考察・真田十勇士 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

NHKの「大河歴史まがい電子紙芝居ドラマ」の真田丸が終り、これはこれで大慶。
視聴率も良かったようで、この国に如何に歴史音痴が多いかという事実を表明して、これもまた大慶。
歴史とは考えるものなのに、洞察力ゼロと思考停止国民が如何に多いかも暴露してくれた。
今の日本人は「本に書いてある」「テレビで見た」と、歴史紛いを信じてしまう。十七世紀のパスカルさえ「人間は考える葦である」と喝破してくれているのに、まるで逆で「体制に押し付けられ、なびかされる葦」に成り下がっている。だから国営放送も民放も、国民の思考力を奪うため、馬鹿番組のオンパレードである。
「唄を忘れたカナリア」どころか「民はよらしむべし、知らしむべからず」とばかり、頭を使って考えないようにされてしまっている。
考えろとは、何故に、どうして?と疑問を持つことである。
当ブログの記事は、綿密に内外の文書、古文書史料を渉猟し、満々たる自信と、史実に裏打ちされた揺るぎなき確信で書かれている。
面白く書いた部分もあるが、どうか安心して読んで貰いたい。
   真田十勇士
真田幸村
さて、流石に真田十勇士の物語は架空の存在だとは、製作の三谷にも判っていたらしく、幸村に焦点をを当てていた。
これは立川文庫によって生み出された架空のものであることは常識だが、しかし、「猿飛佐助、霧隠才蔵、三好晴海、三好為三入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月十郎の十名の内で、海野、根津、望月の三名は、朝鮮駒を放牧していた信州駒の大牧場の家柄」であるとされている。これは「北条家記」にも、名馬を献上したという記録が残っていて、いわゆる滋野三家とよばれ、今で言えばカウボーイに当たる牧童を千名も抱えていた。
 
これが後に、限定居住地に収容されている連中と武闘騎馬隊となり、後醍醐天皇の側にあって闘ったところの北条時代「馬借」となり、そして江戸時代になると彼らは拝火教だから、「博士」(ばくし)によって祀られている拝み堂の門徒で一般には「博徒」と呼ばれていて、夫が出かける時、妻が清めの火を火打石で打つ習慣を持ち続けていた。が、その中でも、一番苦労が多いので、博労とも呼ばれていた、馬方になってゆく者も出てきた。
さて、信州真田家の重臣の中にも、滋野三家の家名は残っているが、立川文庫の出来る前も、「真田三代記」というのが江戸時代の文化文政頃に出版され、その中にも彼らの名は出ている。
 
  真田十勇士は大正時代の産物
 
幕末文政八年出来の大阪夏の陣の大屏風が、大阪城天守閣に飾られているが、もう当時のことゆえ、茶臼山の前面で、天王寺の裏に当たる箇所に、「真田大助、根津甚八、由利鎌之助」の三人の名だけは書き込まれている。
ということは、真田十勇士といっても江戸時代につくられたのは三名に止まり、後の七名は大正時代になってからである。
さて、信州松代は真田昌幸の子の信之の代に、それまでの先祖伝来の上田の地から元和八年に転封され、江戸時代を無難に過ごし幕末には佐久間象山を輩出した。が、大正年刊行された立川文庫で、
「真田十勇士」が面白おかしく広まるまでは、信州真田家と言うのは世間的には「さなだ虫」と蔑称で呼ばれていたという。
この訳は、高野山の九度山麓に引っこんでいた真田幸村が、近在の農家の屑綿を集め、平打紐に編んだのを売り歩かせていた。
それゆえ、真田紐と呼ばれたのだとなっているが、少し違う。
江戸時代の農業は、農薬など使わなかった。肥料は人間の大便を田畑にまいていたのが実態なのである。
これは、地方では昭和二十年代まで続き、馬車が各家へ汲み取りに来ていたのでもうなづける。
だからサナダムシのような寄生虫の卵が多く作物についていた。成虫になると、白い色で平べったい回虫のことをサナダ虫と呼び、今でもそう呼ぶ。
だから格別に変ではないが、江戸時代にあっては、真田の事は「獅子身中の虫」といった意味に使われていた。
というのは、(真田幸村が家臣団と共に、神君家康公を悩ませたのが興がられた)のは、徳川家が滅びてから、つまり明治維新後であり、まだ明治大正になるまでの江戸時代は真田家と言うのは反体制視されていたからであろう。
なにしろ真田丸に立て篭もった幸村の為に、慶長十九年の大阪冬の陣は、日本中の大名を味方につけたものの、とうとう家康も攻めあぐねてしまい、
「和平は女に・・・・」と、家康側室の阿茶の局を派遣し、それに対して大阪城からは淀君が「妹の常高院を・・・・」と、京極高次へ嫁入りしていた、ごうを会見の使節とした。
 
もともと淀君の実妹とはいえ、次女のごうには色々訳があった。
前の関が原役の時には、大阪の兵に攻められ、夫を高野山へ送ることで助けられはしたが、その死後は淀君を恨んでいた。
だからかねて江戸の徳川秀忠の許へ嫁いでいた末妹の江与に、
「大きいちゃまの淀殿は、今は亡き父の浅井長政生き写しの骨太の体格にものを言わせ、幼い時より私らは苛められて泣かされてばかり」と、
秘かに談合しあっていたゆえ「・・・・大阪城の外堀を埋めて欲しい」といわれれば、すぐ心安く承知して、
「倅めをば、総奉行に致してやらせます」と家康の言いなりに取り計らって実行した。
 
    真田幸村の苦悩
「えっ、あの真田丸を取り壊すのでござるか」聞かされた幸村は顔色を変えた。
しかし常高院の倅の京極忠高は、家康の命令であるからと、
「総構えは関東方で、二の丸、三の丸は大阪方で一斉に取壊しであるぞよ」と、にべもなく冷ややかに言い放つのでは、とりつくひまもなかった。「・・・・・・さようでござるか」幸村はただ低く諦めた如く淋しげに呟いた。
というのは昔の事だが、上田城に立て篭もった父真田昌幸と共に幸村は、徳川秀忠率いる大軍を食い止めてのけた過去がある。
ために秀忠は関が原合戦に間に合わず木曽街道の妻籠の宿場で、その知らせを聞き、やっと五日後に近江の大津で家康に追いつくことが出た。
しかし、大事な関が原合戦に間に合わずだった責任を問われ、家康から叱責を受けた。
   幸村親子は、高野山へ追われる
だからして関東方に味方して手柄を立てた幸村の兄信孝の嘆願で、死罪は免れ助命されたものの、幸村と真田昌幸は高野山へ追われた。
しかしここは仏教の本山で、白鳥神を奉じる真田親子が、仏教を奉じる高野山へ上がれる訳は当時のことゆえ出来ない。
だから麓の九度山村へ住まわされた。「仏教を信じない不浄の輩共」と被区別扱いされたのである。
今では「高野聖」の当て字で美化されてしまい間違われているが、江戸時代でさえ、「非事吏」「卑地里」とか「土方」と卑しめられて呼ばれ、本山にお参りできぬ身分の者たちと差別され、江戸後期には法界坊とか願人坊主とも呼ばれた者らと、全く同じ扱いを受け官僧とは認められずにいたのである。
さて高野山麓は後醍醐帝の勅旨を奉じて、足利尊氏と戦った楠木一族や湯浅党の者らが捕らえられて、奴隷として寺へ寄進されたので、その子孫が多く当時も此処に住んでいたのである。
が、「彼らは、わがご先祖に刃向かった敵の片割れではないか」と、十五代続いた足利体制の中で、南朝に味方した者の末裔として白徒と、差別され特殊に排斥されていた。
明治二十五年、伊藤博文の命令で、日本国全部の歴史が作られた際、
「かって賊として北朝方に扱われてきた南朝方の顕彰するのが、明治の歴史家の使命である」と、故渡辺世祐博士らが提唱し、こぞって学会は讃え皇居前広場に楠木正成の銅像も建てた。
が、スターシステムとでもいうのか、楠木や新田義貞らだけは取り上げられたものの、その郎党共の末裔たちは足利時代に被区別扱いされたままで江戸時代同様に放置され、今日に及んでいる。八鹿事件などが俄かに同和問題として大きくクローズアップされはしたものの、それでも誤られたままのものを、あえて歴史家も解明しようとはしない。彼らの頭では難解すぎて判らぬらしい。
さて、父信幸の死後は信州上田からの仕送りも絶えてしまい、付き従ってきた者達も戻ってしまい、幸村は組紐作りの内職で細々と糊口を凌いでいた。
そして幸村が「大阪入城」となると、ぞろぞろ何百もの人間を従えて行けたのも、なにも紐屋の幸村に仁徳があった訳でもなんでもなく、金の為につられてという訳でもなかった。卑地里の民である被区別地区の者達が、自分達も人並みに扱って欲しいと志願して「世直しのため」と、幸村に従い参加したものだと見るのが正しいだろう。が、さて大阪方は信州上田城の敢闘ぶりを聞き伝えて、「ぜひとも・・・・・」と招いたものの、
「真田幸村と倅の大助は良いが、ぞろぞろついて来たあんな連中を、我らと同じ大阪城内へ入れて、彼らと共に寝起きするのは耐えられない」とクレームが、既に入城していた者たちからつけられた。
「我ら親子だけが城内居住を許され・・・他の者はいかぬとは迷惑極」
そこでやむなく幸村は、城の南平野口の濠の外側に、材木や石を集めてこさせて砦を作った。
「真田丸」とここは呼ばれはしたが、大阪方の築いた物ではない。幸村の指図で卑地里の者たちが懸命に作った出丸なのである。
だからそれが取り壊されると聞かされては、幸村としても今で言う解放地区なだけに暗澹たらざるを得なかったのである。
 強かったのは真田十勇士ではなく「差別の無い明日を信じて命を棄てた卑地里や五ケ、住吉モンたちだった」
入城してきた際は味方であるべき者らからも鼻つまみにされ、やむなく総構えより八十メートル先に区別地域を貰い、三方に空堀を作り塀を立て囲ったのだが、その後。「我らも世直しのため死に来ました」と、解放区へ寄り集まってきたのが五千名を越えた。そこで徳川方の先手の、前田利常や松平忠直や井伊直孝の兵が、十一月四日の夜明けに攻め込んできた。この際に真田丸の者たちは皆一丸となって敵に当たり撃退してのけた。
この実績がものを言ったのか、「どうぞ本丸へ、みな移って下され」と、今度は皆が態度を変え、改めて入城の許可が下りた。
しかし初めから別扱いされた幸村は、五月七日には、大阪の渡辺村を初め五ケと呼ばれていた地帯からも集まってきた卑地里の者を加えれば、すでに一万にもあまる総勢となっていたゆえ「あれなる茶臼山に布陣せん」と、又も城外へ打って出た。従う者達も、
   徳川家康、危うく落命するところだった
「新しき明日の来るを信ずるという幸村様のお言葉に嘘がなければ・・・・・」と、皆必死の覚悟をつけ、それぞれ人目につく紅旗をもって従った。
(テレビでは全員が兜から甲冑まで赤色で統一しているが、それは武者たちだけで、その他の者たちは、背に刺す旗だけだったのが本当のところ)
「生きていても人間扱いされず、迫害されるのであれば、死んだが増しである」と、口々に呼ばわった一万からの戦士が弱いはずはない。
この戦いぶりはバチカン法王庁司書館にある、当時日本へ来ていたイゼズス派の「全土日本年報」も報告されていて、
「彼ら真田の兵は言い表せぬほどの勇気をもって戦い、三回も四回も家康の本陣を突いた。ために徳川方は総崩れとなって旗本も皆逃走した。家康も、わが武運もこれまでなりと自害しかけた程である」とあるごとく、目覚しい奮闘ぶりだった。
七日の合戦で真田幸村の兵に追われて、戦場から八キロも逃げ、久宝寺まで落ちのびた武将も多かったというぐらいに、家康の首を取る事はできなかったが、
幸村は何度も家康の本陣を果敢に攻めた。そして茶臼山の北にある安居神社(今の天王寺区、逢坂上之町の天満宮)に戻って残兵を集めていた。
処が、そこを狙われて越前の鉄砲隊に包囲され撃たれ首を取られたと、「慶長見聞記」にも、その激烈な戦いぶりと幸村の最期が詳しく出ている。
さて、すでに一万の兵も大塚清兵衛、高梨主膳ら千名足らずになっていたが、「幸村様に続かん」と、皆一人残らず玉砕してのけた。
生き延びても何の期待も希望も持てぬからであったろう。しかし大東亜戦争の時、アッツ島までの戦いでは、島原の乱みたいな皆殺しはあっても、自分から進んでの一万人からの玉砕の歴史は日本には無い。
「三度目の突撃をくり返した真田幸村も討死。真田こそ日本一の兵にて、往古より比すはなしと、みなこれ惣物これのみ申すことにて候」と、「薩摩旧記」にも記載されている。が、高野山麓で紐を編んで貧しく暮らしていた幸村に側近が何人も居る筈はない。
いわば寄せ集めの烏合の衆なのに、どうしてそこまで敢闘したかという謎解きが、被区別撤廃の当時の民族運動だとは、紺屋の白袴で、歴史屋共が不勉強で知らなくて、説明できないものだから、「真田十勇士」といった講談が生まれ、
「幸村が強かったのは、清水港の次郎長のように、大政、小政、鬼吉、石松たちより腕の立つ、忍術使いの猿飛佐助や霧隠才蔵ら十名が居たからだ」
と、現代になっても、まだ怪しげな説得をNHKまでもがしている。
全く歴史離れのお国柄で、お先真っ暗である。