言葉で残す、蛍の光 | やどかり族の育自日記

やどかり族の育自日記

やどかり族(宿借り族=転勤族)の妻の育児の日々。
つたない母と子供の成長を、鼻歌うたうように綴ります。
「好奇心」「対話」「自立」「多様性」がキーワード。今のとこ(笑)

 

クリスマスが近づくと、東京の夜は華やぐ。

ただでさえ、ネオンで明るい夜が、

イルミネーションでさらにさらに明るくなる。

 

あれは、大学生の頃の冬。クリスマスイブ。

女友達と丸の内ルミナリエを見に出かけた。

何万個だかの電球が施された壮大なイルミネーションだった。

夜とは思えないほどに、周囲は明るく、

じっと荘厳な文様を見つめると目が痛くなった。

 

「綺麗だねぇ」「すっごいねコレ」

私達は、そんな言葉を繰り返しつぶやきながら、

ノロノロと電飾アーチの中を歩き続けた。

歩き続けた。

止まれなかったのだ。

人が多すぎて。

 

前からも後ろからも「押さないで下さい」「止まらないで下さい」という

警備員の人の声が響いていた。

アーチに入るまでに小一時間並び、

実際にアーチをくぐり終えるのには15分くらい。

並んでいる方が長いという滑稽さ。

 

でも、それが、時間がたっぷりある若い女子たちの

”人生を謳歌する”一つのやり方だった。

待ち時間はおしゃべりでいくらでも消えたし、

寸暇を惜しんでやらねばならぬ事など何もなかった。

 

”流行のツボは、ひとまず押さえた。”

人が多ければ多いほど、私の薄っぺらい自己満足は補強された。

閑散としているより、むしろ混んでいる方が盛り上がった。

 

まるで昼間のような強い強い光。

冬なのに汗ばむほどの人の熱気。

恋人のいないクリスマスの空白は、完璧に埋められた。

 

ああ、私にもあんな時代があったのだ。

今じゃ絶対行かないわ。

 

と、思いながら暗闇に包まれる坂道を登る。

10数年前、丸の内ルミナリエではしゃいでいた女子は、

今や子どもの手を引きながら、蛍を見ている。

 

訪れたのは、広島市湯来町。

蛍の群生地として有名な町で、

川沿いの山道の一部が「ホタルロード」と名付けられている。

 

蛍をまともに見た事がなかった私は、

「一度でいいから、たくさんの蛍を見てみたい」

と、何ヶ月も前から湯来の宿を予約していたのだった。

 

見渡すかぎり蛍が飛ぶ様を想像し、私の心はときめいた。

丸の内ルミナリエのような、

まばゆい蛍の光を勝手に思い描いていた。

 

確かに、たくさんの蛍が飛んでいた。

しかし、蛍の光はそんなに強いものではなかった。

車のヘッドライドを浴びると、

一気にその光に負けて見えなくなってしまうような

弱く儚い光だった。

 

さらに、蛍の光は不安定だった。

強くなったり、弱くなったり。そして、一定の間隔で消えた。

ずっと同じ明るさで、安定して輝くイルミネーションとは違った。

 

「イルミネーションを見に行こう」というのと

「蛍を見に行こう」というのは、

同じ光を見に行くにしても、全く性質が異なるのだと、

生の蛍を見て初めて気づいた。

 

イルミネーションは、”光”そのものを見るが、

蛍狩りは、”暗闇”を見るのだ。

 

蛍を美しく見るには、人工的な灯りは許されない。

車のヘッドライトも、ネオンも、街灯も。

それほどに、蛍の光は儚い。

 

蛍がよく見えるという場所は、当然暗い。

辺りは、しんしんと闇が降り積もり、

昼間は気付かないような森の影が遠くから迫ってくる。

何も見えず、距離感がつかめない。森がやたらに近い。

見えるのは、夜空よりさらに漆黒な木の影だけ。

吸い込まれそうな尖った木々の暗闇で、

蛍は一番美しく、光る。

 

その光は、ふっと消えたかと思うと、また現れる。

そのリズムは、人の呼吸に似ている。

寝ている時の、すー、ふーという、あの間隔。

 

蛍を見ていると、聞こえてくるようである。

授乳中に寝てしまった赤子の、

寝かしつけをしながら聞いた子どもの、

規則正しい寝息が。

あのリズムと同じように、蛍はすーっと明るくなり、ふーっと消えていく。

 

蛍も、生きている。

これは、生き物のリズムだと思う。

 

そして、亡くなった祖父の、

一番最後に見舞いに行った日の、病院での寝姿を思い出す。

人工呼吸器をつけて、不自然に大きかった寝息。

痩せすぎてしまって、酸素が入ると身体全部が跳ね上がる。

でも、あの音も、同じリズムだったの。

 

暗闇で呼吸する蛍が、人の魂のようにも思え、

その暗闇が、儚さが、

私の生命の思い出と重なる。

この世ともあの世ともつかない不思議な空間に、私は浮かぶ。

 

蛍狩りは光を見るんじゃない。

闇と間を、感じるものである。

 

そして、それは少し、子ども達には高尚過ぎた。

「ねー!ヨーヨー風船がなくなっちゃう!早く帰ろうやーー!」

あーちゃん(5歳4ヶ月)もはる君(3歳1ヶ月)も、完全に飽きていた。

旅館の前の出店で並んでいたヨーヨー釣り以上には、

蛍は子ども達の心をつかまなかった。

 

純粋に光を眺めるには、文明に慣れすぎていて、

暗闇を感じるには、経験が足りない。

 

子どもにホタル狩りは早かったかなぁ・・と思いながら、

てくてくと夜道を帰ったら、

最後の最後で、とっておきのプレゼントがあった。

 

家族そろって、川沿いを歩いていた時のこと。

宿に入る直前で、木に止まる蛍を見つけた。

 

「これ、そっと捕まえてお部屋で放してみようや」

と、旦那さんが言った。

木の葉に止まった蛍を旦那さんがそ~っと両手で包んだ。

 

「やってみたい!やってみたい!面白そう!」

家族4人、頭をくっつけて輪になり、旦那さんの両手を囲む。

大きな手のひらをそっと開けると、

天照大御神が、岩戸から顔を出したかのように、

光がぱあっと指の間から漏れた。

よく漫画で、宝箱を開いた時に登場人物の顔が光で照らされるが、

子どもの顔が、まさにあんな風に、蛍に照らされた。

見開いた目。開いた口。いい顔。

 

夜空を飛ぶ蛍の光は、あんなにも頼りなさ気だったのに、

目近で見ると、とても力強い。

 

蛍をつぶさないように、逃がさないように。

私達はそそくさと部屋に戻り、

明かりをつけない部屋の中で、蛍を放した。

 

「昔は、蛍を10匹くらい部屋に放して眺める遊びがあったんだって」

旦那さんが言った。

あぁ、それはいつかテントでやったら楽しいだろうなぁ・・と、

反射的に思った。

 

蛍は放されても元気に飛び回る事はせず、

じっとテーブルに止まっている。

みんな順番で、手のひらの中に蛍を包む体験をして、

最後は仲間のところに返してあげることにした。

 

「ひとりぼっちは、可哀想じゃけぇ」

あーちゃんが言う。

 

蛍狩りは、闇を感じるものだという感想で終わる所が、

ラストの1件で、がらりと変わった。

思い出が、闇から優しい光になった。

 

パパの、楽しい思い出を作ろうという優しさ。

あーちゃんの、仲間の元に返したいという優しさ。

手のひらで包んだ光は、温度は感じなかったけど、温かった。

 

あの光を思い出したくて、撮ったカメラの写真を見てみる。

でも、そこには何も映っていない。

ただ、真っ暗なだけである。

 

 

いつでもどこでもスマホで写真を残せる世の中なのに、

写真に残せない光が、ある。

ほんとに、人の魂みたい。

 

写真で残せないなら、綴ったこの文字達が少しは意味を持つだろうか。

いつか、子ども達がこのブログを読める日が来たら、

私の記憶の優しい光が、言葉で伝わりますように。

 

 

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湯来町のホタルロード沿いに、漫画『スラムダンク』に登場する宿がありました。つぶれてしまったそうですが。ネットで改めて見たら、本当にソックリそのままで驚きました。