武士道と騎士道2 | 幕末ヤ撃団

幕末ヤ撃団

勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

桜が咲いちゃいましたな。

 いや、マジ綺麗です。気の合う仲間と夜桜を眺めつつ一杯……という企画も近々行いますけども……。

桜で思い出す言葉が「花は桜木、人は武士」という言葉でしょうか。

ことわざ辞典でなどで調べてみると「花は桜木人は武士とは、花の中では桜がもっともすぐれており、人の中では武士が第一であるということ」とあります。

 

 でも、私はこの言葉が大嫌いです(苦笑)。

花は桜だけかよ?梅の花は美しくないのか?。武士じゃなければ人じゃないみたいな意味にも取れる。身分差別丸出しじゃん。

と、思う訳です。

 世の中、武士道を美化したり賛美したりする傾向が強いですが、武士道を批判的に見る目も必要だと考えており、そうした目線で私は武士道を見るようにしています。ただし、無闇矢鱈と武士道を批判すればいいというものでもない。批判するにも根拠がなければ、正統な批判とは言えません。先の言葉「花は桜木、人は武士」の出典は良く解りませんが、江戸時代ならば武士が指導者知識層にいる職分ですので、この言葉はありかなと思いますが、現代人の思想としてはどうよ?。とか考えちゃうわけです。でも、なんとなくですが……この言葉がもて囃されたのって戦前の昭和初期、軍国主義のなかじゃないかなぁと。(人の)散り際(死)が美しいというのは、殉国の精神がもて囃された戦時中だと思うんだよね。軍歌「同期の桜」なんてまさにコレそのものだし。

まぁ、そんなところから、私の武士道探求がスタートしているんですね。

空疎な理想論や精神論など嫌いだ。だから歴史の中のリアルな武士道を調べよう。というのが私の最大のテーマですから。

 

 実は、現在の幕末・明治維新研究の世界で、この”武士道”がかなり無視された状態で論じられているということも動機の一つです。常々、明治維新はなぜ起きたのか?。戊辰戦争という戦いも起きましたが、この戦争の性質はかなり特殊で、それまで日本で起きた戦い……例えば源平合戦や南北朝の戦い、戦国乱世などと比べると”自分の利益を増やしたい野心家による戦い”にならなかったという点があります。

 薩長土肥が戊辰戦争でおいしい目にあっていると思う人もいるかもしれませんが、戊辰戦争の論功行賞で薩長土肥が得た領地は10万石です。あれだけの犠牲を払って、たったの10万石しか増えていない。関ヶ原の合戦の時は、5万石の外様大名が家康に味方しただけで、25万石とかの領地を貰っていることを考えれば、全然割が合わないんですよね。しかも、論功行賞が行われた同日に、薩長土肥は「版籍奉還」を行って、形として藩の領地を天皇に返している。島津公も毛利公も領主から知事になっちゃってる。

 ある種、”利益獲得のために戦った訳じゃない”と道徳的な判断が、ここで行われているわけです。そうした考えを生み出したものの正体は何か?と、考えた時、”公”の精神を重視する朱子学的な武士精神たる「士道」が大いに関係しているのではないか?。と、私は考えています。また、その一方で、戦闘者としての精神、戦国時代以前からある武士道精神も、当然関わってくる。

 ところが、この武士道研究がなかなか難しく、今現在でも「武士道とは何か」という定義自体が定まっていない。大学の偉い先生方が論争の真っ最中だったりする。そんなわけで、幕末史研究の世界に武士道研究が反映しにくいという状態にあります。

 とはいえ、この論争の決着を待っていては、武士道精神という重要な要素が抜け落ちたまま幕末史・明治維新史を探求していく事になる。幕末史や明治維新史を深く知る上で、重大な欠陥を抱えたまま幕末史や明治維新史を論じ続けることになり、それじゃダメなんじゃないか?。と、思ってしまった訳です。

 

 結局、自分自身がこれまで論じてきた幕末史や明治維新史、戊辰戦争史もまた、こうした武士道を度外視した形でやってきたわけですが、それを武士道精神という倫理思想を加味した形で、もう一度考え直さなければダメだと思ったのが二年前ぐらいだった。以来、口が開けば”武士道がー”と言い続けている訳ですが、そんなわけで決して、”武士道は素晴らしいー”なんてことは言わない訳です(苦笑)。

 

さて、前置きが長くなりました。本題に入りましょう。

「騎士道」と「武士道」の違いと言う事で、まずは武士道の特徴から説明していこうと思います。

 

 武士道は武士の精神・倫理道徳ですが、大きく分けて「武士道」と「士道」とに分離できます。

 

 武士道は、武士が武士でいるための技術や精神であり、武士が誕生したときからあります。ぶっちゃけ、武士の生き残るための精神であり、根っこは人間の感情にあります。合戦に負ければ一族郎党はすべてを失う。名誉も領地も奪われます。そうさせない為には戦いに勝つことが最善ですから、武士は「勝つ」ことを精神の中心に置きました。「弓馬の道」とも言われた精神で、弓矢を上手く射る技術や馬術を覚えなければ合戦で勝つことができない。そして、いつしか「合戦の場」こそが、武士の力量発揮の場と認識され、武士の檜舞台としての戦場が意識されるようになります。また、強さを発揮すればするほど、”寄らば大樹”と言わんばかりに武士達が、その強さにあやかろうと傘下に加わってくる。強さが強さを呼び、武士団が形成される。主君と家臣という形になります。

 そうすると武士団の中に、暗黙のルールが出来てくる。君主は傘下に加わり、力を貸してくれる家臣達を庇護する役目が追わされ、家臣達もまた主君に力を貸すことが義務となる。歴史の教科書でも重要単語になっている「御恩と奉公」という奴です。戦国時代以前の主君と家臣の関係は”ウィンウィン”でなきゃいけないんですね。なので、このウィンウィンの関係が崩れた時、下克上や裏切りが当然のように行われます。自分を守ってくれない主君、弱くて自分を守れない君主など主君ではない。自分を守ってくれる新しい主君を探そうという行為は、武士が生き残る為に常識的行う行為なんです。

 逆に戦に負けたり、弱さを見せてしまうことを武士道では「恥」と認識します。先に述べた通り、武士の強さ”武名”によって、武士団の結束が図られている以上、弱さの象徴である”恥”は、逆に武士団の弱体化を招きます。弱ければ滅びるのが武士世界ですから、武士は”恥”を厳禁とします。恥を与えられれば報復して恥をそそぐ。汚名は挽回しなければいけないのです。

 そんなわけで武士道を一言で言えば、「武士の暴力を正当化させる」倫理道徳が武士道なのではないかと考えています。

 

 一方、士道はどうかと言えば、こちらは儒教朱子学のなかから生まれてきた武士のための精神です。戦いに特化した精神では無く、朱子学的な道徳的社会を作るための精神と言えましょうか。朱子学では「治国平天下」の世界を目指します。道徳的な明君が領地を治めることで、領地は平穏で、領民の安泰な幸せな世界を目指す。それは、皆が道徳的であることで達成されます。領主が領民を労り、領民もまたそんな主君のために日々努力する。人間として道徳心に満ちあふれれば、合戦の無い世界になる。これを「徳治」と言います。徳によって国を治めるんですね。ちなみに、法律によって人々を縛る治め方を「法治」と言います。

 こうした儒教朱子学の影響を受けた士道では、「忠」と「孝」が重視される。忠とは忠義のことで、主君を倒して自分がそれに取って代わろうとする下克上的精神は否定されます。利益よりも徳を重視しろというのが士道精神となります。また、孝は家族兄弟を大切にする精神です。他にも「仁義礼知信」といった五常の徳目も重視され、これらを高いレベルで保持するのが武士であるとします。武士は行政政治を担当する支配階級ですから、その支配階級が己の利得を捨て、世のため人のために尽くすならば汚職も無く、利権を獲得するための戦争も無いというわけです。ここらへんの思想が、戊辰戦争を特殊な戦争にさせていると私は考えています。つまり、ここで武士達の存在目的が”自分が生き残る為”ではなく”世の中を平穏に保つため、秩序ある世を守るため”になります。それまでウィンウィンの関係だった主君と家臣の関係も、「家臣が主君に忠勤するのは当然」という認識にかわり、主君が暗愚でも家臣は忠勤を向けるべしと変化します。ウィンウィンではなくなるんですね。ここが最も大きな変化点です。

 

 そして、江戸時代末期の武士達は、この武士道と士道とを無意識に両方とも持っています。無意識に持っているというのが重要で、当時の武士達は、どうやら現代の歴史家のように武士道と士道とを明確に分けて考えていたわけではなさそうなんですね。かなりラフに、武士の精神はそういうものだという意識で持っていました。なので、史料などでは武士道と士道という二つの言葉が、同義語のようになって登場します。便宜上、それでは分析できないので、思想史家の世界では武士道と士道とを分けて考えるのが普通です。

 

 以上が日本の武士道です。では、西洋の騎士道はどうなんでしょうか?。

 

 日本では、平安時代末期に武士が登場し、武士道も同時に生まれました。江戸時代という平和な時代になって、儒教道徳を大幅に取り入れた士道が隆盛します。

 一方、騎士道の方はかなり早い段階からキリスト教会からのテコ入れがあったせいで、キリスト教道徳と騎士道は融合してきます。それは戦う精神と道徳精神の融合が計られていたことを意味します。日本では、戦う精神たる武士道と道徳的な士道とが不明瞭なまま共存していましたから、戊辰戦争では二つの考え方が衝突し、結果として「主戦派」と「恭順派」の争いへと発展してしまいましたが、騎士道では、騎士は最初からキリスト教の教義・戒律・道徳の体現者である事が求められました。

 まぁ、そうはいっても異教徒相手の時は、騎士もかなり非道な行為をやってましたけどね(苦笑)。

 武士道では、とにかく「恥」を意識していましたが、騎士道では「名誉」の方が重視されます。日本の武士は「恥は自分を滅ぼしかねない」とビクビクして神経質だったのに対し、西欧の騎士は名誉に対して貪欲で、個人の権利や利得も肯定的でした。この個人というものに対し日本の武士はあまり意識しません。日本人は常に”集団”を意識するので、”集団の中の自分”という形でしか個人を意識しない傾向が強いんですね。武士団の中での自分、或いは藩や家中の中での自分、村の中でも自分という形です。これに対して、キリスト教では、聖書で「人はみな平等」と説かれちゃっているので、個人も集団と同様に意識されました。

 つまり、武士は武士団や藩といった組織集団に属して……それは主君を得てナンボということになるんですが、騎士は個人のままでも問題は無い。なので、騎士団の中で主君を持たない教会直属の騎士団なんてもの出てくる。同じ宗派同士での戦いは少ないかわりに、異教徒や異端派の討伐ではメチャクチャ酷い事をする。まぁ、そうはいっても王様は大抵教会ともつながって、領地を支配しているわけで、騎士の領地や身分保障も王様が俗世の責務として管轄していますから、王様を蔑ろにもできない。なので、王様に仕える騎士は、当然その忠誠心を王様に向けなきゃいけないんですが。これに対して日本の武士の場合は、宗教団体と武家が明確に別れているので、織田信長と本願寺の戦いみたいな形で武家と教団が争う場面が多く発生します。

 そんなわけで、騎士道世界で良く言われる騎士精神は、「魂は神に、生命は国王に、名誉は余に」という格言に現れている。信仰心はキリスト教に捧げ、主君である国王の家臣(騎士)として命がけで戦い、その名誉は個人に帰する。

 

 んで、個人的にもっとも大きな違いは、キリスト教には聖母マリア信仰があるように「女性信仰」的な部分がある。儒教では、男が「陽」、女が「陰」の属性を持ち、陰陽交わって万物(子)を生むと考えられている上、この陽気と陰気が運勢にも関わるため、男は「表社会で働け」、女は「内に籠もって男を支えろ」という形になる。女は表社会で活躍すると、陰気が表に現れることになり不運を招くみたいな思想があるんです。女は男を支える内助の功こそが使命という考え方になる。結婚した女性を「奥様」とかいうのって「奥の方(表に出ない)にいる人」という意味じゃないのかと勘ぐったりもしていますが、要は思想的に徹底した男尊女卑なんですね。

 これに対して、騎士道では女性信仰があるために今で言うレディーファーストの精神がある。博愛精神から弱者を守るのが騎士だという思想が生まれ、女子供は守る(ただし同じ宗教宗派であることが前提)精神がありました。女性を尊ぶことから、女性の為に戦うのが騎士というような考え方が生まれ、ぶっちゃけ王様の前で王妃さまに「あなたへの愛の為に戦います」と宣言したりするのが騎士らしさになります。王様から見れば、自分の妻へ愛を告白しているわけですから怒りそうなものなんですが、王様は黙認します。王妃様は、騎士からの宣言を受けとり「ならば私の為に働いて下さい」とまで言うのが騎士世界でした。欧米は自由恋愛なんで(苦笑)。王様も「俺の嫁にちょっかい出しやがったなこの野郎ー」的なことは言いません。王様も逆に騎士を誉める側に廻ります。しかし、自由に恋愛できるのはここまで、肉体関係までやってしまうとキリスト教の戒律に違反しますので罰せられます。心だけが自由なんです。こうした行為も騎士は自身の名誉を高めるものとして行っていたらしいです。

 まぁ、ぶっちゃけ高貴な女性から愛を受けることは名誉だという世界なんです。なので、一番騎士達が望むのは「悪い魔法使いが、高い塔に閉じ込めたお姫様を救い出す」ことでございまして(苦笑)。”かわいいあの娘に私のカッコイイところ見せたい”であり、”ついでに愛も”という男の夢というか思想が騎士道にはありました(苦笑)。

 こういうのは武士道にはないところですね。日本の武士の感覚では、「女は男の三歩後ろを歩け、前に出てくるな」ですから。最もよく知られたところでは会津藩の武士教育にある「什の誓い」にある「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」という条文で、会津藩に限らず武士達はこのように一般教育されてきたんですねぇ。

 

 そんなわけで、武士道と騎士道で最も特徴的に違うのは、この女性観だろうなぁと思います。戦闘者の精神としては「恥」とか「名誉」など微妙な違いがありますが、結局は戦闘者としてのプライドに直結しており似たようなものと私は思っています。