松山市住宅情報館 館長日記 「裁判の本質」

 

 昔話になるが、競売による入札のやり方に不正を発見し、私が裁判所を告発しようとしたことがある。「裁判所を訴えるだって?」告発をお願いしたK弁護士(のち弁護士会会長)は、告発の前に裁判所当局とトコトン話し合えと、問題点について斡旋して戴いたことがある。当局は入札方法の改善を約束し、私は告発を断念した。アレは私が40歳前半だったと思う。バブル崩壊の危機を脱し、正義感を振りかざし、鼻息の荒い頃だった。「判決で勝利を勝ち取る事より、本質は正しい入札をさせることだろうが。」とK弁護士から諭されたことを思い出す。

 

 それでもその後、何度も裁判を経験した。相手が民間だろうが税務署だろうが納得できないことは戦う。裁判をした経験者は分ると思うが、原告も被告もヘタヘタに疲れる。裁判をするより建設的なことでエネルギーを使うべきだ。組織内裁判で決着した場合、遺恨が残り、組織内の分断はさらに進む。真の損得計算(メリットとデメリットの比較)を考えた時、裁判を始めることより、相手の立場に立って、ウインウインになるよう、トコトン話し合うことの方が大事だと思うようになった。

 

 身の回りで告発事項を探せばキリがない。人間は誰だって我欲がある。同じルールの中で同じ仕事をしても、知識力や技術力、積極性や消極性、更に協調的性格や排他的性格によって仕事結果は異なってくる。同じ条件で同じ仕事をしても受け止め方によって、苦痛になったり、快感になったりする。時間外労働について、流れ作業の工員でない限り、未熟な者が時間外の労働時間が多くなるのは当然である。労働法ではこの場合、未熟者に対しても時間外労働賃金を、きちんと支払わなければならない。世の中、矛盾だらけと言うことだ。

 

 私が労働組合の役員だった頃、「同じ設計図を俺は半日で仕上げるのに、新人は夜中までかかっても仕上げられない。何で新人が時間外賃金で給料が多くなるんや!」と、未熟者はベテラン者にとっては、お荷物(不平等)になると言う不平不満を見てきた。それを防止するために未熟社員は低い賃金となり、ベテラン社員が高額家賃になっているのである。それでも、この時、この不平等を許す寛容な先輩もいたし、不平等を許せないと反発していた先輩もいた。要は告発する人の許容限度(感覚)の問題となる。

 

 生まれて不正をしたことが無い潔癖な人間など一人もいない筈だ。家族間でも職場でも、大なり小なり狡猾な不公平(不正)がある筈である。それが人間社会というものだ。どんな正義も目に見えない部分で犠牲(不公平)が伴っている。様々な形で現れる不公平(不正)も人間社会の許容範囲として容認している人は多い。人間というものは大なり小なりの不公平社会の中で生きているからだ。身の回りに小さな不公平(不正)を探せばきりがない。

 

 判決結果で見た結果、ウクライナやガザ地区のような、生きるか死ぬかの問題とは違って、日本の裁判では小さなプライドと大きな意地で戦っている感がある。傍観者は案外無関心だ。興味本位で冷ややかに見ているだけだ。年齢を重ね過去にあった様々な対立を振り返って見た時、どの問題も大した問題ではなかったと反省している。長い人生ドラマで見ると、敗者だった筈の人が勝者となったり、勝者だった筈の人が敗者になっている姿を見る。最後に勝者となる人は、寛容性を持った人が多いように思う。

 

 知識は武器だと思っている。法律の知識はもっと大きい武器となる。武器は一つ使い方を間違えれば取り返しがつかなくなる。その逆で弱点が武器になることだってある。いざとなった時、武器は伝家の宝刀として大事であるが、宝刀をそう簡単に抜いてはならない。しかも組織内・身内間の争いで伝家の宝刀を抜けば、組織内は分断が起こり、以降、心を一つにして仕事を進めていくことが出来なくなるからだ。告発は進退をかける最終決戦でのみ使うべきだと思っている。

 

 弁護士の本質は白黒決着をつけることではない。法律の識者として依頼者に安寧(和解)を誘導するのが仕事だと思っている。問題解決の本質は相手の間違いを許し、相手にも自分の立場を理解して戴くことだ。争点が職場の場合、専門知識は働きやすい職場を作ることに貢献することである。

 

 トップの仕事は組織の統治(ガバナンス)である。統治が放置になってはいけない。辛抱強く話し合いを続けることだ。統治が放置になれば統治権の放棄となる。指導者の指導者たる要諦は強さである。なぜなら心が伴わない裁判所なんてアテにならないからだ。裁判所では弱きを救う大岡越前のような粋な裁きなど無いからだ。「自分の組織は自分が守る!」と言う気概(強さ)が無ければ指導者として失格だと思う。自分の家庭と家族を守る心と同じだと思う。