歴史から教訓を得るのは難しいという事実 | 幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 さて、コロナ禍のなかでなかなか調べものをするがの難しい上、史跡巡りもなかなかできないという状況。そんななかにあって、新規原稿を書く予定が3本もあるというのは幸せなことかもしれない。

 ということで、GWはほとんど外出せずにひたすら原稿書きに励んでいたわけだが、ブログをなにも更新しないというものなぁと思い、何か書こうと思った次第。

 

 とはいえ、どこにも行っていないのだから、紹介する史跡もないわけであり……ということで歴史ファンが知っていて損ではない本のご紹介でもしようと思う。

 

『歴史の教訓 アメリカ外交はどう作られたか』アーネスト・メイ著・岩波書店

 

 ということで、「歴史の教訓」という本である。ジャンルとしては歴史哲学になるかとおもう。

 

 我々が、歴史を知る一つの目的として、歴史のなかから教訓を得るというものがある。だが、著者であるアーネスト・メイは本書のなかで「政策形成者が通常歴史を誤用する」と語る。本書は、アメリカ外交史のなかで、アメリカが如何に歴史を教訓として外交政策を定め、その結果アテが外れてきたのかを論じており、いわば歴史の政治利用に関して”ほとんど誤用されて間違った政策になってしまった”ことを論証した論文だ。そして、歴史家の使命や義務についても論じている。

 ただし、あくまでも歴史から得られた知識を政治の場で活用するためにはどうすべきか。歴史家や歴史研究者が政治とどう関わるべきかといったことを論じた本だ。

 なお、本書では歴史が政治政策に関わるために、間違えれば国家経済が混乱する。その意味において、歴史家の役目は非常に重いものと位置づけられていることに注意すべきだ。なので、単に歴史知識を増やして自己満足する趣味の世界を超越しているのでご注意を。それでも、歴史を勉強していく上ではかなり示唆に富んでいるので、読んでおく価値は大いにある。

 

 さて、「歴史が誤用される」とは、簡単にいえば「歴史から得た教訓の多くが間違っている」ということである。それは、政治家に限らず歴史家とよばれる専門家たちもそうだということ。つまり、極端に言えば「歴史から教訓を得ても間違うだけ」なのだ。

 もちろん、歴史から得た教訓を正しく活用する方法はあるが、それが行える歴史家とは政治経済などにも精通し、かつ膨大な史料を科学的かつ客観的に分析できるスーパーエリート歴史家みたいな、歴史家のスーパーサイヤ人みたいな人に限られる。

 でまぁ、日本にいる多くの歴史家がそんなスーパーサイヤ人ではなく普通の歴史家なのだから、ほとんどの歴史家が「歴史の教訓を誤用」するだろうと思うわけだ。

 

 なぜ、誤用するのかといえば、「歴史とは過去に起こった事柄」でしかなく、けっして「未来予測するための学問」ではないからだ。だが、歴史から教訓を得て、それを利用しようとすれば、未来を見据えて予測し、その対処方法を過去の歴史から見出そうとするわけである。つまり、未来を予測しようとしているわけだ。

 「歴史は繰り返す」という格言があるが、歴史が繰り返されるなら今現在の状態に似ている過去の歴史を調べ、そのなかから対処法を捜すというのが”歴史のなかから教訓を得る”ということになる。だが、過去と現在はイコールではない。たとえば、江戸時代は儒教道徳が一般的である。現代はどうか?。なるほど儒教的道徳の影響を受けてはいるが、しかし日本は法治国家であり、江戸時代のように徳治と法治は折衷された社会ではない。指名手配されていた清河八郎が、政治的に利用できるからということで逮捕せずに幕府の下で浪士組結成の立役者になるなんてことは現代ではありえない。とするならば、江戸時代以前の歴史のなかから得られた教訓は、現代では使えないということになる。社会の状況が全く違うからね。

 

 本書では、アメリカ外交史のなかから、こうした事例を救い上げて論証する。たとえば第一次世界大戦後に世界を平和を保つため、国際連盟を作った。だが、ドイツや日本が戦争をはじめたため、世界平和は達成できず。その反省から国際連合を作る。第二次世界大戦の反省として、第一次世界大戦後にドイツの再軍備を認めたがために第二次世界大戦が起きてしまったという教訓を得て、今度こそ世界平和を達成するために国連を中心として、ドイツや日本の再軍備を許さず、軍隊を持てないようにする。これで全世界は平和になる。はずであったが……。

 さて、日本が軍隊を放棄した後の世界はどうなっただろうか?。資本主義のアメリカと共産主義のソビエトが冷戦なる戦争をはじめ、この二大国家の狭間で、代理戦争があちこちで行われていなかっただろうか?。つまり、第一次世界大戦と第二次世界大戦から得られた教訓は間違っていたということになる。間違っていたのでドイツや日本に再軍備して貰っちゃって現在に至る。まぁ、日本は憲法の問題があるので、軍隊ではなく自衛隊なのだが、自衛隊を軍隊にしたくてウズウズしているのは日本の某政党だけではなく、日本を非武装としたアメリカ当人である。

 とまぁ、いま私は超大雑把かつ乱暴な説明をしたが、本書は学術論文なので今言ったようなことをもっと詳細緻密に論じているわけだ。事例も日本の戦後統治だけでなく、ベトナム戦争など多くの事例からアメリカがいかに歴史から得た教訓を誤用し、失敗してきたかを論じている。

 しかし、本書はあくまでも歴史の教訓を活用しようとする本なので、こうした歴史の教訓を誤用しないための方法も論じられている。まずは歴史家の使命についても、未来予測をより正確に行うために過去の歴史の分析技術を持つ者と考える。とするならば、そうした”技術者”である以上”国家試験による資格制”を導入すべきと提言する。国家試験に受からない者は、歴史家あるいは歴史研究家と名乗ってはならんということですな。これが導入されれば、在野史家とかアマチュア研究者といった曖昧な存在はいなくなる(苦笑)。免許制やからね。

 で、当然そうした歴史家を育てるために、史学教育の改革からはじめなければならないというのが著者の主張だったりする。

 

 まぁ、そうした政治世界で活用する”政策決定の場にいる歴史家”の話しは、とりあえず今は関係ないので棚上げしておくとして、ようはなぜ「歴史から得た教訓が誤用され続けるのか」という点と、「教訓のほとんど全部が誤用される」という仕組みを知ることができる本書は、非常に有益なのだな。

 どうやら、一つの原因として「人は信じたいものを信じて固執する」ためらしい。これは戊辰戦争でも見受けられる。

 

 幕末も終わり頃になり、倒幕論が出てくると如何にして幕府を倒すのかという議論が起きてきた。当時の学問の多くが儒教朱子学だったり、国学だったり水戸学だったりするのだが、これらに共通することは日本の歴史を重視した学問だと言うこと。必然的に倒幕の方法も歴史的事例を参考にしようとする。つまり、歴史から教訓を得ようとしたわけだ。

 幕長戦争(四境戦争)では、幕府側は圧倒的な兵力を動員した。兵力だけなら長州藩の敗北は決まったも同然。このとき、幕府側は関ヶ原合戦の故事に従った戦略を取っている。徳川本軍は後方に置き、まずは外様大名を戦わせる。でも、一番槍は彦根井伊家と決まっているから真っ先に井伊の赤備えが突っ込むという手順。

 結果は皆さんご存じの通り、赤い鎧に刀槍を手に突っ込んで行った井伊隊が、長州藩の洋銃装備の諸隊にボロカスにされて敗北。外様大名たちも関ヶ原の時のようにヤル気満々ではないから士気がなく、ほとんど戦況が膠着状態になってから長州諸隊などに対抗できる真打ち幕府歩兵隊が戦場に出てきたものの、すでに幕府軍の士気が振るわず、まごまごしている間に将軍家茂が病死したことで停戦になるという体たらくだった。

 では倒幕派はどうかといえば、こちらも似たい寄ったりで、「太平記」の鎌倉幕府滅亡からの教訓で、楠木正成のように西国で幕府軍を釘付けに時間稼ぎを行い、手薄になった関東を東国の兵が攻めて幕府を滅ぼすという戦略だった。つまり、薩長が天皇を自軍に引き入れて戦うけれども、強大な幕府軍を相手に勝ち目はないから、天皇を西国に動座させて長州へ、長州で持久できなければ薩摩へ天皇を移しながら持久する。そのスキに、手薄になった江戸幕府を背後から襲撃して滅ぼす。で、幕府の本拠地たる江戸を攻める兵はどこか?。薩長が熱視線を送ったのが仙台藩だったわけだ。仙台伊達家は外様大名だったし、東北諸大名のなかでは薩摩藩に匹敵する62万石前後の大藩であったから。

 倒幕派が大雑把過ぎるのは、こうした仙台藩への期待を在京の仙台藩士たちにもあまり伝えず、逆に王政復古後に朝廷に従っていたというだけで仙台藩は倒幕派だとド勘違いしてたこと。これが世良修蔵など奥羽鎮撫総督府の兵力が少なくても、仙台に行きさえすれば仙台藩が兵隊を出すはずから会津征討も簡単だという安易な戦略につながっていく。

 では、実際どうなったかといえば、これも皆さんご存じの通り、仙台藩は倒幕派になるどころか奥羽越列藩同盟の盟主になり、佐幕派最大勢力になっているという……。つまり、歴史から教訓を学んでいないというより誤用しているわけだ。

 

 さて、問題なのはこうした誤用が現代でも起きないはずはない。というより、起きるはずだということ。

 

 一つの例として、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)というものがある。協定を結んだ国家の間では、関税を撤廃しようというもので、これを締結するかどうかで議論が起きた際、これを幕末当時の「開国」と位置づけた議論があった。関税自主権を行使できないという点で、開国時の不平等条約に見立てたわけである。特に関税が無くなると日本の農産物が保護されなくなることから、農協などから反発が大きかったのだが、この農協を尊王攘夷派と見立て、開国は国際社会の趨勢だから開国すべきだと推進派が叫んでいたわけだな。

 しかし、良く考えてみればTPPは不平等でも何でも無い。条約内容はみんなで議論して決めるわけだから。実際、日本よりアメリカの方が嫌がり、不平等だと言ってTPPを蹴ったのはアメリカのトランプ前大統領だったわけで(汗)。しかも、幕末当時のように絹とお茶しか輸出するものが無かった幕末当時の日本とは違い、現在の日本には自動車などの機械産業がある。農作物は国際競争では不利かも知れないが、機械産業の方では逆に席巻できた可能性が高かったわけで。

 このことからも、TPPと幕末の開国を結びつけた議論はナンセンスであり、歴史の誤用の代表例だろうと思う。

 

 そして、某”維新”な名を持つ政党も同じだろう。この政党は当然、政府与党を幕府と見立てて対抗する意味から維新という単語が政党名になっていると思われるが、この維新という言葉には「悪い政権を倒し、良い政権を作る」という革命の意味がある。では、今の政府与党と憲法改正議論などでこの政党は対立しているだろうか?。政府与党とは是是非非でという方針になっていたと私は思うのだが、悪い政権と共存しようとするならば、維新という言葉にある意味はどうなっちゃったのだ?。ということである。

 もちろん、この是是非非という方針は間違ってはいないと思う。党の方針と合致すれば協力し、違えば争う。それが国会議論というものだろう。つまり、この党の結党時から状況が変わったということである。幕末政局と現代政局が同じではなかった。だから、当初は維新の名を付けたが、今は状況が違うということだ。

 これも一つの「歴史の誤用」であろうと思う。

 

 そんなわけで、以外に「歴史のなかから教訓を学ぼう」というのは激烈に難しい。むしろ、「歴史から教訓を学ぶな。過去の歴史など参考にせず、今ある問題は今の叡智を結集して解決せい」という方が安全だと私は思う訳だな。

 ということで、本書を読めば安易に「歴史から学ぼう」と叫ぶのは危険だということが理解できる。この危険を知った上で歴史を学ぶか、知らずに学ぶかで大きな違いが出て来るので、史学概論の勉強をしたあとならば本書を読むことをお勧めする。

 ちなみに、史学概論の知識がないまま本書に手を出してもかまないけれど、まぁ順序的に史学とは何かを知った上で読むべき本だろうと思うので、本書を読む前に史学概論の本を一冊でも読んでおくことが理想である。