松山市住宅情報館 館長日記 「松山大学、学内裁判」

 

 卒業生として不愉快な記事が愛媛新聞に掲載された。大学理事者(学長)と教職員代表との裁判である。松山大学は私学である。規約に従い自分たちが選挙で選んだ代表(学長)を訴えた裁判である。そんな学長選出選挙なら「やるな!」と言いたい。納得できない選挙 方法なら規約を変えれば良い。20日の判決では、大学側と教職員が取り決めた「裁量労働制の協定」に関して、プロセスと運用方法に、問題があったと学長側敗訴の判決が出たのだ。そもそも高給取りの教職員が、労働者として裁判所で決着しなければならないほどの苦痛を受けているのかどうかである。

 

 我田引水による不平等は何処の世界でも大なり小なりあるものだ。我欲があるのが人間社会である。本裁判は大学の本文を忘れ、労働法の矛盾をもてあそんでいる行為に見えてならない。裁判による決着では、大学の融和と結束は計れない。法律家(プロ)が法律家(裁判長)に成否を問う裁判なんて、アカデミックゲームにすぎない。裁判所だっていい迷惑の筈だ。

 

 松山大学では一般職を含めて教職員全員による学長選挙が行われて学長が決まっている。その学長は理事長を兼務している。ということは、松山大学では労働組合の委員長(労働者)と学長(学者)と理事長(経営者)の3者の代表が同一人物になっている点である。OB達は以前から一日も早く学長と理事長を分離すべきだと言ってきた。

 

 原告が教職員の代表と言うのがいけない。教職員と言う名称が実に巧妙で狡猾だ。教員は教員、職員は職員として原告の立場を分けるべきである。今回の争点は時間外労働という点にある。そもそも松山大学は経営者を補佐し経営者を育てることが建学理念の大学である。教授が労働者の発想で行動すること自体が建学理念には馴染まない。一方の職員は作業職(労働組合員)たる主張が出来る立場にある。よって時間外労働の支払いは必要である。

 

 大学における教授(教員)の場合は、報酬面からみても職務上も研究職であって作業職ではない筈だ。教員はお金を貰って自分の商品価値を高めている自営業者(営業職)と同種である。大学の教員に時間外労働の発想そのものがおかしい。教員と言う立場を遂行していくうえで作業的な付随業務は付き物の筈だ。教員は学位と経験と実績で大谷翔平のように報酬が決められている。大谷が球場外の練習(仕事)に報酬をくれと言っているのと同じだ。教員が職員と同一視した主張には納得できない。

 

  学内のゴタゴタの責任は学長にある。話し合いで決着できないから裁判になった筈だ。訴えた方が悪いと終わらせてはならない。理事者側から裁判やむなしの意見を聞くことがある。今回の裁判、間違ってはならない点がある。学長と学外との裁判なら、やむを得ぬものがある。だがこの裁判は、組織内(学内)の裁判である点だ。組織のトップは学長だ。親子喧嘩の暴露版と言うやつだ。組織内でのゴタゴタは学長(理事者側)の責任である。評価を下げることによる大学の逸失利益は経営者として大きな責任問題であることをご存じなのだろうか。

 

 マスコミ発表がいけない。学内でのゴタゴタは就職していく学生たちにとって不利益となるからだ。マスコミ発表がなければ私だってこんな投稿はしない。この論争は裁判で決着するような問題ではないのだ。建学理念を原点(参照)として解決してほしい。双方には母校を心配するOBの意見と思って戴きたい。同校教職員は恵まれた賃金水準と聞く。彼らにも職業選択の自由がある。教職員側もそんなに不満のある職場なら見捨てたらいい。もっと自分の理想に合う別の職場がある筈だ。学長の本分は組織の結束である。弁護士の本分は和解への誘導である。よって私は理事者側と教職員側の双方に刷新が必要だと思っている。卒業生として実にはずかしい新聞記事である。