【平安時代(武士道論)②-6 平忠常の乱 後編】 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

↑鎌倉(鶴岡八幡宮)


 河内源氏の源頼信と主従関係になっていた平忠常が反乱の狼煙をあげたのは、1028年の長元元年だ。忠常の乱に関しては、将門の乱を描いた『将門記』のような良質な記録がまったくなく、乱の模様は『日本紀略』や『扶桑略記』、『小右記』といった公家の日記類に断片的に記録されたもののみだ。


 乱の発端も実はよくわかっていない。ただ、忠常が安房国国府を襲撃してこれに火を放ち、安房守惟忠を焼死させたことが発端とされている。忠常の本拠地は下総国であり、国司としては上総介であったこともあるから上総もその勢力圏に入ってはいたが、房総半島の先端に位置する安房国は彼の管轄外にあったはずだ。にもかかわらず、彼は安房国に軍を入れて国府を襲ったのである。仮説ではあるが良く語られる説としては、安房国内の在地豪族、郡司層と国司(受領)である惟忠の対立に忠常が介入したのだろうと想像されている。  
 この事件を前に、朝廷は征討軍を東国へ差し向けた。『日本紀略』の長元元年六月二十一日の項に「下総国住人前上総介平忠常等事。即遣検非違使右衛門少尉平直方。小志中原成道等。征討之。給官符等於東海道東山道。今日。復任除目」とあり、平忠常討伐の官符が平直方、中原成道に下されたことがわかる。
 一見すると平忠常が賊となって暴れ出したように見えるが、これはあくまでも朝廷側の目線だ。討手に選ばれた平直方は、先にも述べた通り国香流坂東平氏である。

 直方の父は維時といい、惟時の父は惟将であり、惟将の父こそが将門を討った平貞盛だ。しかも、理由はわからないが惟時は貞盛の養子になっているため、平直方からみれば貞盛は本来曾祖父なのだが結果的に祖父になっている。国香流平氏は常陸大掾など国司を務め続ける家で、常陸・武蔵に勢力を拡大させてきたことは、すでに述べた通りだ。そして討伐される側の平忠常は、貞盛存命の頃から対立を続けてきた良文流平氏である。
 当初は忠常の主筋である源頼信も討伐使の有力候補として人選にあがっていたようだが、結果的に平直方が選ばれていることから、国香流平氏側の朝廷工作が功を奏した格好だ。
 こうした事情から、忠常討伐の官符を得た平直方が純粋に朝廷の命に従っていただけとは到底思えない。そこには、国香流平氏嫡流として、長年の宿敵である良文流平氏嫡流平忠常との決着を付けようと朝廷内で策動したのだろうと思われる。つまり、坂東勢力争いの延長線上に朝廷も巻き込む形で討伐が行われようとしていたのだ。

 対する忠常は、安房国府襲撃以後は上総に取って帰り、七月には上総国府を襲撃してこれを支配下に置いてしまう。このとき上総介として上総国府にいたであろう県犬養為政は朝廷に「上総の国人たちが国司の命令に従わないこと」や「その国司たちも平忠常に掌握されてしまっていること」、「忠常の従者が国衙の館に乱入し、国司の従類を縛り上げるなどの乱暴を働いている」といったことが報告された。あげくに忠常追討が朝廷から発せられたことを知った上総の州民が反発し、県犬養為政が妻子を京都へ退避させようとしたが危険でそれすらできないと報告している。
 そして八月一日、京都に潜入していた忠常の従者二人が捕縛された。忠常の従者は僧運勢と藤原明通の元にいたらしい。この二人は内大臣藤原教通、中納言源師房、運勢法師の三人に宛てた書簡と「一通無上書」の計四通の書簡を所持しており、内大臣藤原教通を通じて忠常追討の停止と赦免の運動していたことが解った。
 このことから、平忠常もまた京都の公家や朝廷と無縁の地方豪族ではなかったことが理解できよう。

 国司として上総介に任官していた事実があることからも、忠常が中央にも人脈をキチンと持っていたことが解る。そして、将門と同じように自身の正当性をこうしたルートを通じて訴えようとしていたのだ。
 後日、この従者らの尋問が行われ、忠常が二十~三十騎ほどの精兵を従えて上総国の「伊志みの山(伊志見山・現在の千葉県夷隅郡辺りにあったとされる)」に籠もっており、内大臣藤原教通の解文(返答)があれば山を降りる用意があるらしいことが判明。しかしその後、朝廷が忠常を平和的に説得する形跡は見られないから、武力討伐で方針を固めていた可能性が高い。

 八月四日、平直方、中原成道ら追討使が二百余人を率いて坂東へ出発したのだが、ここから一向に忠常討伐が進まない。戦いの様子に関しての記録がないために戦いの様子がよく解らないのだ。

 だが、少なくとも討伐が上手くいっていないことだけは解っている。というのも翌年の1029年(長元二年)の二月、関白藤原頼通の命令で右大臣藤原実資が東海・東山・北陸等の諸国と追討使平直方に出される太政官符を作成するため、その符文書の草案を右小弁藤原家経に持参させている。このことから、すでに派遣されている追討使の軍に加え、さらに東海・東山・北陸からも増援を送ろうという動きがあったからだ。

 さらに同月二十三日、平直方の父である平惟時が上総介に任命されて任国上総国へと下った。これは、直方による忠常討伐が上手くいっていないことから、父である惟時にも上総国司の権限を与えて彼の子である直方を支援させようという動きに他ならない。こうして国香流平氏は総力をあげて忠常討伐に全力をあげていったのだが、討伐は相変わらず一向にはかどらない。もちろん、直方や惟時が怠慢をしていようはずもない。良文流平氏の忠常は、先祖から続く宿敵であったのだから。

 それだけ、平忠常ら良文流平氏が築きあげた下総上総両国における豪族・郡司層の支持が堅かったのだ。こうして直方・惟時父子の戦いは泥沼化する。

 しかし、朝廷を完全に味方に付けた直方・惟時ら国香流平氏の前に、忠常もまた政治的に挽回する手段を失っていた。京都まで進撃していく程の力が忠常にない以上、戦いに勝っても戦いが終わることはない。忠常にとっても苦闘であったのだ。


 長元元年六月からはじまった忠常の乱だが、丸一年が経過した長元二年六月になっても事態は好転せず、ここに至って朝廷でも追討使の人事交代を考え始めた。軍事指揮する平直方を更迭し、軍事指揮を刷新しようという議論が起こったのだが、結局は沙汰止みとなっている。理由は解らないが、やはり軍事貴族として国香流(貞盛流)平氏の名誉に関わる事であったから、その嫡流である直方の更迭には慎重にならざるを得なかったのだろう。
 同年十二月になっても討伐は成功せず、直方はとりあえず報告だけは朝廷に送ったようだ。一方、もう一人の討伐使中原成道は報告を怠ったことを理由に解任させられている。直方は更迭できないとしても、中原の方だけでも差し替えようということなのかもしれない。

 1030年(長元三年)三月二百二七日、平忠常が再び安房国に侵攻して国府を襲撃し、安房守藤原光業は安房国府の印鎰を捨てて京都へ逃げ帰ってきてしまう。この事態に朝廷は臨時の除目を行い、安房国の新しい国守に国香流(貞盛流)平氏の平正輔を任命して送り込むことにした。徹底して忠常の宿敵たる国香流平氏で包囲して固めた形となるが、逆に言えば国香流平氏が宿敵であるからこそ忠常も意地で降伏しない。戦局は完全に泥沼化して膠着状態になってしまっていた。
 同年五月に直方から、忠常は依然として上総国の「伊志見山」に籠もっていること、随兵が減ってきていると朝廷へ報告があった。一方、安房国の受領として赴任する予定だった平正輔は、赴任する途中の伊勢国で父惟衡の宿敵だった平致頼と合戦に及び、安房国への赴任が遅れるどころか赴任不能になっていく。
 この平致頼という人物は、将門と戦った国香の弟良兼の系統で、良兼の遺領を良兼の弟平良文が引き継いだため、良兼の長男平公雅が賜った伊勢国郡郷に在住して勢力を拡大しようとしていた。一方、平正輔の父平惟衡は将門を討った平貞盛の四男として伊勢国に地盤を築き、伊勢平氏の祖となった人物である。

 つまり伊勢国は伊勢国で、こちらは国香流平氏の伊勢平氏と良兼流平氏が対立していたのだ。結局、この二人は朝廷から咎められてしまうのだが、少なくとも平正輔は忠常討伐への参加はできなかった。
 ちなみに、この平正輔の属する伊勢平氏から平安末期に権勢を誇り、日本最初の武家政権を打ち立てた平清盛ら”平家”が出てくることになる。(平家という場合、一般的には平清盛を中心とする一族・血族グループを指す)

 同年九月に至り、ついに朝廷側がしびれを切らし、追討使平直方を勲功無きことにより職を解任、京都へ召還とあいなった。直方に変わって追討の任に指名されたのが、河内源氏の統領にして平忠常の主筋となっていた源頼信である。
 召喚された直方が忠常とどのような戦いを演じていたのかについて、『総葉概録』はこのように記しているという。

 「ここに於て右大臣(藤原)実資に勅ありて、検非違使平直方、中原成道に官軍を率ゐしめ、八月十二日、隅田川に着く。忠常兵を出して戦ひしに、官兵、利を得て、忠常が兵引退く。時に忠常みづから兵を率ゐて城を攻めけれども、官軍、常に利を失ひしかば、兵糧づめにせんとて、隅田川に城を構へ、成道は安房守藤原光業と共に、上総国伊北荘に要害し、直方・平正度(常陸介、惟衡の子)と共に常陸国荒木に出張して、東西の諸道を塞ぎけれども、城中少しも退屈することなく、官軍はいつも謀相違するのみなりしに、成道召還され、光業は任国を棄てて帰洛し、直方も病と称して帰京せるゆゑ、正度疲れて帰国しければ、忠常が兵威、隣国に振ひて禦ぐもの無し」

 この記録から、平直方は坂東へ下った当初に武蔵国に流れる隅田川周辺で戦っており、長期戦の気配から城まで作っていたようだ。この時代の城は、室町や戦国時代の城とは違って大規模な防禦構造物は作らない。せいぜい地形を利用して堀切を作ったり、兵を入れるために木を切り、木戸や柵を作って防禦する程度のものだったろう。つまり、築城にさほど時間を必要とはしない。

 とはいえ、はやり忠常も強く官軍側も苦戦を重ねたことから「兵糧づめ(兵糧攻め)」も試みられている。この兵糧攻めもまた戦国時代のように徹底したものではないはずだ。上総国伊北荘の要害とは、朝廷も忠常の拠点として把握していた「伊志みの山(伊志見山)」のことだろう。山ということから山城と思われる。ここでも東西の諸道を塞いでの兵糧攻めが行われたようだが、はやり戦国時代のような完全に兵糧の搬入を遮断したのではなく、せいぜい主要街道を抑えて補給線を切った程度のことで、脇道など見落とされた道もあったろうから「城中少しも退屈することなく」という感じになって失敗している。
 そうする内に中原成道が解任され、安房守藤原光業は忠常の逆襲により安房国府を守り切れずに逃げ出す始末となる。こうなると直方の武名は地に落ちて、官軍といえども兵の士気を維持できなくなってしまうはずだ。

 つまり、軍を維持するだけで手一杯となり、事実上戦闘不能の状態である。だからこそ、忠常が攻めかかってきたとき、国主たる藤原光業が、ほとんど戦わずに国府防衛を放棄して京都に逃げ帰ってしまう状態になってしまったのだろう。
 討伐の指揮を任されていながら戦える軍ではなくなってしまった以上、平直方は病気と言いつくろうしかないだろうし、平正度に至っては疲れ果てて帰国というから討伐を諦めてしまっている状態だったのではなかったろうか。これでは、二年以上も戦い続けても勝てないのが道理だ。
 だが、それは決定的な勝利を得られなかった平忠常も同様であった。忠常の場合は官軍側とちがって遠征軍ではなく、地元の利があるために士気は保てていた。それは「忠常が兵威、隣国に振ひて禦ぐもの無し」とあることからも解る。

 しかし、逆に地元であるが故に戦争継続による田畑荘園の興廃は進んだ。興廃が進めば、在地豪族である忠常の戦力も減って行かざるを得ない。士気が地に落ちている官軍に決戦を挑んで撃破するだけの体力が忠常軍側にもなかったのだ。

 一年間戦い続けるだけでも、種まきや稲刈りの次期を逸してしまう。農繁期に戦いを継続させることは、在地豪族や郡司層にとっては己の体力を削るようなものであった。二年も戦い続ければ、もはや兵(つわもの)として兵威を維持できなくなる。忠常は在地豪族や郡司層の支持が厚いからなんとか保っていられたが、それも戦いが長引けば長引くほどにすり減らしていった。

 先にも述べた通り、朝廷は1030年9月に改めて源頼信とその嫡子である源頼義を討伐使に任命する。頼信自身はすでに甲斐守に任官していたので、甲斐国司としてまずは任国の甲斐に入って軍備を整えようと京都を出発した。

 ただ、討伐使を平直方から源頼信に交替させる上で、その引き継ぎなどに時間が掛かったのか解らないが、頼信が坂東へ進出するまでに多少時間が掛かっているように見える。頼信が実際に討伐行動に出るのは、年が改まった1031年に入ってからだった。
 さらに頼信は忠常討伐に際して、忠常の子法師を伴って出陣したという。この忠常の子に関して、まだ議論があるのだが、通説では忠常の第三子「忠尊、山辺禅師」と推定されている。

 つまり、忠常は主君とする頼信に子を預けていたわけだ。当初は人質という意味合いよりも、在地の兵(つわもの)として軍事貴族の頼信に従い、自身の子を預けて京都で暮らさせ、朝廷との間に人脈や猟官運動をさせていたのだろうと思う。忠常自身が朝敵になってしまったため、結果的には人質として機能せざるを得なくなってしまう。

 また、先にも述べた通り、忠常側の継戦能力は長い平直方との戦いのなかで失われていた。つまり、直方が戦えなくなっていたように忠常側も疲弊し、在地の豪族や郡司層の支持をかなり失ってしまっていたのである。

 こうした状況のなか、主筋である源頼信が討伐使として甲斐に入ったことを知った忠常は、すぐに髪を切って出家した上で降伏してしまうのだった。
 降伏の主たる理由は、先にも述べた通り忠常が支配していた房総地区が長い戦乱のなかで興廃してしまい、その結果在地豪族や郡司層の支持も得られなくなってしまったこと。そのために戦争を継続することが不可能になっていたことがあげられよう。また、討伐軍の大将が河内源氏にして自身の主君でもある源頼信であり、祖先以来恨みのある国香流平氏ではなかったという事実から、まだ頭を下げられる相手であったことも大きかったろう。
 こうして忠常は甲斐まで出向いていき降伏した。これを受けて頼信は四月二十五日、京都朝廷に忠常降伏を知らせている。

 さらに忠常を京都へ連行しようとするが、忠常が病気になってしまい京都へ向かう途上の美濃で死去してしまう。長い戦争は、忠常自身の体をも蝕んでいたのである。

 六月、頼信は忠常の遺骸と共に京都へ帰還した。忠常の首は忠常の従類に返却されたという。ただし、忠常は降伏したとはいえ、忠常の息子たち常将と恒親らは降伏状を提出していないことから朝廷内で問題視されたものの、忠常の降伏が頗る「男等降帰気色(男らしい降伏の態度・様子)」であり、この父が病死した直後で、忠将や恒親は喪に服しているときでもあったことが考慮されて不問とされ、新規に討伐されることは免除となって優免された。むろん、記録にはないが河内源氏で討伐使の指揮者であった頼信の力添えもあったろう。
 許された常将は、忠常の遺領を受け継ぎ、さらに上総介にも任官できている。拠点も父忠常の拠点を継承して上総国伊北郡、下総国大友を拠点として房総半島に根を張り続けていった。
 
 後に奥羽で反乱が起こり、鎮圧軍の大将に頼信の子頼義が選ばれて鎮定に赴いた「前九年の役」に際して、平忠将とその息子忠長も頼義の家来として参陣している。

 『千葉伝考記』には「頼信・頼義の常将を視ること宛も父子の如しといへり、されば、子孫代々志を通じて相睦じく交りたりき、永承年中、頼義、奥州進発の時、常将之に属して軍功を盡せり」とあり、河内源氏と良文流坂東平氏との絆は、忠常の乱によってさらに固くなっていったようだ。
 前九年の役に関しては、さらに別項を立てて論じようと思う。ともかく、こうして忠常の子孫たちは今まで通りに房総半島に根を張ることが許され、後に上総氏と千葉氏に別れて房総武士団を形成。平安末期に平家打倒に挙兵した河内源氏嫡流の源頼朝を助け、これに従って鎌倉幕府を成立させていくことになる。

 また、忠常の乱において討伐軍を任されながらも勲功をあげることができず、更迭されてしまった国香流平氏嫡流の平直方もまた、頼信が討伐に向かっただけで忠常が降伏したことに舌を巻いたらしい。

 直方は京武者として京都を主に活動をしていたのだが、国香流坂東平氏でもあったので坂東にも拠点を持っていた。その拠点の一つが鎌倉である。

 

↑鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮は、源頼義が鎌倉に由比若宮として勧請したことから始まる。この由比若宮を現在の位置に移して鎌倉の中心とし、鶴岡八幡宮にしたのが頼朝だ)


 前九年の役を描いた『陸奥話記』には……

 上野守平直方朝臣、(源頼義の)其の騎射を感じ、ひそかに相語りて曰く、「僕不肖なりと雖も、いやしくも名将の後胤たり。ひとへに武芸を貴ぶ。而るに未だ曾て控弦の巧み、卿の如く能くする者を見ず。請ふ、一女を以て箕箒の妾と為さん」と。則ち彼の女を納れて妻と為し、三男二女を生ましむ。長子義家、仲子義綱等なり。

 とあり、平直方もまた河内源氏嫡流と姻戚関係になっている。しかも彼の娘が産んだ子こそ、軍神といわれて源氏神話を作り上げていくことになる源義家であった。
 さらに頼義が相模守に任官した際にも、直方は相模国にあった自分の拠点・鎌倉を相模にいる家人・豪族もろとも頼義に譲っている。以来、頼義は鎌倉を拠点とし、坂東の地に河内源氏勢力の拡大を図っていった。

 ただし、頼義もまた京武者であったから坂東に土着したわけではなかったろう。だが、河内源氏が鎌倉を坂東最大の根拠地となし、国香流平氏から譲られる形で坂東一円に勢力を拡大させたことは間違いない。

 平安時代末期、実際に鎌倉に移り住み、河内源氏嫡流として自ら坂東に勢力を拡大させたのが源頼朝の父である源義朝だった。
 そして、平直方より五代目の子孫を自称したのが伊豆の小豪族だった北条時政で、この時政の次男が大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時である。
 ただし、北条氏の始祖は平直方だとする説には疑問も多く、北条氏が頼朝の河内源氏や鎌倉とのつながりを強めようと系図を改修した可能性が高いとされている。それでも北条氏が鎌倉幕府内で権勢を握っていく課程で、平直方の名を利用していたことは事実であったろう。かくして武士の作った都市「鎌倉」は、国香流平氏と河内源氏の接点のなかから、歴史上に登場してくることになる。

 以上のような経過のなかで、平忠常の乱は終わりを告げた。しかし、官軍も忠常も双方が疲弊しきった戦いとなったことで、房総半島の上総下総安房の三国は完全に興廃してしまった。
 『小右記』には、「安○○○○(房、上総カ)下総巳亡国也(『小右記』長元四年三月一日)」とあり、亡国の単語が見える。

 朝廷もまた、この地域から税を取れないという認識に立ち、当面は再開発と復興に力を入れていくことになる。このことが、房総や坂東地域の旧来からの支配体制をリセットする形になっており、坂東や房総地域は武士団が新規に形成されていく土壌にもなっていく。

↑平忠常の拠点の一つとされる大椎城(後に千葉氏の拠点ともなる)

↑大椎城碑の背面にある城の説明

↑大椎城にある「土橋」の遺構

↑土塁跡

↑大椎城主廓(本丸)

↑大椎城主廓と二廓を隔てる大掘(令和元年の台風被害により、大椎城は大きな被害を受けており、倒木などが掘跡に落下している)

【主要参考文献】
『日本紀略』(『国史大系. 第5巻』収録・経済雑誌社編・経済雑誌社)
『扶桑略記』(『国史大系. 第6巻』収録・経済雑誌社編・経済雑誌社)
『小右記』(『史料大成 第3』収録・笹川種郎編・内外書籍株式会社)
『陸奥話記(梶原正昭校注・現代思潮新社)』
『平将門と東国武士団(鈴木哲雄著・吉川弘文館)』
『将門と忠常 坂東兵乱の展開(千野原靖方著・崙書房出版)』

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