下村嗣次(芹沢鴨)と佐原騒動 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

昨日の事になりますが、研究家あさくらゆう先生と共に佐原の町をうろうろして参りました。

 

 

 小江戸として観光地になっている水郷佐原ですが、幕末時代に「佐原騒動」という事件の舞台になったところです。もともと小野川の水運で栄えた商業都市で、旗本津田英次郎の知行地でした。そして、まだ下村嗣次と名乗っていた芹沢鴨たち玉造党が”押し借り”をした地域となります。

 

 まずは、集合場所からレンタカーで香取神宮へ向かいました。

 

 

 さすが天下の香取神宮ということで、参拝客めっちゃ多い。並んで1時間待ちぐらいとのことで、拝殿での参拝は諦めて奥宮の方で参拝しました。ここでも下村嗣次(芹沢鴨)は、暴れて大太鼓を壊したというような逸話があります。また、楽人や神官に乱暴を働いていたとも言われています。

 

 さて、佐原騒動は二回起こっており、下村嗣次が関係したのは最初の万延二年一月の方。この頃、尊皇攘夷を掲げる玉造勢は、横浜に行き攘夷を決行しようと目論んでいたという。とはいえ、まず必要になるのは活動資金というもので、大きな商家が軒を連ねる水郷佐原がターゲットになったというわけ。

 

 潮来郷校を拠点とする天狗党浪士七人とその共4人が、佐原旅籠”江戸屋久左衛門”に宿泊した。

 

 

 上記写真が、旅籠「江戸久」のあった場所になります。ここに天狗党浪士の玉造勢が宿泊しました。翌日、彼らは組頭山崎庄左衛門に会い、攘夷決行の資金一千両を借用すべく、その案内を申し入れました。

 この時、江戸久に宿泊した尊攘浪士は、梅原斤五郎、兜左右助、新家久米太郎(新見錦)、服部豊二郎、下村嗣次(芹沢鴨)、田辺禎助、川又佐一郎らだという。彼らは佐原でも有数の大店、油屋四郎兵衛、油屋庄治郎、奈良屋新右衛門、天満屋仁兵衛、佐野屋長作、箕輪由兵衛、箕輪由右衛門の七商人を名指しして、一千両の借用を要請したわけです。手当たり次第に……というわけではなく、事前に「この店なら大金持っていそうだ」ということを調べて来ているわけですね。

 庄左衛門は、村役人一同と相談し、名指しされた七人の意向を聞いている。結局、伊能権之丞に間に入って貰い、二百両の借用なら応じられると玉造党に話しを持って行ったが、千両が二百両に減額されていることに彼らは激怒、特に下村嗣次が怒り、大惣代高橋善左衛門宅やその配下の道案内岡沢助左衛門、藤七の家に押し込み、散々に打ち壊したという。

 

 

 ”江戸久”の真向かいにあった伊能権之丞宅跡。

 

 

 上記写真は、借用を申し込まれた油屋庄治郎宅。現在は油屋から醤油屋にかわり「正上」として現在も営業中。建物は幕末当時のものが現存しており、「よろい戸」といった江戸時代の戸締まり戸が残っている。なので、この建物を下村嗣次(芹沢鴨)が見ているはずですね。

 

 

 上記写真も名指しされた七商人の内、油屋四郎兵衛宅跡です。

 

 

 二百両と言われ、怒った芹沢鴨が宿を飛び出し、道案内岡沢屋助左衛門宅に乱入、打ち壊しをはじめました。上記写真がその岡沢屋跡。

 

 

 敷地形状は当時のままっぽいので、下村嗣次は上記写真にあるような門を鉄扇でたたき壊したらしいです。さらに、下村は手にした鉄扇で伊能権之丞にも殴りかかり、膝と指に大怪我をさせているらしい。また、芹沢鴨といえば”鉄扇”だけども、この頃からもう使用していたことが伺えます。トドメに佐原を焼き討ちすると脅迫し、ついに佐原側がこの恫喝に屈する形で八百両を差し出して決着が付いている。

 

 最後にこの佐原出身の有名人、伊能忠敬生家跡を見てきました。

 

 

 上記写真が伊能忠敬生家跡ですね。

 

 こうした町並みを巡りつつ、下村嗣次(芹沢鴨)が関係した史跡を巡ってきました。他にも被害にあった佐原の人々のお墓なども確認して廻りましたが、お墓を見せびらかすのはポリシーに反しますので、ここでの公開はあえて控えます。

 

 さて、「芹沢鴨はちょい悪おやじ」だとか「本当は良い人」と言われたりしもしますが、私自身は「ちょっとどころか、かなりの乱暴者だ」という認識ですね。ただ、私利私欲のための強盗略奪ではなく、天下国家のための軍資金調達ですよという違いがあるため、現在の暴力団のような悪ではない。だからこそ、彼らは「借りる」という形態を取るのですね。決して「略奪」でも「強盗」でもない。商人の方からの献金あるいは借用という形態で、尊攘派浪士は活動資金を集めます。

 ここで、重要な点は彼らにしてみればこうした押し借りは、あくまでも「借用」であり「献金」を募ったのだという認識に立っている事。その一方で、商人の側に立てば「返済期限がない」のですから、それは不当に奪われたのであり「強盗」と同じ「略奪行為」として見ています。

 客観的には、確かに芹沢鴨らの押し借りは「略奪」に近い行為ではあるんですが、彼らはそういう認識はしていないんですね。あくまでも「借りた」という形にこだわる。だからこそ、借用証文もキチンと書く訳です。返済するアテはないのだけれども。

 

 私が、この尊攘派浪士の認識と商人たちの認識に齟齬があることを強調するのには理由がありまして、実はこの認識の違いが「赤報隊・偽官軍事件」につながっていくのです。

 相楽総三らも水戸天狗党に参加したことがある関東尊攘派浪士です。彼らが赤報隊を結成し、東山道を突き進んだ際、やはり各地で軍資金の強要を行っている。彼らの認識はあくまでも「借りた」あるいは「献金して貰った」です。しかし、金を取られた商人の側から見れば、彼らの強談による押し借りは、「略奪」と認識されました。

 相楽総三が、東山道軍の司令部に出頭したとき、相楽総三らは「略奪はしていない」と言っています。ところが、その後で東山道司令部には小諸藩からの報告が届き、その中に「勝手な金策や、暴行行為」が行われたと記されている。だからこそ、東山道軍は赤報隊を信用できなくなり、勝手な金策をしていた相楽達を極刑にします。武士から奪えば「分捕り」で、これはまだ許されましたが、商人や農民から見たら「勝手な金策」は「略奪」であり、官軍として絶対にあってはならない行為で極刑に値します。

 結局、相楽総三たちはなぜ自分たちがこんな目に遭うのか理解できないまま処断されていく訳です。私自身は、これまで説明した通り、押し借りをする尊攘浪士側と金を出させられた商人側との認識の違い、齟齬が根底にあるのだろうと考えています。

 ちなみに、「年貢半減令をなかったことにするための謀略」という説は、現在の最新研究でほぼ否定されています。

 

 ということで、あさくら先生と共に佐原の町を巡ってきました。あさくら先生がいなかったら、どの店が押し借りされたのか解らなかったですから、非常に勉強になりました。ありがとうございました~。っていうか、現存している「正上」が、まさに押し借りをされた店だとか全然知りませんでしたよ~。