『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。














学校では教えてくれない、日本史の真実に迫ってみました。従って このブログの全ての記事は、俗説、通説とは大きく違う。だからこれを「信じられぬ歴史」とし、俗説、通説を天壌無窮のものとするのは自由である。
しかし、調べられる限りの史料、資料を読み解き、出典文献、確定史料は全てあげているばかりでなく、原文その儘を誤解のないよう引用している箇所もある。

だから、もし意外性に驚かれても、疑問をもたれる向きは、どれでも抜き取りで参考資料とつき合わせて確かめて頂きたい。
つまり、これは本当は意外史でも何でもなく、此方のほうこそ正しい真実を徹底的に調べ上げているのである。どうか安心して読んで頂きい。



AI画伯と実写の見分けが難しくなった近頃。
AIは何種類も出現していて、あえて細部の指示を与えない方法で、「国籍、美人、身長体重」だけでも、それぞれの特徴が出て面白い。

   

古代史考(日本書紀)

  花魁物語
   
  紺屋高尾浪花節考


 紺屋の職人久六が吉原の花魁道中を見物し、全盛の高尾太夫を見染め、三年間というもの必死になって働き、ようやく遊興費を貯め、若旦那の恰好で行ったものの、正直に久六は、「本当は、わっしは紺屋の職人、
まだ三年がとこ働かなくては此処へは来られません」といえば、
「まあ、よく実(じつ)のある話をしてくんなました。なにも三年も待たいでも、来年三月にはわちきの年期があけまする。
 そしたら、ぬしさんさえ添うてくださるんなら参りまするぞえ」「えッ、大名衆でも気に入らねば首をふるという、今、里では全盛の高尾太夫が‥‥まさか」
「傾城にも、まことは有りんす。わちきは三年も働き、逢いにきやんしたおまえに、ぞっこん惚れんしたわえ」との言葉。
久六は夢かとばかりに驚いて、戻るなり脇目もふらずに仕事をして紺まみれになりつつ、
「来年三月、高尾がくる」と唄うようにくり返しつも半信半疑で悩んでいた処、本当に年があけ三月になると、久六の実にうたれた高尾太夫が、素人のおかみさん姿で駕できたという話。

 故篠田実の、この浪花節が一世を風靡したのは、紺屋というのは関西では青屋とよび、部落者のせいである。
言うなれば社会の最低辺の人外者でも誠実にまじめに働きさえすれば高峯の花のような高尾のごとき太夫でさえも嫁にくる‥‥だから一心不乱に仕事に精を出して働けば夢も希望も与えられるという教訓めいた浪花節だが、
作られ流行したのは江戸時代ではなく。昭和初年の満州事変の始まる前のこと。という事は紺屋は鋳かけ屋わらじ作りと同じ最低層のエタだったからで、昭和初期までは被差別部落の彼らを、もっと国益のために働かせようとの施政方針。
 さて紺屋こと青屋に関して「慶長見聞書」には、日本原住民の事とはせず、勿体をつけ、
「(前略)日本に墨なし。木のやにをねりて物をかく。色悪し。にかわ唐より渡る。重宝と思召され、小野妹子大臣御使にて唐へ渡らせられ、初めて、にかわ作りを覚え具足を作る。太子御感なさる。其後音楽人渡る。
又かわら焼も渡る。大工も渡る。但し大工はエタより先に渡る。後に渡る者共は言葉が通用せざるゆえ、かのエタに万事を教へられ、案内されし故、今に音楽のやから、あをや・すみやき・筆ゆひ迄、己が身分より下と申すは此時より初る」
と、江多以下の非人のランクとして書かれている。

日本書紀の嘘

太子とは聖徳太子のことらしいが、ディーゼル機関が発明される迄は日本から中国へは北東へ潮流が流れる時、中国からは南西へ潮が変る時だけ、つまり冬だけ向こうへゆけ、戻るのは夏と決まっていた。
だから契丹に唐が滅ぼされるまでは遣唐船が冬に出航し、夏に戻ってくるが二年がかりの往復である。
それを今では、南西の風が吹き始める六月二十二日を、未開の下等な島国へ行くのだから、下(げ)の国に至るとして「夏至」と云う。又、北西の風が吹く十二月二十二日を、唐の国へ至るとして「冬至」と当て字をしている。

それなのに墨や革具足が重宝だからといって、楽人や瓦焼き大工までが来るのはおかしい。
 正しくは遣唐船の戻りに向こうの食い詰めたのが同行して日本へ来たので、同書は文禄の役で明国と戦った後の慶長年間ゆえ、エタは中国渡りの人種としてしまいたい為の妄説だろう。
なにしろ事実は逆で中国渡りが藤原王朝。彼らによってその侭の大宝律令が輸入され、それまでの日本原住民が賎とされていたゆえ、何が当てにならぬといって、日本の古書ぐらい、まったく好い加減なものはないと言っても、あえて過言ではあるまい。そもそもがである。
 良賎の区別は、山野に昔から自生している木や草や土、獣に山繭といったものは古来からの物ゆえ賎の既得権益で、植木職の坪立、木こり、炭やき、土をこねる左官、薬草や染物をする藍草の紺屋。
獣を捕えて革をはぐ仕事や山繭を編む仕事も、彼らの限定職とされていた。
つまり桑をうえて養蚕や、切り出した木で細工する大工や指物師の加工仕事は良とされた。


 宮本武蔵と一乗寺で決闘したようにかいた吉川英治の創作の、吉岡道場の初代吉岡拳法は、御所に入って能見物中に、編笠を目深く冠っていたが、家業が紺屋なので指先が青いのを衛士に見つかってしまい取り囲まれ、
「おのれッ不浄なエタめッ」と槍ぶすまで突き殺されている。藤原王朝の御所の内だから、敵は大勢で味方は一人。
 いくら吉岡流小太刀をあみだした剣豪でも殺されて晒し首となった。
さて「雍州府志」には、「青屋はエタの種類なり」と書かれ「芸苑日渉」にもはっきりと、「むし風呂屋や藍染屋のごときは、これまた厠戸(カワヤ)と同じものなり」と出ている。
 阿波の国は、阿波の鳴門から黒潮が太平洋へ抜けてゆく最後の陸地へ、とり縋って泳ぎついて這い上がった古代海人族、つまり後の平氏の祖先が多く住み、彼らが藍玉を作り出したゆえ、「三好記」という足利時代のものには、
「三好長春が滅亡したのは青屋四郎兵衛としたしく、その子の大太夫を小姓に召し抱えたのが、反仏の者ゆえ仏罰にあたった」と、さえ出ている。
「青屋と申すは化物にて、年寄どもしか知らぬが、化けてこの世に現れて仏敵となるもの」とか、「エツタが皮にした毛皮を染めて青屋染という」と「三好記」の筆者の僧侶の道智は、仏教に転向せぬ紺屋をくそみそである。
しかし当時の紺屋は、皮屋と共に儲かっていた。

 寺では何とかして彼らを転向させて、おおいに布施をとって儲けようと、堅久寺などでは莫大な銀をとつて寺人別に入れはしたが、他の寺にやっかまれて、やむなくやめたともある。
「慶長見聞書」と違う「慶長見聞集」の一節に、「雲蔵乞食のこと」と題をして紺屋の悪口を、「雲蔵とよぶ若者が阿波江戸町にいたが、神田の真行寺へ跣足で、代々紺掻きの職人をしていたが、
親も死んだことゆえ足を洗って、ぜひとも仏果を賜りたい」と布施を出して頼んだが、
 「今さら親代々の紺屋をやめることはない。『みちのくの忍ぶ文字ずり誰ゆえに、乱れそめにし、我なら泣くに』という古歌もあるくらいで、藍作りは阿波にとって大切な国産ゆえ、その職に励み、殿様におつくしせい」と諌めたとある。
 この作り話の雲蔵とは、後の「雲助」と同じで、先祖が遠いアラブからきたという言い伝えは、黒潮暖流が判らぬ当時としては、さながら空の彼方から雲にでものってきた輩とみての意味らしいようである。
「源平盛衰記」には紺掻きの紺五郎が、尾張で殺された面識のある源の義朝の首が獄門台にさらされたのをみて、秘かに奪って、それを人知れず埋葬したゆえ、

義朝の子の頼朝の代になると、北条政子に鎌倉へ召されて平家の武者に取り立てられた話もでている。

 「令集解」には、唐の大宝律令の「染戸」を引用して、やはり紺屋を反仏派のエタと定めているのである。限定職の紺屋は青ばかりでなく、紅花を採ってきてそれで紅布も作っていた。だから「私訓栞[しおり]」にも、
『藍屋を賎むのは「陀羅尼経」に、藍染屋は往来を歩くことえず」という制あるによれりと云えり、青を染むるには多く虫を殺すと云うのも「薩婆多論」には見えたり』
とでている。これの下敷となったと伝わる寂照和尚の「谷響集」にしても、元禄二年にできたもので、反仏教派の革屋弾圧のため皮を剥ぐなの「生類憐れみの令」が発布されて三年目のものである。
 つまり四つの製革業はオカミの法律で取締まっているから、反仏派の「八つ」の紺屋も、ついでに叩きつぶしてしまえとばかり、和尚が、お経を勝手に引用して適当に勿体をつけて書いたのが、
「この国にては俗に、藍染屋を賎しみこれを嫌う」とし、防羅尼経や薩婆多論を引用して、「よって藍染屋の家業をなす者は屠児つまり皮屋と同じにして、賎しむべきばなればなり」と、
藍草や紅草を山でとってきて染物にしては法にふれぬから、各寺の説教で一般に広めようとした。テレビや新聞もない時代である。石山本願寺浄土真宗の説教僧は各寺を廻って歩き、
「仏敵織田信長は、石山攻めの先手をさせた明智光秀に殺された。因果応報、仏罰てき面」と、有難やの有難やと節廻し面白く話したのが広まって本当みたいにされ、公家の日記類さえ徳川家の京所司代の指図で、今みられるよう信長殺しは光秀となった。説教の効果は大きい。
 関東はみなそうだが、捕虜奴隷として囲地に収容されて目立っていた関西では、友禅屋もエタの頭に「八つ」の人頭勢を棟銭として支払わされた。水上のオンボ取締の支配下のせいである。
「京都御所役所向き大概覚書」の亨保二年の「エタ青屋ども勤め方のこと」の掟がある。


一、粟田口刑場にて鋸挽き御仕置の課役。さらしものにして昼夜三日にわたり寝ず
  に張り番する、三日目には磔で処刑し、よって見張り番として昼夜七日続けて
  相勤めること。
一、同所火罪御仕置の課役 但昼夜七日番相勤めること。
一、張付御仕置の課役 但昼夜三日番相勤めること。
一、獄門御仕置の課役 但昼夜三日番相勤めること。
一、西大手斬罪御仕置ものが有る時は、首斬りの始末にまかりでること。
一、東西の御仕置の場所の掃除を相勤めること。
一、二条御城之堀へ身を投げ自殺する者あれば、奉行所より指図申つけるゆえそれ
  を千本通三条の辻にて三日さらしその番人申付く、居住相知れず身許不明の屍
  体は取片付けをなすこと。
一、牢屋の敷内外之掃除を相勤めること。
一、牢死之者あれば、その屍体を取片付けさせ候。
一、京都にてもし出火の節は、屋敷へ、火消し人足召連れて相詰めるように、延宝
  元年己十一月より申付けられ候。
一、斬罪役の勤めは何時頃より相勤めしたか、古いことにて判らねど、きっと勤め
  候こと。
  斬罪並びに牢屋外番・洛中・洛外見廻り役も相勤め候の村は左にこれを記す。

                    京都愛宕郡天部村(年寄五人、名略)
                    同国同 郡六条村(年寄三人、名略)
                    同国同 郡川崎村(年寄一人、名略)
                    同  所蓮台野村(年寄一人、名略)
                    同  所北小路村(年寄一人、名略)
                    同  所九条村(六条囲地内なり)

 江戸の南北町奉行所では、新地の弾左衛門より差出す者と四谷者つまり「四つ」の騎馬系。
 処が京では町奉行所は、やはり「四つ」だが、京所司代支配の目明し火消し処刑は紺屋だった。
 しかし紺屋は忙しいので粟田口の刑場に詰めたきりで、さらし者の番人や首斬りの手伝いは、友禅染めが流行しだしてから当惑して、夫(ぶ)代銀とよぶのを差し出して勘弁してもらっていた。
 処が、鹿の子しぼりが流行し関東へも出荷するようになってくると、「禁中御用」の鑑札を貰っていても、当時は御所よりも監督官庁の京所司代の方が上だから聴き入れられずだった。
 今では宮大工というとお宮をたてる大工だからと美化されているので後述するが、紺屋つまり青屋が京では、刑死をあつかっていた関係から染物の他に大工もさせられていたのである。
「恐れながら、さしあげまする口上書」という古文書がさしだされ、今も現存している。

一、牢御番屋敷外の番人の他に、部落の者共青屋らに仰付けなされ御用をさして頂
  くのは有難いことでございます。五月十七日より青屋共に申渡し候えば、すぐ
  さま御上意の御趣意を畏まり奉りまして、順々に相勤め申候。しかる処に御上
  意に相そむきて、御番の人足を出さぬ者も御座候に付き書付けを以って申上げ
  奉りあげ候。
一、大宮通西寺壱丁目上半町、炭屋市郎兵衛借家青屋治兵衛、同かぢ屋町五条上ル
  町いづつや五郎右衛門借家青屋平右衛門、同本誓願寺千本東入町米屋興三次、
  右三人之者共は牢御屋敷外番の御用も相勤めぬようなりました。この者共はこ
  ん屋を致し候ゆえ、青屋役を仕り候は忙しき由と申したてての我侭にて候。

 つまり紺屋だけで青屋大工までは、とてもやれぬと我侭をいうと、罰してほしいとの訴状。
 定まった夫(ぶ、人夫)代銀だけでは、手間賃が値上りしていて困ると、富士山噴火の宝永七年六月の日付で水上のオンボ配下の部落頭分らが、後で自分らの咎となってはと差し出したもの。
 しかし本職の染物課役で鹿の子しぼりや友禅をそめ、寒中でも川へ入ってさらす傍ら牢屋番や処刑の片づけぐらいならまだしも、熟練のいる大工仕事まではと部落内で分業したらしい。
「八付」といって、八の者の処刑は張付柱に縛って立て突き殺すのと違い、初めから手足を竹釘で打ちこんで放置し、出血多量で半死になってから立て止めを刺すのが関西の習慣であるが、
関東なら区別なく打ち首の斬首刑も、関西では「野史辞典」[日本シェル出版]の「八虐」にもあるように江戸時代でも竹鋸で、ギッコギッコ引き殺した。捕隷奴隷への見せしめに始めた伝統らしく想える。
粟田口で竹鋸で八の部落者に生きながら首をひかせるのは、頚骨があって竹鋸では
切断できず出血多量で生殺しにするだけだが、鉄がなく四肢を釘づけにする代りのようである。
 紺屋部落の青屋大工の許には、半死半生の者をかける張付木などの御定法の寸法も書き残されているが、カネ尺の三尺三寸が今の1メートルで京尺は唐の大尺ゆえクジラ尺で二割増しゆえ約四尺。
壱間は六尺となって書き残されている。


一、張付木用材 柱は五寸五分四方、同ぬき四寸に八分。ただし弐間物は二ツ切り
  で、長サ一丈三尺五寸。下に十文字ぬき切懸けに打ち申すこと。
一、獄門木 柱は栗の木の末口三寸五分。長さ一間半。下に十文字ぬき打ち。
一、火罪の生きながら燃やす用材 柱壱丈物六寸四方。上より下へ壱尺の真切りか
  けつかまり、先を筆なりの恰好に仕り候。輪を入れ、とめにかすがい四本打ち
  申し候。
一、獄門板 首をのせるため幅壱尺八寸、桧木。
一、板札 壱人前けづり立て五分、幅壱尺八分、長サ弐尺五分。但し桧木拵えて、
  ふしなし。
一、獄門櫛 さらし首を前から持ってゆかれぬようにはめこみ木。かね尺で長サ壱
  尺弐寸。

 青屋六左ヱ門の名がつけてある。しかし焼き殺しの火をつけるのや、突き殺すには、「四つ」の課役で、宮大工の仕事。「八つ」の青屋大工は準備と跡かたづけだった。
が大工仕事専門となると粟田口刑場の仕事だけでは食してゆけぬから、遊女屋やむし風呂屋、芝居小屋、見世物小屋、お宮といったものの建築は、すべて自分の方の縄張りだと主張し、
一般大工の寺大工とよばれるのとは別個なりと互いに幕末まで対立しあった事も各地では記録がある。
「紺屋のあさって」というのは、まだ分業せず大工と染物を一緒にしていた頃、忙しすぎて約束しても、なかなか期限に間に合わず、あてにならぬことをそうした言い方でするらしい。

      考察・日本原住民

     エタは四でも八でもなくエの民



 古代史はもちろん近代史を調べてゆく上にも、日本原住民を二分した、良と賎からどうしても入ってゆかねばならない。
東北へ追った日本原住民の団結一帯進攻が富士王朝復活のために静岡の田子浦まで追ってきたので、桓武帝即位からクダラ系だけは賎から良に変ったが、後は戦国期で下克上と称された時代。
 ブシン(不信、体制側にとって信用できない者たち)の飼戸の者の生き残りが武力によって、武士や武将になったからである。
明治維新ものと戦国ものが、一般受けするのも救いのない底辺の庶民の賎の者が、どうにか陽のあたる場所へ浮き上れる機会の夢が、そこにはあるからであろう。なにしろ江戸の貞亨年間に居付き部落から大多数が都市に脱出して銭で町人別や寺人別に入る迄は、人口の八割以上は限定収容されていて、逃げ出せば、逃散の咎めで殺される奴隷だったからである。
 つまり部落から出ることもかなわずで、死なぬ程度に酷く搾取されてきた名残りが、今になっても「他所者(よそもの)」とし、新入りを排斥する風習を残している。東京近辺にもマンションが建ち並び新居住者が入ってくると、
毛嫌いして反感をもつのは「来りびと」意識からなのである。
「見かけ銀」というのを、新しく入ってきた者は納めねば、そこの土地では住めなかった。
 それでも外来の新しく住みついた者は、前からの者たちに「その筋の者」と被差別された。
 江戸末期になると怠けていないかどうかと見廻りだけでは判らぬから、その筋の者を紛れこませて目を光らせていた。つまり警戒され用心していたのだが「民族と歴史」では誤って、
(空き地に住まわせて貰い火の番や泥棒番とか人の嫌がる仕事をうけもたされ、あるき筋とか番太すじ、掃除すじと言われ、来たりびと、として差別されている)

と、さも後から来たのがエタみたいな書き方をしている。が村落の方が昔からそうだったのを知らぬせいらしい。
 また「遠州地方の足洗い」として同誌にはエタは非人の上にたって、これを支配監督するが、非人は足を洗って常人になれるがエタは皮や肉を扱うからして駄目であるとして、例として、
「打上げ」と称して、足洗いの出来る道が設けられて居た。
 「全国民事慣例類集」に遠江国敷知郡地方では、「三代皮剥ぎの業をなさざれば、平民となるの例あり。穢多は所持地多分ありて、貢租を納め、中には富豪の家あり。
平民へ金銭を貸附る者もあるなり」と見えて居る。幕府の制では弾左衛門の主張のままに、「絶対に足洗ひを許さぬ方針を定め」とでているのに、「四つ」と「八つ」とを混同している。
弾左衛門は「四つ」の長吏で人頭税をとっていたから、足を洗って抜けられては収入が減る。だから差別されてもよいから自分らの資金源を減らさぬようにしたのが真相。
 

 が根本的な官制歴史の誤りは、「四つ」と「八つ」の区別を知らぬのか、知っていながら知らないそぶりか、故意にごちゃまぜにしていることである。
「八つ」の古代海人族は農耕、漁業、製塩から川守りとよぶ渡し船と仕事が山ほども押しつけられている。決して獣を捕え皮など剥がぬ。
 処が遊牧民族の「四つ」は何もしない。明治になっても浅草新地より小菅から奥州まで弾左衛門地一帯には、ただ草のみ茂っていて何も生えていなかったのは有名で色んな本にでている。
 つまり製革業は、弾左ヱ門支配の「四つ」だけの限定職で、「八つ」は野兎すらとってもいかぬ事になっていた。

 公儀においては藤原王朝のとっていた、夷を以って夷を制する方式を前述のごとく、
「四つ」の弾左の下には、「八つ」の車善七、その下に四谷者や吉原四郎兵衛手下その支配下に谷津の「八つ」ものの各部落、といった組み合せにして、相互に憎しみ合せて一つにならぬようにした。
 官製歴史の困ることは、「四つ」の弾左ヱ門からは集めた人頭税のうちより冥加金を台所入りとして、年に五万両ずつ献金させ、年賀と八朔には十万石の格式で千代田城へ伺候をしていたのを匿してしまっている。
 だから人頭税が減少せぬよう「四つ」の部落よりの抜人は厳しく取締りをし、洗足を認めなかった理由はそこにある。
明治になって矢野内記と改名の弾左は、大江卓造と民政省御用係と高等官員となり、六人の手代はそれぞれ新設の東京府庁の助役になっている。

 表面では差別しているようでも関東の金をすべて握っていて、蔵前の札差しも弾家の金だったのは三田村鳶魚の江戸考証随筆にも書かれている。つまり大公儀に献金しているゆえ便宜をはかられ、
心中の仕損いの生き残りや破戒僧として人別から削られた連中の払い下げもうけていた。「非人」つまり「人非人」というのは、このてあいで、海藻みたいなボロを着て裸馬にのせられた死刑囚につきそっていた連中だが、
身寄りの者が首代として黄金五枚をなんとかして作って持ってゆけば、地獄の沙汰も金次第で許され、非人の境遇から足を洗って常人に戻れた。


 穢多非人と一律にいうが、「八つ」の穢多だけを目の敵にしているのは、「四つ」の弾左は体制側ゆえ「四つ」は表面にでず、穢多非人と二大区別に官製歴史がごまかしているのはこのわけである。
 東京にも浅草に先族の当て字の千束町や鈴ヶ森に近い大森には洗足そのままの地名が残っているのは、人頭税をぼちぼち取るより、大きく金をとれるので、非人を次々と戻したからである。
 明治四年の壬申戸籍で、非人の親類が身受けに来ず残った非人が穢多の一割近くもいたと発表されるのは、さも彼らが「四つ」みたいに取り繕うためのものだったろう。実際は百倍はいた。
「四民平等」とは公家武士穢多非人の四民でなくして、元の源、ペルシャの平、唐の藤、契丹の橘の四つの民族のことだが、その最底に位置して明治になっても被差別されているのを、「帝国公道会」とよぶ前の民部省で、
当時の内務省の外廓団体とし設立し、部落解放令の実現に尽力した大江卓は、


 「徳川氏が穢多に対する取扱いのことだけは『落穂集』であるとか、『地方大成録』であるとか、其他の書類によってぼんやりと分かつたのである。これは御誓文の陋習を破り天地の公道に基くべしと云う御趣旨に従つて、
改革せんければならぬ。それには、とても神戸でこんなことを言つて居つたのではいかぬからと思うて、私は東京へ出て第一に大隈重信の所に行つて話をしたのである。
すると大隈もそれは至極よい思付きである、つい忘却し、その侭にして居つたのである。しかし、これは民部省の取扱うものであるから、お前も行つて話をして呉れと云うことで訪ねた。
 所が大隈からも聴いたが実に今の侭に差置かれぬことである。良い気付けをして呉れた。平民籍に編入すると云うことにしなければならぬが、その方法について、
なにか考えがあるかときかれた」と回顧録として「民族と歴史」の第二巻第一巻に収載されている。
 当時、江戸城西の丸で新政府は、「帝国公道会」を設けて、「徳川時代は『四つ』だけを懐柔し、味方につけただけだつたが、新政府は『八つ』も手馴けるようにと試み成功をした」と自画自賛。

(神武天皇御陵のある処は洞(ホーラ)と云う。御維新までは、その部落が御陵の番をしていた。御維新後は宮内省の出張所が出来て、昨年その土地を宮内省へ献上して皆他に引越したのである。
洞部落は如何なる人民かと云えば、神武天皇の大和征服の場合に、彼の長随彦に一味して神武天皇の官軍に抵抗した所の居勢祝(こせのはふり)・猪祝(ゐのはふり)の子孫であろう。
祝(はふり)は古事記にも日本書紀にも出て居るけれども、前にも其後にも多く出て居らぬが、「ハフリ」と云うのは人種の名ではあるまいかと云うが、「ハフリ」と云う言葉は「ホーラ」と同系で、
又「ホフル」と云う言葉とも同じ、物を投げることの「ホール」とも同じ。「葬ル」と云うことも同じ言葉。さうしてこれがもし、人種であると云うことであれば、旧約聖書にある「ヘブライ」人と同じことではないか。

 「ハ」が「へ」になり、「へ」が「ハ」となると云うことは、ハヒフヘホの行で何時もよくある変化である。「ライ」「リ」になる。「ブ」の濁音が「フ」の清音になると云うことも往々にあることである。
文字のない時には言葉がさう云うように訛つて変ることが少くない。いわんや日本では濁音と清音は唯だ点の有無によって見得るので、相混ずること頗る多いのであるから、
「ハブリ」が「ハフリ」になつたのであろうと思う。「ヘブライ」と同じことであつたならば、どうして「ヘブライ」人が我国に来たかとなる。
 「ヘブライ」人は御承知の通り印度の「セヌ」人種の一派である。一時はなかなか盛んな人種であったが、昔からどうも一ヵ所に永住するという事の出来なかった人種で、本国を逃げて阿弗利加に往き、
又阿弗利加を逃れて本国に帰り、「シリア」人から追い出されて処々方々に散在した、その散乱した一族は行く所を知らずという日本に来たのであらう。
年代を追うて見れば、神武天皇の日本を統御遊ばすより余程前の数百年前のこと。海流の関係或は風の関係で、熊野辺に漂着して大和に蕃殖をした第一の移住民。
天孫人種が第二の移住者である。その第二の移住者が勢力が強かつたから、やがて第一の移住者を征服して仕舞つたものらしい)と木村鷹太郎著作集のようなことをのべている。


 つまり大江はいと簡単に第二移住者を良となし先住民を賎にする。が、印度のセヌ系のヘブライではなく、アラブ方面からマレーシア経由の黒潮で流入。熊野浦に集団上陸したのは後世の新平氏の忠盛らで、
(古平氏の者らもアラブ語のアの水の意味をもつ各地)へ這い上った。
 安房、淡路、明石、阿波、安濃といった太平岸の各地に漂着。西南よりの先住民でエケセテネの記号を苗字とし[江藤、千田、手塚などの意味]、後にはつけられた先住民と共存共栄し、彼らに魚とりや焼畑、水田から製塩を教えて使った。
つまり、この第一の移住者よりも先にいた「エの民」こそ、本当のエタなのである。「根津権現」を江戸でも特にエタの宮とよんでいたのも、彼らこそエタ第一号だからである。
 第二の移住者は太平洋岸へ黒潮で入ってきた古平氏の「八」だが、第三は日本海の能登半島や昔は白山島とよばれた新潟に沿海州からベーリング寒流の親潮で入ってきた騎馬民族の「四つ」。
 その後から入ってきて鉄武器でみな征圧した第四が、天孫民族と称するのが正しい処である。
 大挙して騎馬系が入ってきたのが越前越中越後だから、「越多」と本物の「エケセ」と混同され、「餌取り」から転化したものとされる。騎馬系は皮をなめすし鷹の餌とりもし辻つまが合う。
 ところが「四つ」の彼らの弾左ヱ門が、財政不如意になった公儀の台所入りに、人頭税の一部を年々納入し大名なみの格式をうけるようになると、彼らに無償で払い下げられた非人をもって総称とし、エタの蔑称はゲットーに入れられ奴隷課役を、ずっとさせられている「八」に冠せられた。
 だからエタと非人の差別が判らなくなり、ごっちゃにされてしまい故三浦周行博士でも、

「エタ非人と江戸時代の賎民は一緒にエタ・非人の称で呼ばれた。『エタ』は皮革類から竹皮草履・裏付細工・燈心細工・破魔箭・茶筅等の簡単な手工芸を製造販売し、
『非人』は各種の演芸により、又は吉凶の事のあった家に行きて施興を請う『物貰い渡世』の徒であった。エタに類するものに 『長吏』・『夙』、非人に類するものに『乞胸(ごうむね)』・『猿飼(さるかひ)』などがある。
地方によって名称を異にするものがあるが、大体に於てエタ・非人の外を出ない」

とまず述べてから、
「エタは古くから皮革を扱つたが南北朝頃には井戸掘を家業としたものも見える。彼等は都鄙ともその一隅に、城下町では外に、部落をして良民と隔離されて居た。非人は室町時代にも乞食とされていた」と、
これも、やはり間違えている。屍馬の革はぎは「四つ」の限定職である。
「弾左衛門とは江戸に於ける賎民自治体で浅草新地の統轄の下にみなあった。弾左衛門は徳川家康江戸入府の後、長吏以下の支配を命ぜられた。当時小田原の長吏太郎左衛門が北条氏直の証文により、
又元禄五年に上野下仁田村の馬左衛門が、武田信玄の証文を提出し、弾左衛門から独立したいと訴えたが却下になって、幕府はその証文を弾左衛門に下附したとの事である」

    浅草弾左衛門(本名 矢野内記)は非人ではない 

 弾左衛門は浅草に一区劃をなし新地とよび部下と共に住んでいた。これを「囲内(かこひうち)」と云い、他の地方の管轄下のものを合せて「差配場」と云った。その部下は「手下(てか)」と云い、「手代」・「書役」・「役人」がある。
 寛政十二年八月の届出によると、囲内なる手下が、すべて二百三十戸、其の中手代及び書役が七戸、役人が六十戸で、其の余の百六十五戸が「平の者」であった。
そのほか弾左衛門差配場たる関八州及び甲斐・伊豆・陸奥・駿河の十二箇国内長吏の総戸数が、五千四百三十二戸あったという。長吏はもと地方のエタ頭で、その下に「小頭」あり、小は一ヶ村、多きは二十余ヶ村をも支配し、
「行事役」をして実務に当たらしめ、「組下」の人別なども、これを弾左衛門に届出る制度であった。
かかる制度が、みな江戸を中心とする地方に限られて居るのを見ても、その管轄区域が、幕府創立以来次々定められたものだとの事が知られる。弾左衛門の事を、公儀では浅草弾左衛門と云ったが、
諸大名・寺院・町家では、矢野弾左衛門と云い、その部下をも『矢の者』と云つた」つまり今いうヤーさま。ヤア公である。

 「浅草新地の弾左衛門」は非人をも支配した。非人は各地に隔離せられて部落を作ったが、江戸では浅草・品川等四ヶ所に居った。「非人頭」が統一し、
下に「小屋頭」がある。非人頭中の最有力者は浅草の車善七と、品川の松右衛門である。非人頭は弾左衛門に属し、手下の出入は弾左衛門に一々届ける。亨保七年に善七は弾左衛門支配から脱けようとして、はたせなかったらしい。
駿河の非人の犯罪者を弾左衛門に引渡さなかつたのでおおいに、もめた例がある。
「地方での管轄は弾左衛門に属しない地方にあってはエタは、所在の長吏・頭・年寄等の支配を受けた。非人も同様で、京都では非人頭の水上のオンボを『悲田院年寄』と云い、
山城・丹波近江やその外、美濃・遠江・駿河・甲斐・丹後・因幡・美作・河内・摂津を支配した。その中で摂津は大阪長吏と共同管轄であった。これを『手下』とも『支配下』ともいう。ここにも小屋頭があって、毎年一回年寄方に出頭せしめた。
『国制記』によると、京都のエタは三条余部村・六条中島村・田中川崎村・東山龍口村・蓮台村・北小路村の六箇村で、部落民は千七百二十一人、悲田院年寄に属せる非人の人口や八千三百十四人あつたという」となしてから、
「エタ非人と良民が混同せぬよう、非人には物品の施与の強請を禁じた外、家業に就いては放任した幕府も、社会階級の維持上、武士は勿論、町人・百姓と彼らの混同を厳重に取締まった」


「非人は斬髪し、元結を掛け結髪する事ができなかった。後にこの制度がややゆるんだので、亨保八年十一月、将軍吉宗は先手頭山川安左衛門忠義の建議によって、非人頭及び組頭の外は髷を切り、
これを束ねる事を禁じた。頭巾其の他の冠り物も許さなかった。これは彼等が囚徒を預るなどの公務に当るので、年と共に豪奢に流れ、美服を着けて良民と区別しがたくなったからという。
先手組から建議したのも、主として罪人検挙目標を必要とした為と解せられる」「非人の住宅を小屋という。天井のない小屋掛のことだ。
よって彼等を「小屋者」という。文化二年十月、善七の手下の非人小屋頭の三助事三右衛門が居小屋に天井を張り、障子・襖を建て、絹紬を着し平人と音信を通じ、料理茶屋で交際したというので、
江戸町奉行は、非人の掟に叛したものと認めて検挙した事がある。
 又、文政十二年八月、永田興左衛門の仕置伺(しおきうかがひ)に、非人がその身分を秘して武家の中間となり、更に侍となつて勤め中に、同僚の衣類を盗んで逃亡し売払つて消費したので、
「入墨の上で叩き」に相当する刑に処する事を命じて、弾左衛門に引渡し非人にすべきことを載せて居る。
大名の領分に於ては、合戦の際には、彼らを軍役其の他には使用してもよいが、平時は良民と同一に使用することは、絶対に禁ぜられた」とは言うが、江戸の金は弾左支配で、みな蔵前の札差も入用の時には金を借り、交際があったのは、三田村鳶魚の考証にも(前述したが)でている。


「処罰としては、非人の犯人は遠島処分以下は弾左衛門に引渡して相当の刑に処せしめ、地方は所在の頭に委かす事になつて居る。しかし事実は穢多・非人共に死罪・遠島は幕府が処刑し、その遠島以下は刑の軽重を示して相当の処刑を命ずる事となつて居た。『仕置』なるものの内容はまだ詳らかにせぬが、その中には非人を普通刑法の入墨刑に処した事もあつた。しかし自然に幕府の刑法と違つたものもあつたらしく、重叩き刑に相当すべく処刑を命じた囚人を、
弾左衛門は叩きは五十日、重叩きは百日の牢者にしてったので、亨和元年七月江戸町奉行から共に命令通りに執行せしめる事となつた。

 しかしこれでは、『公儀お仕置』によって言渡をなすと同じく、非人の処刑を弾左衛門に委任した精神にもとり、叩き以外に公儀お仕置きとの間に相違も多かろうから、
叩きのみ幕府の法によらしめるのは不可とのべたものもあった。現に普通刑法の追放刑の如きも、『江戸払い』は江戸から二、三里を離れて、地方の非人の手下とし、
『江戸十里四方追放』は、八、九里乃至十二、三里、『中追放』は十八、九里から二十四、五里に、『重追放』は凡そ二十五、六里から三、四十里離れた地方の非人手下とする事になって居た」とのべ、


「良民が非人となり、非人が良民となり得る場合もある。良民は本人の希望により非人になれる。この場合非人頭に於て、本人及び親族の意志を確かめた上で非人の掟を示して手下とし、
小屋頭を定め、その人別に編入して弾左衛門は更にこれを江戸町奉行に届ける。
また不倫な情交、不義の情死未遂、主人と下女の情死未遂の際の主人、離婚した妻に負傷させたもの、取退き無尽での空札売りは、弾左衛門立合の上で非人頭に引渡してその手下とする。
十五歳未満の無宿の盗人は、『遠国非人手下』とする為に、地方に遣はすべき旨を弾左衛門に命じて引渡す」「無宿の男女で非人であつたものを、後日その親族から素人に引き立てんことを小屋頭に申出ずる場合には、
非人頭から弾左衛門に届け出て、引立人から抱主たる小屋頭に証文を入れさせて許す。十年以上非人小屋に居たものは、原則として復帰を許さぬのが掟の次第だが、申請の切な場合に限っては特に許した。
しかし非人であつた間に、非人の女を娶つて子を生んだ場合には、その妻子は夫と共に良民となる事は出来なかった」と小判でぬけにんを認めたことをいい、


「非人に対しても、非人頭から『ご政道廻り』を出して、毎日市中を巡邏せしめ、放浪の無宿者は野非人を取り締らしめ見付次第に適宜に処置させた。これをば『刈込』と『片付』とか云った。
幕府の無宿取締りの方針から出たものだが、一つは非人の『持場』を荒されない為である。彼等の野非人等がもし非人の手下たらんと望む場合は、一定の手続をへて許す。
京都では、無宿の非人は悲田院年寄に引渡さずして、京都町奉行で処分した。それでも他から地方非人の持場即ち勧進場所に来たつて施与を乞おうとするものは、必ず所在の非人小屋に渡りを付ける必要がある。
『諸勧進無用』の縄につけた札は、つまり村の入口に土地の非人等が、他からの非人侵入を防がんが為に掲示したものだからである」

「乞胸なる者は乞胸頭磯右衛門に属し、身分はもと町人でも、社寺の境内や空地で演芸見せ物を業とし、その営業が非人に同じなので、慶長年中非人頭からその停止を迫られ、
遂に営業のみは非人頭善七の支配を受ける事となった。それから新に加入する者は善七に届出で、ショバ代を払い、善七は日々手代を出して社寺の境内や市中を巡視せしめ、鑑札を持たぬものは営業用の物品を没収し、
詫証文を出さなければ追払って叩きだし、その荷物は返付しなかった」

テレビなどでは、物売りしているのを「何々一家」と絆天を着たのが取締まっているのが、つまりそれだし、非人に対して、神皇(今では神農)と称して指図していた。
「御政道廻り」といった市中見張りをさせたのは、朱引内の御府内は定廻り同心六名きりで手が廻らず、彼らに同心作付の鑑札を与え彼らの持場の新吉原と類似行為をする岡場所をみつけて女たちを捕えてきて吉原会所にだし、
やっこ女郎にして四郎兵衛溜の礼金を貰っていた。
 日本では奴隷といわず「やっこ」といい、「やっこさんは辛いね、雨がふるのに蓑つけず」と唄にもされて踊りにされている。
奴隷と、はっきりさせたのは阿部弘蔵の「奴隷史事典」からで、それゆえ喜田説は全人口の5%しかヤツコはいなかったなど、まるで逆に間違えている。
 良と賎の二大分類するのが、大宝律令からの日本史ゆえ、良が95%で賎が5%ではおかしい。
 なにしろ良は西暦663年に初めに二千から四千に増え軍夫軍属八千の最低一万二千から二万とはっきりしている。
だから、その5%では僅か六百名にしかならぬ。七世紀で千名たらずしかいない人種といえば、今でも有名人は多い割りに人口は極めて僅かなエケセテネの発音が姓の上につく第一次日本列島へ漂着してきて移住の西南よりの、
もっとも日本列島では縄文時代からの古い民族をさしているのか知れない。いわゆる雑戸とか雑色とよばれる、反体制の頑くなな人々である。
 

千々岩森生というテレビ朝日記者

 先般、朝日の首相同行記者の千々岩森生が、トランプ大統領にした、イラン攻撃を「なぜ同盟国に知らせなかったのか」という質問がネットで炎上している。
この男、官邸キャップの肩書で、偏向報道どっぷりの大越健介キャスターの「報道ステーション」によく出ている。
オールドメディアの、左翼思想の一人なのだろう。

先ず、 同盟国への事前説明は“原則”だが“義務ではない”という事も理解していなかったのか?
解っていて敢えて、こんな馬鹿な質問をして、日本国の国益を毀損する意図だったのか。

まず前提として、トランプ大統領が軍事行動や重要政策を行う際、
同盟国に事前に説明するのが「望ましい」しかし機密保持上の理由で事前共有しないことも普通にあるという現実がある。
「なぜ同盟国に事前に教えなかったのか?」これは単なる事実確認というより、
「同盟軽視ではないか?」「日本を含む同盟国をないがしろにしたのでは?」という批判や非難に近いニュアンスとして受け取られかねない表現である。

特にトランプ氏は記者との対立姿勢が強く、批判的質問に敏感だという特徴があり、場の空気がピリつきやすい状況だった。
まあ、質問の前にトランプ氏は「あの記者は優秀なのか」と聞いた際、さすがは茂木外相である。「ソウソウ(まあまあ)」だ、と云って場を和ませた。
こうした内容は本来、水面下の外交ルートや、非公開のブリーフィングで確認されることが多い話である。
それを、日本の随行記者が、会見という公開の場で聞くと、アメリカに対する圧力になり、日本政府の不満を代弁しているように誤解されてしまう可能性がある。だから、トランプ氏は「こ奴、馬鹿な質問をしやがって」と、問題になっている真珠湾攻撃発言で、強烈にしっぺ返しをしたのである。

この男は、国民の疑問を代弁しているかの如く、意気揚々と晴れ舞台で、同盟の透明性を問う重要な質問と位置付けたのかも知れぬが外交配慮に欠けるのは勿論、たかが記者ごときが、政府の立場を越えている質問で、全世界に恥を晒した。
千々岩は、帰国後テレビ番組で、しきりに自己肯定的な弁解をしていたが、朝日の記者たるやこの程度なのである。
故、石原慎太郎氏は、日本を貶める新聞の親玉である朝日新聞を称して「朝日は飲むもので、読むものじゃない」と、強烈な皮肉で喝破したが、中国べったり、(媚中、親中)の新聞、テレビは早晩その役目を終え消え去る運命だろう。
ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中ホットドッグ真ん中

以下は余談になるが、この千々岩という姓は、非常に珍しく、日本中におそらく千数百人位だろう。
私の身近でも、左官屋の千葉さんと、近所に事務所を構える山口組傘下のやくざ「茶屋政一家」ぐらいしか居ない。
「ち」で始まる姓では「千葉」が一番多いが、戦国時代に、この「千々岩」という姓は「日本西教史」「切支基督実記」に、ただ一つしか出てこな、非常にい珍しい姓である。
九州に多い姓だが、千々岩森生は東京生まれだというが、先祖は同族だったかもしれぬ。
その他有名な四国の大名では「長宗我部盛親」が居る。
さらに、下総佐倉城主「千葉邦胤」。徳川家康の臣で、関ケ原で西軍と戦って、美濃久々利邑主、可児、土岐、恵那三郡の中から四千四百石を与えられた「千村良重」。

始め家康の臣で、後秀吉に仕えた京都の商人「茶屋四郎次郎」。
七尾城主だった「長重連」。
近江観音寺藘浦の住職で、豊臣家から寺領四百二十石を安堵され、「毛利家文書」では関ケ原の役に参加したという「朝賢」。と七名だけである。
 また、歴史上最も有名な「千々岩ミゲル」、本名は「千々岩清左衛門」という。
九州大名有馬晴信の甥だという。キリスト教の信奉者で、受洗名は前述した「ミゲル」といい、天正遣欧少年使節の一人である。
大村、有馬両家の代表としてとして参加している。