『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。














学校では教えてくれない、日本史の真実に迫ってみました。従って このブログの全ての記事は、俗説、通説とは大きく違う。だからこれを「信じられぬ歴史」とし、俗説、通説を天壌無窮のものとするのは自由である。
しかし、調べられる限りの史料、資料を読み解き、出典文献、確定史料は全てあげているばかりでなく、原文その儘を誤解のないよう引用している箇所もある。

だから、もし意外性に驚かれても、疑問をもたれる向きは、どれでも抜き取りで参考資料とつき合わせて確かめて頂きたい。
つまり、これは本当は意外史でも何でもなく、此方のほうこそ正しい真実を徹底的に調べ上げているのである。どうか安心して読んで頂きい。




武家法度改定と春日局
千代田城『刃傷譚』


 千代田城の刃傷で一番有名なのは、元禄十四年の松の廊下の浅野内匠頭だが、これに関して俗書は三百の余もでている。
しかし、戦前は、内務省警保局の融和事業会の指示で真相は許されなかったと、故菊池山哉も「多摩史談」ではのべている。
が、戦後八十年たっても、まだ誰も本当のことは判っていないのか書いていない。

 その次に有名な千代田城の刃傷は、大老堀田正俊へ、若年寄の稲葉正休が斬りつけた貞享元年八月二十八日の事件である。が、これまた、いまの首相にあたる大老を大臣次官が斬殺し、自分も殺された事件なのに、原因は何故か、ぼやかされてしまって、(稲葉正休の系図を堀田正俊が借りっ放しで返さぬのを憤ったため)といったような話にされてしまっている。が、もっともらしい説には、(その前年の摂津、河内の治水工事にあたった正休に対し、河村瑞軒がその見込違いをなじったので、正盛に告げ口されてはと案じて剌殺したのだ)というのもあるが、それならば河村瑞軒を殺すべきなのに可笑しいが、それが富山書房の国史辞典にも堂々とでている。         

刃傷の真相

では真相は何かといえば、二人は従兄弟どうしであって、春日局の遺産争いなのである。
貞享元年(1684)八月二十八日。
 春日局第四子正則の子の、若年寄稲葉正休が、ときの大老堀田正俊を刺殺した。
 稲葉はその前日、
 「五代将軍様に春日局のおん血をひく綱吉様を将軍に迎えた功によって、我らは幕閣を左右できる身分になったが、自分はれっきとした直孫なのに、堀田は外孫を妻に迎えた血脈の者。
にも拘わらず堀田が春日局さまの遺産を独り占めとは怪しから ん。ゆえにわしは成敗してくれる」と、父正則の代からの家老どもを呼んで、頭を下げて言って聞かせ、父正則が小田原十万石時代に溜め込んだ金銀を、
 「不公平のないように家中一同に配分し、みなが路頭に迷わぬよう致してやれ」と、
 
家臣団が動揺せぬようにと手配し、こうして後顧の憂いを無くして登城し、遺産を横領された仇討ちに堀田正俊の胸を一突きにして仕止め、自分も寄ってたかって斬り殺されている。
つまり殿様が危ない時には、家来は身命を賭しても守るが、その代わり殿も、「家来が困らぬように責任を持つこと」といったのが、誠の武士道精神であった。

 春日局といってもこれは官名で、征夷大将軍の側近の女性で、将軍家に代って小御所へ出入りをなし緋の袴を許される女人の頂く、従三位の上の格式のものである。
よって足利時代は十五代あったから、十五人の春日局がいた。が、徳川になってからは、家康が征夷大将軍を拝命した慶長八年二月に、介添えとして共に参内した春日局が、ただの一人で後はいない。
だから今では個人名のごとくに誤られているようである。

 さて、この女性は信長殺しの謀叛髄一、つまり筆頭人なりと当時の山科言経卿の日記にもでている丹波亀山城軍監であった斎藤内蔵介の娘の於福なのである。
注・軍監というのは、秀吉の毛利攻めの応援部隊として、明智光秀に信長がつけた監督のような役目。
が彼女は徳川家に召される前、稲葉美濃守との間にすでに四人の男子がいた。そして春日局が大奥だけでなく政治にも介入しだすと、長男正勝の子の正則を実収がよい小田原十万石の大久保家を追い出し、その跡釜にすえたりした。
 稲葉正休もやはり春日局の次男内記正利の子にあたる。幼名を権助といったが、美濃青野五千石稲葉伊勢守正吉の許へ入り、明暦二年に家督をついだが、春日局の孫が旗本で出世止りということはない。
やがて一万二千石の大名になり、若年寄にまで立身した。
 さて堀田正俊はといえば、これは春日局の三男七之丞正定の娘が、下総古河堀田正盛の許へこし入れして、その間にできた子ゆえ、正休とは従兄弟にあたるが、
 「春日局さま御跡目」をついだので大老にもなれた。ゆえに正俊に比べて、正休が面白かろう筈はない。

大金持ちの春日局

 なにしろ表向きの春日局の扶持は年三千石に白銀百貫匁というが、すべて官費の彼女ゆえ、米で百万円、銀で年に五千万円の俸給はまる残りになる。
これに「どうぞ、よろしく」と銀座、金座からでる上納金をそれに加えると現今の二百億ぐらいの資産があったらしく、1950年から28年も京都府知事だった蜷川虎三氏の御先柤蜷川喜左衛門道春が、その財産監理をして金融にまわしていたくらいゆえ、当時としては膨大なものだったらしい。
  となると同じ孫でも、ある者は大名になり、小田原城主となって箱根の金銀改めて派手に儲けているのも居るから、一番の貧乏くじは一万二千石に若年寄の役扶持八千石きりの正休で、
 「正俊どのは古河十三万石の他に大老手当が二万石も切米(全部実収)でとっておられる」と、春日局の遺産の分け前を要求し、断られたので、おのれっとやってしまったのである。
 真相は「金の恨み」なのだが、何故に、刃傷したのか理由が匿されていたかといえば、徳川家が亙解して、紅葉山文庫に秘密文書として蔵いこまれていたものが、明治になって流出し人目にふれる迄は、
すべて秘密だったからのせにいではなかろうか。
 つまり千代田城の紅葉山文庫には、柿渋塗りの三重書櫃があって、その中に、「春日局は、伏見城にいた家康に召されて、そのお種を頂き、二代将軍秀忠はやむなくその竹千代が二十歳になると、自分はまだ元気盛りであったが、
家康の遺命ゆえと三代将軍の位を家光へ譲った」とする事実の記述や、春日局がお腹さまとして実権を握るや、秀忠の死をまって、その唯一の血脈の忠長を殺してしまったこと……そして水戸光圀が、

 「いくら権現さまでも伏見城で春日局を召されたときは、おん齢六十二歳で、すでに二十人の余も子作りなされて、すでに子種は尽きていたと思われる……ならば誰の子か判らぬ家光やその子の家綱のあと、
また家綱の弟の綱吉など五代将軍に迎えるのは怪しがらぬ……ならば権現さま直系の孫の自分の方が、まだ血統は正しい」と騒ぎだしたことの記録もあったが、
 (すべて徳川家の御為であり、天下泰平を守る秘密である)と、ずっと門外不出で千代田城内に隠されていたゆえ、大老と若年寄の刃傷も、浅野内匠頭事件同様に有耶無耶にされ一般へは真相は知らせないようにしてきたのであろう。
 もちろん歴史学を教えている程の者なら、非売品とはいえ国書刊行会より明治になって活字本で五百部刊行されているゆえ、読んで知っているだろうと思う。しかし、
 「乳母であってもよく奉公すれば、陰徳あれば陽報ありて必らずや良い酬いがある。春日局が病気になったとき、家光公は三度、家綱公も二度もその屋敷を訪れ、京からは明正帝の勅使までが、御三家や老中と共に枕許につめきったぐらいゆえ、誰もみな勤めを大切にしてまじめに働かねばならない」とする世の良風美俗の勤労精神に害を与えてはと、わざとみな知らぬふりをしているらしい。

千代田城刃傷第一号・豊島刑部少輔明重

抜刀禁止令


 さて、千代田城刃傷の第一号は豊島明重である。
事件の経緯は多くの歴史書に書かれているが真相は隠されていて全く違う。
この項で真相は後述するが、刺殺されたのは遠江横須賀五万二千五百石、老中井上正就である。
この井上も秀忠の近習として、関ケ原合戦、大阪の陣に従軍している。両名とも戦国臭抜けぬ猛者たちである。
この時、秀忠は家光に六年前から将軍職を譲っていたが、まだまだ元気で、大相国としてその力は隠然たるものが在った。
だから老中も先代秀忠側と当代家光側に割れているが、井上は先代側の老中だった。

 先ず、豊島明重の家柄は、目付け役で武蔵久良富岡(現在横浜市金沢)千七百石旗本である。
この人の先祖は東京の今の豊島区一帯を領していたが、太田道灌に負けたのち、下総府川(現在茨城県利根町布川)に城を築いてたてこもった。しかし徳川家康が関東に入ってからはその幕下となり、秀忠、家光と三代の将軍に仕えている。
大阪の陣の時は「五」の旗を立てた使い番で、落城の時は猛火の中をくぐり抜け、豊臣秀頼の最后を見届けたという豪勇でもある。禄高は二千石足らずでも、かつては石神井や練馬に城を持ち、志村や滝野川にの飛鳥には砦を持っていた豪族の裔。
だからでもあろう豊島は、今は旗本千七百石だが、その格式とはとても思えぬような二町四方の屋敷を構え、別に芝田村町にも御用屋敷を賜っている。
さらに平安時代から武蔵権守として栄え治承四年の源家旗上げの節、豊島の祖清光は豊島城の精鋭を率いて戦い、頼朝をいたく喜ばせた。これは『吾妻鏡』に記載されているほどの武門の名家である。
寛永五年八月十日は、大相国(秀忠)五十歳の誕生祝いである。
 将軍家(三代家光)も西の丸へ祝賀をのべに渡る予定となったゆえ当日に限り西丸御番の者は非役の休みの者も、御祝言上に残らず登城することに、例年通り定められた。
この時を待って豊島明重は「おのれッ、武士の言葉に二言はないというぞッ、おのれッ、覚えてか」と、井上正就を一刀のもとに刺し殺した。そして豊島も警護の者達に滅多やたらと切り殺された。

八月十四日。
「柳営にて刃傷の罪軽からず」と豊島の家門断絶そして跡目豊島主膳正彰動はまだ十四歳だったがその日のあるのを予見していた母の手で元服を済ませていたことゆえ成人として扱われ、自裁を当日許され屠腹をした。
 「武士は名聞をこそ重んじ、多勢の耳目につく千代田城にての刃傷は、男子の本懐これにまさるものとて有りますまい」髪をおろした妻の妙女は夫と伜の遺骨をもって慶珊寺へ入った。
この寺には明重や継重の木像や供養塔も残り、今も、横浜市金沢区富岡町に現存している。
 
事件の端緒

 時は寛永五年八月。場所は上野寛永寺不忍池。何しろ暑い夏である。
老中井上正就は納涼の為舟遊びをしていた。同じく豊島明重も上野の山からの涼風を求めて棹役の家来を連れて小舟で漕ぎ出していた。同じ時間に幕府徒歩組
 豊島明重の刃傷事件はその点、民族問題でもなく遺産争いでもない。大坂合戦生き残りの、「武門の意地」という、まことに明解な理由による殺しである。誤解とか軽率というのは、無関係な他人の批判であり、当人にとっては、きわめて大真面目な抗議であったろう。
が、豊島明重の寛永五年八月十日の刃傷によって、翌六年九月六日には、元和元年の武家法度が厳しくなって改定せられるようになりついに、「抜刀処断」の令が一条くわわるようになったのである。つまり浪花節で、
 「鯉口三寸抜いたら御家は断絶、身は切腹」というのは、なにもそ代田城に限った話ではない。
 たとえ刀をおびていても主君の許しがなくては、絶対に鯉口をきってはならぬとするのが、豊島明重のおかげで翌年からは、〈武士道〉となったのである。もともと刀は、「公刀」とよばれ、殿さまの道具なのである。これは大道寺友山の、
 「武道初心集」にもでている通りに、戦に槍よりも刀を好んで持ってゆく者は、すぐ折れたり曲って使いものにならなくなるゆえ、必らず何本もの刀を馬の口取りや若党、家来共に重いゆえ一本ずつ予備に持たせて、腰に差させて伴うべしとあるが。
がこの状態は江戸期になっても同じことで、扶持を貰っている武士とは、殿さま用の生きた動く刀かけだったのであるといえよう。よく殿さまより名刀を授かったといった話もあるが、あれも家宝にして自分の屋敷へ持ち戻って藏っておけよというのではない。よく斬れるのを持たせるから、いつも側近に居れよと目をかけられたということである。
また小説やテレビで、「仇討赦免状」なるものがでてくる。これは故菊池寛の創作で、実際にはああしたものはないのが本当。
 愛知県中島郡の名刈本源寺に実物が一通保管されていたが、それには、「当家何某が、もし貴領において抜刀するも、これは主命によってで私に致すものではないことを証明、ここに一札くだんのごとし」と、それに家老か重役二名の連署加判がある。
 つまり仇討の許可ではなく、抜刀は罪になるが、主君の刀を主君の命令で抜くのゆえ、責任は当方でもつから、そちらではお咎めなきようという今でいえば連絡書なのである。
 
 天保の飢餓からは世の中が悪くなって、勝手に私刀を腰にぶちこんだ浮浪の群れが、何の制約もない身分の者だから、すぐ抜刀したり斬り合いをしだした。
 そこで、それまで御用提灯と六尺棒で取締っていたのが、物騒で怪我をするからと一斉に十手や朱鞘の公刀を返上してしまい、文久二年までには、各地の親方が、たかまち稼業の香具師に御用聞をやめてしまい一斉に転じてしまった。
 このため俄か浪士となった連中までが、治安体制がなくなったので、すぐ斬り合いを始めだしたのである。
 
また、それまで十手もちが、召し捕りの人件費捻出のため許されていた賭場の縄張りが、一斉に空巣になったので、それを力づくで奪い合う新興やくざの喧嘩でいりも各地で起きた。
 しかし豊島明重刃傷の翌寛永六年から、天保までの間は、チャンバラ好きには悪いが、「士道とは、勝手に刀を抜かぬことなり」と決まっていた。
赤穂の不破数右衛門のごとく、野犬に襲われ許可なく抜刀して失業したというのもすくなくなかったのが実態だった。

「抜刀」と「居合」の違い

 つまり治安維持が、短かい十手や六尺棒だけで完全に取締られ、「おかみの御威光」をしめしていた時代に、殿様よりの預かりの刀を抜いて、気ままに斬り合いするためのレッスンをさせる町道場などある訳はない。
 今日でいえば、鉄パイプのゲバルト訓練所みたいなものゆえそんな道場が許可される筈はないのは常識でも判ろう。
 存在していたのは奉行所代官所に属した捕方の訓練所で、棒術や捕物術を教えていた所だけで、わゆる町道場なるものは黒船騒ぎ以降の産物である。
それまで田舎廻りをして村の自衛団に野荒し妨ぎを教えていた剣術屋が都会へ進取してきて、もっともらしく宣伝したのである。
 「武士は刀をさしていてから江戸時代でも抜いて振り回した」というのは短絡志向の幻想でしかない。
 そしてそこでは、
 (うかつに召捕っても何も罪状がでてこず、起訴できなくては無駄骨になる。だから、まづ鯉口から刀身をぬかせるようにし、抜刀の動かぬ罪にしてしまえ)
 と教育をしていたから、清川八郎の召捕りの時でも、捕り方が二人さも酔ったふりをし近がづき、刀の柄に突き当った途端ひねって引っこぬきをした。
 すると、物蔭に隠れていた他の捕方が、「そら抜刀したぞ・・・・・・・召し捕れ」と、よってたかって折り重なって捕縛してしまった話が、「清川八郎先生伝記」にも詳しく出ているくらいである。
 豊島明重の子孫のひとが伝記をだしているが、この肝心な抜刀禁止令にふれていないので、つい長々と書きだしてしまったのである。

 時代物のテレビや映画では間違った解釈をしているが、「抜刀」と「居合」の違いは
抜刀は相手の刀を無理に抜くことでその事実をもって「抜刀禁止令」を適用し逮捕、断罪するのである。
居合は自分の刀を素早く抜いて相手に切りかかる行為で、公刀として殿様から預かっているものだから、殿の命令が無ければ抜けないことになっていた。
幕末、世上物騒になり、私刀を持っていたやくざたちが斬り合いの際、殺しの技術として流行したもので、武士は居合の稽古などしてはいなかったのが実態。

居合と抜刀の違いは拙のブログ以下を参照されたい。
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12666506760.html

驚愕のアメリカ軍事予算

  米国の2027年度国防予算が過去最高の約240兆円に達する方針が明らかになった。
前年比42%増という数字は、冷戦時代のレーガン政権の増加幅すら上回っている。
これにはトランプ政権のミサイル防衛システム「ゴールデン・ドーム」などの新規プログラムも含まれている。
これは日本の国家予算のまるまる2年分に相当し、日本の防衛予算が5兆円から10兆円へ、GDP比5%にしたとしても25兆円だから、少なくとも10倍の規模になる。
「世界最強」を何度も連呼しながら、他のあらゆる予算を削ってまで軍事費だけを積み上げている。まさに世界一の軍事大国である。その内訳を「国防総省経理局」のデーターから見てみよう。
この国防予算は主に国防総省の標準的な支出区分で配分されており、金額の大きい順に並べると、概ね次の通りである。



現在の米軍の重要なポイントとして、陸軍中心から 海空軍中心に完全に変容したという事実である。
それは、米国の第一の敵を中国と位置づけ、 太平洋海域での戦争を想定して、長距離ミサイル・宇宙戦、空母・潜水艦戦に注力しているのである。
アメリカの「戦争史」
「アメリカ独立戦争(1775年)」から現在のイラク戦争(2026年)」まで、アメリカが関与した主な戦争・大規模軍事衝突を年代順に整理すると次のようになる。
(注)小規模な作戦や一日規模の武力衝突まで入れると数百になるため、歴史的に重要な戦争・主要介入を中心に集約した。
以下の表は、アメリカが関与した主要戦争(年代順)である。

なお、アメリカは独立以来36以上の主要戦争・軍事衝突に関与しているが、
ただし、細かい介入(グレナダ侵攻、パナマ侵攻、レバノン派兵など)を含めると数十〜百以上の軍事介入になるためここでは省略した。アメリカの戦争頻度は、時代とともに劇的に増加している。建国初期のアメリカは、領土や貿易をめぐって時折戦争をしていた。現代のアメリカは、世界覇権をめぐって絶えず戦争を続けている。
そしてこの国は、1775年の独立以来、36回以上の主要な戦争や軍事紛争に関与してきた。建国から249年の歴史の中で、平和だったのはわずか22年間だけであり、つまりアメリカはその歴史の91%を戦争状態で過ごしてきたことになる。トランプ大統領が『戦争省』を復活させたのもうなずける。今回のベネズエラ侵攻や、イラン戦争も、歴代大統領が、やりたくてもできなかったことをトランプ大統領は一気呵成に実行した。これが侵略戦争国家アメリカの実態なのである。

アメリカ憲法は、宣戦布告の権限を議会のみに与えている。しかし、アメリカがこれまでに経験した36以上の戦争のうち、正式に宣戦布告されたのはわずか5つに過ぎない。
大統領は議会の承認、国連決議、そして「警察行動」といった手段を用いて、議会を迂回するケースが増えているのが現実なのである。だから大東亜戦争で、日本の真珠湾攻撃を「宣戦布告なしの騙し討ちだった」と糾弾する資格などまったくない。
アメリカの91%という戦時率は、近代史において前例のないものである。これほど継続的な軍事紛争を維持してきた主要国は他にない。この傾向は第二次世界大戦以降、さらに加速している。そして、
アメリカ人は、アメリカは攻撃された時だけ戦う平和な国だと信じていることが多い。しかし、データは異なる事実を示している。アメリカはほとんどの紛争を自ら開始し、第二次世界大戦以降、ほぼ絶え間なく戦争状態にある。建国249年の歴史の中で、完全な平和だったのはわずか22年間だけだ。

軍事費配分俵

今や大国のアメリカ、中国、ロシアが戦争を起こし、国連機能はマヒして、国際法は無視される現状を打破するにはどうすべきか?そして第三次世界大戦を防ぐ現実的シナリオはどんなものがあるのだろうかを考えてみよう。
先ず、核抑止による戦争回避があるだろう。何と言っても最大の抑止力は核兵器だからである。
冷戦期、アメリカ合衆国とソビエト連邦は激しく対立したが、直接戦争には至らなかった現実がある。
その背景には相互確証破壊という考えがあった。つまり核を使えば相手も核で反撃し、結果として双方が壊滅するという構造があるため、大国同士は最後の一線を越えにくかった。
従って、偶発的な戦争を防ぐため、危機管理の仕組みが必要になった。
その典型例がキューバ危機で、この危機のあと、米ソは首脳直通回線(ホットライン)を設置し現在も機能している。
このほか、軍事衝突回避協定も整備した。
さらに地域戦争に限定する代理戦争が多発した。それは大国が直接戦うと世界大戦になるからである。
そのため多くの場合、紛争は地域戦争に限定されます。
例として、朝鮮戦争、ベトナム戦争、ロシアのウクライナ侵攻などで大国は支援はしても、直接戦わないという形である。
こうして現状を分析すれば 新しい国際秩序を作ることが重要だという事は論を待たないだろう。
現在の国際制度の多くは第二次世界大戦後に作られたものである。その代表が国際連合である。
しかし現在は中国の台頭、ロシアの軍事行動と多極化により、秩序の再編が進んでいる。
そのため必要なのは多くの国際政治学者の見方では、今後の世界は
世界大戦は起きない、地域戦争は増える、新しい国際秩序が徐々に形成される、という形になる可能性が高いと言われている。
現在の世界は、核兵器の存在が世界大戦を防いでいるという側面があるのは皮肉なことである。

 


日本書紀・古事記の噓
日本文化の特殊性


----なぜ日本の文化が全然理解されていないかといえば、島国というのは、たとえば英国の場合でも、イングランドとスコットランドとアイルランドとは、みんな民族が違うわけです。例のスコットランドのジェームス一世が自分の母親のマリー・アントワネットがエリザベス一世に首を切られるのを見殺しにし、エリザベス一世の後を継ぎ、スコットランドとイングランドを合併した。しかし、人民はいまでもスコットランドは、ケルトというスカートをはき民族別を明らかに今もしている。アイルランドときたら二十世紀になっても独立運動をくり返し、ロンドンで爆弾を投げ英国と分離することを望んでいる。つまり英国が三つの民族の合併されたものならば、日本は九州、四国、北海道、本州と四つの島ゆえ、どうしても四種類以上の民族が複合されているのは、眼にみえた当然の常識ではなかろうか。


 判りきった事ですが、学校歴史では西暦712年に古事記、八年後の720年に日本書紀ができ、さも印刷されたかゼロックスでコピーでもとられ、そっくりその侭が現在の活字本になって伝わってきているものと思いこまされ、信じきっている人がすくなくないのが、まこと困った事というか、あまりにも悲しい国民性ではないでしょうか‥‥

『日本書紀』『古事記』ができた時期よりも、桓武天皇が焚書した時代の方が遥かに後なんです。ということは、『日本書紀』とか『古事記』という最初にあったものは、桓武天皇の時にすっかり焼かれてるわけです。
ですから、偽史というよりも後年の勧学院での創作史です。
それから学校の歴史では、源頼朝が文治革命を起こしたことになってますけれども、これはあくまでも北条政子のロボットです。
要するに、戦争をする時には、馬をもつ蘇民系の源氏が有利で便利だからと利用するため政略結婚を北条政子がやったのです。

だから平定すると無用になった源頼朝が馬から落ちて頭を打って即死ということになってます。北条政子に言わせると、梶原源太が殺したんだということにして、まず反北条平氏派の旗頭ですから梶原一族を皮切りに下手人として殺し、次々と源氏系を、和田とか三浦とか順々に滅ぼしてしまって、ゲットーへ収容。つまり平氏は北条の名でまた天下をとったのに源氏は使い棄てゆえ「いつかは復仇せん」と初春狂言にと「誉曾蛾仇討」を各地で彼らは上演。北条政子は古い平氏。
なにしろ伊豆の伊東と今はいいますが、昔の古いものをあそこの現地で調べますと、伊はエビスの夷です。豆は津です。
伊東は夷頭です。だから本当は夷津の夷頭で特殊部落です。また桓武天皇の書き直された『日本書紀』は百済史の焼き直しだというようなことがいわれるのは、これは桓武さまが百済系だからです。
現代に尾を引く部落問題も、大陸勢力や前体制に抵抗した日本原住民を捕らえて強制隔離したのが始まりです。

ですから、部落民は外国人でも、特殊な人種でもなく「純粋日本人」なのです。

厄介なことに、この部落は京都周辺だけでなく、九州から東北と日本全国に散在しており、

部落解放を叫ぶ人たちも、一般市民も訳が分からす「先祖が差別されたのは可哀そうだ」と、

政府も自治体も「触らぬ神に祟りなしと」膨大な補助金を出しており、いまや一大圧力団体になっている。

しかし、こうした難問も、正しい史観によって解決することが出来るのです。
原住民大同団結決起の際、例の大宝律令で弁髪は貴種の良である。それ以外は賎の民であるとしましたけれども、進駐してきた中国人の藤原氏が百済系まで敵に回してはしょうがないからと、桓武天皇をたて、楯にしたわけで、百済系を、お前たちは今度から良の民にしてやるから大いに奮励努力せよといって、それで今度も中国から、まだ日本原住民史の方は石の斧だとか貝殻をこすった貝の刃刀だとか、せいぜい弓矢なのを、徹底的に鉄武器で制圧したのです。けれども困ったことは、この原住民というのは女上位なんです。

いまでも花柳会へ行くと、女将と書いて、オカミと呼びます。男のことは全部男衆というのです。男は結局、女にとっては全部、単なるセックスの対象にしか過ぎないわけなんです。
 さて、この時点において、百済系が良にされ藤原氏が唐で弁髪系ゆえ真似て髪を伸ばし隠しこむ冠制もできたのです。それ以外の新羅とか高麗は蛮族です。ゆえ蛮族追放といって討伐されました。『古松軒日記』というものが残っています。その中に、『人馬市』というのがあるのです。泣き叫ぶ子どもまでセリにかけられている奴隷市場として、人間と馬を一緒に売っていると書いています。人馬とは「四つ」のことである。征圧された騎馬民族です。つまり日本海を渡って‥‥江上説では体制べったりの説になっていて、鴨緑江を渡って九州から入ってきたことになってるけども、実際は沿海州から入ってきた種族。

昭和の時代、ソ連のバイカル号はかつて横浜から出たんだけれども、後には不便がられても裏日本新潟からです。片道燃料が助かるからです。かってウラジオストックの布設水雷がどんどん六時間で流れてきたことがあった。佐渡から能登半島に流れてくるわけです。新潟のことを幕末までは白山島といっています。ここへぶつかったものが、ベーリング海流ですから、右へと流れて青森方向へいってしまうわけなんです。

 また反対の方へ流れてきますと、若狭から出雲にいっちゃうわけです。だから、『東日流外三郡誌』などという本を読むと、青森県人と新潟県人は同種同系であるとされ、新潟があぶなくなると、青森が助けにくる。青森があぶない時には、新潟が助けにくる。白人のユダが有色人種のイエス様を裏切ったにしても、二千年もたってしまえば時効。それでもなおかつ、ユダヤに対しては、ナチスは、片っ端から捕らえてアウシュビッツで始末した。つまり民族の血というものは何千年たっても憎しみ合いが残り、人類みな兄弟などと簡単でお花畑のようなものじゃない。

さて、北条時代というのは北条政子の系統だが、源氏をみんなブッ殺したり、ゲットーへ入れてのけて、北条氏だけの天下をたてた反藤原勢力です。つまり、南北の六波羅探題というのは、これは御所のお目付で監視所。御所が謀反を企てぬ為の見張りです。あの頃は、これは学校の歴史にも出てるけれども、恐れ多くも尊い方を隠岐島や土佐や佐渡へ全部配流にし、本当の世直しをしてるんです。
 
さて、この北条時宗の時に元寇があった。なぜに執拗に元寇なるものが、あんなにまで何度も日本へ攻めてきたのかと考えてみるべきです。‥‥元寇が結局は正式に攻めてきたのは二回でしたが、向こうで準備はしても此方へ来なかったのを入れると計四回もあるわけです。何の目的だったのかというと、単なる進攻ではなかったのです。今もハバロフスクへいくと、中央通りに民族館があります。ちょうど階段をあがって、左側が勝利のウインド。例の日露戦争の二百三高地の時に使った青銅製の古い機関銃が置いてあるケースで、日本兵がみんな山になって死んでる。

「彼らは我々の目標になるようにわざと白い布で胸を×印に飾って、進み重なって死んでいった」という説明がついてるとこですけれども、さてです。この建物の正面口にドカッと直径1メートルの大きさであるのが、笹竜胆のマークです。それからハバロフスクから約5キロぐらい行って、今は軍事基地で全然入れませんが以前はチャリボと言った町がありますけども、ここは面白いことに、笹竜胆のマークの横のところにパンダが笹を咥えて右端に出てくるんです。要するにトーテムポールといいますか、それと似通ったもので、これから始まりまして、いわゆるジンギス汗源義経説なんていうのは言語風俗が同じですから、それで出てくるわけです。
 さて、なぜそんなにまでしつこく日本に元寇などというのがきたのかといえば、要するに北条氏が源氏を全部滅ぼしたりゲットーに入れてるので、元本国にしてみれば、同じ民族ですから、これをもう一回、本当の源氏の世の中にしたいため、起死回生というか、失地回復のために、損得ぬきで攻めてきた戦争じゃないでしょうか。

 

ですから、北条時宗がそれまで北条政子の時から約八十年ぐらいたちますけれど、清盛からのあらゆる歴史書と、それから鎌倉の問注文書をはじめ、日本書紀の第五次改訂版までの歴史書をここでもう一回一綴も残さず集め焼いているんです。ですから桓武天皇が百済文字で書いたものも、みなこの時、全部焼かれてるわけです。もちろん次の清盛や北条氏の都合のいい歴史にできたものもみな全部焚書。何か偽史というと正史があって、偽史があるみたいだけれども、もともとはじめから正史などありはしない。

 それから次は、足利時代になりますが、例の足利氏というのは中国に対して「臣源道義」などと自著し臣従してますから、学校歴史では文字通り源氏だと思って、教室での歴史は教えています。だがあれは源氏ではありません。祖先の足利持氏は源氏というよりも明白に平家民族なんです。ところが、源という字を付けないと、また元寇みたいに失地回復に攻めてこられては困るから、外交的駆け引きとしたのです。だから国内向きには、全然、源の何などとは足利氏は使ってないのです。ただ対中国に対してだけ、臣源道義などと言ってたわけです。

ですから日本書紀をはじめ歴史まがいは完全に焼かれています。いまと違ってゼロックスもなければ印刷屋もない時代で筆写で書
かれただけのものですから、武力権力で集める気になれば簡単ですから、武者所を使って集めた一切のものは問注所の文書と一緒に、もし元軍が日本に‥‥神風が吹くなんてことはその時はまだわかってなかったから、日本へ入ってきた場合にやばいからと、それまでの歴史書と共に源氏をゲットーへ入れた武者所文書も全部焼いてしまっているんです。だから、今の残ってますものは、その後の足利時代の創作。従って正史でもなんでもなく、頭をしぼって作った格好づけの創作史にすぎません。