真説 蜂須賀小六 「絵本太閤記」の希少な訳 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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 真説 蜂須賀小六

「絵本太閤記」の希少な訳


「どうも世の中間違っとる」
 蜂須賀党の首領小六正勝は、次弟の甚右正信、末弟の七内正元を見渡しながら、穀つぶが髯につく栗の白酒の土器をもち上げていた。
 初め美濃の斎藤道三に仕えれば、これが討死してしまう。そこで失業のあげく尾張岩倉の織田伊勢守に奉公すれば、これまた永禄二年(一五五九)三月織田信長に攻められて落城。
 やむなく次は、犬山城主の織田信清に蜂須賀小六は仕官した。

 もともと信清というのは、信長の父信秀の弟の信康の子で、信長の従兄にあたる。
 だから、まさか今度は信長に攻められはしまい、と高をくくっていたら、「二度あることは三度ある」というが、永禄七午夏。
信清の妻の異母兄にあたる信長が、又しても攻めよせてきた。そこで蜂須賀党は最後まで踏み止って信清夫婦を避難させたが、とうとう犬山は落城してしまった。

 もともとこの犬山城というのは先代まで南よりの木下村にあって、その頃までは、「木下城」とその名もいっていた。
 つまりその昔は、木下藤吉郎の嫁になっているねねの親の木下助左の祖父が、城代をしていた城廓なので、ひとまず木下党に預けられる事になった。
そこで木下助左から、
「蜂須賀党も、この際ひとつ仕えぬかや」と誘われはしたが、小六は憤然として、
「昔の木下城の頃ならいざ知らず、現在のおまえさまは清州城の武者奉行にすぎぬのに……」
と、言いたいことを口にして一族をまとめて、さっさと本貫地の蜂須賀へ戻っていた。つまりまたしても目下失業中でぐれていたのである。


さて、<真書太閤記>というのがある。
これは十二編で三百六十巻のものである。
当時のことなので版行に先立って、縁故のありそうな処を廻って、前もって予約販売の恰好で前金を貰い歩いた。
 この時、阿波の蜂須賀家の江戸屋敷でも応分の金子をだした。
 だから〈真言太閤記〉の中では、「蜂須賀小六正勝というのは、犬山の信清(信康)の子の信安(信将)に仕え、しばしば戦功をあげた足利修理太夫高経の末裔である」
といった具合に、金を出しただけに、良い家系の出身となっていて、蜂須賀家は大いに満足した。
ところがこの後になって<絵本太閤記>という目で見る型の出版が企画された。だから又三田四国町の蜂須賀家の江戸中屋敷へ、金貰いに出かけて行った。
 ところが蜂須賀家にとって運の悪い事に、この先年から南八丁堀にも中屋敷ができ、お留守居役が二派に分れて一決しなかった。

 しかし、阿波徳島二十五万七千九百石で、「従四位侍従、大広間詰」の格式だから、「些少だが、よく書にいてくれ」と十両か二十両をポンと投げ出せば、
それでも済むのに、「如何に取扱いましょうや」と責任のがれに鍛冶屋橋御内の上屋敷の当時出府中の阿波守に伺いをたてた。

 「踊る阿呆に踊らぬ阿呆、どうせ出すなら早うせにや損損」と阿呆踊りをしている御国柄ゆえ、殿さまから、「よきに計え」といわれた時に、良きに善処して、
出すものを早く渡せばよかったのに、
 「……前の時にも応分の金をだしたが、ご当家御先祖の小六正勝さまは、ほんの刺身のツマで、あれは日吉丸が主人公の本じやった」
 といった意見が江戸勤めの重役から出た。まだ当時の事ゆえ「紙の暴力」だの「マスコミの脅威」ということを知らなかったせいもあろう。しかし版元にし
 てみると、「まあ百部位は予約して頂けよう」という皮算用が外れてしまった。そこで、
 「構ったことはねえ、悪役にしちまえ」ということになってしまって出版された。
  そこで、岡崎の矢矧川の橋の上で、「やいやい大人と子供の区別はあっても、同じく人間だ。よくも足を踏んでおいて一言の詫びもいわぬとは何んだ」
と日吉丸に凄まれだ蜂須賀小六が、ギョギョッと驚き狼狽。
「俺さまを誰だと思う……こう見えても賊徒の張本人日本駄右衛門・・・・じゃない小六様だぞと睨みっける大人げない場面が、見開き二面の挿絵になり、
小六は髭もじゃの悪党づらにされてしまった。

ところが、この岡田玉山の絵本太閤記が当時のベストセラーになってよく売れた。だから殿中で、「……松平阿波さまの御先祖は、強盗団の首領でござったというが、まことでござるか」
などと絵本の方を、歴史そのものに思いこむ者が、今も昔も多かったから、直接に聞く者もいる。
 「余は不快なるぞ。それなる絵本太閤記なる物を、そっくり買い占めてしまえ」と蜂須賀の殿さま松平阿波守は激怒した。
そで在府の家臣どもは江戸市中を廻り、「これ、絵本太閤記なる本はないかや」と、片っ端から買いあさって背負って帰る。
「……いくら刷っても、こりゃ売れる。驚異的ベストセラーだ」というので版元の方は、次々と刷りまくっては売りだす。
洛陽の紙価を高めるというが、これではイタチごっこで切りがない。
そこで日本橋亀島の藍玉問屋で蜂須賀家へ出入りの者が仲に入り、「版木一切譲渡し」ということで話をつけ、「絵本太閤記」というのは絶版にして、蜂須賀家で買取ることになった。
それでも、よく売れるからと秘かに出版されたのに蜂須賀家が公儀に訴え出たからして、文化元年には出版禁止となり、岡田玉山は手ぐさり、版元は罰金に処せられた。
「一文惜しみの百失い」という言葉があるが、この騒動で蜂須賀家が費用を使ったのは莫大なもので、この為、幕末になっても藩庫が空っぽで、
同じ四国でも土佐の山内容堂などは活躍したが、蜂須賀侯は阿呆踊りでもやらせて、それで憂さを晴らすしかなかった。
今日名前だけは有名だが「絵本太閤記」の当時の現物が稀にしかなく、明治になっての再刊本しかないのは、蜂須賀家で買ってきては、
片っ端から焼き捨ててしまったためなのである。これも一種の焚書といえよう。

さて幕末に入って、英船浦賀、露船下田、ペルリ来朝という時勢になってきて、この国難に対し、何もできない幕府に失望し「英雄待望論」が起きた。
 そこで栗原柳庵が、「真書太閤記」や「絵本太閤記」を種本にして又かいた。これが、「重修太閤記」という名のもとで又も、脚光をあびた。
今日いわゆる「太閤記」というのは、これなのである。これを正史と思い込んで頭の軽い連中がブログやホームページで書いているが、全くの笑止。
こうなると、もはや蜂須賀家でも、「手がつけられん」と放りっぱなしにした。
 柳庵も、「矢矧川の橋の上」は見せ場だから、やはり蜂須賀小六を野盗の首領にはしたが、「殿ッ」というように日吉丸に呼ばせ、ここで恰好をつけることにした。
 しかし一度ひろまってしまった火はなかなか消せない。そこで大正時代に入って、蜂須賀侯爵家は先祖の汚名をそそごうと、当時の歴史学の泰斗渡辺世祐博士に依頼した。
 博士は「天文日記」「美濃明細記」「渭水見聞録」「阿波徴古」の他に、天文十六年九月二十五日の、
 「伊勢御師福島四郎右衛尉宛文書」をもとにして、「この国の取あいの儀につき、神前に懇ろにお祈り下され、おはらいや大麻に御意をかけられ謹んで有難く(御護符及び長鮑)を頂かして貰います。
去る十七日に合戦に及び武藤掃部助を始め数名を討ち、その後、関(関孫六で有名な所)へ敵が押しよせてきましたゆえ、すぐ切り崩し、
大谷とか蜂須賀などと中す輩も数多く討ちました」という斎藤道三が御賽銭につけて報告した織田信長の父の信秀との合戦の文書の中に、「蜂須賀」という名のあるのをとりあげ、

「これは小六の伯父で仲の悪かった小太郎正忠の方であろう。つまり蜂須賀というのは賊徒ではなく歴っきとした武者の家である」と説明し、次に「蜂須賀家記」の伝承では、
 「わが蜂須賀家の祖というのは、室町御所より任命されていた尾張管領の斯波家の大和守広昭の次子である小六正昭で、この孫が小六正勝その人である」といった記載もなし、
由緒正しき名門であるかのごとく、故渡辺博士はしている。学者でも金を貰えば系図屋のごとく何でもするというこれは悪い見本である。


さてここからは、一介の土民だった蜂須賀党が、秀吉や信長に従い、如何にのし上がっていったのかを小説風に書いてみましょう。

先ず、普段、褌(ふんどし)はしていなかった

 しかし名門にしろ野盗にしろ、失業すれば、当時は失業保険もなかったし、失業対策事業もなかったから、この頃蜂須賀党は困っていた。
「どうせ……やるなら、でっかい事やろう」 次男の甚右が尖った顔をつきだし、肩をいからせた。
 だが蜂須賀小六は唯一言、「阿呆」といったきり、伸びた鼻毛を爪でつまんでヤアッと引っこ抜いていた。そして掌へのせるとプウッと吹いた。
 外も、風がつよく。柏の木から落葉がザワザワ雨みたいに音させて降っていた。
「蜂須賀党と申しても………一族郎党合せて三十名もない今、たわけだ事を口にするな」渋い顔で小六は甚右を、戒めたが、
 「頭じゃ……ここは生きとる内に使うに限るで」いわれた方は、自分の頭を叩いてみせた。
 「おのし、自分で利口と思うとるんか」びっくりしたように末弟の七内が叫べば、「あったり前じゃが……」甚右は当然な顔をしてみせた。
 そこで小六は情けないといった憮然たる表情で、「うぬは女ごと同じじゃのう」と歎息し、
 「たいていの世の女ごは、顔や形は川べりに立って水鏡に映してみても……まあ良いか悪いかは否応なしに自分でも分る。
が、頭の中身は、こりゃ唐渡りの銅鏡で照らし返しても視えるものではない……。そこで、それを良い事に、どの女も自分では、
みな賢いと思いこんでいるようじゃが……甚右もふぐりが無いのではないかや」と笑いとばした。すると、おくれて、「怪しからぬ。見て頂こうか」甚右はめくった。
 今でこそパンツだが、昔は褌と思われがちだが、褌というのは文字で示されるように、あれは軍用布である。
 云うなれば、インドネシアの女子共産党員が、スカルノ派の将軍たちを次々と、片っ端から捕え井戸へ放りこむ時、男の一物をみんなチョン切ってしまったような事を、日本の女武者も戦国時代まではやっていた。
男はその被害をさけるため、貞操帯というより防護帯として締めていたから、下帯ともいうのである。
今では誤られているが、ヤクザが喧嘩出入に行く時に「真新しい晒を六尺に切って下帯にした」というのも、
なにもこれまでの物が黄色くなっているから取り換えるというのではない。していないからこそ締めて行くのである。

明治初期の悟道軒円玉の講談に、
「この野郎、褌なんか締めてきやがって、喧嘩仕度かい」というくだりがあるが、つまりヤクザが神祇を切る時に股を開くのも、
(決して他意はありません)と倅にも挨拶させるためのものだったらしい。
しかし、大工とか鳶、火消しといった高所へ登る職人は、一つ足を踏み外せば命がないからそこで「死に装束」として褌を締めたが、
これは両掛けといって、腹巻から出る仕掛けになっていた。それでも用心して高所へ昇る職方は、もしもの時でも露出しないように、きっちり肉にくいこみそうな、
今でいえば細身のズボンをはいたものだが、一般には普段褌ははしていなかったものである。


 大正期に入っても士族というのは冬はネルの腰巻、夏は浴衣みたいな布をまいていたのである。
 これは銭湯で八十代の年寄りがいたら聞けばすぐ分かる話だが、つまり弓の弦と同じで、いざという時だけに張ってしめ、後は開放して置かないと、たにしろ湿気の多い土地柄で、
いつもきっちり包んでいては、イソキソタムシに昔はなったせいだろう。もちろん衛生上も風通しをよくしておいた方がもちがよく、
 「山岡鉄舟は、いつもニギリキンタマで話をしていた」というのも、なにも無作法ではない。常在戦場の心構えで、治にいて乱を忘れずと孤剣をしごき鍛練をしていたのだろう。
 いくら昔でも、開ければ女はオープンで、男だけがキッチリ包むといった男女不平等の話はない。
 ヨーロッパでも、南欧系の男は今でもワイシャツの端でカバーしているだけだから、よく冷えていてすぐ役立つのか、イタリヤにしろスペインにしろ、食前食後といった男も多い。
日本でいう駆けつけ三杯のくちである」さて、蜂須賀小六は男だからして、首を大きく振って、「そないな物は、見せんでもよい。珍らしくもない」
 開げかけた甚右を叱りつけた。そこで、「ならば……ずばりと云おう……」下はとじたが甚右は口をあけた。


     蜂須賀小六は怨念、ヤケクソ大名

さて、今も伝わっている日本版カーニバルみたいな阿波踊りにしても、何故に日本の民謡調とは全くかけ離れたものを、踊る阿呆に見る阿呆と、
極めて自虐的な韜晦趣味な歌の文句を作って蜂須賀家では、歌って踊らせたかの謎も出てくる。
  もし他の大名だったら町人共が、 「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ・・・・・」は良いとしても、お殿様の許へ、
 「踊る阿呆に見る阿呆」と行列が繰り出していったらどうなるだろうか・・・・・
「見物しているわしを愚弄するとは怪しからん」と、デモにでも間違われて処罰されていただろう。
 なのに代々の蜂須賀の殿様が叱りつけず、かえって奨励していたのは何故だろう。
この公許という理由は、踊るのや歌うのは町人共であっても、その作詞者は、蜂須賀小六の倅の家政か孫の至鎮だったろうと思推される。

 つまりこれは、天正十年六月当時の「蜂須賀小六の怨念の踊り」と見るべきではなかろうか。
では何が怨念かといえば、本能寺の変の時に先祖の小六が、
(誰かに踊らされて何かをやり、そしてその結果、誰かがあっという間に天下を取ってしまい、あれよあれよと見るしかなかった阿呆らしさ加減)をこれで唄っているらしい。
 しかし阿呆となって、言われる儘に踊らされ、そしてポカンと見ていただけだったから、蜂須賀家は阿波徳島十八万六千七百石を貰えて、安泰にそれで代々と家名を残すことが出来た。
だから結果的には、「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」となるというのだろう。
  つまりそうした挽歌みたいなものを、阿波踊りとして城下町で盛大にやらせたのも、小六の霊を慰めたものとみれば、信長殺人事件における、その立場も判るというものである。
寄ってたかって独裁者の信長を朴してしまった、といえばそれまでだが、日本歴史の暗黒面の代表みたいな世紀の犯罪は、そんな漠然たる推理だけでは済まされない。
「黒幕である殺人教唆容疑者」と「直接の殺し屋である加害者」とに分けて、この奇怪な謎解きはしてゆくしかなかろう。