新徴組調査と新田荘遺跡(徳川氏発祥の地) | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

↑南北朝時代の武将・新田義貞公像

 

 先週の土曜日のことになりますが、研究家のあさくらゆう先生のお誘いで、群馬県太田市にある新田荘遺跡へ行って参りました。

スタートは、本庄駅からです。浪士組も泊まったという本庄宿ですね♪。

 上記写真は、本庄市民俗資料館前にある本庄宿本陣の門(移築)です。

↑本庄宿本陣門の案内版です。

 

 資料館では、職員の方に色々と説明してもらっちゃいました。また、古墳時代の発掘物なども展示してあり、撮影OKということでしたので、片っ端から撮影しまくって来ましたわよ。いやぁ、だって普通の博物館は撮影禁止だし、埴輪や土器など撮影できるものは撮影して、後日の資料写真にしたかったもんで~。

 本庄で発掘された埴輪の特徴は、”みんなニコニコニー”している埴輪だそうです。確かに笑顔です。暗闇で見ると、逆に怖いッス。

 本庄宿に残されている記録は、かなり詳細なものらしく、誰が来たのか全部記録されているとのこと。写真は”鬼平”こと長谷川平蔵が本庄宿を通過したことが書かれている文書。

 そして、幕末のアイドル和宮さまが江戸へ下ったときの記録も展示されておりました。

 

 本庄宿と言えば、幕府浪士組が京都へ向かった際、芹澤鴨の宿が手配されておらず、野宿を決意した芹澤鴨がキャンプファイアーを焚いて大騒ぎという事件が有名ですが、職員の方の話しでは「そんな記録はまったくない」とのことでした。それどころか、浪士組に関する記録がまったくないのだそうです。浪士組を率いた幕臣達はキチンとした身分のある人達なので、記録がないと逆に変なのですが、全然ないのだそうです(汗)。そんなわけで、芹澤鴨がキャンプファイアーをやったというのは、創作だろうというのが当方の見方です。が、これまた”ないこと証明(悪魔の証明)”であるため、否定しきるのが難しい。ただ、「そんな記録はない」としか言えないわけです。なにしろ、やったという証拠がないわけなので。

 なお、芹澤鴨出身地論争でも、「芹澤鴨が行方出身ではない」という論調に徹底的に否定的なのは、これが悪魔の証明(消極的証明)だからです。”「ない」ことは証明できない”のです。これは他者に対してだけでなく、友人に対しても同じで、例えば「大和屋焼き討ち事件の犯人は芹澤鴨ではない」という論証を行おうとした友人に対しても、「やってないという証明はできないよ」と繰り返して説いたので、できた論文は「芹澤鴨が犯人である可能性は低い」という形の少々歯切れの悪いものになりました。でも、それも仕方がないのです。それ以外でも、”ないこと証明(悪魔の証明)”をしようとした人に対しては、誰彼構わず私は常に否定的な態度を取っております。たぶん、それは私を良く知る友人なら、よく知っていることでしょう(苦笑)。でも、逆に「○○である」という形の積極的証明の形ならば、いとも簡単に同意します。だって、証拠があるのだから実証されたということなので。

 なお、大和屋焼き討ち事件に関して補足すれば、焼き討ち当日の夕刻まで芹澤鴨は壬生で相撲興行をやっていました。彼は筆頭局長ですから主催者でもあります。その彼が、数時間後に焼き討ちを決行するというのは非常に考えにくい。江戸時代ですから、イベントが終わった後は、彼は責任者として招待客や相撲取りなどの労をねぎらわなければなりません。イベントが終わったら、さっさと席を抜けて……ということは無理ではなかろうかと思う。こうした雑務を次席の近藤勇に丸投げしたとしても、他所へ延焼しないように手配りし、かつ無関係の住民に避難勧告した上で焼き討ちするというのは時間的にも無理がありましょう。これだけの計画をわずか数時間の間に仲間を集めてできるとは思えないのですね。なので、限りなく芹澤鴨は無関係かと思われます。無論、そうとう緻密に計画を練っていればできるかもしれませんが、芹澤鴨が緻密な計画をたて、共犯者たちにも計画を徹底させて実行し、完全犯罪を成し遂げるような知能犯に見えます??。そういうことです(苦笑)。

 

 本庄民俗資料館を出たあとは、レンタカーを走らせて新徴組隊士調査です。

上記は、深町矢柄のお墓をお参りです。『浪士姓名簿』にも名前がある方です。

 墓碑に「新徴組」だったことが記されていました。

 次に新田荘資料館へ。新田義貞公の像もここにあります。

館内で、唯一撮影可だった大河ドラマ『太平記』で使用された新田義貞の鎧です。

ここで、また色々とお話しを聞き、新田荘史跡から発掘されたものなどを見学します。

 

 同じ場所に「東照宮」もありますので、お参りします。何気に、ここは徳川氏ゆかりの場所なのです。

上記は、その案内版です。

ここには、新田氏末裔の岩松俊純のお墓もありますのでお参りします~。

 相楽総三らも関わっていた「新田の子孫を担いで、尊攘挙兵しようとした事件」があったのですが、担ぎ出されそうになったのは彼かなと思います。もちろん、あまりに危険な挙兵計画だったので、彼は参加を拒絶、幕府へ通報して計画は頓挫しております。

 新田姓を変更し、徳川姓をはじめて名乗った徳川義季を開基とする長楽寺です。

上記は、その案内版になります。

 次に行った場所が、この徳川義季が住んでいたという館跡です。

 現在、ここも「東照宮」になっております。ちなみに、ココ場所の住所は「徳川町」。かつては「得川」と言われていたと思います。そんなわけで、徳川義季と呼ばれているものの、正確には得川義季だと思うのだけれど。どうなんでしょう??。

 上記は、その案内版です。「徳川氏発祥の地」とありますが、松平氏の発祥地ではありませんので、ご注意を。徳川家康は、新田氏の子孫とされておりますが、非常に怪しいと見るのが通説です(苦笑)。征夷大将軍になるためには、源氏でなきゃいけませんのでねぇ~。

 

 そして、徳川義季館跡の前にある「満徳時」です。数少ない幕府公認の縁切り寺だったそうです。

 上記はその案内版となります。

 

 そして、今回私が一番行きたかった場所「新田郡庁跡(新田郡衙跡)」です。

いやぁ、思ったより凄かった。何が凄いかというと、平安時代の県庁所在地たる国府(国衙)は残っている場所もあるのですが、平安時代の市役所は規模も小さいため、保存状態の良いものが少ない。以前に行った相馬郡衙は開発されてしまっていたし、志太郡衙は建物の配置から、役所部分ではなくて郡司の館跡だろうとされています。そんな中で、新田郡庁跡は郡衙の建物配置がキッチリ発掘されているのですよ。

上記は、新田郡庁跡の案内版です。

案内版にある郡衙の建物配置。基本的にはこんな形で各地の郡衙も作られていたはずです。

案内版にある航空写真ですが、これを見ても基本配置された建物すべてが揃っているのがわかります。いやぁ、私も郡衙全体をはじめて見学しちゃいました。

上記写真は、郡衙の主殿部分。ドラム缶が置いてありますが、柱の跡です。この主殿の両脇に脇殿があります。もう資料写真撮りまくりでしたわよ(嬉)。

 

 さて、上記の遺跡群は主として私が見たかった場所だったわけですが、これらはあさくら先生の新徴組調査の合間に立ち寄って貰っていた場所であります。当然ながら、あさくら先生の墓碑やお墓を中心とする調査も進展しておりまして、多くのお墓をお参りしてたりします。私個人の意志として、お墓を見せびらかすのもなぁと思いますのでネット上の掲載は控えております。

 そんな中でも、今まで良く所在がわからなかったという新徴組森村東之助のお墓を無事見つけ出せたのでお参りしました。

 

 もう日が沈んでしまって真っ暗でしたけども。このお墓の他、多くのお墓をお参りしてきた次第です。あさくら先生の新徴組調査も大きく前進したっぽい。私は新徴組に関しては専門外なので、詳細は後日のあさくら先生の発表をお待ち下さいマセ~。

 

 以上、なかなか充実した日々でございました。あさくら先生もお疲れ様でした~♪。