて当時清国から使節が来た時には接待役になって、文字の司という祐筆のような仕事を首里城内ではしていた。
一般的にも文化先進国の舶来の子孫だというので、琉球では「貴種」とされていた。
この久米部落というのは古いもので古事記や日本書紀に出てくる……みつみつし、久米の子らが垣もとに、植えしハジカミ口ひひく吾は忘れじ、撃ちてしやまむ。
の久米の子らの末裔とされる。部落の家々の垣もとにはニンニクが植えてあり、これが神武天皇の東征の時、撃ちてしやまむとついてきた忠勇無双の勤皇軍の子孫である。
これに関して琉球の名宰相と謳われた羽地朝秀が編集した「中山世鑑」によると、記紀を引用してはいないがはっきりと「日本人と琉球人は同一祖先で同じ部族である」と証明している。


そして伝承ではその昔、九州へ久米の子らが撃ちてしやまむと進撃して、薩摩のハヤト族を降伏させ、高千穂の峯へと攻め上ったが後になると、
そのハヤト族の末裔の薩摩人に襲われ、武器まで奪われ隷属化させられた。
だから、琉球はかって撃而将止(うちてしやまむ)と大和を助けたのに、徳川幕府は琉球の状態を見て見ぬふりをした。
その怨念のため久米部落は一致団結して大和言葉は一使わなくなった。つまり愛想づかしをした結果、彼らは中国語しか使わなくなったという。

さて「中山世鑑」には「政道の儀は朽手縄(腐った危なっかしい手綱)にて馬を駆けさせるのと同意也」とある。
これは琉球としては唐旅(からたび)と呼ばれた清国からの船にも尽くし、(やまと旅)と呼ばれた日本にも仕える。
つまり両方の国に所属する危ない綱渡りしか方策がなかったという悲痛な訴えである。
そして薩摩人は清国貿易の利を得るため、在藩奉行所は置いても清国船の停泊中は藩士達は皆姿を隠していた。
   明治8年。時の太政大臣三条実朝の命により琉球は清国との使節派遣断交をされる。

この時東京政府は内務大丞松田直之を琉球へ派遣し、今帰仁(たきじん)王子以下摂政、三司令以下百余の首里城の大官びとを前に布告書を読み上げた。
これが有名な「琉球処分案」であり、清国との関係は一切ご破算となった。

ついで騒ぎは思いがけぬところから始まる。従来薩摩一国だけは昔の一向宗、今の浄土真宗を「清国の昔の唐の頃に、坊主を先頭にこの九州へ乗り込んできて我々を征服した仇の片割れは許さん」
と島津家は国禁にして厳重に取り締まっていた。

だから表面は清国の属国のように装わせていても、琉球にもその布令はしかれていた。
ところが明治9年の太政官令で全国統一扱いとなり、浄土真宗に対しても「信教自由」の布告が出されると、沖縄にも布教に渡ってきた。
しかし首里評定所ではこれまで通りナンマイダを唱える連中を捕らえた。

するとこれが太政官令違反という問題になった。何しろ新しく出来た東京政府というのは、仏都の京から移った政権で、東本願寺からの多額の政治献金も動いていただろうから
「琉球は新政府の命令に背き反抗した」となり、旧鹿児島氏族300名を含む500名からの武装要員を沖縄に上陸させた。

この武力を背景にしてなんら自衛の武器もない、琉球人に対し突如として、
【1】処分の都合のため首里城内の物品持ち出し禁止
【2】首里城の無条件明け渡し
【3】尚泰王はその世子尚典の邸で東京出発まで謹慎のこと。と命令を出した。

江戸城明け渡しは15代徳川慶喜が無責任に上野の寛永寺へ、自分から逃げ出したのだが、こっちはそんなものではない。
何しろ尚泰王は病臥中なのに東京まで郵便船で強引に連行するというのである。首里士族、泊村士族、那覇士族久米部落士族らは内務省出張所へ次々と呼び出されこれを告げられるや切歯扼腕。
「500年続いた琉球王朝の最期」と皆血涙にむせんだ。この時、かなわぬまでも
王を守ってヤマトを夷として討つという琉球人のテーゼが『尊皇攘夷』なのである。日本史では維新の大義名分としているが間違いで、沖縄が本家なのである。


この後琉球は祖国復帰しかないと、清国へ尚泰王を亡命させようと小舟で使者を何度も出す。彼らが縋りつくところは清国しかなかったのである。
征海漬屍(うみゆかばみずつくかばね)、征山叢骸(やまゆけばくさむすかばね)の古詩通り、多くの勤皇の士が東シナ海の荒海で海の藻屑となった。
この当時清国はアヘン戦争からアロー号事件、ロシヤとの国境紛争が多発状態で琉球など構っておれない状態であった。

そして薩摩はぬけめがなかった。くり舟や十反帆の山原船で無謀にも清国へ密航を試みる連中を、外海で厳重に封鎖していた。
結局清国からの援軍は来ず、病臥中の尚泰王はついに担架のまま日本船に積み込まれた。
「哀号、哀号」と士族も百姓も皆波止場へ集まって声を張り上げ号泣した。この時琉球の英雄、林世功は直接渡航する愚を避け、鹿児島~横浜~上海ルートで上海へ渡った。
しかし彼がようやく清国へ到着できた時は全てが終わっていた。
「一死ヲ以テ泣イテ天恩ヲ請フ。日人ハ宗社(国)ヲ廃墟トシ国主世子ハトラワレ東行ス。尊皇攘夷ハ臣ノ力タラズシテ、アエナク破ラル」と痛恨の遺書を残し、
北京の旅舎で林世功は自決した。

その後65年経った昭和20年3月28日。
敵前上陸してきた米軍に包囲されるや、沖縄渡嘉敷島住民老幼男女349名は「全員、配給した手流弾にて自決すべし」と赤松守備隊長の命令により集団自殺。
また梅林少佐より座間味村に対して「村長、助役、収入役以下一般村民の175名も自決せよ」と命令されると(ヤマト人の言いつけは王様さえも聴かれたのだから止むを得ん)
と全員自決。
梅林少佐はその翌日も婦女子を含む55名に自殺命令を出して殺している。
昔陸軍、今官僚で、ごりごりの自己目的、自己増殖、出世主義集団でその悪しき体質はまるで変わっていない。
原発事故にしろ、自然災害にしろお上は国民に手厚い補償は全く見えない。
にしろ国民の生命等鴻毛の軽き…なのである。

この後米軍は戦車80両、兵力1000を以て伊江島に強行上陸してきた。「尊皇攘夷」の旗を立てた島民もことごとく第一線に駆り出され全員玉砕。
この時「島の娘5人が爆雷を抱いて米戦車に体当たり特攻をした」と、ここで死んだアーニ・パイルの遺記に残されている。
この後敗戦により現在まで米軍が居座っているのは衆知のことである。
こうして封建時代から現代までの沖縄の歴史を見ると、彼の地の歴史は悲惨の一語に尽きる。
数百年の長きにわたって搾取され、虐待され、隷属を強いられ、忍耐忍従の日々であったことが理解出来たでしょう。

さて、中国は沖縄県人の多数が中国系の血を引く住民で構成されていることを知悉している節がある。
だから、現在様々な謀略を駆使して沖縄独立計画を隠密裏に実行している。それにはまず尖閣諸島の実効支配を完成させ、次が沖縄というシナリオだろう。
これにより中国は北東アジアの地政学上の有利を確立し、日米の安全保障体制に楔を打ち込もうとしている。
こうした沖縄の忍従と悲惨な歴史を考えたとき、日本の安全保障と合わせて新しい政策を考える必要があるだろう。
日本にとって沖縄の位置と役割は重要です。
た米駐留軍をその後も日本に残しておけるよう「安全保障」の美名のもとに、日本および中国、 旧ソ連に対する前進基地をアメリカに提供するものである。
したがって、この条約の内容はきわめて一方的で、日本が軍事的危機におちいった場合、アメリカは日本を守るが、アメリカが危急に瀕した時に日本が何をするかは書かれていない。

アメリカの軍隊は日本に駐留できるが、日本の軍隊はアメリカに駐留できないという不思議な属国支配にも似た軍事同盟がどのような意味を持つのか。
これは敗戦国だから仕方ない、という人もいるが、〈戦勝国〉フランスと〈敗戦国〉ドイツの間ではこのような軍事同盟はない。
つまり日米安保は日本にとってまことにありがたいものであったが、同時に日本国民を平和ボケにした。

 ところが、現在のように日本がアメリカに何かしてあげる、またはしてあげなくてはならない状況が拡大してくると、こんな軍事同盟は役に立たない、ということになってくる。
早晩、日米安保条約は発展的解消をせざるをえなくなるだろう。今、在日米軍の経費を年間6000億円分も日本が負担している。
これはもちろん日本の全予算からみれば目くじらを立てるような大きな額ではないかも知れない。しかし本来、条約そのものは日本の負担を前提にしない、かなり一方
的なものになっていながら、現実は経費的に日本がどんどん肩代りしていっている。それなら条約をもっと公平なものに見直すか、というとそういう声は出てこない。
要するに日本政府にとって日米関係はハレモノにさわるようなものなのである。
現在、トランプ大統領は、世界中から米軍撤退を考えている。彼のような大統領が出てきた現在、日本はこれをチャンスと見て、日米安保を考え直すべきだろう。
その時こそ、覇権国家中国に対する、日本防衛の最前線である沖縄の米軍基地問題が最重要課題になり、米軍撤退か、その後自衛隊の駐屯かが喫緊の課題として浮上してくるだろう。
何故なら、今や韓国も軍事費は日本を超え、原子力潜水艦建造計画や海軍増強に力を入れている。
これの意味するところは、矛先は北朝鮮でも中国やロシアでもない。日本を仮想敵国としているのは間違いない。
その証拠に、北との併合に躍起となっている文大統領の政策を分析すれば見えてくる。
五年後か二十年後か分らぬが、併合の暁には、人口8000万の、核兵器を持った半島国家が出来上がるのである。
人口減少で疲弊する日本と、豊富な資源を持つ北を抱き込んだ侮れない国の出現に、果たして日本は対抗できるのか。
こうした激動する世界情勢の中で、憲法改正もできず、普通の国になれない日本の現状は危機的状況である。