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千代田城の刃傷で一番有名なのは、元禄十四年の松の廊下の浅野内匠頭だが、これに関して俗書は三百の余もでている。
しかし、戦前は、内務省警保局の融和事業会の指示で真相は許されなかったと、故菊池山哉も「多摩史談」ではのべている。
が、戦後八十年たっても、まだ誰も本当のことは判っていないのか書いていない。
その次に有名な千代田城の刃傷は、大老堀田正俊へ、若年寄の稲葉正休が斬りつけた貞享元年八月二十八日の事件である。が、これまた、いまの首相にあたる大老を大臣次官が斬殺し、自分も殺された事件なのに、原因は何故か、ぼやかされてしまって、(稲葉正休の系図を堀田正俊が借りっ放しで返さぬのを憤ったため)といったような話にされてしまっている。が、もっともらしい説には、(その前年の摂津、河内の治水工事にあたった正休に対し、河村瑞軒がその見込違いをなじったので、正盛に告げ口されてはと案じて剌殺したのだ)というのもあるが、それならば河村瑞軒を殺すべきなのに可笑しいが、それが富山書房の国史辞典にも堂々とでている。
刃傷の真相
では真相は何かといえば、二人は従兄弟どうしであって、春日局の遺産争いなのである。
貞享元年(1684)八月二十八日。
春日局第四子正則の子の、若年寄稲葉正休が、ときの大老堀田正俊を刺殺した。
稲葉はその前日、
「五代将軍様に春日局のおん血をひく綱吉様を将軍に迎えた功によって、我らは幕閣を左右できる身分になったが、自分はれっきとした直孫なのに、堀田は外孫を妻に迎えた血脈の者。
にも拘わらず堀田が春日局さまの遺産を独り占めとは怪しから ん。ゆえにわしは成敗してくれる」と、父正則の代からの家老どもを呼んで、頭を下げて言って聞かせ、父正則が小田原十万石時代に溜め込んだ金銀を、
「不公平のないように家中一同に配分し、みなが路頭に迷わぬよう致してやれ」と、
家臣団が動揺せぬようにと手配し、こうして後顧の憂いを無くして登城し、遺産を横領された仇討ちに堀田正俊の胸を一突きにして仕止め、自分も寄ってたかって斬り殺されている。
つまり殿様が危ない時には、家来は身命を賭しても守るが、その代わり殿も、「家来が困らぬように責任を持つこと」といったのが、誠の武士道精神であった。
春日局といってもこれは官名で、征夷大将軍の側近の女性で、将軍家に代って小御所へ出入りをなし緋の袴を許される女人の頂く、従三位の上の格式のものである。
よって足利時代は十五代あったから、十五人の春日局がいた。が、徳川になってからは、家康が征夷大将軍を拝命した慶長八年二月に、介添えとして共に参内した春日局が、ただの一人で後はいない。
だから今では個人名のごとくに誤られているようである。
さて、この女性は信長殺しの謀叛髄一、つまり筆頭人なりと当時の山科言経卿の日記にもでている丹波亀山城軍監であった斎藤内蔵介の娘の於福なのである。
注・軍監というのは、秀吉の毛利攻めの応援部隊として、明智光秀に信長がつけた監督のような役目。
が彼女は徳川家に召される前、稲葉美濃守との間にすでに四人の男子がいた。そして春日局が大奥だけでなく政治にも介入しだすと、長男正勝の子の正則を実収がよい小田原十万石の大久保家を追い出し、その跡釜にすえたりした。
稲葉正休もやはり春日局の次男内記正利の子にあたる。幼名を権助といったが、美濃青野五千石稲葉伊勢守正吉の許へ入り、明暦二年に家督をついだが、春日局の孫が旗本で出世止りということはない。
やがて一万二千石の大名になり、若年寄にまで立身した。
さて堀田正俊はといえば、これは春日局の三男七之丞正定の娘が、下総古河堀田正盛の許へこし入れして、その間にできた子ゆえ、正休とは従兄弟にあたるが、
「春日局さま御跡目」をついだので大老にもなれた。ゆえに正俊に比べて、正休が面白かろう筈はない。
大金持ちの春日局
なにしろ表向きの春日局の扶持は年三千石に白銀百貫匁というが、すべて官費の彼女ゆえ、米で百万円、銀で年に五千万円の俸給はまる残りになる。
これに「どうぞ、よろしく」と銀座、金座からでる上納金をそれに加えると現今の二百億ぐらいの資産があったらしく、1950年から28年も京都府知事だった蜷川虎三氏の御先柤蜷川喜左衛門道春が、その財産監理をして金融にまわしていたくらいゆえ、当時としては膨大なものだったらしい。
となると同じ孫でも、ある者は大名になり、小田原城主となって箱根の金銀改めて派手に儲けているのも居るから、一番の貧乏くじは一万二千石に若年寄の役扶持八千石きりの正休で、
「正俊どのは古河十三万石の他に大老手当が二万石も切米(全部実収)でとっておられる」と、春日局の遺産の分け前を要求し、断られたので、おのれっとやってしまったのである。
真相は「金の恨み」なのだが、何故に、刃傷したのか理由が匿されていたかといえば、徳川家が亙解して、紅葉山文庫に秘密文書として蔵いこまれていたものが、明治になって流出し人目にふれる迄は、
すべて秘密だったからのせにいではなかろうか。
つまり千代田城の紅葉山文庫には、柿渋塗りの三重書櫃があって、その中に、「春日局は、伏見城にいた家康に召されて、そのお種を頂き、二代将軍秀忠はやむなくその竹千代が二十歳になると、自分はまだ元気盛りであったが、
家康の遺命ゆえと三代将軍の位を家光へ譲った」とする事実の記述や、春日局がお腹さまとして実権を握るや、秀忠の死をまって、その唯一の血脈の忠長を殺してしまったこと……そして水戸光圀が、
「いくら権現さまでも伏見城で春日局を召されたときは、おん齢六十二歳で、すでに二十人の余も子作りなされて、すでに子種は尽きていたと思われる……ならば誰の子か判らぬ家光やその子の家綱のあと、
また家綱の弟の綱吉など五代将軍に迎えるのは怪しがらぬ……ならば権現さま直系の孫の自分の方が、まだ血統は正しい」と騒ぎだしたことの記録もあったが、
(すべて徳川家の御為であり、天下泰平を守る秘密である)と、ずっと門外不出で千代田城内に隠されていたゆえ、大老と若年寄の刃傷も、浅野内匠頭事件同様に有耶無耶にされ一般へは真相は知らせないようにしてきたのであろう。
もちろん歴史学を教えている程の者なら、非売品とはいえ国書刊行会より明治になって活字本で五百部刊行されているゆえ、読んで知っているだろうと思う。しかし、
「乳母であってもよく奉公すれば、陰徳あれば陽報ありて必らずや良い酬いがある。春日局が病気になったとき、家光公は三度、家綱公も二度もその屋敷を訪れ、京からは明正帝の勅使までが、御三家や老中と共に枕許につめきったぐらいゆえ、誰もみな勤めを大切にしてまじめに働かねばならない」とする世の良風美俗の勤労精神に害を与えてはと、わざとみな知らぬふりをしているらしい。
千代田城刃傷第一号・豊島刑部少輔明重
抜刀禁止令
さて、千代田城刃傷の第一号は豊島明重である。
事件の経緯は多くの歴史書に書かれているが真相は隠されていて全く違う。
この項で真相は後述するが、刺殺されたのは遠江横須賀五万二千五百石、老中井上正就である。
この井上も秀忠の近習として、関ケ原合戦、大阪の陣に従軍している。両名とも戦国臭抜けぬ猛者たちである。
この時、秀忠は家光に六年前から将軍職を譲っていたが、まだまだ元気で、大相国としてその力は隠然たるものが在った。
だから老中も先代秀忠側と当代家光側に割れているが、井上は先代側の老中だった。
先ず、豊島明重の家柄は、目付け役で武蔵久良富岡(現在横浜市金沢)千七百石旗本である。
この人の先祖は東京の今の豊島区一帯を領していたが、太田道灌に負けたのち、下総府川(現在茨城県利根町布川)に城を築いてたてこもった。しかし徳川家康が関東に入ってからはその幕下となり、秀忠、家光と三代の将軍に仕えている。
大阪の陣の時は「五」の旗を立てた使い番で、落城の時は猛火の中をくぐり抜け、豊臣秀頼の最后を見届けたという豪勇でもある。禄高は二千石足らずでも、かつては石神井や練馬に城を持ち、志村や滝野川にの飛鳥には砦を持っていた豪族の裔。
だからでもあろう豊島は、今は旗本千七百石だが、その格式とはとても思えぬような二町四方の屋敷を構え、別に芝田村町にも御用屋敷を賜っている。
さらに平安時代から武蔵権守として栄え治承四年の源家旗上げの節、豊島の祖清光は豊島城の精鋭を率いて戦い、頼朝をいたく喜ばせた。これは『吾妻鏡』に記載されているほどの武門の名家である。
寛永五年八月十日は、大相国(秀忠)五十歳の誕生祝いである。
将軍家(三代家光)も西の丸へ祝賀をのべに渡る予定となったゆえ当日に限り西丸御番の者は非役の休みの者も、御祝言上に残らず登城することに、例年通り定められた。
この時を待って豊島明重は「おのれッ、武士の言葉に二言はないというぞッ、おのれッ、覚えてか」と、井上正就を一刀のもとに刺し殺した。そして豊島も警護の者達に滅多やたらと切り殺された。
八月十四日。
「柳営にて刃傷の罪軽からず」と豊島の家門断絶そして跡目豊島主膳正彰動はまだ十四歳だったがその日のあるのを予見していた母の手で元服を済ませていたことゆえ成人として扱われ、自裁を当日許され屠腹をした。
「武士は名聞をこそ重んじ、多勢の耳目につく千代田城にての刃傷は、男子の本懐これにまさるものとて有りますまい」髪をおろした妻の妙女は夫と伜の遺骨をもって慶珊寺へ入った。
この寺には明重や継重の木像や供養塔も残り、今も、横浜市金沢区富岡町に現存している。
事件の端緒
時は寛永五年八月。場所は上野寛永寺不忍池。何しろ暑い夏である。
老中井上正就は納涼の為舟遊びをしていた。同じく豊島明重も上野の山からの涼風を求めて棹役の家来を連れて小舟で漕ぎ出していた。同じ時間に幕府徒歩組
豊島明重の刃傷事件はその点、民族問題でもなく遺産争いでもない。大坂合戦生き残りの、「武門の意地」という、まことに明解な理由による殺しである。誤解とか軽率というのは、無関係な他人の批判であり、当人にとっては、きわめて大真面目な抗議であったろう。
が、豊島明重の寛永五年八月十日の刃傷によって、翌六年九月六日には、元和元年の武家法度が厳しくなって改定せられるようになりついに、「抜刀処断」の令が一条くわわるようになったのである。つまり浪花節で、
「鯉口三寸抜いたら御家は断絶、身は切腹」というのは、なにもそ代田城に限った話ではない。
たとえ刀をおびていても主君の許しがなくては、絶対に鯉口をきってはならぬとするのが、豊島明重のおかげで翌年からは、〈武士道〉となったのである。もともと刀は、「公刀」とよばれ、殿さまの道具なのである。これは大道寺友山の、
「武道初心集」にもでている通りに、戦に槍よりも刀を好んで持ってゆく者は、すぐ折れたり曲って使いものにならなくなるゆえ、必らず何本もの刀を馬の口取りや若党、家来共に重いゆえ一本ずつ予備に持たせて、腰に差させて伴うべしとあるが。
がこの状態は江戸期になっても同じことで、扶持を貰っている武士とは、殿さま用の生きた動く刀かけだったのであるといえよう。よく殿さまより名刀を授かったといった話もあるが、あれも家宝にして自分の屋敷へ持ち戻って藏っておけよというのではない。よく斬れるのを持たせるから、いつも側近に居れよと目をかけられたということである。
また小説やテレビで、「仇討赦免状」なるものがでてくる。これは故菊池寛の創作で、実際にはああしたものはないのが本当。
愛知県中島郡の名刈本源寺に実物が一通保管されていたが、それには、「当家何某が、もし貴領において抜刀するも、これは主命によってで私に致すものではないことを証明、ここに一札くだんのごとし」と、それに家老か重役二名の連署加判がある。
つまり仇討の許可ではなく、抜刀は罪になるが、主君の刀を主君の命令で抜くのゆえ、責任は当方でもつから、そちらではお咎めなきようという今でいえば連絡書なのである。
天保の飢餓からは世の中が悪くなって、勝手に私刀を腰にぶちこんだ浮浪の群れが、何の制約もない身分の者だから、すぐ抜刀したり斬り合いをしだした。
そこで、それまで御用提灯と六尺棒で取締っていたのが、物騒で怪我をするからと一斉に十手や朱鞘の公刀を返上してしまい、文久二年までには、各地の親方が、たかまち稼業の香具師に御用聞をやめてしまい一斉に転じてしまった。
このため俄か浪士となった連中までが、治安体制がなくなったので、すぐ斬り合いを始めだしたのである。
また、それまで十手もちが、召し捕りの人件費捻出のため許されていた賭場の縄張りが、一斉に空巣になったので、それを力づくで奪い合う新興やくざの喧嘩でいりも各地で起きた。
しかし豊島明重刃傷の翌寛永六年から、天保までの間は、チャンバラ好きには悪いが、「士道とは、勝手に刀を抜かぬことなり」と決まっていた。
赤穂の不破数右衛門のごとく、野犬に襲われ許可なく抜刀して失業したというのもすくなくなかったのが実態だった。
「抜刀」と「居合」の違い
つまり治安維持が、短かい十手や六尺棒だけで完全に取締られ、「おかみの御威光」をしめしていた時代に、殿様よりの預かりの刀を抜いて、気ままに斬り合いするためのレッスンをさせる町道場などある訳はない。
今日でいえば、鉄パイプのゲバルト訓練所みたいなものゆえそんな道場が許可される筈はないのは常識でも判ろう。
存在していたのは奉行所代官所に属した捕方の訓練所で、棒術や捕物術を教えていた所だけで、わゆる町道場なるものは黒船騒ぎ以降の産物である。
それまで田舎廻りをして村の自衛団に野荒し妨ぎを教えていた剣術屋が都会へ進取してきて、もっともらしく宣伝したのである。
「武士は刀をさしていてから江戸時代でも抜いて振り回した」というのは短絡志向の幻想でしかない。
そしてそこでは、
(うかつに召捕っても何も罪状がでてこず、起訴できなくては無駄骨になる。だから、まづ鯉口から刀身をぬかせるようにし、抜刀の動かぬ罪にしてしまえ)
と教育をしていたから、清川八郎の召捕りの時でも、捕り方が二人さも酔ったふりをし近がづき、刀の柄に突き当った途端ひねって引っこぬきをした。
すると、物蔭に隠れていた他の捕方が、「そら抜刀したぞ・・・・・・・召し捕れ」と、よってたかって折り重なって捕縛してしまった話が、「清川八郎先生伝記」にも詳しく出ているくらいである。
豊島明重の子孫のひとが伝記をだしているが、この肝心な抜刀禁止令にふれていないので、つい長々と書きだしてしまったのである。
時代物のテレビや映画では間違った解釈をしているが、「抜刀」と「居合」の違いは
抜刀は相手の刀を無理に抜くことでその事実をもって「抜刀禁止令」を適用し逮捕、断罪するのである。
居合は自分の刀を素早く抜いて相手に切りかかる行為で、公刀として殿様から預かっているものだから、殿の命令が無ければ抜けないことになっていた。
幕末、世上物騒になり、私刀を持っていたやくざたちが斬り合いの際、殺しの技術として流行したもので、武士は居合の稽古などしてはいなかったのが実態。
居合と抜刀の違いは拙のブログ以下を参照されたい。
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12666506760.html







































