信長「いざ!桶狭間へ」
今川義元と対面





「おりゃあ、この児のために、死んでこまそ」と、善照寺砦まで馬の前鞍にのせて抱えてきた奇妙丸は、まだ疲れてぐったり瞑ったままだった。
その幼な児の寝顔を覗きこみながら、若い父親のおれは、死を決意していた。
今回の事の起こりというのは、遠州引間城主飯尾豊前守連竜が、駿府の使いとして来た時から始まった。
「駿河御所今川義元さまの、此のたびの御上洛の決意は、ひとえに下万民の平穏、天下の泰平を願う御気持からで、決して他領を侵すような考えは露ほども毛頭ありませぬ。
織田領を難なく通過させて頂ければ、唯それだけで、有難い仕合せと、このようなお言葉です」
駿河御所義元は足利将軍の一門で、昔から天下の副将軍と謳われた家柄である。だから上洛すれば、諸国平定も眼にみえて居るから、おれは口上はそのまま受けたが、
さてこうなると厄介なのは、対面の儀式である。
相手は駿河遠江三河と三力国の大守。こちらは、那古屋、古渡の城も危うくなって、上本家織田大和守彦五郎の清洲城を、伯父孫三郎の手で乗っとらせ、
それを横取りして疎開してきて居る身分である。
大殿の信秀の在世中に比べれば、兵力も半分しかない。領地も半分以下に落ちて居る。
とても互角で、ご対面の儀など叶わない。今までは、曲がりなりにも、大殿の御遺徳で、何処にも頭を下げずに済んだが、もう今度は、その手はきかないのである。
平身低頭させられるだろうと考えると厭になった。
(尾張領の安堵状を出す代わり、駿河御所が通行する保証として、往復の間だけ、長子奇妙丸を駿河へ送るように)と次いで云って来た。
六歳の頑是ない幼児を、どうしても人質になど出したくなかった。だから、(それならば、鳴海、中村の二城を、この際、ご返却願いたい)と申出てみた。
おれにしてみれば、人質を思い止まらせるために、無理を云ったのである。
なにしろ両方の城番山口左馬助父子が大殿の死後、預かりの城ごと駿河へ寝返りうって十一年になる。
今頃になって云うのもおかしいが、中村の城などは、那古屋城の眼の前で、此方としては安閑として居られず、それゆえ草深い清洲の田圃の中へ逃げこんで居る始末なのだ。
ところがである。まさかと思っていたのに、折返し向こうから、「先代信秀の頃は、西に東に干戈やむ時なく、鉾楯の間柄であったが、当代信長は、まことに人柄温和にして、
相続以来、領外に一兵一矢も放つ事なきは殊勝の到り故考えよう……と仰せられた」といってきた。
そし飯肥豊前守の言い伝え通り、問もなく山口父子は駿府へ呼び出され、十数年の奉公むなしく、気易う二人共、即日何にやら罪を背負わされて、腹を割らされたと伝わってきた。
そこまで相手方にされてしまっては、もはやおれものっぴきならず、一切を駿河よりの申出通りお請けということにしたのだが、
「ご対面では、どうせ平伏して赤っ恥をかく。そんなら駿河御所さまにも、いっそ付合って恥をかいて貰う思案は、なんぞないものか」
武門の意地というか、業っ腹で、毎日そんな事ばかり考え暮らしている裡に、約束の四月は、さっさっさと過ぎて行ってしまった。五月の一日と思うが、毎月の恒例で、奥殿で女子供と会食した。その時、奇妙丸が総領らしく、折目正しい挨拶をしてから、
「御座興、つかまつりまする。毬(まり)つき唄」と、ことわりを云ってから、すこし照れて、
「すっす、するがのおごしょの、
おいといは、おきらいは、
おんまに、まりに、
あめ、うるし……」
微笑んで聴いていたが、おれはその途端はじかれたようにはっとした。
そこで早速、表書院へ急ぎ足で戻ると、夜中ではあるが駿河に詳しい者達を呼び集めた。
そして、それらの者共に、よく確かめてみると駿河御所今川義元は、近頃すっかり下腹が出て来て、脚が短くなったように動かない。
だから乗馬と蹴毬は、ぜんぜんやられない。
また、かぶれ性なので、身の廻り一式は漆(うるし)を遠ざけて白木の儘だそうな。
清洲の城内の奥深くまで流行ってくるだけの事はあって、童唄にしては文句は正銘間違いないらしかった。
だが判らないのは、最後の雨だけである。蛙みたいに雨を喜ぶ人間は居ない筈ゆえ、特に、嫌われる理由はなんだろう。
勘考のあげく、これは義元の化粧が原因ではないかと、おおよその見当をつけた。
なんでも京のお公卿風に、お歯黒で歯を染め置き眉かいて、厚く白粉を付けて居られるそうだが、誤って雨滴でも顔へとばしたら、誰であっても容赦なさらぬそうである。
きっと化粧崩れを厭われる所為だと思うが、(何故、それ程、白壁のような化粧を大切になされるか……此処に何か仔細がある)と、ようやく気がついた。
「これさえ、あばけば、相手にも赤っ恥を掻かせられる」と、ようやく目途がついた。だが、まさか対面の時に、顔へ水も掛けられないから、
(俄か雨でもざあっと来て、厚化粧に孔があくようなうまい手立てはないか)と想い、それは野立の陣に限ると、おれもそこまでは考えた。
さて、五月一日までとの約定も伸びたので、一日延ばしに駿府では九日まで待った。だが、
「三万に近い軍勢では、そうは待てぬ」と、十日に出陣してきた。
そこでおれが義元への、ご対面を願うのは、三州岡崎城で五月十五日の巳の上刻ときまった。
だが当日になると、おれは病気だと云って、「もう一日だけ、ご猶予を」と老臣林佐渡守を岡崎へ使いさせた。
それでニ日程延期して待ったものの、耐りかねててか駿河勢は十八日、とうとう尾張の阿野から杳掛へ本陣をしいてきた。
「本日のみ御待ち申し候。約定を守らせ給え」 厳しい通達がきた。そして子の刻(午後十二時)をもって、駿河勢は陣払い。
用心に大高城へ兵糧弾薬を積みこませ、おれが砦の丸根と鷲津へ、取り掛かって来たのである。
その早打ちを夜中に聞いて、流石におれも、しまったと舌うちした。相手は、とうとう痺を切らして本当に憤ったようである。
早く詫びに行って、駿河勢の囲みを、おれの砦から引かそうと、仕度もそこそこに寝ていた奇妙丸を横抱えに、近習四騎だけで清洲を飛び出してきたのである。
だが月も星も出てない晩で、あたり一面しんの闇、まったくの暗闇であった。
そこで駒がつまずいて藁ぐつ裂いて蹄でも割ったら、(子供連れゆえ難儀をする)空か白むまで何処かで、すこし休んでゆこうとおれは思った。
「さて、いずれで一服するか」近習の炬火の明りに赤く照らし出されながら、おれは考えこんでしまった。
かねて他領へ出る時は、熱田の宮へ詣るのが、織田の家風ときかされていたが、なにしろ跡目をついで十年になるが、おれは那古屋城にいた頃には詣ったが、
その後はとんと無沙汰をしきっている。なにしろおれは駿河御所に賞められたように、侵されても戦をしない和平温厚ぶりと噂されるだけあって、いまだ一度も領外で戰っだ事はないのである。
皆殺しの鷲津、丸根砦
「敵が押し寄せても、こんこん馬」といわれる位だから、出陣のお詣りなどした事もない。そこで、この際、せめて一度ぐらいは、お詣りして置くのも悪くなかろうと、
熱田の宮へ、そこから廻ることにした。しかしである。おれとて、そうした噂に云い分がないわけでもない。 ’
大殿は生前、休みなしに合戦をしておられたのに、跡目のおれが、まるっきり闘志がないから、みんな呆れ返って、
「うつけの殿」とか、「おおたわけ殿」と呼んで居るのだが、おれにしてみれば、(うっかり出陣したは、帰って来たら、異母兄弟や一族の家人が裏切って城を乗っ取り、
戻っても入れぬでは困るから、それで領外へなど出られっこないわけがあるのだった)
さて宮へつくと、まっ暗やみの神前で周章る宮司もおかしかったが、ついて来んでも好いのに狼狽して後追いかけてきた家の子郎党共も、紙燭の光に照らされると、
眼やにを付け生欠伸をかみしめ散々な有様だった。おれも社前の御洗水で顔を濡らし、眠気ざましに、むずかる奇妙丸をあやしつつ、退屈しのぎに、
「こそこれ、皆の者。この兜の内側に、勝軍地蔵さまの護符がある。おれの縁起がどれほど加護されとるか、見せてとらそうか」 厳かに云うと、周りの者がしいんとした。こうなると止めにしてしまうわけにもゆかず、おれは草薙の宝剣、日本武尊、両祭神をまつる左右の拝殿に交互に一礼してから、
「御加護、照覧」と、銭一掴みをぽんと放り投げて見せた。
そして宮司に紙燭で照らしださせると、一枚残らず、銭は表をむいていた。それを眺めた近習や家の子郎党共らは、みな唖然として声も立てられない有様になった。
「奇瑞(きずい)にござります。この銭はぜひ宝物に納めたく、何卒、当神宮へご寄進願わしゅう」と宮司が拾い集めだしたから、おれは周章て、横から取り上げた。
せっかく砥石で薄く研ぎ上げ、裏を貼り合わせ、両面とも表にした種銭だったからである。
これはその昔、平手の家にいた頃、これで投銭の勝負をしては、喰物を他の童から捲き上げていた稼ぎの種である。滅多に寄進など出来るものではないのである。
やがてすこし空か白みかけたので、熱田の宮を出て内田橋から観音岬へ駒を進めた.
源兵衛浜から天白川を越えて、振返ると三、四百ほど家人達もついて来た。
そこで、ひとまず善照寺の砦へ向かった。到着すると案の定、遠物見させてあって、その報告が聞けた。
「駿河の本陣は、沓掛から夜のうちに中島に移り、大高城の仕度をまって、目下移動中」だということだった。
それを説明させて居ると、「織田玄蕃の手の者で山田伝八という者が、清洲までは歩けぬから、この砦へ逃げこんで来た」と注進があった。引見してみると、矢傷もひどく、乱髪の顔は泥を塗ったように血が干からびていた。
「昨夜半、なんの前ぶれもなく、突然押しかけし駿河勢、理不尽にも、われらの砦の鵞津を遮二無に放火して力攻め。談合の暇も与えず、みな殺しされましたでござります」といった。
押寄せて囲まれたとは聞いたが、落とされた、と云う知らせを受けたのは、今が初めてである。
だからおれは泡をくってその山田なる者へ、「丸根の、佐久間大学の方はどうした」ときいてみたところ、
「もう、すっかり焼け落ちていました。残兵が一人も来ぬのは、あちらの砦も鏖殺(みなごろし)と心得ます」と、それに答えた。
こんな莫迦げた話があるものかと、おれは想ったのである。僅か三・四百しか立て籠っていない小砦を、三万に近い大軍が夜討ちするのも奇怪だが、みな殺しとは、当代その例をきかない話である。
どこでも、談合してそれで話かつかず、戦になっても、守将さえ首をだせば、それであとは解き放しするものである。
おれとしては、(こちらの砦を囲んだのは、待ち惓んでの催促)のためと思って急いで奇妙丸を人質にと連れて来たのだが、
「みな殺し」とすごい話を聞けば、これではさすがに迷ってしまう。
(うっかり連れて行けば、父子諸共、首はねられる)と生唾をごくんとのんだ。いっそ、この儘、清洲へ引揚げようかとも、とまどってしまった。
だが、この儘、逃げ戻れば、清洲は城ごと、鷲津、丸根の二の舞にされるは眼にみえていた。
「この善照寺砦へ、奇妙丸を寝かしつけた儘、残してゆこう。おれ一人が赴いて、腹かき割って、御所義元の慈悲を請おう。それしか、今となっては、取るべき途もなかろう」
と稚い六歳の吾児の寝顔を眺めながら、おれはじっと考えた。
素直におれが、自分から命を差出せば、怒って居る義元も、まさか、この児までは殺すまい。助けてくわるだろう、と考えたのである。
(おれが幼い頃のように、ひもじさに投銭細工にして、他所の童の粟もちなど、奇妙丸には狙わせまい。乞食のごとく他家のくりやへ潜りこませて、食物ほしさの唄など歌わせまい)と想い、
「風邪などひかぬよう、冬には、せめて、袖のある布子を、この児には着させてほしいもの……」と、おれは口中で呟いた。
なにしろ、おれが幼い頃のみじめさは、どんな事があっても、この児に繰返させたくはなかったからである。
この児の年頃に、おれは母御前の仕合わせを願って、毒だと教わった木の実を喰べに裏山へはい登った。奇妙丸にも、それくらいの性根はある筈ゆえ、成人したら、
おれが何故いま一人で死にに行ったか、よく納得もできよう、とおれはしみじみ想った。
だから覚悟がつくと、鎧の内懐から、体熱で温かくなった守り持仏を取り出した。
昨年ひそかに上洛した時に、愛宕山へ詣って頂いてきた勝軍地蔵の尊像である。
(起こさぬよう……)おれは手加減してその持仏を、そっと側へ形見に置いたものの、せめてひと眼でよいから、この児の笑顔が見たかった。
また声もききたかった。おれにも、こんな未練心があると想うと、それを振切って死にに行くのが、なにか悲壮で素晴らしい張合いさえ感じて、つい不覚だったが泪まで溢れ出てしまった。
しかしはっとして周章て拭った。家人どもには見せられぬし、また見られとうもなかったからである。
そこで思い直し、きっとして、青すじがぴくぴく皓い額に波うってる吾が児を起こすまいと、跫音しのぼせて板戸をあけ、そっと外へ出るなり後を締めた。
大木戸をあけさせ、また外曲輪へ出ると、陣触れを出してないのに、思いもよらぬ人数がそこには集まっていた。
昨日まで和平気分でのんびりして居たのが、何故こんなに元気づいて集まってきたのかと調べさせると、
「熱田の宮に奇瑞が起きて、白鶴が天高く舞った」という。
それで、鶴舞した広場から旗台囗までに住む者らが得物を集めて参陣したのだそうである。
おおかた、おれの投げ銭の奇瑞が、その噂のもとだろうが、ひとの気も知らないで好い加減の話ではある。しかし集まった者を放っておくてもないから、
「集まった者の半分は、ここで奇妙丸を守れ。旗のぼり、その他賑わしい物は一切残してゆくのだ……よいか判るな」
砦に入りきらなくて、田圃に坐りこんでる者たちに告げた。そしておれは曳かれてきた駒に跨った。
二つ屋峠から木山の裾を廻って行くと、雲が浮き出した。青い幕をぴいんと張ったような蒼穹が崩れかけた。おれは雨になると視た。「急げ」駒に激しく鞭くれて、まっしぐらに駆り飛ばした。
柊林のつづく大浜街道を横切り、三つ屋峠の上から、羊歯しげる窪地へ、死を索(もと)めて、おれは転がる石みたいに駆け降りて行った。そして、
「この暑熱では、彼処だろう」と目星をつけた方角へ来てみると案の定、田楽しめじ茸で名高い田楽窪の、うっそうとした茂みの蔭に、駿河の本陣が置かれているらしかった。
雨なのではっきり聴こえてはこないが軍馬のいななきがした。近よると雨にうたれた木の茂みの隙間から、ぐっしょり濡れた旗もみえた。「間違いない……」おれはほっとして呟いた。
だが、黒雲を見つけて一目散に駆けつけたものの、雨の降り初めには間に合わなかった。
ご対面の最中に、ざあっと降り出してくれたら、化粧崩れの義元の素顔が見られたのに、今となっては、もはや手遅れで残念である。
と云って、冥途の土産は惜しくも逸したが、肝腎な、奇妙丸の命乞いは、おれが腹を切る仕事は、これは雨に関係なく、まだ残っていた。
「よしおれひとりで行ってくる。其方らは引きあげて、奇妙丸を守護してやれ」
途中で襲撃され、討たれてはと、用心に引き連れてきた者共だが、此処まで辿りつけば、どうせ、棄てにきた命ゆえ、一人で沢山である。
なまじ家人は居らぬ方がよいのだと、おれは見得っぱりだから命令した。ところが、
「お屋形。どうして此処まで来て、仇を討ちとられませぬ」と桃形(ももなり)冑の毛利新助が、裏白羊歯の茂みから、不審そうに、ずぶ濡れの顔をつきだしてきた。
桶狭間へ逆落とし
そう云われてみると僅か三千あまりの家中ゆえ、新助の弟も、他の者の身内も殆んど誰かが、襲われた二つの砦のどちらかで殺されて居る。
だから眼の色を変えているのは、見渡してみれば新助一人ではなかった。
それに今の今まで、考えもしていなかったが、その気になって見降ろすと、俄か雨で右往左往して居る義元の本陣は、多くて四、五千しかいない。
それも殆んど鉄砲足軽である。武者共は、手柄を競って先手に出ているらしく、本陣は鉄砲だけで、かためられて居る。
とはいうものの最前から圧倒されるようにその数量の多さには、おれは、たまげてしまっていた。見渡す限り雨の中でも、一人残らず担いで居るからである。
「駿河御所は日本一の鉄砲持ち」と謳われるだけあって、何百挺という数である。
だが、落着いて考えると、雨よけに火縄が防水用の革巾着入りでは、雨があがりかけたとは云えまだ引っ張り出して点火できるわけがない。
それに撃つのに火縄だけ使えるようになっても、肝心な火皿が乾かねば使い物にならぬ。となると今のところは、まだ鉄砲は、唯の棒切れにすぎないことになる。
それに、此方の足場は崖の上である。
ここから下の窪地へ逆落としをかければ、義経のひよどり越えではないが、勝算は充分ある。
だが、である。まさか戦をするとは思って来なかったから、後から追っかけてきた三十、四十代の家人はみな砦へ置いて来た。
従っているのは、人など殺したこともない、若者ばかりなので、これには弱ってしまった。
たとえ相手は足軽が多くても、倍から三倍は違う。突き合いでは敗ける。嫌やな予感がした。
「殺しあわずに勝つ途は、なんだろう」おれはすっかり考えこんでしまった。しかし、たった今の瞬間まで、
(おれ一人が死のう。死んでこまそ)と考えて馬をとばせてきたのだから、いくら頭をひねっても、とっさに智慧など浮かんでくるものではない。
迷った。あれこれ考えてすっかり混乱した。しかし大切な時である。
一丁程さがった樅の樹蔭に、組頭、番頭を呼び集めてみた。雨はようやくおさまっていた。
「鷲津や丸根の砦で、其方らの親兄弟を殺しだのは、うぬらも見てとったようにあの鉄砲じゃ。一人一挺は分捕って来い。
それが何よりの供養、つまり仇討じゃ。よって本日は、槍先の功名、首取りの手柄は一切無用とする」
おれは考えに考えたことを、まだ戦なれぬ若者や、野次馬のようにつき従ってきた者らにいってきかせた。すると一同の者は、
(こんこん馬のおれが、妙な布令を出す)と、変な顔をして聞いていたが、突き捲るよりは、ただ鉄砲を奪ってくるほうが、たやすく思えたのだろうか、
「かしこまって」と頭分の者達はそれぞれ引き下がっだ。
やがて駒は後ろへ下がって繋がれ、重い具足の者は脱いで身軽になった。仕度はととのった。
「それっ、稼げ」頃合みはからっておれが采配ふるうと、「よっしや」と若者共は、足場をさがして、一斉に、礫みたいにふっとんで行った。
おれも道具を背にくくりつけ、雨で、ずぶ濡れの岩角を、滑らぬよう駆け降りた。そして、「さあ、来い」とばかり十文字の鎌槍を振るって、片っ端から槍先にかけんとまっ先に突き崩しに取りかかった。
驚いたのは今川方の本陣である。雨のやむのを待って楯板を上にはった幔幕の中で縮まっていたところへ、
「わあッ」「うおッ」と、鬨の声をあげて頭上から飛び降りて行ったので右往左往に逃げ廻って、[卑怯者ッ]とか「おのれ裏切り者めが……」口々に喚きかえした。
三角陣笠に瓦札具足の装束揃えた鉄砲放ちの連中が、「ひい、ひい」まるで追い詰められた鼠みたいな喚声で逃げ惑う。
そんなのを追い掛けても詮ない話ゆえ、兜をかむった武者だけを狙って、おれは当たるを次々と、突き捲ってはね飛ばした。
すっかり晴れあかって、空が蒼味を取り戻した頃、勝敗は、もう瞭らかについてしまった。
毛利新助か自分の指をくわえこまれたままの今川義元の兜首をとってきた。
これにすっかり勢いをそがれた今川方は「ひえッ」とみな逃げ散っていった。「……勝ちました」
近習の佐脇藤八が、おいおい子供のように泣きじやくりだした。「うん」おれも感慨無量だった。
びしゃびしやの窪地だが仰向けにひっくり返りたい心地だった。
半里さきの桶狭間の丘が、もう草も乾いて居るというから、その南むきの傾斜へ移って勝鬨をあげた。
(死ぬ覚悟で行ったのに命拾いして、おまけに信ぜられぬくらいの大勝。どこかで話が喰い違っている。歯車の噛み合わせが狂ってる) おれは生まれつき、そんな運のよい方ではないから、きっと何時かは何かが起きる。虫の知らせみたいに、清州城へ戻った。
冤罪量産大国日本
日本人よ、人間の「良心」はどこへ行った


5月15日、政府は再審見直し法案を閣議決定し、国会に提出した。
そもそもこの法案は石破ポンコツ政権からの積み残しである。
再審開始決定に対する検察の不服申し立て(抗告)を「原則禁止」とする一方、例外的に抗告できる規定を設け、全面禁止は見送ってしまった。今国会での成立を目指すというが、反対野党もおり審議はン給するだろう。
再審関連の規定見直しは1948年の刑訴法制定後初めてとなる。
改正案は、検察が即時抗告できるとの規定を本則から削除かる一方で「十分な根拠がある場合」に限って抗告を認める例外規定を設けた。最高裁への特別抗告も同様に厳格化した。抗告後の審理期間を1年以内とする努力義務を付則に入れた。
さらに、当事者の請求を受け、裁判所が検察に証拠開示命令を出せるようにする。
開示証拠の目的外使用を禁止し、違反した場合に刑事罰を科す規定も設けた。
本格的な審理に入るか否かを迅速に選別する「スクリーニング規定」を導入し、形式面などに備がある請求を早期に棄却できる。改正法施行後5年ごとに内容を見直す規定も付則に明記した。
この制度見直しの議論は、死刑が確定した袴田巌さんが2024年に再審無罪となったのを機に本格化したものである。
これに対して法務省が当初示した抗告を容認する改正案に対し、3月下旬から始まった自民党の法案審査では「審理の長期化を招く」として抗告禁止を求める声が続出した。3回の修正を経て、本則で原則禁止とする案が14日、与党に了承された。
これが現在までのこの法案の流れである。

以下に鈴木貴子議員と鈴木宗男議員の発言を引用するが、彼女は誰もが知る鈴木宗男参議院議員のご息女である。宗男氏は国策捜査ともいえる「冤罪」で二年もの拘禁生活を送り、
貴子氏も検察には酷い仕打ちを受けたと告白している。
宗男氏は、袴田冤罪をめぐる検察の態度を、法務委員会で当時の鈴木馨祐法務大臣を執拗に厳しく追及したが、結局下っ端検事の謝罪で検事総長の謝罪は成されなかった。
そして「総長談話」を出したがその中身たるや謝罪どころか開き直りである。
こんな担当検事や検事総長を首にできない制度は弱すぎる。
全く日本の司法制度は先進国中最低である。何故なら警察は不当逮捕や、事件のでっち上げ、NHK党立花孝志氏の名誉棄損罪での神戸地裁の保釈申請却下など目に余る。
検察も、事件を作り上げ無辜の民を罪人に仕立て上げる。おまけに裁判判決にまで影響を行使する傲慢な組織である。最後に縋る裁判所ときては今や冤罪判決乱発の「自動逮捕状発券機」と堕している。
昔、「巨悪は眠らせない」と「迷」文句をはいた特捜検事が居たが検察こそが「巨悪」ではないか。
十人の真犯人を逃がすとも、一人の無辜を罰するなかれ。
疑わしきは被告人の利益には今や絵空事。裁判は有罪推定になっている。
検察は有罪律99.8%と勝ち誇るが、この中には検事が己の出世の為、無罪だと解っていながら犯人に仕立てあげられた人間が何人いたろうか。検察という組織は正義、道徳心の欠片(かけら)もない非人間的悪辣集団なのである。
さらに今の日本では、裁判官が市民より上の地位にいるわけではない。民主主義国家では、裁判官は主権者たる国民の税金で働く国家公務員の一人であり、事実を認定し、
それに法律を当てはめるというルーティンワークを国民になり代わってやっているにすぎない。
そこが理解できないとこの国はいつまでも「お上(かみ)主権」のままである。いっそAIに冤罪のプロンプトを学習させた「AI裁判官」制度の方が余程まともな裁判ができるだろう。
中国の故事に「良き人は兵にならず」「良き鉄は釘にならず」がある。
この意味は、中国漢民族の尊大さの最たるもので、人間の価値と役割を比喩した「優秀な人物は、使い捨てられるような末端の仕事や、権力者に都合よく使われるだけの存在(兵隊など)にはならない」という意味である。
だから日本でも、唐時代に進駐してきて藤原氏を名乗った連中は「公家」として君臨し、兵や、犯罪を取り締まる役、断罪する役を卑しい人間の仕事だとして、全て日本原住民に押し付けた。
織田信長も、上総の介を名乗る以前は、弾正を朝廷から押し付けられているほどである。
そして大名にも掃部の守(清掃人夫頭)、主善(配膳頭)などの役職名を与えている。
従って「良き日本人」は、警察官、検事、裁判官などの卑賎な職業に就いてはいけない。
以下は自民党広報部長鈴木貴子議員の発言を(ABEMA NEWS)からの引用である。
鈴木貴子議員は「鈴木馨祐(司法制度)調査会長からは『抗告の原則禁止については本則化を目指して私なりに最善の努力をしていく』というご発言があったところです。ですから今日何かが確定的に決まったというような段階ではなくて、まだもうひと押しまだここからという段階だと思っている」と説明。
そして「再審法でいう抗告というものは非常救済手続き(に対して)です。通常の上訴とは全く異なるものです。
ですからその点をもってして法務省検察側の『抗告の禁止によって法体系全体のバランスが崩れる』という指摘というものは私は理にかなっていない、合理性を欠くものだということを改めて指摘をさせていただいた」と述べた。
さらに「抗告ばかりが今話題になっていますが、証拠の開示。まず冤罪というものがあってはならないわけですね。冤罪が起こらなければ、この再審の手続きにも入らないわけですから、
そういう意味でも証拠の開示の担保、併せて開示先が今裁判所のみというような案が上がってきていますが、布川事件のときなども桜井さんご自身が出てきた証拠、自白テープと言われたものを聞いたときに『俺これ以上喋ってるぞ』と言って、それを聞いた弁護団が慌ててその自白テープを検証に回したら11ヶ所もの編集痕があったと。
つまり捜査当局によるまさに改ざんが行われていたということから、無罪を言い渡すべき明確で明白でかつ新規な証拠ということで再審無罪になったわけです。
そういう意味でもこの証拠の開示の充実、そしてまた開示先、請求人に対し、請求人がしっかりとこの証拠にアクセスできるという部分についても今日発言をさせていただきました」と証拠の開示についても修正を求めた。
また、「十分な理由がある場合はこの限り(抗告禁止)ではない」という例外規定については、「原則禁止というと聞こえはいいです。しかしながらその『十分な理由』というものを誰が判断をするのかという質問に対してその回答は『検察です』というのが答弁でした。つまり検察が自ら抗告を出す出さない、
そしてそれが十分に足る理由があるか否かというものを検察自身の裁量だという回答でしたので、それでは運用としてこれまでと何ら変わりがないのではないかと。客観的に本当に抗告というものを、
抗告権を発動することが本当に必要なのかっていうことも、より客観的に判断をするということ、本当に必要だということをしっかりとこの法文の中でも書き込む余地があるのではないのかということのやり取りがありました」と述べた。
令和7年5月27日 参議院法務委員会 鈴木宗男議員による質問

鈴木宗男君
そこで、私は、袴田事件に関心を持ってやってきました。ここにいる国会議員の中でも、袴田さんを救済する超党派の議員連盟立ち上げたのは私であります。初めは余り乗ってこなかったです。名前出して申し訳ないけれども、塩谷立さんという人は静岡でした。彼が静岡だから、一生懸命取り組んでくれと、当時自民党政権ですから、頼んだけれども、全然駄目でしたね。牧野聖修さんがやってくれました。牧野さんが落選してから、今度は塩谷さんが、袴田事件の流れが変わった、静岡地裁の判決によって、そうしたら、俺にやらせてくれと来ましたね。大体その程度のレベルの政治家であったということを、私はここはしっかり皆さん方にも頭に入れてもらいたい。人の人生に対していかな心構えで取り組んでいたかということを。
私は、当時、刑事被告人でした。それでも私は選挙に出て、当選して、超党派のこの議連をつくってやってきました。だから、お姉さんのひで子さんとも今でも親密に私は付き合っているし、私が収監されて公民権停止で国会に出れぬときは、娘、鈴木貴子代議士がしっかり事務局長をやって、これをつないできたものであります。
そこで、大臣、袴田判決が出ました。最終的に判決というのは無罪であります。このとき、検事総長が談話を発表しております。千四百字の談話で袴田さんに申し訳ないと触れているのはたった百字です。全く反省ないと思うんです。
このことについて、大臣、どう思います。
国務大臣(鈴木馨祐君)
検事総長談話、これ令和六年の十月八日ということでありますけれども、この談話の発表であったり、あるいはその内容等のこの判決への対応に関する事柄について、これ、個別事件における検察当局の活動ということでございますので、法務大臣として所見ということはなかなか難しいということは是非御理解をいただきたいと思っております。
その上で、今回の談話ということであれば、やはり不控訴という判断を行った理由、あるいは過程を説明するための、そのための発表ということであります。そのために必要な範囲で判決の内容の一部に言及をしたものであると承知をしております。
そして、同様にこの中で、袴田さんにということであれば、無罪判決を検察当局として受け入れ、これを確定させる以上、今後、袴田さんが本件の犯人であるなどと申し上げることはないということを対外的に述べたということであるというふうに私としては承知をしているところであります。
鈴木宗男君
法務大臣、確認します。
あなた、法務大臣ですね。検察庁は一行政組織です。法務大臣の指揮下にある、これは明確ですね。答えてください。
国務大臣(鈴木馨祐君)
個別のそれぞれの事件ということについて、そこについては、やはり法務大臣としてということであれば、やはりそれは関与ということはなかなかできない状況と考えております。
鈴木宗男君
これ、委員の皆さん、今の答弁聞いて分かるとおり、法務大臣の役割を果たしていないんですよ。自分の指揮下にある、これは前の小泉大臣も齋藤健法務大臣も言っているんです。しかも、検察は一行政組織であるということ。特別な組織じゃないんですよ、法務大臣の指揮下にあるんですよ。
この談話を大臣が大臣に就任してから読んでですよ、この談話、大臣になる前だけれども、当然、大臣は目にしていると思うけれども、これは真っ当ですか。検事総長が判決に不満を述べている、判決内容に。ならば、闘うべきじゃないですか。闘わないで、自分たちも新たな証拠も何も出せなくて、闘わないで何で判決に不満述べれるんです。
事実認識が間違っていませんか。大臣、どう思います。
国務大臣(鈴木馨祐君)
私も、就任後、この談話というところで読ませていただきました。
その中で、先ほどからの繰り返しになって申し訳ありませんけれども、個別の事件、まあその中の行政の一角ではないかという話もございましたけれども、そうはいっても、この検察の活動、準司法的なこともありますし、個別の事件に影響が出るということも含めて、ここについては私、法務大臣としてはそこはコメントは差し控えさせていただきたいと思っております。申し訳ありません。
鈴木宗男君
大臣、今裁判やっている話じゃないんですよ。最終結論が出たんですよ。いいですね、これは理解しますね。
ならば、率直に、申し訳なかったとかおわび申し上げるというのが人の道として私は当然でないかということを聞いているんですよ。それを何で、大臣、あなたが遠慮したようにですよ、法務省の法務大臣として答弁は差し控えたいというような話をしている。それで、あんた、法務大臣もつかということを私は言っているんですよ。
ここにも弁護士資格の皆様方がたくさんいますけど、今の答弁聞いていて真っ当だと思いますか。人の人生を五十八年も縛っておいて、しかも、今や、袴田巖さん、拘禁状態でですね、はっきり言って正常な感覚じゃないですよ。お姉さんが必死に支えていますよ。そんなことを、結果としてそういう不幸なことにしてしまったのは検察なんですよ。
判決出たわけですから、同時に、抗告しないわけですから、争わなかったわけですから、ならば、もっと真摯におわびをするとかというのが当然でないかということを、大臣、言っているんですよ。もう一回、しっかり答えてください。
国務大臣(鈴木馨祐君)
今のことにつきまして、検察当局の対応ということで、まず、ひで子さんも同席されている場において謝罪を申し上げたということを承知しております。そして同時に、この談話ということもそうですけれども、今回の事件において袴田さんを犯人と申し上げるつもりはなく、犯人視することもないという旨も申し上げたところと承知をしております。
法務大臣としてということでありますが、私としても検察と同様のそこは気持ちでございまして、結果として、長期間、袴田さんの法的な地位が不安定な状況が続いたことについて大変申し訳なく思っております。
個別の刑事事件、この当事者の方、今後のまた対応について、公判、捜査を遂行してきた検察当局による活動、これは私としても見守っていきたいと思っております。
鈴木宗男君
大臣、そういう役人の書いたようなペーパー、読むべきでない。人として私は聞いているんですよ。私は言っているんです、どの政治家にも。娘にも言っています。政治家である前に人であれということを。私は人間力においては誰にも負けないつもりでいるんです。だから、私は生き残ってきているんですよ。
大臣の今の答弁聞いていると、全く誠意がない。上級庁と相談をして抗告してきて、裁判、時間が掛かっているんですよ。この袴田事件に最高検が関わっていることは間違いないんです。ずっとこの何十年も。
静岡の検事正がおわびに来ました。しかも、映像から見る限り、全く人間味のない事務的な頭の下げ方ですよ。大臣、あれを見て真っ当だと思いますか。もう少し、大臣、将来この国の政治家として頑張っていきたいと思うならば、政治家である前に一人の人間として考えてくださいよ。そうやって答弁してください。今日は時間がないけれども、また次の機会、あさってありますから、同じことを聞きます。しっかり心構えをしてもらいたいと思います。
以下は「絶望の裁判所」のリンクです。
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12584864069.html
本能寺の変
光秀は本能寺にいなかった





殺人者つまり加害者は、殺された人間の、殺された現場にいなければならないことに、<密室の殺人>という例外を除いては推理小説でも、これは決まっている。 ところが、信長殺しに限っては、被害者の側に光秀がいた形跡は全くないのである。 殺害された日時は、今の暦なら七月一日だが、当時は太陰暦なので六月二日に当たる。
時刻は、夜明け前というから、午前四時とみて、それから出火炎上する午前七時から七時半までの間。推定で計算すると、およそ三時間半の長時間であるが、この時間内において、明智光秀を本能寺附近で見かけた者は、誰もいない。
これは動かしがたい事実である。 つまり光秀は本能寺どころか、京都へ来ていなかったのである。いやしくも謀叛を企てて信長を殺すならば、間違いのないように自分が出てきて監督指揮をとるのが当り前ではなかろうか。
もし失敗したら、どんな結果になるか、なにしろこれは重大な事である。 それなのに、従来、加害者とみられている光秀は来ていないという事実。
もし彼が真犯人であるなら、世の中にこんな横着な殺人者はいない。ということは、 「信長が害された殺人現場に光秀はいなかった」という具象を明白にし、現代の言葉でいうならば、「光秀の不在証明説」の成立である。
もちろん、これに関しては、日本歴史学会の会長であり、戦国期の解明にあっては、最高権威である高柳光寿氏も春秋社刊行の<戦国戦記>の、 「本能寺の変・山崎の戦い」の五十四頁において、
はっきりと、「六月二日、つまり信長弑逆の当日。午前九時から午後二時までしか、光秀は京都に現れていない」と、これは明記している点でもはっきりしている。
念のために当時の山科言経の日記。つまり<大日本古文書><大日本古記録>の<言経卿記>の内から、事件当日の原文を引用する。
「その日、午前九時から午後二時までしか、京にいなかった光秀のために」それは必要だからである。
(天正十年)六月二日戌子。晴陰(曇)一卯刻前(註、卯刻というのは午前六時、又は午前五時から午前七時をさす。だが、この場合、何刻から何刻というのでなく、ただ午前六時から前であったいう、
つまり時間的な例証になる。なにしろ午前九時すぎに上洛してきた光秀には、これでは関係がない)本能寺へ明智日向守謀叛ニヨリ押シ寄セラル(註、この言経記にも、一応は、こう書いてある。いないものが押寄せるわけはないが、みなこう書いてある。
つまり、こう書くほうが、この十一日後に光秀は死んでいるから、死人に口なしで、何かと、みんなに都合が良かったかもしれない)前右府(信長)打死。同三位中将(岐阜城主にして跡目の織田信忠)ガ妙覚寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王の二条城)ヘ取篭ノ処ニ、同押シ寄セ、後刻打死、村井春長軒(村井長門守貞勝)已下悉ク打死了、下御所(誠仁親王)ハ辰刻(午前七時から午前 八時)ニ上御所(内裏)ヘ御渡御了、言語同断之為体也、京洛中騒動、不及是非了
つまりこれは、四条通りの本能寺が炎上してから、織田信忠が妙覚寺から引き移った二条にある下御所へ押し寄せたから、誠仁親王が、まだ早朝なので、お乗物がなく、辛うじて里村紹巴(しょうほ)という連歌師の見つけてきた町屋の荷輿に乗られ、
東口から避難されたという当時の状景を現してたものである。ただし、この時代は陰暦なので、六月二日は初夏ではなく、もう盛夏である。
そして当時は、今のように電気はなかったから、一般は灯火の油代を倹約して、早く寝て夜明けには起きて働いていた。だから、「早朝で輿がなかった」というからには、午前七時前が正しいかと想える。遅く見ても午前七時半迄であろう。
農家は午前四時、町屋も六時から、当時は起きていたものである。という事はとりもなおさず、まだ明智光秀が京へ入ってくる迄には、二時間以上のずれがあった。という事実がこれで生じてくる。
さて二条城に立て篭もった織田信忠達が何時頃全滅(脱出できたのは織田有楽と苅屋城主水野宗兵衛の二名のみと<当代記>にある)したのかは記録がない。
しかし前後の経過からして、本能寺炎上後、二条御所も炎上して、全てが終わったのが午前九時頃とも思える。そうなると、明智光秀が上洛したのは、もう、すべてが終わってしまった後ということになる。
もし、そうでないにしても、光秀が京へ入ったのは二条御所が包囲され、親王が脱出されてから既に二時間経過した後である。もはや、やはり「万事終われりの時刻」でしかない。これは推理でもなんでもない。
当然な計算である。そうなると、ここで疑問になるのは、「明智光秀は、それまで何処にいたのか」ということになる。
もちろんヘリコプターもなかった頃だし、午前九時には現場に到着していたというのだから、午前五時頃には、馬に跨って京に向かっていた事は事実であろう。そうなると、この問題は、 「何処からスタートしてきたのか」ということなる。これに関しては正確なものは、何も残っていない。
ただ判っているのは三日前の五月二十八日に(この時の五月は二十九日までしかない)愛宕山へ登って、同日は一泊しているという証言が、里村紹巴らによって後日提出されている。
さて、<言経卿記>によって天候をみると、
五月二十七日雨、二十八日晴、二十九日下末(どしゃぶり)、 六月一日雨後晴となっている。
二十八日は晴天だから、この日に登山したのはわかるが、問題は二十九日である。 これまでは、この日の下山となっているが、下末とは「どしゃ降り」の事である。
だから、馬で愛宕の山頂までかけ登った光秀が、今と違い鉄製の馬蹄ではなく、藁で編んだ馬沓の駒の尻を叩いて、相当に険阻な山頂から血気にまかせて、滑り落ち転落する危険を冒してまで、降りてきたとは考えられない。
勿論、今となっては正確には明智光秀の年齢は判らない。だが<明智軍書>という俗書に「五十五年の夢」という辞世の一句がある。その本では真偽の程は判らないが、時に信長が四十九歳なら、やはり、それくらいかも知れぬ。
そうなると、今でも昔でも人間は似たようなものである。どうして五十くらいの男が血気にはやって、雨の中や、まだ地肌がぬるぬる滑る山道を、駈け降りてくるなどとは、とても常識では考えられない事である。
だから、通説では二十八日登山。一泊して二十九日下山となっているが、正確な当時の天候から推測して、下山は六月一日が正しかろう。しかも、この六月一日も夕方まで沛然たる雨で、小止みになってから妙覚寺滞在中の織田信忠が、夕刻から本能寺を訪問しているくらいだから、光秀が下山したのも、家来に足許を照らさせて山道を降りたのは、
やはり雨が止んだ後と、考えるべきが至当であろう。
だが、京と愛宕とは、後者が山だけに、なお降り方は悪かったとも想える。そうなると、光秀が、もし丹波亀山に着いたとしても、一万三千は出陣した後という事になってしまう。
だから、光秀は後を追い、まさか一人ではなんともなるまいから、 「支城の坂本へ引返し、そこで三千余の兵を率いて、至急、京へ駆けつけたという次第ではないかと」とも思われる。
もう一回ここで、この日の順序を追ってみると、
六月二日(新暦7月1日)午前四時、本能寺包囲される。午前七時炎上、信長行方不明。引き続き二条御所包囲、誠仁親王御所へ動座、信忠軍と包囲軍交戦、
午前九時明智光秀入洛、午後二時明智光秀出洛、午後四時光秀瀬田大橋に現れる。午後五時三千余の軍勢のみにて光秀は、坂本に帰城す、といったような経過を光秀は辿っている。
奇怪な山岡景隆の行動
そして、これは吉田神道の<兼見卿記>によるのだが、この二時以降の、光秀の行動はわりと詳しくわかっている。
(だが、この兼見という人は、この時点の日記を、後から別個に書き直している)つまり日記の二重帳簿である。
そして、その表向きのしか、残念ながら今は伝わっていない。それでも、それによると光秀は当日、持城の山崎勝竜寺城(つまり占領して奪ったのではなく、前から自分の支城)へ寄って、そこで城番をしていた重臣の溝尾庄兵衛と相談した結果、
午後二時に、そこを出発し大津へ向かい、午後四時に、安土へ伺候するため瀬田へ向かったとある。さて、現在残っている、その表向きの日記では、これからの状態を原文で引用すれば、
「誘降せんとするに、(瀬田城主)山岡景隆は、かえって瀬田大橋を焼き落とし、己が城(瀬田城)にも放火し、光秀に応ぜずして山中へ入る。(止むなく光秀は残火を消し止めさせ)橋詰め(足場にする砦)を築かす。
夕景に入って、ひとまず光秀は、 坂本へ戻る」となっている。もちろん、これは明智光秀犯人説が正論化されてからの日記であるから、一応は、白紙に戻して考えてみる必要もある。そうなると、「元禄十四年三月十四日に、浅野内匠が吉良上野に刃傷し、即日処刑をされてしまったと伝わるや、主家の大事とばかり赤穂城へ大石内蔵助以下家臣の面々が集まったように‥‥この時点でも、信長の異変の善後策に、家臣の光秀が安土城へ駈けつけようとしたのは、自然な行為ではなかろうか」と考えるのは無理であろうか。
さて、それなのに、それを阻止して橋を焼き払ってしまうというのは、これは一体どういう事なのだろうか。
もちろん後年のように、光秀謀叛説が確定してしまった後から書かれた<兼見卿記>では、さも光秀が安土城占領に赴くのを防ぐために、防衛の見地から、これを邪魔したようになっている。また、そうとしか読めない。
だが実際は、六月二日の当日の事である。
本来ならば山岡景隆は光秀を迎えに出て、「一体いかなる事が出来(しゅつたい)したるのか」と話を聞き、共に善後策を講ずるのが、ごく普通の途ではなかったろうか。
なにしろ、かつては十五代将軍足利義昭に共に仕えた仲であり、この十年前に、山岡景隆は、その弟山岡景友と共に信長に叛き誅されるところを、光秀に助命され、つつがなく瀬田城主の位置を保てた男である。
もしも山岡景隆が、当日の午前中に在京し、この異変が「明智の謀叛」と確認しているのならば、いわゆる正義感をもって、僅か三千の兵力では占領は考えられなくても、「おのれ、逆臣、光秀め。通しはせじ」と、橋を焼いてしまった事も理解できる。ところが本能寺の異変は、午後三時頃になって、安土への急使か、又は通行人によって、この景隆は耳にしたにすぎない。
何も詳細は知っていない。それなのに何故、確かめもしないで一時間で断固として橋を焼き、自分の居城まで焼き落とす様な、思い切った事を企てたのであろうか。
まず、このひっかかりから先に考えてみたい。
もともと、明智勢をば対岸の山頂から湖水越しに望見していた山岡景隆というのは、先に足利十代将軍の義稙(よしたね)が、近江半国の守護代六角高頼(たかより)を討つため、
延徳三年八月に出陣した際の大本営の三井寺(みいでら)の光浄院の出である。この時から室町幕府に奉公しだした光浄院は、その後、山城半国の守護に任ぜられていて、天正元年二月には、十五代足利義昭の命令によって、当主の暹慶(せんけい)が西近江で挙兵。 「打倒織田信長、仏敵退散」の旗印のもとに一向宗の門徒を集め、石山の本願寺と連絡をとりながら、石山と今堅田に砦を築いて抗戦。
二月二十四日に、柴田勝家、蜂屋頼隆、丹羽長秀、明智光秀の連合軍に攻められ石山陥落。二十九日には今堅田の砦も力戦かいなく落されて、改めて信長に降人。
その名を山岡景友と改名して助命され、勢田の城主の地位は遠慮して、兄の山岡景隆に譲った。この兄こそ、十年後、橋を焼きすて、じっと山頂から、光秀の様子をしかと眺めていた山岡景隆になるのである。
なお、彼の弟には近江膳所(ぜぜ)城主の同景佐(かげすけ)、次が玉林斎景猶(かげなお)、そして四男が山岡景友である。
<慶長見聞録案紙>によると、この男は二年後において伊勢峰城にあって秀吉方と激戦し、「徳川家康の黒幕」と言われた「山岡道阿弥」に名のりを変え、秀吉の死後、伏見城に家康が入ると、その守護に、伏見城後詰に取出し屋敷を構えて、
鉄砲隊で固めたり、関ヶ原戦においては、長束正家を破ったり、ついで尾張蟹江の城を攻略し、懸命に家康に奉公するのである。
それは後年の事であるが、この山岡景隆・景友らの兄弟はなぜか、この時つまり本能寺の変の二年後には、事実不明の柴田方加担の罪のもとに秀吉の為に城地を追われてしまい、やむなく家康を頼って行ったと、<武家事記><寛政譜>には残っている。
さて、こういう事は、とりもなおさず六月二日の午後三時から四時までの間に、急いで「安土への通行を止めるように」瀬田の大橋を焼き払ってしまったという事は、これは秀吉又は家康から前もって予告され、密令が下ったのではあるまいか、
と不審に想える。どう考えても、このやり口は山岡兄弟の肚ではない。
もし光秀が当日安土へ入っていたら、信長の生死不明の侭にしろ、重臣の一人として、なんらかの善後策をとっていたであろう。そうなれば天下は動揺する事なく、当時、伊勢にいた織田信雄か、住吉の大物浦で出航するため大坂城にいた織田信孝かの、どちらかに跡目は落ちつくに決まっている。
だからこそ、それでは困る人間が、安土へ光秀を入れないようにと、橋を落させてしまったのではないか。勿論これは想像であるが、架橋するために砦まで構えたという事は、琵琶湖の対岸から山岡勢に弓鉄砲を撃ちかけられ、修理を妨害されていたことになる。もし、それほどまでに山岡一族が安土城に忠義ならば、光秀が引揚げた後、すぐにも彼等は安土へ駆けつけるべきである。
なのに、全然行ってはない。これでは信長のために、瀬田の大橋を焼いたことにはならない。自分らの私益の為である。
<兼見卿記>の記述と事実はここに於いて相違している。つまり何者かが、光秀を陥入れる為にか、彼を安土へ行かせず孤立させる事によって、全てを彼に転嫁させようとする謀みではなかろうかという疑惑が、色を濃くしてくる。
信長を爆殺した火薬の謎
次に奇怪な事は、まだある。光秀が、丹波亀山の本城から出てきたのなら、そちらへ戻るべきである。
ところが、光秀は本城へは行かずに坂本へ向かっている。ということは、その伴ってきた武者共が、丹波亀山衆ではなく、別個の近江坂本衆であったという事になる。
いくら取り違えても、丹波から出てきた連中を、間違えて近江へ連れ戻す様な気遣いはない。つまり光秀がこの六月二日に上洛してきた時に、同行してきた(推定三千)ぐらいの連中が坂本城の者となると、
これはとりもなおさず光秀が、坂本から上洛した、という例証になるだろう。亀山ではないのである。
すると、光秀が京へ姿を見せるより早く、夜明け前から丹波方面より上洛していた連中は、それでは、どこの部隊かということになる。幻の軍団である。まず二つに分けて想定できる。なんといっても、その第一は織田信長の軍団編成のもとに、近畿管区団となった各師団である。これは寄親(よりおや)明智光秀丹後衆、細川藤孝、倅 忠興、大和衆筒井順慶、摂津衆高山重友(高槻)、中山秀清(茨木)、兵庫衆池田恒興(伊丹)倅元助。
ところが、この連中はその十日後の山崎合戦では、秀吉方となって戦っているか、さもなくば細川みたいに中立している。だから、これまでの歴史は、彼等は上洛しなかったことにしている。
合計の兵力がちょうど一万二千から一万五千であって、謎の上洛軍と員数は合うのだが、どうであろうか。なお、有名な話だが、呂宋へ後に流される高山重友は「ジュスト右近」といわれて、こちこちの信者だし、他の者も、
<1507・9・19臼杵発ルイス・フロイス書簡>によれば、池田恒興も、入斎という名の他に「シメアン」の洗礼名をもち、その娘は、岡山城主ジョアン・結城に嫁し、みな神の御為には何事もいとわなかった信者だそうである。
中川瀬兵衛清秀にも「ジュニアン」の洗礼名がある。
だから、<ヨハネ黙視録>にあるように、「この後、我見しに、見よ天に開けたる門あり、初めに、我に語るを聞きしラッパの如き声にていう『ここに登れ』我、この後に起るべきことを汝らに示さん」といった具合に、本能寺から一町もない四条坊門の三階建の教会堂へ登って、その上から、「我らの主なる神よ、栄光と尊貴と能力とを受け賜うは宜(うべ)なり。
神は万物を造りたまい、万物は、みな御心によりて存し、かつ造られしものなればなり、アーメン」ドカーンと爆発させてしまって、本能寺を葬り去ったのかもしれない。
永遠の神の恩寵を得るためには、現世の信長を吹き飛ばしたところで、別に高山や池田、中川といった切支丹大名は、良心の呵責に苦しむような事はなかったであろう。
もし、そうしたことを<罪>の意識で感ずるぐらいなら、その二年後、現実的に彼等は秀吉の部下となって故信長の伜と戦いなどできない筈である。というのは、当時のポルトガル商人は、火薬を輸入するにあたって、ヨーロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい木樽に詰め替えて、さも、マカオが硝石の産地のように見せかけて、日本へ入れていた形跡がある。
火薬輸入はマカオから
これは、ビブリオテーカ(政庁図書館)所蔵の<ジャバウン(日本史料)>の中に、木樽の発注書や受取りが混っているのでもわかる。まさか日本へ樽の製作を注文する筈はないから、
当地の中国人細工物師に、西洋風の樽を作らせたものだろうし、それが日本関係の古い書付束に入っているのは、日本向け容器として、新しく詰め替えされたものと想える。
古文書の<岩淵文書>の火薬発注書にもあるように、当時の輸入火薬は湿気を帯びていて、発火しないような不良品も尠なくなく、一々「よき品」と但し書きをつけなくては注文できぬような状態だ。
そこで良質の火薬ほしさに、切支丹に帰依した大名も多かったのである。だから、ポルトガル船の商人は「これはマカオで詰め替えてきて、樽だけは新品ですが、中身は保障できません」などとはいわず、
「マカオでとりてたの、ほやほやです」ぐらいの事は言っていたかもしれない。
だから信長としては、鉄砲をいくら国内で増産しても、火薬がなくては始末につかないから、てっきりマカオが硝石の原産地だとばかり、間違えて思い込んでいたと考えられるふしもある。
<津田宗及文書>の天正二年五月の項に、当時岐阜城主だった信長に招かれて行ったところ、非常にもてなしを受け、宗及ら堺の商人が当時マカオからの火薬輸入を一手にしていたのに目をつけた信長は、
彼らの初めだした「わびの茶」を自分もやっていると茶席を設けてくれた。それまでの「ばさら茶」では唐金だった茶器を、宗及らの一派が「竹の茶筅」に変えたのに目をつけた信長は、この時初めて「茶筅髷」とよぶ、もとどりを立てた髷に結って、その席に姿をみせ、おまけに給仕役に召した次男の信雄を、この時から「茶筅丸」とよばした事は、有名な事実である。
つまり安土城を築く前から「天下布武」の目標のために、信長は良質の火薬の輸入確保に焦っていたのである。
が、従来の歴史の解明では、近江長浜の国友村で鉄砲を大量製産させたとか、紀州の雑賀部族に量産命令を出したとか、
といったような銃器の方だけに捉われていて、鉄砲というのは、火薬がなくては使い物にならないただの木と鉄の棒だということを失念している傾きがある。当時の火薬の配合は75パーセントが輸入硝石で、こればっかりは日本ではどこを掘っても見つかっていないのである。
そして、その硝石、当時の言葉で云えば「煙硝」の原産地を、仲継地とは知らず信長はマカオと思っていた。
普通ならば国内を平定してから、国外へ勢力を伸ばすのであるが、天正十年の情勢では、九州へ輸入される硝石によって、西国の毛利や、豊前の大友、秋月、竜造寺、薩摩の島津が武装を固め、信長に敵対をしていた。
こうなると抜本塞源の策は、硝石の原産地がマカオであるなら、そこを先に奪取して、西国、九州への火薬輸入をくいとめるしか、この場合、完全な打つ手はない。
だから信長が天正八年あたりから、ポルトガル風の長いマントを羽織ったり、ラシャの大きな南蛮帽をかぶりだしたのを、今日では「珍しい物好き」とか「おしゃれ」といった観察で片付けているが、あれは外征用の準備ではなかろうか。
十九世紀の明治初年でも、外国旅行をするとなると、横浜関内の唐物屋へ行って、洋服を注文して仕立てさせ、それを着込んで出かけたものだが、信長の場合にも、これはあてはめて考えるべきであろう。
信長が建造した巨鑑の謎
さかのぼって1571年の9月30日。日本暦の九月十二日に信長が延暦寺の焼討ちをした時には、<フロイス書簡>は、「このような余分なものを一切滅却したもうたデウスは、賛美されるべきかな」 と、
天主教布教の障害であった仏教の弾圧にのりだした信長を、神の名によって、マカオから来ていた宣教師は褒めた。
この年の十月、カブラル布教長の一行は、九州の豊後から、まず堺へ入り、マカオ火薬輸入業の櫛屋(くしや)町の日比屋了珪(りょうけい)宅へ泊まった。河内、大和、摂津、山城と次々に廻って歓迎を受けた。
といって、彼らが天主教の司祭だから尊敬されたというのではない。マカオから来ているカブラル達には、硝石という後光がさしていたからである。
「良質の硝石を入手できるか、できないか」が、この時代の戦国大名の生死を握っていたから、よき硝石をマカオ商人から分けてほしさに、反天主教徒の松永久秀や三好義継も、丁重にもてなしている。
中には宗教よりも硝石欲しさに参詣にきた武将達も多かったという。
十二月には、カブラルは、フロイス、ロレンソの使僧を従え、堺の火薬輸入代理業者に案内されて岐阜城の織田信長を訪れている。火薬が欲しい信長は、彼らの機嫌とりに、庭で放ち飼いにしておいた珍しい丹頂鶴でコンソメスープをつくらせ、当時は貴重品だった美濃紙八十連をプレゼントに贈っている。
1573年4月30日。日本暦の天正元年三月二十九日に僅か十二騎の小姓だけを引き連れた信長は、突如として岐阜から上京し、洛北知恩院へ入った。
やがて軍令を四方に出してから、白河、祇園、六波羅、鳥羽へ翌日には一万余の兵が終結した。
<フロイス書簡>によると、彼は信者の一人であるリュウサ(小西行長の父)を使者にたて、その陣中へ、黄金の南蛮楯と、数日後には瓶詰のキャンデー(金米糖)を贈り、 「仏教徒を庇う足利義昭に勝つよう」にと、それに神の祝福を授けた旨が記録されている。さて、本能寺へ、信長が小姓三十騎連れてきたのが疑問視されているが、当時マカオから来ているポルトガル人は「信長は、いつも小人数で出動し、そこから、すぐ兵を集めて編成し、自分から引率して行動を開始する習慣がある」のを知悉していた。つまり、日本側の史料では「信長は本能寺にあって、光秀らに中国攻めを命じた。だから備中へ向かって進撃すべきなのに、大江山の老の坂より途中で変心して、『敵は本能寺にあり』と、右折禁止を無視して出洛した」のが、
明智光秀の謀叛をした確定的な証拠であるとして主張するが、向こうの資料とはこういう点がはっきりくいちがう。
合戦は火薬の量によって決まる
つまり京都管区長のオルガチーノにしろ、フロイスにしろ、彼等は「五月二十九日に安土城から三十騎を伴ってきた信長は、翌六月一日は雨降りだったが、二日には、また黒山のような軍勢を、ここに終結し、自分から引率してゆくもの」と従来の慣習どおりにみていたようである。
ということは、日本側の史料では、「六月二日の早暁に、丹波の軍勢一万三千が入洛、本能寺に近寄った事は、これは予想外の出来事、異変」と解釈しているのに、
「本能寺の門前に早朝から集ってきたのは、従来通りの軍団の命令受領」と、彼等は、そういうとりかたをしているようである。
そして、従来の日本歴史では信長とか家康、秀吉の個人のバイタリティーに重点をおき、英雄主義を謳歌するあまり、天文十二年の鉄砲伝来は認めているが、その弾丸をとばす火薬を無視しきって、
「銃器弾薬」と併称されるものなのに、片一方をなおざりにしているのは前述したが、持ってくる方の、ポルトガル人の目からすれば、「自分達がマカオから輸入してくる硝石によって、この日本列島の戦国時代は烈しくなり、供給している火薬の良不良で勝敗が決まっている」と、明瞭だった事だろう。
なにしろ足利十五代将軍義昭にしろ、「仏教側だから火薬を売るな」とフロイスたち宣教師に指図されると、堺のエージェントは販売を禁止。鉄砲があっても火薬がなくては戦えないから、さすが強気な義昭将軍も<和簡礼経>によると、四月二十七日付で、信長の申し出のとおりに泪をのんで無条件降伏をしてしまう。
こういう具合であるから、天主教では、「信長をして、今日あらしめたのは、我らの火薬供給である」という信念を抱いていた事は疑いない。また、信長も、事実そのとおりだから、天主教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。
のち秀吉や家康が切支丹を弾圧したり鎖国したりするのも、彼らが異教徒だったから、嫌ったということより、本質的問題は、やはり、この輸入硝石である。
他の大名の手へ宣教師を通じて入っては困るからと、治安上とった自衛手段である。秀吉は備前備中から、徳川家は長崎から自分らだけが独占的に硝石を輸入する事によって、その平和を守ったのである。
信長がマカオを狙って、輸入に頼らず硝石を押さえたがっていたのは、その部下の信者の大名達の密告で既に宣教師達は知っていた。<オルガチーノ書簡1578年。月不明>に、「昨日、日本の重要な祭日の日に、信長の艦隊七隻が堺へついた。私は急いで、その巨艦の群れと大なる備砲を調べに行った」と出ているぐらい神経質になって、彼らは用心していたのに、
本能寺の変の1ヶ月前に、従来の友好的な態度を、信長は自分から破棄しだした。これは、「マカオ神学校」から赴任してくる宣教師達が「天にまします吾らの神」と、教えを広めているのに、
信長は従来は安土城の五層で祀らせていた白目(しらめ)石の自分だという神像を、五月一日總見寺(当時は寺とは言ってない、社であろうか)を建て、ここで一般公開し、「我こそ、まことの神なり」と宣言した。
参拝人が黒山のごとく集まり、何列もの長蛇の列をなしたと伝わっている。 「天地に、二つの神なく、地に、二つの神なし」という教義に対し、挑戦以外のなにものでもない。
マカオから来ていた宣教師にしてみれば、こうした信長の行為は神を冒涜するものであると同時に、これは背信行為として、その目に写ったであろう。
そして、「我々に楯をついて、火薬をどうして入手するつもりなのか」 畏れ疑っていた矢先、五月二十九日。信長は小姓三十騎をひきいて本能寺へ現れた。そしてその日の午後、大坂の住吉の浦の沖合いに、オルガチーノがかねて警戒していた七隻の巨艦と、夥しい軍用船が集結された。
司令官として、敏腕家にして勇猛とよばれている信長の三男織田三七信孝。副司令官は丹羽長秀で、司令部は大坂城に設けられ、本能寺の信長と絶えず伝令がゆききしている。非常事態である。
信長マカオ占領計画
「出帆は六月二日」と明白になってきた。日本側史料では「四国征伐のため」となっているが、だが、彼らは、「マカオへ出帆?」と勘ぐったのではあるまいか。1579年日本へ巡察に来たルイス・フロイスは、日本準管区長コエリオより「日本歴史」の草稿を求められて、それを書いたという。
だが、原本がマカオにあったから、十八世紀まで所在不明で、その後モンタニヤ、アルバルズの両修道士により、イエズス派マカオ日本管区文庫で発見されてポルトガル本国へ写本として送られた。
これがアジュダ図書館に保管され伝えらたが、なぜか、織田東洋艦隊が建造された天正七年から、本能寺の変、および、その後の天正十六年までの間の分は、どうしたことか、欠本にされていた。
おそらくなにかと都合が悪いからであろう。フランシスコ派の宣教師シリングが1931年3月に、その前半をトウールズで、翌年リスボアにて、後半を見つけ、ここに、昭和の満州事変の頃になって、
<フロイス日本史>は神の恩寵により定本になったというが、肝心な原本は、マカオで焼かれてしまっている。
二百年もたって同一人のシリングが相次いで欠本を見つけられるなんて信じ難い話だから、その間のものは何処まで真実か判らない。それが何よりの証拠には、織田艦隊のことは少しは出ているが、肝心な「信長殺し」は完全に抜けてとばされている。
そんな「日本史」なんてあるものではない。<老人雑話>というのに、明智光秀の言葉として、「武者の嘘を、計略といい、仏の嘘を、方便という」とあるが、「神様の嘘は恩寵というのだろう」とさえも言いたくなる。
あまりにおかしい。リットン報告書が出された頃である。さて「何か知っていられては都合の悪いことを、知っている者」は、民主主義の本場でも、次々と死んでしまうものだと、テキサス州のダラス市民について、
アメリカのニューヨーク・ポスト紙は書いているけれど、天正年間の日本においても、やはり同じ事であった。
ジュスト右近は、二度と戻ってこないように、フィリッピンへ追放されている。また、シメアン・池田父子は、本能寺の変から一年十ヶ月目に、何の御手柄か、一躍、岐阜城主、大垣城主と栄典させてもらえたのに、
長久手合戦で「討死」という形式で共に抹消。ジュニアン・中川は、もっと早く、本能寺の変後、十ヶ月で大岩山で消されている。残った者は誰もいない。だが、俗説では、 「六月二日に上洛したのは、丹波亀山衆一万三千」と、どの本にも出ている。これが第二の答えで、定説である。
もちろん光秀も、丹波亀山から彼等を率いてきたと、(途中で六時間ぐらい光秀がいなくなってしまって、辻褄が合わないが)そういう事になっている。
しかし、もし亀山から丹波衆を率いて、光秀が上洛したものなら、そちらへ戻るべきなのに、同日午後四時、瀬田から右折せずに光秀は坂本へ左折している点は、先に指摘した。
だが、こんな明白な事実さえ、誰からも今日まで問題にもされていない。そして、もっと奇怪なことは、その次の日も、次の日も、光秀は死ぬまで一度も、丹波亀山へ戻っていない。
(もし一万三千の亀山衆というものが、光秀の命令で動いたものなら、亀山は光秀の本城であるし、なぜそれを掌握せずに放りっぱなしにして、三千の兵力しかない坂本城を、その後の根拠地にしたのか、さっぱりわからない)だが、何人も疑いを抱かない。変に思わない。
もちろん直属であるべき丹波亀山のこの兵力が、信長殺しの後、光秀から離れてしまったために、六月十二日、十三日の山崎円明寺川の決戦において、光秀軍は旧室町幕府の奉公衆を加えても一万に満たぬ寡兵となってしまい、三万に近い秀吉軍に対して破れ去ってしまうのである。
そうでなくて、もし、この六月二日の上洛軍の一万三千を光秀が掌握していたら、安土城守備にまわしていた秀満らの坂本衆三千は別計算にしても、天王山の険を押さえる事もできたし、
これに前述した旧室町奉公衆の伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門ら約四千と、新たに味方に加わった近江衆三千をみれば、山崎合戦での光秀は、旧部下師団の中川、高山、池田、筒井、細川の全部に離反され孤立したにしても、なおかつ二万の直属部隊でもって、この決戦に臨めたわけである。
なにしろ奇怪なのが、この丹波亀山の一万三千の正体である。これを誰が指揮し、誰が尻押ししたのかということも、やはり、「信長殺しの謎をとく」大きな鍵なのではあるまいか。

