沖田総司のお墓をはじめ、麻布方面の墓所巡り | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 今日は、台風が日本列島を縦断する日ということで、大河ドラマ「西郷どん」すら休止し、関東JR在来線は午後8時をもって運行を中止するという厳戒態勢で台風を迎え撃つという日でした。

 とはいえ、台風が関東に最接近するのは深夜なので、天気は悪いが史跡巡りはできないことはない。そんなわけで、当初から約束もしていたということで、またまた研究家あさくらゆう先生と共に六本木や麻布近辺の墓所を巡り、歴史上の人物達のお墓を拝みにいってきました。

 

 というか、当初は「沖田総司のお墓(沖田家墓所)を拝みに行く」ということで、いまだに行ったことがなかったこともあり、あさくら先生にくっついていったんですね。台風が来るということもあり、午前中に訪問して午後は撤収という予定にならざるを得ないはずだったので、沖田家の墓所だけ拝んだら、近くにある長州藩下屋敷や長府藩上屋敷跡でも見て帰宅しようと思ってました。

 ところが、以外にも昼間は雨が降らず曇りで、予報では午後4時ごろから雨が降るという感じに変更になってた。そんなわけで、沖田家墓所を拝んだあと、あさくら先生が「せっかく来たのだから、ついでに……」ということで墓所巡りに行く事に。

 

 そんなわけで、今回は「お墓の写真」ばっかりになります。これは、毎度言っていることですが、くどいですけども恒例なのでまた書きます(苦笑)。お墓を見世物にするのは私自身のポリシーに反しますので、写真も必要が無ければ公開はしない主義です。が、”今回はこれしか無いんだもん”ということで、あくまでも”史料”として公開します。お墓は史料にもなりますが、その主たる目的は慰霊にあります。史料にするために存在しているわけじゃない。ということで、皆様もそこのところをよろしくです。ただし、これはあくまでも私自身の主義主張であり、それを他者に押し付ける気もありませんので、当ブログのローカルルールとでも思っててくださいませ。他者には他者の主義主張があるのだろうしね。

 本当なら、長州藩や長府藩の江戸藩邸をご紹介し、沖田家墓所へ行ったことすら秘密にしようかなと思ってたぐらいです。まー、なんとか長州藩邸だけでも行って、それだけブログに紹介し、沖田家墓所には行ったよという報告だけにしたかったんだけどもなぁ。雨がなぁ……降ってきちゃったもんでなぁ……台風来てるし……だとすると時間切れだし……墓地しか行けなかったなぁ……と。

 

 気を取り直し、今日行ったところのご紹介をしていきたいと思います。

 

沖田総司のお墓がある専称寺の門です。その横にある小道を進むと、壁越しに沖田総司のお墓を見ることができます。

 

 沖田家の墓所です。屋根の付いているお墓が、沖田総司のお墓なのだそうです。専称寺の墓域は立入禁止で、壁越しからしか拝むことはできません。でもね、たぶんこの姿勢が正しい。お墓は他人のためにあるのではなく、故人の子孫が祖先を慰霊するためにあるのですから、無関係の他人がドカドカ入っていい場所じゃないと。血あるいは家(家系)でつながった関係の人達の聖域なんですよね。たぶん。

 たまたま、祖先に歴史的に有名な人がいたからということで、大目に見て貰っている場所が多いですが、実際問題”誰だかわからん奴が自分の家のお墓を拝んでたら、アンタ何者よ?”とか、私なら思っちゃうしね。

 とはいえ、沖田家の墓所が非公開になってしまったのには、色々な問題があったからと聞いております。詳しくは言いませんけども。

 ちなみに、私は壁越しに高倍率ズームレンズを用いて撮影しましたので、望遠状態で撮影できました。

 

 専称寺を後にして、途中の神社に立ち寄り休憩。

ちょっとモデルさんが屋根に居たので撮影会などしてたり(苦笑)。

 

 丁度お昼になったので、都立中央図書館まで歩き昼ご飯を食べました。そして、次の墓所へと向かいます。

 

 都立中央図書館から非常に近い場所にある「天真寺」に立ち寄ります。入り口付近に大きな碑が建っていました。

 明治初期から昭和に活躍した神道無念流の剣客、中山博道(範士)の碑です。明治維新後、古流剣術は衰退していく中で、神道無念流を後世に残した名剣士だったとのこと。このあたりは、あさくら先生の領分ですかね。お墓も同お寺にありました。

 その他、福岡藩の戊辰戦争戦病死者墓地もこのお寺にありました。

 壁に囲まれた区域に多くのお墓がまとめられています。これは偶然の発見という奴で、手を合わせて拝ませて頂きました。

 

 次に「光林寺」にお参りします。このお寺にはヒュースケンのお墓があります。

 

 アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官だったヒュースケン。尊攘派志士の異人切りのターゲットにされ命を落とします。

そして、この光林寺に葬られたとのこと。

 

 手を合わせて拝みます。でも、和風仏式の墓石には十字架が掘られ、英語で文字が刻まれていました。

お線香を供える場所もちゃんとあります。うーむ……はじめて見ました……。神仏習合墓はよく見るんですが、耶蘇仏習合?うーむ……。今考えると、手を合わせるんじゃなくて、手で十字を切らないといけなかったのかなかな??。

 

 このお寺には海援隊士菅野覚兵衛のお墓もあります。

 坂本龍馬同様に、土佐勤王党の党員で、勝海舟の弟子となり神戸海軍操練所の塾生にもなった人らしいです。そして、はやり海援隊にも参加していました。坂本龍馬の妻だったおりょう(楢崎龍)の妹「起美(きみ)」を妻に向かえており、龍馬とは義兄弟だったとか。

 なので、覚兵衛のお墓の横には起美さんのお墓がありました。

 

 そして、最後に「龍原寺」に行き、田口加賀守のお墓を拝みます。

 長崎奉行まで務めた叩き上げの人物だったとのこと。ただし、天保の改革で失脚してしまったらしい。失脚させたのは妖怪とまで言われた鳥井耀蔵と聞いて、思わず納得(苦笑)。でも、鳥井耀蔵も幕末期の人物で、しっかりこの混乱期を生き残り、明治時代に駿府で暮らしてたりします。その日記とかも史料として残されていたはず。調べてみたい人物の一人だったります。

 

 で、写真を見て貰えれば解りますが、この時点でついに”強い雨”が降り出してしまいまして、喫茶店に入って雨宿りついでに休憩。そんなことをしていたら空も暗くなり……というか、雲が厚いんで夕方というだけで暗くなりやすい。JRも午後8時に全部運休だというし、気の早いところは午後5時から運休だとも聞いており、まだ午後4時ごろでしたが長州藩邸や長府藩邸を見て回るにはチト無謀。まー、雨ですしね。どうせ見学するなら晴れた日に……という思いもあって、今日は撤収と相成りました。

 

 そういう訳で、あいにくの天気でしたが、あさくら先生がいなかったらどのお寺に誰のお墓があるのかも解りませぬゆえ、今日は色々と見て回れて良かったです~。ということで、あさくら先生、お疲れ様でした~。