当店が移転せざるを得なくなった理由の質問が多いためここに記します。


2020年2月初旬

私は東京からレストランを開業するべく沖縄を目指し飛行機に乗り込みました。

最初に沖縄本島中部の本部町に10日間宿泊し農産物を見て、慣れ親しんだ石垣島に降り立ちました。

本島に滞在中に私の蓄財が入金されるはずがトラブルに巻き込まれ無一文で空港に着く最悪の状況で(航空券は以前より手配済み)不安と困惑の中ロビーで何か方法は無いか思い悩んでいました。

生きるためには仕方がないと恥を忍んで石垣島の友人に連絡を入れると宿を必死で探してもらい、顔見知り程度だが支払いを後払いで泊めてくれる場所があると紹介されたのが開業した場所でした。

最初はコロナ感染もさほどではなく、自分の店を開店するつもりで来ていたので宿泊客として利用させて頂き、レストランを宿泊施設で開業するつもりはありませんでした。

 

ある滞在中の夜に宿泊客含めオーナーに食事を作る事に成り振舞ったのですが、私の容姿とかけ離れたちゃんとした料理が出てきたことにオーナーは驚き、翌日宿泊施設を使ってレストランを開業する打診がありました。

しかし、当時の共有スペースは雑然として不衛生でもあり調度品もレストランらしからぬ物がたくさん置いてある事や、椅子やテーブルもボロボロで4名席が2つしか無く開業するにしても資金含めてかなりハードルが高いと感じました。

また、開業するつもりで滞在していたので、何かのきっかけにより突然出て行くことで、イタリア料理が安く食べられると、ご来店頂く御客様にご迷惑がかかる事と、オーナーに問い合わせが来る可能性を総合して考え最初はお断りしました。

そして1ヶ月が過ぎた頃、長期滞在していた認証欲求の強い2名から私が嫌われるように成りました。間違った知識を声高に披露する方、他の若い宿泊客にフランクに話し頼られていたことに腹を立てた方、私からは一切文句も陰口も誹謗中傷もしたことはありませんが、とにかく嫌われて、逆に文句、陰口、誹謗中傷をオーナーに言い続けたことでオーナーが確かめもせず信じてしまい非常に居心地が悪くなっていきました。

しかし、当時は資金の入金めどが立たず、滞在し続けなければならず、残りの1ヶ月はトラブルに巻き込まれたくない、面倒はごめんだと皆が起きる前の早朝に宿泊施設を出て、食事も終わり顔を合わせにくい夜に帰って耐えていました。

そして合計2ヶ月が経過する頃にオーナーより退去するように通達があり、ちょうど資金が入金されたことから、当初は困っている状況と友人の紹介と言う事で1泊1000円と仰って頂いたところを恩義のお返しとご迷惑をかけたとして合計金額は正規に近い金額を支払い宿を出ました。

 

そして真栄里に部屋を借りて新しい生活をはじめ、食材探しや生産現場を見て回ったり、市場やスーパー、専門店を見て回り料理の構想を練っている、ある日宿泊施設のオーナーより突然連絡がありました。

 

話の内容は、コロナ禍にあり宿泊施設の経営が厳しい、撤退するのが突然でも構わないから、やはりここでレストランを開業しないかと言う要請でした。

少なくとも後払いの特例で長期滞在させて頂いた恩義、コロナの終息が見えない当時、少しでも慣れる事や人脈を作る意味でも意義があると感じた私は覚悟を決めて承諾し開業することにしました。


宿泊施設のキッチンにはコンロが3口と冷蔵庫、小さな冷凍庫しか無かったためにレストランとして必要な什器や調理機器合わせて200万円ほどかけて用意し宿泊の御客様にも朝と昼に営業していた別の方にも使って頂く配慮し出来る限りの貢献に努力をしました。

スタート当初の営業時間は宿泊の御客様に配慮して早めに閉店していましたが、開店約1か月後に23時閉店に変更したりマイナーチェンジはありましたが都度都度報告しこうして記録に残しておきました。

そしてここに最大の失敗が私にありました。

それは営業許可書です。

当初は写真の通り私名義の営業許可書を取るつもりでした。

しかし考えてみると私が正式に営業許可書を取得した場合、私が賃貸契約を結ぶのは宿泊施設ではなく、建物のオーナーになり、経営の苦しい宿泊施設のオーナーに家賃を渡せなくなると思い、税務署に開業届は提出し、営業許可書を宿泊施設のままにしました。

このスタイルはコロナ禍にあり追い風となっている東京ではスタンダードに成りつつある

間借り営業

と言うやり方です。

しかしここに落とし穴があり、後に酷い目に会うとは思いませんでした。

 

開店から年末までスタート当初は当然ながら売り上げが伸びなかったり、コロナによる緊急事態宣言東京解除後に宿泊施設を併設している事から全く御客様が入らなくなった時もありましたが全体として右肩上がりで売上を伸ばすことができるように成りました。

また家賃についても上記の諸事情から遅れる事はありましたが全て取り決め通り支払い、場合によっては遅れたこと含め感謝の気持ちを込めて多く払う事も多々あり貢献できていると思っていました。

確かに変形契約の為にスタート当初は家賃とは言えない少ない支払でしたが年末には1人営業で夜の営業だけで50万円中盤まで売り上げて家賃も8万近くまで納められていたので私としてはテーブル席3つ(増設)で、コロナ禍にあっても上出来だと満足もしていました。

こうして月日が流れ様子がおかしくなったのは何末から年始にかけてからです。

私は基本的に悪口はあまり言いませんし誹謗中傷もしません、面と向かって暴言も吐きません。しかし正しくない事には必ず訂正することがあります。それで私を嫌う人が出てきて陰で誹謗中傷している事は私しの耳にも入ってきていました。

しかし私はそれでも相手にしませんでした。なぜならその程度の人間と同じ土俵に自分のレベルまで下げて乗りたくないからです。また乗る必要もないし、その時間を素晴らしき人達の為に費やしたいと思っていたからです。

ところがその態度も気に食わなかったらしく私を排除したい人達が暗躍しオーナーに色々吹込み、オーナーは丸々それを信じ私に対して不信感を抱いていったようです。

 

そんな1月を過ぎたある日朝と昼に軽食を経営する方とオーナーに何かあり突然宿泊施設を出る事に成りました。

私はこの事で宿泊施設の収入が減る事に少しだけ心配していました。

するとある日

このようなメールが来たのでお答えしました。

問題は友人と仰る方の入れ知恵です。

恐らくこの方が本件の最後まで関わり都合の良い偽りの知識を与えていると感じました。

家賃については上記の通りです。

そして水道光熱費ですが、添付した写真の中にいくつかありますが、私が営業している時間は100%と言って良いくらい宿泊施設におらず、宿泊管理もできておらず、突然宿泊予約の御客様が現れて、私がチェックイン、チェックアウト、会計、施設の説明など場合によってはレストランの御客様を待たせて無償で対応していましたし、長期宿泊者のトラブルの間に入り調整したりしていました。更に仕込みはほぼ自宅でして専用の冷凍機で処理して店に持ち込み調理していたので光熱費を可能な限り抑えて、合わせて相殺として上記の主張をしました。

すると本件の後更に態度が硬化していったことは感じていました。

そして1月中旬石垣市に時短要請が発出されました。

私は時短営業を考えたのですが島のコロナ専用病床が少ない事、高齢の方々が多い事から休業を選択し我慢することにしました。

 

こうして許可も頂いて2月末まで休業することにしました。

休業して暫くして以下のようなメールが来ました。

 

 

宿泊施設が経営難から撤退するとの連絡でした。

私は仕方がないとこの時は黙って引こうと思っていました。

そして更にありえない事を言われました。

 

 

私は去年末から一連の事から、他人の流言飛語を信じ、事実確認もせず、私に聞くことも無く私を煙たがるオーナに不信感が募っていて、上記の物言いに我慢ができなくなりました。

 

事態が膠着し打開策が見当たらなくなった私は1月中旬から収入が無く協力金を当てにしていた事から先ずは協力金事務局に連絡を入れ事態の説明をしました。

すると税務署に提出した開業届を送れば協力金の審査をすると特例でおっしゃて頂き、すぐさま手配しました。

そして4月の19日に成り未だ入金が無い事からインターネットで調べると驚愕のことが起こっていました。

 

本来私が受ける権利のある協力金が、全くなにもしていないオーナーが不正に申請をしていて全額を取られ私には一銭も入らないことに成っていました。

更には撤退は嘘で私を追い出す口実で開店を依頼しておいて、気に入らないからゴミくずの様に捨てられたようです。

私は嘘偽りなく誠心誠意手伝ってきて喜んでもらうよう努力して市民の為を思って休業して1月中旬より無収入で我慢して過ごしてきましたが、オーナーの身勝手で協力金を不正に受給されてしまい、更には撤退も嘘で店舗まで失い生きるすべ全てを奪われました。


恥をさらすようですが前々職で報復人事で鬱病に成り4年間治療にかかったため生活費と子供の学費を払うために借財が多くあり現在までやっと少額に成りました。しかし完済するまで貸し付けが受けにくい事から再起するに完済することが必須で協力金は再起し近江商人の様に三方良しの考えで皆様に喜んで頂き還元できればと思っていましたが水泡に帰しました。


法律上受給できないのは仕方がないのかもしれません。
しかし何もしていない不正受給者が放置され、地元の方々の為に努力してきた私が何故馬鹿を見なければならないのか憤りと悲しさで気持ちのやりどころがなく悔しい想いです。