北茨城の芹沢鴨関連史跡と「伊東甲子太郎と幕末の同志」展見学 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 昨日は、研究家あさくらゆう先生と共に、かすみがうら市歴史博物館で行われている「伊東甲子太郎と幕末の同志」展を見学。さらに北茨城まで足を伸ばして、下村嗣次と名乗っていた時代の芹沢鴨関連史跡を見学してきました。

 

 

 まずは”かすみがうら市歴史博物館”に行きます。ここでは「伊東甲子太郎と幕末の同志」展を見学しました。

伊東甲子太郎関連の物品および伊東の意志を継いで、新時代の人作りと教育に取り組んだ金澤鎗次郎の展示、伊東甲子太郎がまだ関東にいる頃の同志たちの展示を見学します。

 やはり、新選組参加後の伊東はよく知っているのですが、参加以前の伊東が何をしていたのかという所は良く知らない部分もあるので、興味を引きましたね-。

 

 

 んで、パンフレットなども購入し、ついでに地元の特産品というか、行方市まで移動して行方の特産品を買いますw。

いや、「なめがた新選組まつり」の時に買い逃した「ふなの佃煮」がどーしても欲しいw。

 でも、探しても見つからず目線を移したら「ふなの甘露煮」が売られていたのだが……

 

でかっ!

 

 大きいフナの甘露煮がでーんとw。とりあえずゲットしとくw。他にもワカサギ佃煮とか、コミケでバラまき用のお菓子などを購入。はやり霞ヶ浦の魚は美味いねぇ。ついでにお昼ご飯もここで食します。

 

 

はい、行方名物「かもパックン」です。霞ヶ浦は水郷ですので、当然「鴨」も獲られている。鴨肉を使用したハンバーガーですね。

もちろん行方市に生家がある「芹沢鴨」にもちなんだ命名なのかもしれませんが。

 

 次に日立市に移動して「水戸藩郷校の一つである暇修館」を見学しました。

 

 

 ちょっと残念だったのは、この日はお休みだったらしく内部の見学が出来ませんでした。

なので、外観をじっくりと見てきた次第です。

 

 この後、北茨城市に移動して芹沢村から養子で入った芹沢鴨(この当時は、まだ芹沢鴨の名は名乗ってないけどね。便宜上、これで統一します)の養父先、下村家ご子孫の方の家を訪ね、いろいろとお話しをしてきました。下村家に養子で入った芹沢鴨は「下村嗣次」と名乗ります。

 

 

 下村家本家墓地を参拝。分家のお墓も一箇所にまとめられ、綺麗に整備されておりました。結構壮観ですよねー。

 

んで、墓碑に「下村嗣次」と刻まれた分家の方のお墓も当然お参りします。

 

 

 個人的に「お墓は見せびらかすものではない」というポリシーがあるので、写真もあまり見せたくないのですが、参考史料ということで特別にアップしております。皆様もお墓には敬意をはらってくださいね。

 

 残念なことに、太陽が沈んじゃいまして、ここで夜になっちゃった。まだ午後5時ぐらいなんですけどねぇ。

でも、せっかくココまで来たのだからということで……

 

 

 下村家が神主を務めたという「丞殿神社」を見学します。

下村嗣次もまた神官でしたから、必然的に関わった神社ということになります。

 

 

 ここも下村家が神主を務めた天妃山・弟橘媛神社です。

尊皇攘夷の総本山水戸藩では、神官の地位が高く、ほとんど士分と同等の扱いがなされる尊敬されるべき職でした。

また水戸学に基づく尊皇思想と神道の結びつきも強いですから、神官だった下村嗣次が尊攘の志士となることも自然なことだったでしょう。

 

 この北茨城時代の芹沢鴨と下村家については、素晴らしいガイドブックがあったりします。

 

 この『揺籃の海』という本なのですが、今日行って来た芹沢鴨関連史跡と養父となった下村家の調査が記載されてます。

一件見ると、単なる史跡ガイドブックなんですが、中身はそれだけに留まらず、下村家の過去帳から下村家の歴史を掘り起こし、下村嗣次へと至る歴史に関しての考察や、下村家が神主を務めた丞殿神社、天妃山・弟橘媛神社の来歴などもキッチリ書かれた力作の「同人誌」です。

 2005年に作られ、同人誌即売会で売られていたものでして、私もかれこれ20年以上同人屋をやってますから、見かけたときに「おお!」となって購入した記憶があります。

 残念ながら、一般書籍では無いので今ではもう入手不可能の上に、図書館にもないという貴重な本。今回はフル活用させていただきました。

 

 んで、この下村家から失踪した下村嗣次が次に姿を現したのが佐原で、そこで尊攘派が押し借りなどをして暴れた「佐原騒動」という事件の中で、下村嗣次が登場してくるという展開となります。そして、藩から追われることになり芹沢村芹澤本家宅で捕縛される。

 この後、釈放されると幕府の浪士組に参加して上洛した後、近藤勇たちと共に新選組(壬生浪士)を結成、その筆頭局長になっていく。

 

なお、この芹沢鴨の出生に関しては諸説あるのが現状ですが、私は今現在も「通説である芹澤本家出身説が最も信憑性が高い」と考えております。

その理由は、すでに小論としてまとめております。今もこの考えのままですので、ここではお話ししません。興味のある方は、読んでみてくださいね。

 

●「芹澤鴨は行方出身にあらず」と言えない事実

http://yageki.k-server.org/serizawa-kamo/serizawa-kamo-1.htm

●「芹澤鴨は行方出身にあらず」と言えない事実2

http://yageki.k-server.org/serizawa-kamo/serizawa-kamo-2.htm

 

ということで、ここで東京方面へ帰ることに。

最後におまけで「千葉さなが経営した灸治院跡」を見させて頂きました。

 

 

 千葉さなといえば、坂本龍馬伝説のヒロインの一人ですね。

この人物も色々と調査が進んでいるそうです。私はあんまり坂本龍馬に詳しくないので、お話しも出来ませんけども(苦笑)。

でも、維新後は名灸師として繁盛したそうです。

 

ということで、丸一日史跡巡りで楽しかった一日でした。

研究家のあさくら先生、ありがとうございました~。