最近はブログに書くネタが無い(苦笑)。とはいえ、一ヶ月以上放置というのもなんなので、無理矢理ではあるが何か書こうと思う。
私の故郷は静岡県は燒津市という港町だ。隣には藤枝市があり、江戸時代は東海道の宿場として栄えた。
これが戦国時代となると、何気に今川、武田、徳川の争乱地となっており、お城ファンなら知っている円形の駿州田中城などが史跡として残されている。
で、今回はかなり昔の話しになるが、「花倉の乱」に関して記事を書いた時に取材した写真などを紹介したいと思う。
史跡写真の紹介とはいうものの、実はブログなどで公開するのは今回が初めて。理由は”カメラを忘れてきてしまった”からだ(苦笑)。史跡調査にわざわざ行ったのに、カメラを忘れては如何ともし難い。が、この城が実家から自転車で行けるような場所にあるから、また写真撮影に来れば良いと気軽に考え、携帯電話の撮影機能だけを使った写真のみ撮った。それ以後、その機会に恵まれずにいるのだが(泣)。
さて、「花倉の乱」について、ザックリ説明しておこう。
戦国大名で有名な”今川義元”という武将がいる。駿河を本拠に三河を領有し、徳川家康(松平元康)を配下に加えていた武将だ。ゲーム「信長の野望」や大河ドラマなどでは”公家趣味のお歯黒大名”とか”信長のやられ役”で有名なんだが、史実では東海道一の弓取りと呼ばれ、戦国有数の強大勢力として東海道を制していた。この今川義元もまた、戦国大名らしく”血生臭い戦い”を経て、今川家当主となっている。この血生臭い事件、つまり今川家のお家騒動こそが「花倉の乱」と呼ばれる。
今川義元の父、今川氏親には五人の息子達が有り、嫡男の氏輝が順当に今川家当主に就任していた。その他の兄弟は、お家騒動にならないように出家させている。1523年、京都にいた太原雪斎を招き、五男の栴岳承芳(後の今川義元)を出家および養育させたりしていた。この後、太原雪斎と栴岳承芳の二人は京都に行き、僧侶となるべく修業の日々を送っている。
元々京都の高僧として名高い太原雪斎は、栴岳承芳を自分の後を継ぐべき逸材として育て上げようとしており、栴岳承芳の方も今川家は長男が継いだことから、自分も心置きなく高僧になる道を歩んでいた。仮に長男に何かが起こったとしても、彼は五人兄弟の末っ子なので、家督相続の可能性は低い。僧侶として身を立てる以外に生きる術はなかっただろう。
つまり、徳川家康や織田信長を恐れさせた今川義元は、この時点では戦国大名になれる可能性は低かったのだ。
ところが1536年、当主の氏輝と上位継承者の弟が同時に死去してしまう。つまり、今川家は当主とその後継者を同時に失ってしまった。この非常事態に氏親正室の寿桂尼は、栴岳承芳を今川家後継に選び、京都から駿河へ呼び寄せようとする。大河ドラマ「女城主 直虎」で、武田信玄に分した松平健に「あのババぁ、まだ生きてるのか…」と言わしめた女傑だ。この企みに太原雪斎も噛んでいたとも言われる。別説では、栴岳承芳はすでに高僧の域に到達するほど修業が進んでおり、このまま僧侶修業をやめて大名になるのはもったいないと反対したとも言われる。が、お家の一大事とあっては栴岳承芳も駿河に戻らざるを得ない。戦国大名として今川家の危機を乗り切ったら、再び僧侶にさせようと太原雪斎も一緒に駿府に下ってきてしまったとも言う。
一方、寿桂尼はこれを契機に武田と和睦する方向で動いたが、これに有力家臣の福島氏が反対、氏親の側室が生んだ玄広恵探を擁立して対抗した。
結局、恵探派は藤枝の花倉城、燒津の方ノ上城で挙兵し、今川家の内紛へと発展した。花倉城は、今川家が駿府に本拠を移す前に拠点とした場所で、今川家居館の詰城として築かれた室町初期の山城になる。この恵探派が籠もる花倉城を攻め落とし、当主の座を勝ち取ったのが栴岳承芳で、今川家家督を正式に継いで今川義元となった。
この花倉城に行ったのは、2013年で丁度5年前になるかな。山城ということで、現在はハイキングコースになっている。そこをひたすら上に上に登っていくと、山頂近くで土橋の遺構に出っくわす。
何気に保存状態が良くて、土橋の雰囲気を良く伝えておりますな。まぁ、何百年も経っているので、周りに木がいっぱい生えているが、花倉の乱の頃にはなかったはずだ。
他には空堀遺構もある。
何気に見応え十分な遺構があちこちにあるのは、ここが開発されていないからなのだろうなぁと思う。
周りは茶畑とみかん畑だらけで、他には何も無い山である。静岡県だよねぇとは思うが(苦笑)。
ともかく、ずんずん登って山頂へ到達すると本丸だ。本丸の中に高台があり、そこが見張り櫓だったという。
山頂付近は、急勾配で細い尾根が続き、その尾根を空堀で掘りきられている。土橋も尾根と尾根を結んでいるところにあり、戦いの際には土橋が崩されて空堀と化す。攻め手は尾根沿いに攻め上るのがセオリーだが、これらの空堀や土橋で尾根は途切れ途切れにされており、攻めにくかったろうということが良く解る遺構になっている。
そして、何よりもこの場所こそが、今川義元を誕生させた場所でもあるということに思いを馳せながら登ったと記憶している。
また近い内に行きたいなぁ。と、思っているうちに5年過ぎちゃったがなぁ。
なお、写真は携帯電話の撮影機能で撮影しているので、色相や画質が非常に悪いことはご容赦を。